第六話 2.当主(2)
* * *
「なんでこっちに居るんだよ・・・」
自分を見るなりそう言ったランバードをエマは怪訝な表情で見返した。先程この客室の主がロードに呼ばれて不在になった為、その間にと部屋を掃除している所だ。ハタキを持って部屋のほこりを落としていたエマに構わず、ランバードは中に入ってきた。
「今日は君がこの部屋には居ないって言うから屋敷中探し回っちゃったじゃないか。」
「それは申し訳ございません。それで、私に何か御用ですか。殿下?」
手を止めて向き合えば、途端に彼の表情が真剣なものに変わる。それはいつもエマの前で笑みを浮かべている彼にしてはらしくない顔だった。
「今、君の所のご当主が来ているんだろう?」
「ええ。ブレディス殿下の下へお通しましたが。」
「エマ。」
呼ばれた名前にどきっと心臓が音を立てる。不覚にもそれだけで動揺してしまうのは、昨夜聴いたあの歌が頭から離れていない証拠だ。自分を呼ぶ声はいつもよりも低く、視線がまっすぐに自分に注がれていて、エマは上手く返事が出来なかった。まるで金縛りにあってしまったかのように指先一つ動かない。
そんな彼女の白い手を取り、ランバードは指先に口付けを落とした。その僅かな体温がエマの金縛りを解く。
「・・殿下?」
「俺はこれからご当主に許しをもらってくる。」
許し?一体何の?
イディア家が仕えるべき王家の子息が、一体当主に何の許しを請うと言うのだろう。何事も命じれば全て叶えられる筈なのに。
言葉を返せないでいるエマに、ランバードは更に一歩近づいた。その瞳の奥に熱が篭っているのが見える。
「君を僕のものにしたいんだ。」
「・・何を・・・」
「エマ=イディアを僕の影にしたい。」
ぞっとした。『影』とは正しくアムベガルドを指す言葉。彼は知っていたのだ。エマがアムベガルドであると。
エマは優しく握られた手を乱暴に振り払い、ランバードから距離を取った。
「離してください!!私は・・あなたの言う通りアムベガルドです。今まで何人もの命をこの手で刈り取ってきました。だから・・・」
「うん。そうして俺達を守ってくれていたんだもんね。」
「え・・・?」
「知ってたよ。」
「何を・・・」
言葉の意味が分からず、エマは困惑の目を向ける。手負いの獣のように自分を警戒しているエマに、ランバードは無遠慮に距離を詰めた。彼女にだったら噛まれても構わない。その痛みさえ、自分は愛しく思うのだろう。
動揺しているせいか自分が壁際に追い詰められている事も気付かないエマの両脇に手を付いて逃れられぬよう囲いをする。そして自分よりも小さな体を見下ろした。
「俺はあの時からずっと、君だけを見ているのだから。」
(あの時・・・?)
