第五話 3.賓客(1)
ノックなしで扉が開かれる音がして、沙樹は読んでいた本から顔を上げた。
「ヴァン・・・?」
いる筈がない。第一王子ブレディスが沙樹の元へ来ることを許していないのだから。だが、そうは思ってもソファに座る自分に向かって真っ直ぐ歩いてくるのは、相も変わらず表情の硬いヴァンだ。
慌てて本を閉じると、沙樹はソファから立ち上がって彼を出迎えた。
「ヴァン。ここに来て大丈夫なんですか?」
「平気だ。ブレードは夜会に出席していて忙しい。」
つまり、彼の目を盗んで来たということか。
「でも、部屋の前には見張りの騎士が・・・」
「カイルが協力してくれている。」
「カイルが?」
どういう方法をとったのかは分からないが、どうやら今の時間沙樹の部屋の見張りを担当する筈だった騎士を別の場所に移動させたらしい。だが誰もいないと怪しまれるので、カイルが見張り役を買って出たのだという。つまり彼が見張りの間だけ、ヴァンはここにいることが出来るという訳だ。
「・・夜会に出なければいけないのは、ヴァンも一緒でしょう?」
沙樹は今までと違い正装しているヴァンを見てそう言った。
今日はこの別荘で近隣の貴族たちを招いた夜会が開かれている。そのお陰でメイド達も忙しく、早めの夕食を済ませた沙樹の部屋には彼女達の姿はない。時計を見れば夜会は既に始まっている時間だ。主賓はブレードだとしても、当然第二王子であるヴァンが参加しない訳にはいかない筈なのに。
「あちらにはすぐに戻る。それよりも、お前は大丈夫なのか?」
「え?」
「体調を崩して医者を呼んだと聞いた。」
ヴァンはそっと沙樹の黒髪を一房掬う。本当ならその肌に触れたい所だが、今は艶やかなそれに触れることで自分を慰めた。
「えぇ。でも大丈夫です。お医者様から薬を貰っているし、一時的なものみたいだから。」
「そうか・・。寝ていなくて平気か?」
「うん。ここ最近寝てばかりいたから、むしろ眠れなくて退屈なくらい。」
ヴァンはちらりとソファに置かれた読みかけの本に目を落とす。暇を持て余しているのは本当のようだ。だが、その原因はこの屋敷に閉じ込められていることにある。つまりはブレードを止められなかった自分のせいなのだ。
「・・・すまない。」
「謝らないで。」
ヴァンが目を戻せば、彼女は柔らかく微笑んでいた。
「シンガー・・」
「誰が悪いわけでもないもの。」
「だが俺が・・・。いや、もっと俺に力があればお前にこんな思いをさせることはなかった。」
自分がブレードを説得出来たかもしれない。疑惑を晴らせなくともここから出してやることくらい出来たかもしれない。第二王子という中途半端な立ち位置と責任。それに見合う力の無さにはいつも苦しめられる。
戦争の放棄を訴えた時もそうだ。目の前の小さな犠牲に目を瞑ってでも、国の将来を見据えることが出来る者でなければ国の指導者は務まらない。戦争で戦っている騎士も兵も国のための駒なのだ。ヴァンは内務の者達にそう責められた。
今まで彼女の前では話すことのなかった情けない自分の実情。それを聞いたシンガーは首を横に振った。
「それは違いますよ。ヴァン。」
「何?」
「だってヴァンの目の前で亡くなった人達は駒なんかじゃなかったでしょう?ヴァンが助けたいと思った人達皆に帰りを待っている人がいて、・・国のために死んでいい人なんて一人も居なかった筈だもの。」
「・・・・・。」
「誰かに傷ついて欲しくない、泣いて欲しくないと思う気持ちが間違っているわけないじゃないですか。」
一瞬ヴァンの表情が泣きだしそうに歪む。けれど最後に見せたのはこれまで見たこと無いくらい穏やかな笑顔。
「・・・ありがとう。シンガー。」
あの時は誰もそんなこと言ってくれなかった。いつだって彼女は自分が欲しい言葉をくれる。頑なな自分の心を優しく解いてくれる。ヴァンはそっと沙樹を抱きしめた。彼女は抵抗することなくその腕に収まる。それは色欲を含まない親しみを込めた抱擁だったからだ。
そんな二人をアムベガルドであるエマは傍観していた。正しくは監視、だが。
(ヴァンディス殿下はあの女が好きなのかしら・・・)
ブレディス殿下が警戒するような素性の知れない人間なのに?けれど最初からヴァンディス殿下は彼女のことを庇っていた。それ程の価値があの女にあるのだろうか。
シンガーが滞在している客室の隣の空き部屋から音も無くエマは忍び出る。夜会のために借り出されているのは彼女も同じだ。今日はずっと客人を監視していることは出来ない。仕方なく給仕の手伝いをする為に厨房へ向かう途中の廊下でエマは正面から声を掛けられた。
「やぁ。エマ。久しぶり。」
「・・・ご無沙汰しております。ランバード殿下。」
キラキラとした笑顔で挨拶してきたのは国王と同じ癖のある深いブラウンの髪をしたランバードだった。彼は側室であるルミア=コベントリーの第一子。今年二十歳になる王位継承権第三位の王子である。アムベガルドであるエマが仕えるべき人間だ。だが、いつもなら万人に向けられる笑顔が今の彼女にはない。
「今日も可愛いね。」
「ありがとうございます。殿下は会場へ行かなくて良いのですか?皆様お待ちですよ。」
「やだなぁ。この屋敷に来るんだったらまず君の顔を見なくちゃ。」
