第六話 3.別離(1)
沙樹は緊張で身を硬くしていた。久しぶりに顔を見たロードが案内したのはブレードの執務室。以前、沙樹への疑惑と拘束を言い渡された場所でもある。沙樹はその時と同じ一人掛けのソファに腰を下ろしていた。
今彼女の目の前にいるのはこの部屋の主ブレードと見知らぬ男性が一人。歳は四十半ばだろうか。金色の髪に空色の瞳。鮮やかな色彩とは真逆の一見地味な黒いスーツを上品に着こなしている。今朝遠目に見たエマと一緒に馬車から降りた客人だとすぐに分かった。初めて顔を合わせる彼が何故ここにいるのかは分からないが、部屋にいるのは今この三人だけ。ヴァンもカイルも居ない。味方の居ないこの状況でブレードと対峙するのは恐ろしい。けれど逃げ出すわけには行かない。
緊張を隠せない沙樹の様子を見て、客人である壮年の男性は穏やかな笑みを向けた。
「初めまして。私はカルコス=イディアと申します。王家の方々とは縁のある身ですが、爵位は子爵。そう緊張しなくてもいいですよ。」
「あ、はい・・。」
そうは言われても、子爵と言えど貴族には違いない。しかも彼はさらりと言ったが王家と縁があると言うのは、貴族の中でも特別な位置にいる事を示すのではないだろうか。
益々沙樹は難しい顔になる。すると唐突にブレードが口を開いた。
「ラングウェルを知っているか?」
頭を巡らせるが『ラングウェル』というのは知らない単語だ。沙樹は緩く首を振った。
「いえ、知りません。それは何ですか?」
答えた沙樹を窺うようにじっと見た後、ブレードは溜息を付いた。
「成る程。本当のようだな。」
「え?」
「ラングウェルとは物や土地の名前ではない。人の名だ。」
「あ、す、すいません。」
そうとは知らずに『それ』と言ってしまった事を詫びた。人のことをそんな風に言うのは失礼なことだ。だが、もし嘘を付いていれば『誰』と口にしていただろう。そのお陰で偽りではないと信じてもらえたのだ。恐らくその人物を知らない事だけではなく沙樹が記憶喪失である事を含めて。
次に言葉を発したのはブレードの隣に座っていたカルコスだった。
「サンドの街の教会に居た、神父の名だよ。」
サンドに教会は一つだけ。沙樹がお世話になった所だ。
「・・・ラングさん?」
「そう。彼は私の古い馴染みでね。君の話をしてくれた。」
あの街では大人も子供も皆彼のことをラングと呼んでいた。彼自身も沙樹の前ではそう名乗っていたから本名までは知らなかった。以前ブレードは沙樹のことを調べさせたと言っていたが、それはカルコスの事だったのだろうか。
「単刀直入に言うと、出自が分からないという君の疑惑が晴れたんだ。」
「え・・?」
そんな筈は無い。沙樹はこの世界に過去はないのだ。けれどそんな事を知らないカルコスは淡々と話を続けた。
「ラングウェルは君を自分の娘だと言ったんだよ。」
「ラングさんが・・?」
ラングはあの孤児院で面倒を見ていた子供達皆をまるで自分の子供のように大切にしていた。だからきっと、二ヶ月間しか居なかった自分のこともそんな風に思ってくれていたのだろう。そういう意味だと沙樹は理解した。けれどカルコスはそれを否定した。
「あぁ。記憶を失った君には言えなかったが、自分と亡くなった妻との子供だと。」
アンバ出身の彼は内紛に巻き込まれて生き別れた妻がいたのだという。そして当時、彼女は妊娠していた。その子供が沙樹だとラングは主張しているのだ。
「でも、ラングさんが奥さんと別れてしまった時にはまだお子さんは生まれていないのでしょう?どうして私がその時の子供だなんて・・・。」
黙ってその事実を受け入れれば良かったのかもしれない。けれど突然ふって湧いたような話は沙樹を混乱させた。
「髪と目の色は亡き妻と同じ。年齢も一致するのだそうです。そして何よりあなたの顔が、妻にとてもよく似ているのだと言っていました。」
それらは全てがラングウェルの言葉によるもので、確固たる証拠とは言えない。その事に隣で黙っているブレードが気付いていない訳が無いのだ。なのに何故、この証言だけで疑惑が晴れたと判断したのか。
沙樹の戸惑いが分かったのだろう。カルコスは窺うように彼女を見た。
「信じられませんか?」
「・・えぇ。だって、そんな偶然・・・。」
例え沙樹が異世界の人間だと知らずとも、記憶を失った娘が行き着いた先が本当の父親がいる教会だなんて都合の良い偶然、誰が信じるだろう。だが目の前の客人はそう思っていないようだった。
