第五話 2.エマ(2)
沙樹は元の客室に戻され、朝昼晩と食事は一人でとった。扉の外には見張りの騎士が一人。この客室を出入りするのはもう笑顔を向けることのないメイドだけ。沙樹が客人であることに間違いはないので待遇は今までと変わらないが、現状は軟禁状態。自分の意思で散歩に出ることも出来ない。こんな生活がこれからずっと続くのだろうか。
夜の更けた部屋でランプの明かりを消し、沙樹は窓のカーテンを開けた。青い月光が降り注ぐ。そこから西に目を向ければ小さな白い月。
こんな日は日本語で唄いたくなる。けれど部屋の中に一人とはいえ、ドアの向こうには監視の人間がいる。この世界に存在しない言語など聴かれたらそれこそ余計に疑われ、追求されるに違いない。
(もっと慎重になるべきよね。)
この旅があまりに順調だったから気づかなかった。自分に声をかけてくれるのは何も表裏のない人間ばかりじゃない。そんなことあちらの世界でだって常識だ。
ヴァンやブレードのように地位がある人の傍にればそれだけで身分を改められる。それは彼らにとって必要な事なんだと分かってる。そうして自分達の身を守り、自分達の下にいる人達を守っているんだろう。
(でも、そうやって周囲の人達を精査していくのは寂しい。)
そうは思っても相手は国の要人。住む世界が違う。
(考えてもしかたないか。)
精査された結果、『ここ』に過去の無い自分は排除の対象になった。ある訳がないのだ。あの場でどう足掻こうと結果は同じ。命の危険がないだけマシなのかもしれない。
(今は、だけど。)
口元に浮かぶのは自嘲の笑み。窓に映ったその顔はかっこ悪かった。
『そういう顔止めたら?似合わないよ。』
不意に頭を過ぎったのは高校の友達、奈津子から言われた一言。就職活動をしている時、面接の際に孤児であることに色々と難癖つけられ落とされたことがあった。それを友人達に愚痴り、こればっかりは仕方ないよね、と笑った時に言われたのだ。言葉は乱暴だけれど、自分達の前では無理に笑わなくて良いのだと、そう教えてくれた言葉だった。
その時奈津子が好きだったドラマの主題歌が頭を掠める。友人関係、仕事、そして身内との確執。様々な人間関係に翻弄されながらも絆を深めていく恋人達を描いたヒューマンドラマに彼女は夢中になっていた。挿入歌として使われていた曲も好きで、彼女がカラオケで歌う鉄板の歌だった。それを元にしたバラードを酒場で歌ったこともある。ビビも気に入ってくれた曲。
立って月を見上げたままそっと歌う。想うのはあちらの世界の友人達。
“傍にいて欲しいよ ずっと言えなかったけど
言葉で伝えられたなら 涙なんていらないのに
また会える明日を信じて さよならを言えない私を許して
まだ強くはなれない 一歩を踏み出せないでいる
全てを投げ出す勇気が欲しい あなたの胸に飛び込む為の
その両腕が待っていてくれる それだけで強くなれる
傍にいて欲しいよ ずっと言えなかったけど
好きの言葉がこんなに遠い 抱きしめて欲しいだけなのに
傍にいて欲しいよ ずっと言えなかったけど
あなたの背中がもう見えない 涙はとっくに渇いてる
もう一度名前を呼んで 今度は迷わず飛び込むから
痛いくらい抱きしめて ずっとずっと離さないで
傍にいて欲しいよ 何度だって叫ぶその言葉
あなたへと真っ直ぐ続く その階段を駆け上がる
傍にいて欲しいよ 何も持っていなくていいの
その温もりがあるだけで 私の心が震えるから”
* * *
「あの人の歌は嫌いです。」
同僚の珍しい言葉にロードは書類を捲る手を一瞬止めた。
「それは自分の感情を乱されるからかい?エマ。」
「違います。」
ロードから目を逸らし、エマは八つ当たりのように彼の執務室の壁を睨んだ。嫌い、という言葉を口にした時点で十分感情を乱されているだろうに。そう思ったがロードは口にしなかった。
決して表舞台に現れない、王家を裏から支えるアムベガルド。その正体を知るのは王家とほんの一握りの人間だけだ。ロードやカイルのように。
