第一話 2.シャリハ(3)
* * *
「“いい匂い”。」
かすみ草に似た小さな白い花を手に持って、思わず沙樹は日本語でそう呟いていた。それが耳に届いて、離れた場所で開店準備をしていた花屋の主人、マーサが振り返る。
「え?何?」
「あ、この花いい匂いだな、と思って。」
すると、マーサは大きなお腹に手を当て笑った。
「あぁ。サシャヤね。花は小さいけど香りが強いの。香水にも使われるのよ。」
「へぇ〜。そうなんだ。」
「それはこっちに置いてね」と言われ、沙樹はサシャヤを指示されたバケツの中に入れた。
今日はサンドの街唯一の花屋であるマーサのお店の手伝いに来ている。仕事を探していると言ったら、八百屋の主人がここを紹介してくれたのだ。店主であるマーサは現在妊娠していて、もうすぐ八ヶ月になる。お腹も大きく一人で仕事を続けるのは難しくなってきたので、丁度手伝いを探していたらしい。
「じゃあ、ちょっと中入ってくるから。店番よろしくね。」
「はい。」
何気なく空を見上げれば透き通った青空が広がっている。遠くに見える山々、広がる丘と牧場、そして畑。ここはとても素朴な街だ。アンバの中では北西に位置する何も無い田舎町だと皆は言うが、忙しない東京でずっと過ごしてきた沙樹にとってこの穏やかな時間こそがとても魅力的だった。
街の人口がそれ程多くないので午前中から花屋が忙しくなることはない。のんびりと花の名前を復習しながら、沙樹は鼻歌交じりに店先の花に水をやったり、バケツを並べたりしていた。
“花が咲いたよ 小さな花 花が咲いたよ 大きな花
赤に白にピンクに黄色 香りに誘われ蝶が舞う
花が咲いたよ きれいな花 花が咲いたよ 可愛い花
オレンジ 緑に紫色 嬉しくなって僕らが唄う
おいでおいで皆おいで 鳥や動物 虫も魚も
おいでおいで皆おいで 大人も子供もみんなみんな
花が咲いたよ 小さな花 花が咲いたよ 大きな花
花が咲いたよ きれいな花 花が咲いたよ 可愛い花”
小さな足音がしてそちらを向くと、七歳くらいの男の子が一人立っていた。彼は何をするでもなくぼーっとこっちを見ている。
「どうしたの?今日はお使い?」
すると彼は首を横に振った。どうやら花屋のお客ではないらしい。よく見ればラングに勉強を教わりに来ている生徒の一人だ。彼は沙樹の傍に来ると、彼女がつけているエプロンをひっぱった。
「ねぇ、シャリハ。もう一回唄って。」
「え?今の歌?」
「うん。もっとちゃんと聴きたい。」
今唄っていたのも向こうの世界の童謡だ。恐らく珍しくて気になるのだろう。沙樹は笑って頷くと、さっきのような鼻歌ではなく、彼にちゃんと聴こえる様しっかりと声を出して唄った。
“花が咲いたよ 小さな花 花が咲いたよ 大きな花
赤に白にピンクに黄色 香りに誘われ蝶が舞う
花が咲いたよ きれいな花 花が咲いたよ 可愛い花
オレンジ 緑に紫色 嬉しくなって僕らが唄う”
するといつの間にか他のお客もなんだなんだと集まって来た。皆の視線を浴びた沙樹の顔が羞恥で赤くなる。
「あ、すいません。」
慌てて店番に戻ろうとすると、買い物籠を持った恰幅の良い奥さんが笑った。
「いや、いいんだよ。それより歌の続きを聴かせておくれよ。」
「え?」
「ここじゃあ聴かない歌だからね。皆気になるんだろうさ。」
彼女がそう言うと、他のお客もうんうんと頷いている。恥ずかしいながらも唄わないとこの場が収まらないことに気付いた沙樹は、再度続きを口ずさんだ。
“おいでおいで皆おいで 鳥や動物 虫も魚も
おいでおいで皆おいで 大人も子供もみんなみんな
花が咲いたよ 小さな花 花が咲いたよ 大きな花
花が咲いたよ きれいな花 花が咲いたよ 可愛い花”
唄い終わるとなんともいたたまれなくなって、終わったことを示すようにペコリと一回お辞儀をする。すると客達からは拍手が起こった。
「あ、ありがとうございます、、みなさん。」
「可愛い唄だね。初めて聴いたよ。子供が喜びそうだ。」
「そうですね。子供向けに作られた歌ですから。」
「へぇ。そうなんだ。この辺じゃあ、あんまり子供の為の歌ってないんだよねぇ。」
「え、そうなんですか?」
「あぁ。それは、あんたの故郷の歌なのかい?」
「あ、・・・・多分。」
記憶喪失ということになっているので、簡単に肯定は出来ない。複雑な表情で答えると、「あ、ごめんね」と奥さんが苦笑した。
「いいもの聴かせて貰ったよ。今日は花を買っていくから、また聴かせておくれ。」
「はい!ありがとうございます!」
彼女が選んだのはオレンジ色のデーシュというポピーに似た花だった。数本の花を包み彼女に手渡す。御代は一本20トイ。沙樹の感覚で云うと『5円=1トイ』ぐらいだから、一本100円くらいの値段だ。
こうして沙樹の初めてのお客さんは、パン屋の奥さんになったのだった。