第一話 3.旅芸人(2)
明かりを落とした教会の戸締りをして回っていると、子供達が並んで眠っている大部屋のドアが開いていたのでそっと中を覗いた。青空市と突然のゲストの登場で興奮していたせいだろう。ぐずる子もおらず、皆すっかり寝入っている。その寝顔に思わず笑みを零して、沙樹は静かにドアを閉じた。
「君が子供達のお姉さん?」
唐突に掛けられた声に驚きながらも、沙樹はそれを表に出さずに冷静な顔で振り向いた。いつの間にか自分の後ろに立っていたのは旅芸人の一人。沙樹と同い年ぐらいの若い男性。ガッシュの弾き手、エドだ。この先に彼ら三人に貸した空き部屋があるからそこに戻る所なのだろう。
「・・・そう呼ばれています。」
少し固い声で言葉を返せば、彼は意外そうにちょっと色素の薄い目を見開いた。首の後ろで括られている亜麻色の長髪は月光を浴びてぼんやりと優しげな色を放っているように見える。流れるような動きで彼と正反対の沙樹の黒髪を一房掬い取り、エドはその艶を確かめるようにそっと撫でた。
「綺麗な髪だね。もしかしてピノーシャ・ノイエ出身?」
「え?」
突然の言葉に一体何の話かついていけない。
ピノーシャ・ノイエというのはアンバがある大陸の北西の海の上、小さな島々が連なっている一帯を指す名称だ。地殻変動によって大陸から離されて出来た為、ちぎれた島々と呼ばれている。島国だけあって漁業が盛んなようだが、人口が少なく、あまり大陸との交易もない。その列島について沙樹が知っていることと言えば、ラングの授業で教わったそのぐらいだ。
訝しげに自分を見上げる沙樹を見てエドも意外そうな顔をするが、すぐに納得したように頷いた。
「あぁ。そっか。君記憶がないんだっけ。」
沙樹は彼らに自分のことは何も話していない。恐らく子供達が言ったのだろう。そのことには触れずに沙樹は先を促した。
「どうして私がピノーシャ・ノイエ出身だと思うんですか?」
「あれ?知らない?あそこの現地の人達は皆黒髪なんだよ。君みたいに瞳まで真っ黒っていうのはあまり聞かないけど、けど全くいないってこともないんじゃないかな。」
「それ、本当ですか?」
「うん。二回ぐらいなら行った事あるし。」
自分と同じ容姿の人達が暮らす国。もしかしたら、そこに自分と同じ境遇の人がいるかもしれない。そう頭に浮かんだ瞬間、ドクドクと心臓が大きく鼓動し始める。
これまでの三ヶ月間、何も考えなかった訳じゃない。自分はこの世界の人間ではないのだ。いつかはここを出て帰る方法を探したいと思っていた。『来る』ことが出来たのだから『帰る』事も出来る筈だ。けれどその為のヒントはどこにも無く、とりあえず働いてお金を貯めることでその目的に向かって前進している気でいた。でもそれだけじゃだめだ。いつまでも此処の暮らしに甘えていないで、自分の足で元の世界に帰る方法を探さなくては。
「もしかして、異国に興味があるの?」
エドに指摘され、はっと沙樹は顔を上げた。
「えぇ。記憶がないとは言っても、いつまでも此処にいる訳にもいかないし。・・・もしかしたら、ピノーシャ・ノイエのどこかに故郷があるかもしれない。」
「確かに。君の容姿を見ればその可能性は高いと思うよ。それに、行けば君のことを知っている人がいるかもね。」
生まれた世界が違うから、本当の故郷がそこにある筈ないけれど。沙樹がそう心の中で付け足していると、そっとエドの大きな手が頬に触れる。その体温に驚いた沙樹はジロリとエドを睨みつけた。しかし、当の本人は楽しそうに笑っている。
「何?」
「そんなに警戒しないでよ。色気が無いなぁ。」
「今それが必要だとは思えないけど。」
「くくっ。いいね。意外と気が強いんだ。でもそうじゃなくちゃ、異国へ旅立つことなんて出来ないよ。」
そう言ってあっさり手をどけると、エドは再び沙樹の髪に触れた。
「ねぇ、その気があるなら俺達と一緒に来る?」
「え?」
「記憶の無い、しかも女性の君が一人で旅をするなんて危ないよ。俺達は今の所ピノーシャ・ノイエへ行く予定はないけど、少なくとも国境までは一緒に行ってやれる。」
確かにエドの提案は魅力的だ。この世界のことを全く知らない沙樹にとって旅なれた人のガイドは必要だし、同行すれば旅のやり方や地理のことなど色々教えてもらえるだろう。
「それは・・・、ありがたい申し出だけど。でも、どうして?」
それだけが分からず首を傾げる。すると沙樹の肩に落ちた黒髪がさらりと揺れた。エドは何かまぶしいものでも見るように目を細める。
「・・なんでかな。君の事を気に入った、じゃ理由にならない?」
「本気で言ってるの?」
「本気だよ。」
エドは半歩近づくと覗き込むようにして沙樹と目を合わせてくる。近い距離とその視線に落ち着かなくなり一歩下がろうとするが、彼が沙樹の髪を手にしているせいでそれも叶わない。するとエドは大事そうに持っていた黒髪にそっと唇を落とした。神経など通っていないのだからその感触が伝わるわけがないのに、沙樹はびくっと肩を震わしてしまう。
「青空市は明日で終わり。明後日にはこの街を出る。それまでに考えておいて。」
ふっと笑うとエドは名残惜しそうに沙樹の髪から手を離した。
「おやすみ、シャリハ。」
そして踵を返すと廊下の先へ歩き出した。沙樹は落ち着かない鼓動を刻む胸を押さえてその背中を見送った。
「・・おやすみなさい。エド。」