「ならばもう目的は果たしたのでしょう?早くしないとブレディス殿下に叱られますよ。」
「兄上なら怒りはしないさ。今頃賓客の挨拶に囲まれているだろうから。」
義務的な声で対応するも彼は機嫌を悪くすることも無く笑顔を向けてくる。何故か彼は数年前からエマをやたらと構いたがるのだ。彼女は溜息をつきたくなるのを我慢して、彼の顔を見返した。
「・・殿下も賓客のお一人でしょう。」
「いいんだよ。僕の目的は貴族への挨拶じゃなく君に会うことだもの。」
「・・・・・。」
エマはランバードが苦手だ。隠すことのない剥き出しの好意を向けてくる相手など今まで居なかった。彼の態度には裏があるのではないかと調べたこともあった程だ。結果何も見つからなかったが。
ランバードは彼女の手を取りそっと指に口付けを落とした。他のメイド達なら顔を真っ赤にして喜ぶ所だが、残念ながらエマにそんな様子は見られない。それもいつものことだ。ランバードはそっけない彼女の目を真っ直ぐに見つめて甘い声で囁いた。
「せっかく此処まで来たんだ。ゆっくり君と話がしたいな。」
「申し訳ございませんが、仕事がありますので。」
「相変わらずつれないなぁ。」
「会場まで騎士に送らせましょうか?」
「君が送ってくれるなら行くよ。」
気まぐれとしか思えないランバード殿下のわがままに、エマはとうとう堪えきれずに溜息をつく。
「はあ、・・・分かりました。」
「良かった。」
柔らかく握られている彼の手から自分の手を引き抜くと、エマはランバードの斜め前に立って会場まで移動した。彼は横に並びたがるがエマの身分ではそれは許されない。あくまで案内なのだ。そう彼に言い聞かせた。するとランバードは口を尖らせるが、そんなもの見せられてもエマが譲る筈も無い。
そのまま会場となっている大広間の前まで来ると、エマは一礼して踵を返した。
「それでは私はこれで。」
「待って!!エマ、これを。」
差し出されたのはオビランの花。小さく鮮やかな黄色の花弁が六枚の、可愛らしい花だ。ユフィリル西部に群生する花で、これまで差し入れだと菓子を貰うことはあっても花を贈られるのは初めてだった。
「・・ありがとうございます。」
差し出された花を受け取らなくては贈り主に恥をかかせることになる。エマはそう心の中で呟いて、その可憐な花を手に取った。
夜風の気持ちよさに惹かれ、ベランダから外庭に出たランバードは行き先も決めずにブラブラと散歩を始めた。冬の冷えた空気も酒を飲んで熱くなった体には丁度いい。周囲に客がいないのを良いことに、詰襟のホックを開けて首元を寛げる。空気の澄んだ星がよく見える夜だった。こんな時隣に愛しい少女がいてくれたらいいのに。そう思うが彼女に直接そう申し出ても断られるのは目に見えていた。何よりも仕事優先の彼女が一人抜け出し、ランバードの散歩に付き合ってくれるとは思えない。
ランバードも王の嫡子。本来なら護衛を連れずに出歩くことは許されないが、騎士達が警備している屋敷内なら平気だろう。何より王位を継ぐ可能性は薄く、自分の行動がそれ程問題になることも無い。
しばらく手入れされた庭を歩き屋敷の端まで行くと、聞きなれない音楽が耳を掠めた。
「?」
ここは夜会の会場からも離れている。何より聞こえてきたのは楽器の演奏ではなく女性の歌声。不思議に思って声のする方へ向かえば、二階の端の部屋に明かりが点いている。そして、その窓から顔を覗かせている黒髪の女性が見えた。
(誰だ・・・?)
彼女がいるのは客室だ。けれど客なら夜会に姿を見せないのはおかしい。今日のような忙しい夜にメイドがサボっているとも思えない。不審者ならば騎士に囲まれたこの屋敷であんなに無防備に歌を唄っている訳が無い。
好奇心には勝てず、ランバードは再び屋敷の中に入ると気付かれないよう静かに二階の階段を上がっていった。
“また会える明日を信じて さよならを言えない私を許して
まだ強くはなれない 一歩を踏み出せないでいる”
(ここだ。)
灯りと歌声の漏れる一室を見つけて、ランバードは眉根を寄せた。何故かその部屋の前には騎士が一人立っているのだ。こんな警備が必要な賓客が屋敷に滞在しているのだろうか。だが、先ほど会場で顔を合わせた時ブレードもヴァンもそんなことは言っていなかった。
隠されれば余計に見たくなるのが人の心情。腹を括ってランバードは扉の前まで行った。
「ランバード殿下。」
「やぁ。ご苦労さん。」
気付いた騎士が敬礼する。それに軽く返事をしてドアノブに手を掛けるが、騎士がそれを止めた。
「お待ちください、殿下。ここはブレディス殿下の許可が無ければお通しできません。」
(隠していたのはブレードの方か。)
顔には出さずにそう確認する。客の前だというのにいつにも増してヴァンが不機嫌だったのも、彼女が関係しているのかもしれない。ランバードは親しみを込めた笑みを浮かべた。
「大丈夫。ブレード兄上には許可を貰っているよ。」
「は、・・しかし・・・」
それ以上文句は言わせずに、少し強引にランバードは扉を開ける。いくらブレードに止められていようと一介の騎士が第三王子の言葉を疑うようなことを言える筈も無い。ランバードは失礼だと知りつつも、ノックをせずにその身を扉の向こうに滑り込ませた。