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第六話 3.別離(3)

 * * *


「最初はあなたのこと嫌いでした。」


 語られた言葉に沙樹は驚くでもなく苦笑した。エマが自分の事を受け入れていなかったのはなんとなく分かっていたし、そうと口にはしなくても表情に出さなくても、人の気持ちは些細な言葉や仕草から伝わってくるものだ。


「けれどそれはどうしようもなく自分が子供であると突きつけられるから。今は感謝してします。」

「そんな、感謝なんて。私は何も・・・」

「いいえ。あなたの歌が逃げている自分に気づかせてくれました。でなければ一生私は自分を偽り続け、ランバード殿下を傷つけていたでしょう。」

「エマさん・・。」


 そう思ってくれるなら嬉しい。歌が認められることは自分を認められることと同じだから。家族も友もいない。この世界に何の後ろ盾もない沙樹にとって自分の存在を認められるというのは何よりも嬉しいことだ。

 馬車につけられた窓の外では久しぶりに見る屋敷の外の景色が流れている。けれど沙樹の目は向かいに座る美しいメイドから離れなかった。長い間自分を世話してくれた彼女だったけれど、自分から心の内側を晒してくれたのは初めてなのだ。それが嬉しかったし、寂しくもあった。彼女とこんな風に話をするのはこれで最後だから。


「あなたは、これで本当にいいのですか?」

「えぇ。」


 答える沙樹の目に迷いはない。

 エマも寂しさを覚えていた。アムベガルドの仲間もメイドの仕事仲間もエマにとって自分の弱さを見せる事の出来る存在ではない。目の前のこの旅の歌い手だけが、たった半月前に出会った彼女だけがエマの心を開いてくれた。揺れる心に苦しむ自分を気にかけてくれた。


「これを。」

「・・・これは?」


 エマから手渡されたのは丈夫な紙で作られた茶色い封筒と白い封筒の二つ。不思議そうに見返す沙樹にエマは茶色い封筒を指差した。


「こちらはロードからです。ピノーシャ・ノイエへ渡る為の手形が入っています。」

「え・・・」


 一口に旅をするといっても国内を移動するのと国境を越えるのでは関所の厳しさが当然違う。アンバからの入国は、ユフィリルが同盟国である事とヴァン達の手助けがあってすんなり通ることが出来た。けれどピノーシャ・ノイエは本島しか旅人が入島できないことからも分かる通り入国審査が厳しい。教会の紹介状しか持たない沙樹では簡単に通れないのだ。

 一通りエマから説明を受け、茶色い封筒の中を確かめる。手触りのよい良質な紙に書かれていた手形にはこの国の言葉で沙樹の身元をユフィリル国が保証する旨が記載されていた。右上に押されたこの国の紋章を象った押印が正式な書状である何よりの証拠だ。けれどロードの意思だけでこの手形が発行できるわけがない。その為には彼の上司となるブレードの許可が必要な筈だ。あえて名前を出さない彼の性格が見えて、沙樹は胸が熱くなった。


「こちらは私から。」


 白い封筒はしっかりと蜜蝋で封がされている。沙樹は当然見た事がないが、閉じられた箇所に押印されているのはイディアの家紋。


「ピノーシャ・ノイエへ無事入国したら開けて下さい。」

「わかりました。・・ありがとうございます。」


 受け取った封筒はラングから預かった紹介状と共に丁寧にバッグの中にしまい込んだ。

 沙樹の荷物は多くない。持っているのは長期保存が可能な携帯食料と最低限の着替え、そして元の世界の服が入ったバッグ一つだけ。今着ているコートと手袋、ショール、分厚い皮のブーツは雪に覆われたこの国を旅するためにランバードが用意してくれたものだ。屋敷を出る前に彼にも礼を言おうとしたのだが、歌の御礼だからと受け取ってはくれなかった。

 ユフィリルは良い国だな、と思う。ブレードは冷静な判断を下し、非を認めて頭を下げる潔さがある。ヴァンは自分の弱さに向き合い、自分の足で歩こうと悩み苦しんでいる。ランバードは身分に捉われず、人の本質を見て笑いかけることが出来る。彼らがこの国の将来を担う若者達ならきっと先の未来ではもっと良い国になっている筈だ。それを見届けることが出来ないのは残念だけれど。


「この国に来て良かった。」


 あの宿屋の食堂でバハールではなくこの国を選択したのは間違ってはいなかったと断言できる。沙樹が思わず零した呟きを聞いて、エマは頬を緩ませた。国を褒められ喜ぶのはやはり自分がこの国を支えるアムベガルドだからだろう。そう改めて実感した瞬間でもあった。



 小一時間程馬車に揺られ、着いたのは民家も人気もない田舎道。そこで馬車を降りた沙樹の視界に入ってきたのは雪で真っ白に染まった景色と、数メートル先に止まった別の馬車。それに見覚えがあって沙樹は息を飲んだ。黒い漆塗りの四頭引き。初めてあの屋敷を訪れた際にヴァンを迎えに来た馬車だ。


