第六話 3.別離(2)
屋敷の侍従達に見送られてカルコスは玄関を出た。そこから雪を捌けられた道を進み、門の外で待っている馬車の下へ向かう。厚い雪に覆われていてもこの屋敷が持つ庭の美しさは少しも損なわれていない。ゆっくりと景色を楽しみながら歩を進めていると、その途中に自分を待ち構えている二つの人影を見つけた。
「おや、ランバード殿下。お久しぶりですね。」
にこやかな笑顔を浮かべて彼の下へ近づく。そしてその横に立っている小柄な姿に目を細めた。
「見送りに姿が無いと思ったら。ここにいたのか、エマ。」
ぴくりと細い肩が揺れる。頭を下げていた彼女が顔を上げると、カルコスよりも深い青の瞳が不安げに揺れていた。その彼女を隠すようにランバードが前に出る。
「お久しぶりです。今日はブレディス兄上に御用事だったみたいですね。」
「えぇ。私の用事はもう済みましたがね。それで殿下は・・・、私の見送りに来てくださったのではないようですが。」
「貴方は面会を申し込んでも簡単にお会い出来る方ではない。ですから無作法は重々承知の上で、この様な形をとらせていただきました。」
「成る程。それで?私を待ち伏せしてまで何の御用ですかな?」
ランバードの身の内にこれまでにない緊張が走る。けれど逃げるわけには行かない。アムベガルドを束ねるカルコスは普通の貴族とは違い、王家の子息と言えど気安く会える相手ではない。世間的に見れば子爵だが、彼に指示を下す事が出来るのは国王のみ。そして主である国王に直接意見出来る程の力を持っているのだ。そんな彼に側室の子であるランバードが自分の意思で会う事が出来る機会など無いに等しい。
今しかないのだ。自分に言い聞かせ心を奮い立たせる。
「ご当主に、いえ、エマ=イディアのお父上にお許しを得たいのです。」
「ほう。一体なんの?」
カルコスはあくまで笑顔を崩さない。けれどその目に秘められた絶対的な意思は決して笑ってはいなかった。ランバードはこれまでエマに対する気持ちを誰の前でも隠さず彼女に接してきた。恐らく自分の好意などとっくにカルコスには知られている筈だ。ぎゅっと拳を握り、ランバードは言い放つ。
「エマを僕だけの影にしたいのです。」
初めて彼の顔から笑みが消える。それを見たランバードの背中に冷や汗が流れた。アムベガルドの当主が持つ空気はそれだけで周囲の者を震え上がらせる迫力がある。
「・・エマは優秀なアムベガルドです。王家をお護りすることを考えれば、これまで通り王位継承権第一位のブレディス殿下の下につかせるのが良いと思いますが?」
「第三王子の私にはその価値がないと?」
「そうですね。側室の息子だからと今までのらりくらりと国政に関わろうとしなかったあなたにはそれ程の価値はないと思っていますよ。」
カルコスの目が後ろに控えていたエマに向けられる。エマは当主であり、また実の父でもあるその視線を臆さず受け止めた。
「エマ。それを殿下にお伝えするのもお前の役目だと思うがね。」
「・・私は・・・・。」
「まさかお前も殿下の望み通りにしたいと?それがこの国の為だと思っているのか?」
「・・・・。」
アムベガルドが優先すべきは国王と国の為に働くこと。私情を貫こうとするなど愚かな行為に過ぎない。幼い頃から身を持って叩き込まれた教えがエマを縛り付ける。それでもなんとか震える唇を開こうとしたエマをランバードが手振りだけで止めた。彼女がランバードの横顔を見るが、彼は真っ直ぐにカルコスに向き合っている。
「確かに、王家に生まれた人間が自分の望みだけを貫こうとするのは間違っているのかもしれません。それでも僕はエマを誰にも渡したくない。アムベガルドとしても、女性としても。」
「殿下の我侭を叶える為に我々が存在しているのではありません。立派なお世継ぎを産む為ならばエマである必要は無いでしょう。」
「僕はエマでなければ嫌だ。」
「・・・ランバード殿下。」
ランバードがエマの手を握る。力強く握られたそこから決して離さないという意思が伝わってくる。
(私・・・、今守られている?)
自分はアムベガルドだ。そのことに疑問を持った事など無い。この国の為に王家の方々をお守りする事。それが自分の使命。それなのに今はどうだ?今はこの背中に守られているではないか。そうじゃない。自分は守りたいのだ。それはアムベガルドとしてだけではなく、ランバードに愛されたいと思う一人の女としても同じ。
“あなたへ届けと唄い続ける 風に負けない翼を持って”
今自分の意思を示さなければ。ずっと自分を想い続けてくれた彼の為に。その想いをないがしろにする事で傷つけていた自分の為に。
エマは彼の手を握り返して横に並んだ。
「お父様。私・・・、私もランバード殿下のお傍に居たいのです。アムベガルドとして、一人の女としてこれから殿下を支えると誓います。決してこの国の不利になるようなことは致しません。」
強い意思をその瞳にのせた二人の若者。一瞬眩しそうに目を細めた後、それでも口調は変えずにカルコスは言い返す。
「口先だけで願いが叶うならば誰も苦労はしませんよ。」
「ならばどうすべきだと?」
「力を付けなさい、殿下。」
「え?」
「イディア家の者が専属でつく程の価値がある男になることです。」
その真意を汲み取り、手を繋いだまま二人は目を合わせる。エマは湿った目を父親に向けた。先程とは違う感情でその唇が震える。
「・・・お父様。」
カルコスはその呼びかけに応えて娘を見た。生まれてきてからずっとイディア家の当主として接してきた少女。父親らしい事などしたことがない。けれど彼女は泣き言一つ言わずに付いて来てくれた。街に溢れた年頃の娘達のような楽しみを知らない自分の娘は、自分を恨むこともイディア家に生まれたことを厭う事も無く、自分を父と呼んでくれている。それが感情を殺すことに長けたカルコスにとってどれだけ幸福を与えてくれているのか、きっと彼女は知らないだろう。
カルコスは今日初めて彼女に微笑を返し、そしてランバードを見た。
「私の娘は安くないですよ。」
「望む所です。」
不敵な笑みを向ければランバードも負けじと言い返す。それで良い。人の上に立つ者はどれだけ内心不安を抱えていようとそれを見せず、自信有り気に振舞う事が出来なくては、人々は付いて来ない。人は弱い。だから強者に付こうとする。常に王家に生まれた者達は強者でなくてはならないのだ。
カルコスはもう何も言わずに馬車へと進んだ。ランバードはただ一度、自分の臣下であるカルコスの背中に頭を下げてそれを見送った。
「何か良い事があったのですか?旦那様。」
馬車で自分を待ち受けていた執事が頬を緩ませて問う一言にカルコスは苦笑した。それ程表情に出していたとは、自分もまだまだ修行が足りない証拠だ。
「あぁ。」
「それはようございました。」
頭を下げてカルコスが馬車に乗るのを待ち、御者へ声をかけてから執事も乗り込み扉を閉める。もう七十に届こうという歳だが、彼もアムベガルドの一人。腰が曲がるなど考えられない程一つ一つの動作が洗練されていて隙がない。
「若いってのは良いな。」
次に陛下に会う時の良い酒の肴を得た。あの二人は本気で自分に挑んでくるだろう。どれ程の成長を遂げるのか見物だ。
静かに動き出した馬車の中。老執事は嬉しそうな主人の呟きに黙って耳を傾けていた。