傍にある体温を感じて、エマは身震いした。
ランバードが十二歳の頃、王城で開かれた夜会に彼も出席していた。当時まだ戦時中だった為夜会といってもそう華やかなものではなく、建国記念日を祝う行事の一つに過ぎなかった。客はあくまで国内の貴族に限られ、近衛騎士による警備も物々しく、ランバードにとってはさして魅力的なものではなかった。だからだろう。当時の立場も状況もさして理解していなかった自分は夜会を退屈に感じ、侍従達の目を盗んで庭に出た。そこで待ってましたとばかりに襲撃されたのだ。相手はバハールに雇われた影だった。
美しい月光を浴びて鈍く光る短刀。それが自分に向かって振り下ろされるのをランバードは唖然と見上げることしか出来なかった。しかし、その刃は自分を切り裂くことなく空を切る。気付けば青いドレスを着た幼い少女が自分に覆いかぶさっていた。彼女が自分を地面に倒してくれたお陰で、敵の一撃を避ける事が出来たのだ。彼女が素早く手にした細い金属の笛を吹くと、それに気付いた近衛騎士達がすぐさま駆けつけ、程なくして襲撃者が捕らえられた。けれどそんなことはどうでも良かった。ランバードの頭の中は目の前の少女の事で一杯だったのだ。
ランバードは彼女がアムベガルドだとすぐに分かった。そして次の瞬間、目の前の幼い少女の手が震えていることに気が付いたのだ。敵を目の前にしたのは初めてだったのだろう。それでもアムベガルドとして生まれた矜持と誇りが幼い彼女を奮い立たせていた。その凛とした姿に強い意思を湛える目に自分は心奪われた。
ランバードは美しいメイドに恋をしたのではない。ずっとずっとアムベガルドであるエマに恋をしていたのだ。
「好きだよ。エマ。」
壁についていた手を離し、彼女の細い体を抱きしめる。
「っ・・・。で・・んか。」
「あの時から、そしてこの先も僕が愛するのは君だけだ。」
熱く、そして甘い言葉に眩暈がしそうだった。自分には到底無縁だと思っていた愛の言葉。それを目の前で囁かれ、エマの瞳が揺れる。自分を抱く腕から逃れたいのに、いつものように冷たい態度で拒絶しなければならないのに、全てが上手くいかない。やっと口から出た声も弱々しく掠れている。
「ダメ・・・です。そんなの・・・・」
「僕の心は僕だけのもの。それを縛る権利は誰にもない。君にもだ。僕から逃げたかったら逃げてもいいよ。けど、僕は一生君を諦めない。」
一生などと、どうしてそんな簡単に言ってしまえるのだろう。人の気持ちは簡単に変わる。エマは任務でそれを幾度となく見てきた。人は裏切り、嘘をつく。永遠なんてありえない。
「私は・・・、アムガルドです。この身も忠誠も全て王家のもの。」
「君が一生アムベガルドであるというなら、僕だけの影になってよ。エマ。」
その言葉にエマは目を見開いた。
「殿下、だけの?」
「そう。王家ではなく僕だけの。僕は我が儘だから、女としての君もアムベガルドとしての君も、どちらも独り占めしたいんだ。」
あぁ。それは影であるアムベガルドにとってなんて儚く甘美な誘惑だろう。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。心臓が甘く切なく鼓動する。彼はどこまでも影である存在の自分を認め、求めてくれている。
“あなたへ届けと唄い続ける 風に負けない翼を持って”
エマは自分の想いを叫び続ける事はせず、それを硬く閉じ込めてきた。自分の心を揺さぶるあの歌姫の歌を拒否し、嫌いだと言い聞かせて考えないようにしてきた。けれどその蓋を今ランバードが開けようとしている。あの歌のように幼い頃からの想いを唄い続け、エマの下へと降りてきてくれた。
ランバードの唇がエマの額に触れた。震える彼女の唇から零れたのは、やっぱり素直じゃない言葉。
「馬鹿・・・。」
王家に仕える者として不敬と取られてもおかしくはない。けれどランバードが自分を責める事は無いだろうとエマは分かっていた。認めてしまったのだ。彼は王子としてではなく、ただの男として自分を受け入れているのだと。
案の定ランバードは、まるでその二文字が睦言であるかのように頬を緩ませる。
「うん。」
「馬鹿です。貴方は・・・」
「うん。知ってる。」
白く柔らかな頬に、涙を流す瞼に、そして最後には彼女の唇にランバードのそれが重なる。
「愛してるよ。エマ。」
あれ程拒絶していた筈の恋心が、ずっと知らぬふりをしていた想いがすとんとエマの胸に収まった。一人では受け入れる事も出来なかった自分の心。そして彼の心。それが一つになってエマの胸を占めている。
どうして良いのか分からずさ迷っていた手に、彼が指を絡めてきた。自分は夢を見ているのかもしれない。ふっと息を吐けば消えてしまいそうな儚い夢を。けれど同時にそれをイディアの当主が許す筈が無いと、エマは遠くなりそうな意識の隅でそう思っていた。