(まさか・・・)


 沙樹が屋敷を出たのはブレードから謝罪を受けた日の翌日だった。ヴァンに仕事があることを知っていて彼が外出した後に黙って出発したのだ。未練を残さないよう、弱い自分が足止めされない為に。約束の歌の歌詞は彼に渡してくれるようエマに頼んでいた筈なのに。

 沙樹が思わずエマを振り返ると、彼女は一度頷いた。


「エマさん・・・。」

「行って下さい。あなただけ逃げるのはずるいですよ。」


 そう言って微笑んだ彼女の笑みは優しくて、今まで見てきた社交辞令の微笑なんか比べ物にならない程美しい。


「私がご一緒できるのはここまでです。お気をつけて。」

「・・・色々ありがとうございました。」

「それはこちらの台詞です。」


 そう言うエマの言葉がほんの少しだけ弱弱しく響く。沙樹は思わず彼女を抱きしめていた。元の世界にいる親友達にするように。


「さようなら。ランバード殿下と幸せになってください。」

「・・貴方の求めている答えがピノーシャ・ノイエで見つかることを祈っています。」


 半月前、テラスで交わした何気ない会話をエマは覚えていてくれたのだ。沙樹は彼女を抱く腕に一度力を込め、そして離した。エマは無言で頷き、それに応えて沙樹は振り返る。そして歩き出した。サクサクと静かな雪景色に響く自分の足音。そして黒塗りの馬車から黒いコートを着た男性が現れる。


「ヴァン・・。」

「・・・・・。」


 二人は馬車から離れた所で向かい合う。今朝朝食の席で顔を合わせたばかりだというのに、今見るヴァンの顔はまるで別人のように感じた。表情は硬く、声が重い。


「エマから連絡を受けた。何故黙って出て行こうとする。」

「・・ごめん。ヴァンの顔を見て、さよならを言う勇気が無かったの。」


 ぎゅっとヴァンの眉間に皺が寄る。けれどそれは不機嫌なのではなく、感情を押し殺すようなそんな表情。


「訊いてもいい?」

「あぁ。」

「昨日会ったカルコスさん。あの人は・・・」

「カイルが連絡を取った。」

「カイルが?」


 数日前の夜会があった日。あれから沙樹はカイルの姿が見えないことに気付いていた。きっとブレードに頼まれた仕事で出ているか、自分の隊に戻っているのだろうと思っていたのだが、どうやらその間にカルコス=イディアに会っていたらしい。


「しばらく姿が見えなかったのはそれで?」

「あぁ。ラングウェル=ホーランドとカルコスが知人であると知って、カイルが交渉に行ったんだ。本当はイディアの力を借りずに直接ラングウェルに話を聞きたかったんだが、さすが軍の人間だっただけあって口が固くてな。カイルは共にアンバに行ったが、その後騎士団に呼び出されてこちらに戻って来れなかった。」

「そうだったんだ。」


 偶然にしては出来過ぎていると思っていた。彼らはずっと沙樹の為に色々と調べていてくれたのだ。そしてラングの人間関係に目をつけた。事情を知らないカルコスがわざわざラングの元へ行き、口裏を合わせて沙樹へ有利な証言をしてくれたのも、カイルの働きかけがあったからだったのだ。いや、ヴァンは自分の名前を出さないがきっとカイルに指示したのは彼だろう。そんな所がブレード似ている、と思ったけれど口に出すのは止めた。


「ありがとう。」

「・・礼ならカイルに言え。」

「うん。でも会えないから、伝えておいて欲しいな。」

「分かった。」


 しばしの沈黙の後、ヴァンが一歩沙樹に近づく。その動きがやけに遅く感じた。


「俺の傍は嫌だったか?」


 傍にいてくれ、と抱きしめられたあの夜。同時に唇に触れた熱さと震えが一気に蘇る。孤独に彩られた言葉に沙樹は首を横に振った。


「違う。」

「他に想っている男がいるのか?」

「違う。そうじゃない!」

「シンガー・・・。」


 ぎゅっと今度は抱きしめられる。ヴァンの腕の中は温かくて、けれどそれが余計に悲しかった。沙樹の耳に彼の唇が近づき、吐く息が触れる。


「好きだ。」


 その一言が沙樹の胸に突き刺さる。ダメだ。泣かずに行くと決めたのに。熱くなる目頭をヴァンの胸に押し付けて我慢する。


「・・・・ごめん。」

「俺はお前以外いらない。」

「ごめ・・、ごめん、ヴァン。ごめんなさい。私は・・・」


 拒絶の言葉を遮るようにヴァンの腕に力が篭る。けれどこの腕の中から抜け出さなくては。旅を続けるのだ。元の世界に帰るのだ。友の傍に。ずっとずっと生きてきたあの場所に。


(私は、行かなくちゃ。)


 ラング、孤児院の子供達、エド、ビビ、ダルト、そしてヴァンやカイル、エマ。他にも沢山の人達が力を貸してくれた、優しくしてくれた。それでも自分の居場所はどこにもなかった。寂しさを感じた夜に思い出すのは元の世界の友人達だった。