「ラングウェルは嘘を付くような男ではありません。自分を偽る事さえ出来ない不器用な男だから、軍を辞めて神父になったのです。」
「軍?」
「えぇ。ラングウェル=ホーランドはアンバでは有名な軍の元大尉ですよ。サンドの街でラングと名乗っている彼と同一人物だと知っている人間はほんの一握りでしょうが。」
「どうして、ラングさんは軍を辞めて教会に?」
「・・紛争が終わって街に帰ったラングウェルを待っていたのは妻がお腹の子供と共に生死不明になっているという知らせでした。以来争いの何もかもに嫌気がさして、戦災孤児の面倒をみて過ごすようになったそうです。」
「・・・そう、でしたか。」
二人の会話を聞きながら、ブレードはかつての英雄に思いを馳せた。先にカルコスから聞かされていた事実。国の英雄が軍を辞め、神父をしていると云うのは信じられない事だった。だが愛する家族を失い、帰った故郷の街は傷つき荒れていた。そこに溢れた孤児達の面倒を見て過ごすようになったのは、軍を率いた者として彼なりの罪滅ぼしなのかもしれない。
孤児はユフィリルでも問題になっている。多くの子供達が戦争で親を失い、教会や孤児院での生活を余儀なくされていた。それを悲観して剣を捨てた彼の心境は、為政者であるブレードも分かる気がした。
それでも表情を緩めない沙樹に、カルコスは続ける。
「勿論、彼の言葉だけを鵜呑みにしたわけではありません。いくら友人だと言っても裏を取る必要はあります。そこで町医者の記録を調べました。彼の妻が懐妊していたのは本当でしたよ。ですが、娘を産んでほどなくして妻は亡くなっています。その後の娘の行方までは調べがつきませんでした。そこで、貴方の絵姿を妻の親族に見てもらいました。」
するとカルコスは、まるで自分の娘の話をしているかのように微笑んだ。
「・・・ラングウェルの妻の若い頃にそっくりだと、皆が口を揃えていましたよ。」
ラングウェルだけで無く、そこまでの証言が集まっている。そこで彼の言葉は事実だと結論付けられたのだという。無論、ブレードが彼の報告を信じた理由はそれだけではない。カルコス=イディアは王家に絶対の忠誠を誓ったアムベガルド。彼がブレードに嘘を付く訳が無いのだ。
だがアムベガルドの存在さえ知らない沙樹は心の中で呟いた。嘘だ、と。誰が分からなくても沙樹にだけはそれが分かる。過去が無いせいで疑われている自分を助ける為に、ラングが自分の子供の人生を沙樹に譲ってくれたのだ。
その目に涙が滲む。いつでも優しく子供達を見守っていたラングがかつて剣を手にしていたなんて信じられない。きっと彼は教会にいた子供達全員を、一度として抱く事のなかった自分の子供の代わりに大切に思ってきたのだろう。そしてその愛情は、経った二ヶ月しかあの場にいなかった沙樹にも向けられていたのだ。元の世界でも得られなかった親の愛情。それをここで得る事が出来るなんて。
ぽろりと一粒涙が零れる。そんな沙樹を見て、カルコスは席を立った。
「さて、私はもう行きます。この後も仕事が詰まっておりますので。」
ロードから帽子とコート受け取る所を見て、本当に屋敷から出てしまうのだと分かった沙樹は慌てて立ち上がった。
「あの・・!!」
「はい?」
最初から変わらず穏やかな空色の目が沙樹の姿を映す。
「・・あ、ありがとうございました。もしお会いする事があったら、ラングさんにも、お礼を伝えてください。」
「えぇ。確かに。」
座ったままのブレードに一度頭を下げ、ロードが開けた扉を潜る。すると彼はそれまでとは違う、何かを含んだ笑みを浮かべた。
「盗み聞きとは趣味が悪いですな。ヴァンディス殿下。」
「・・・カルコス。」
両開きの扉の向こうに姿を見せたのはヴァンだった。だがカルコスはそれ以上何も言わず、彼にも頭を下げてそこから離れる。それを一瞥して、ヴァンは執務室に入ってきた。
「ヴァン・・・」
思わず沙樹が名前を呼ぶが、それには応えずブレードの下へ真っ直ぐに向かう。
「悪いが話は聞かせてもらった。だがこれで、シンガーは自由だな?」
「・・あぁ。」
ヴァンとは目を合わせないままブレードが立ち上がる。そして沙樹に頭を下げた。
「シンガーさん。こちらの都合で足止めして申し訳ありませんでした。」
「あ、・・・いえ。疑われる理由は、よく分かっているつもりですし・・。」
あらぬ疑いを掛けられ、実質軟禁状態だったのだ。もっと彼をせめても良かったのかもしれない。けれど沙樹はそれ頃ではなかった。
疑惑の払拭。同時に訪れた唐突な別れ。
沙樹はヴァンと目を合わせたまま、言葉を失っていた。