(私の願いは変わらない。皆の所に帰りたい。だから‥)


 自分に想いを寄せてくれるヴァンディス王子へ決別を。

 沙樹は抱きしめられたまま深く息を吸い、ゆっくりと音を紡いだ。



“高い空を見て溜息つく あなたの目は遠く遠く

 掴めぬ雲を見ているの 届かぬ星を見ているの

 果てない海を恐れてる あなたの目は遠く遠く

 大きな波に怯えるの 深い底に怯えるの


 足元に小さな花 気付かず歩く街の人々

 そんな悲しい顔をして 自分のようだと言わないで”



 約束の歌。その意味が分かってヴァンは唇を噛み締めた。


「やめろ。いらいないと言った筈だ。」


 けれど沙樹は唄う事を止めない。一時は唄わずに去ろうと思ったけれど、それではダメだ。別れたいから唄うわけではない。ありのままの想いを伝える為に、嘘偽りない自分を伝える為に唄うのだ。そうしなければ自分も前に進めない。



“あなたが好き たった一人だけのあなたが

 代わりなんていない あなたが好き

 あなたが好き 照れるように笑うあなたが

 不器用に手を握る あなたが好き”



 沙樹の肩にヴァンの頭が寄せられる。その肩が震えていた。沙樹はそっと腕を彼の背に回す。慰めるように、労わるように、慈しむ様に。



“乾いた風に振り返る あなたの目は遠く遠く

 過ぎた記憶を見ているの 会えぬ人を見ているの

 冬の寒さに下を向く あなたの目は遠く遠く

 差し出す手に怯えるの 失う温もりに怯えるの


 目の前に窓明かり 立ち止まる凍えた足音

 そんな悲しい顔をして 他人のものだと言わないで


 好きになって あなた自身が逃げない自分を

 本当は皆気付いてる 見せない優しさ

 好きになって 無力を嘆く強い自分を

 本当は皆待っている あなたの笑みを”



 分かって欲しい。ヴァンが苦しんでいる事、悩んでいる事に気付いている人達がいて、心配している人達がいる。ヴァンが自分を好きなれなくても、ヴァン自身をとても大切に思っている人達がいることを。

 そしていつかヴァンがヴァンを好きなってくれたなら。それが沙樹の願いなのだ。


 歌が終わる。メロディーが二人を包む雪に吸い込まれていく。ヴァンの腕から力が抜け、沙樹は彼を見上げた。


「ヴァン。」

「・・・・。」

「ありがとう。」


 自分を見るヴァンの目が濡れている。彼の中に渦巻く感情は沙樹には分からない。

 彼の額が沙樹の額に優しく合わさり、その瞼がゆっくりと閉じる。その時、ポロリと一つ涙の雫が落ちて沙樹の頬を濡らした。温かい涙だった。


「・・礼を言うのは、俺の方だ。」

「そんなことない。どんな状況でもヴァンは私の味方でいてくれた。助けてくれた。それが嬉しかったし、力強かったもの。」

「シンガー・・」


 瞼が開き、ヴァンの碧色の目が現れる。その瞳一杯に泣き笑いの沙樹の顔が映る。

 顔を離し、ヴァンが手袋をした沙樹の手を両手で包む。僅かな重みに気付いて手を開けば、そこにあったのは五枚の花弁を持った白い花の髪飾り。


「これは・・・?」

「俺からの餞別だ。」

「綺麗。」


 貝殻のような光沢のある白い石を削りだして作られた髪飾り。柔らかい花弁の曲線。軽く丈夫な素材で出来たその裏側には小さく王家の紋章である獅子ペディカが刻まれている。だが国章とは違う、見たことの無いその意味を沙樹は気付かない。それは一人で旅を続ける彼女がこの先困った時に役に立てばとヴァンが考えたものだった。金に困った時に売れば、間違いなく高額で取引される一品だ。見る者が見れば分かる紋章は身分証明にもなるだろう。この先共に行けない自分の代わりに、これが彼女を守ってくれることを願う。

 沙樹は目頭が熱くなるのを感じて、それをぐっと堪えた。自分は別れを告げる側の人間だ。決して泣かないと決めた。震えそうになる声を叱咤して、一つ一つの言葉に力を篭める。


「ありがとう。」

「礼はいい。・・・行くんだな。」

「うん。」


 二人が離れる。真っ白な雪は眩しく、沙樹の目が細められる。多分言わなくてもヴァンは分かっている。これが最後だと。

 ヴァンとの出会いはあくまで偶然。たとえ沙樹がこの世界の人間であっても、王族と一般国民が自由に顔を合わせることなどないのだから。


「さようなら。」


 笑顔で言えたかどうかは分からない。ヴァンは何も言わずに沙樹を見送った。歩き出した彼女は一度も振り返らなかったけれど、その小さな背中が白い白い光景の中に溶けてしまうまで、ヴァンはそこから一歩も動く事はなかった。

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