身辺調査や王族の警護、果ては暗殺まで彼らは命じられればなんでもこなす。それはメイド服を着て目の前でふてくされている少女も同じ。美しい金色の髪、澄んだ青空のような目、陶磁のように滑らかな白い肌。まるで人形のように可憐な容姿をしているまだ十六歳の少女は、アムベガルドの一員として与えられた任務をこなす為に感情を殺す訓練を受けてきた。笑顔の裏ではいつも冷静沈着。余計な感情私情はいざという時判断を鈍らせる。それを十分叩き込まれているだろうに、そのエマでさえ心を乱された彼女の歌とはどんなものだろう。
「そんなに眉間に皺を寄せてはヴァンディス殿下のようだよ。」
「・・・じゃあ、止めます。」
自分が仕えるべき主君とはいえ、エマから見てもヴァンの不機嫌顔は酷いらしい。彼女は与えられる命に従順だ。その分性格は頑なで、仕事以外で笑った表情を見たことがない。若いのに勿体無いとは思うがエマの実家、イディア家は優秀なアムベガルドを排出している知られざる名家だ。幼い頃からこの仕事の極意を叩き込まれているのか、それとも元からの性格なのか。それはロードの知る所ではない。
「それ以外に、彼女に何か変化は?」
「何も。」
「そう。」
「鷹は・・・」
「うん?」
「シロだって。」
「そうか。」
率直に頷くと、エマは意外そうに大きな目を更に丸くしてロードを見返した。
「信じるんですか?」
「それを調べるのが我々の仕事だろう。」
「・・・・。」
「彼とは仲良くしないとダメだよ。エマ。」
「それは命令?」
「いや。お願い。」
「じゃあ嫌。」
ぷいっと顔を背け、エマはそのままロードの執務室を出て行ってしまった。こんな時ばかり子供の顔を見せる。そんな部下の態度に苦笑して、ロードは再び書類に目を落とした。
エマは恋を知らない。それは任務に不必要であるとアムベガルドの長が判断したからだ。感情は時に目の前にある事実を捻じ曲げ脚色する。一瞬の隙も許されない場での判断を鈍らせる。幼い頃からそう教わってきた。だから皆が寝静まった深夜。隠れるようにして唄っているあの客人の曲は意味が分からない。
(疑われているのに暢気に歌なんて唄って、馬鹿な人。)
理解できないことは嫌いだ。だからあの歌もあの人も嫌い。なのにどうしてヴァンディス殿下もカイルも彼女を庇うのだろう。
ヴァンディス殿下は彼女に会うことを許されていない状況下で尚もこの屋敷に留まっている。ブレディス殿下への抵抗からか、共に視察へ行くことは止めた。ならばここにいる意味などないというのに、彼女の身を案じて屋敷から離れられないでいる。
カイルは何故か彼女を気に入っているらしい。人の心を覗くことなど出来ないのに、彼女が自分の味方だと言って憚らない。あの自信はどこから来るのやら。元々理解できない点の多いカイルの考えなどエマに分かる筈もない。大体あの男はブレディス殿下の絶対の信頼得ているのに対し、自らは殿下に忠誠を誓っていない。王家へ全てを捧げるべき騎士団に席を置いているのにも関わらずだ。
(なんて傲慢な男。)
だから嫌いなんだ。自由奔放な行動、言動。けれど忠誠を誓い、その身も心も全てを捧げているアムベガルドよりも両殿下の近い位置にいるという事実。
(さっさと自分の騎士団に戻ればいいのに。)
今胸を占めている苛立ちが嫉妬なのだということもエマは知らない。誰も教えてくれないからだ。そんな感情を表に出すこともなく、彼女は叩き込まれた優美な姿勢で廊下を歩きながら、捕らわれの客人の下へと向かっていた。
「どうぞ。」
ノックに返答があったことを確認してから扉を開ける。その横には騎士が一人。彼らは交代でこの部屋の前に立ち、彼女が屋敷から勝手に出て行かないよう監視している。一礼してエマが中に入ると何故か彼女はほっと息を吐いた。疑問に思ったが、すぐにその答えに思い当たる。彼女は今や殿下の沙汰を待つ囚人のようなもの。いつ自分に刑の執行が言い渡されるのか分からない。そんな心境なのだろう。部屋に入ってきたのがメイド一人だけだと分かって安堵したに違いない。
「お茶をお持ちいたしました。」
「ありがとうございます。」
彼女は物腰が穏やかだ。この屋敷に招かれた当初は賓客としての扱いに激しい抵抗を見せていたものの、慣れてきたのか今はそんな様子はないし、客人だからと横柄な態度を取る事もない。ティーセットと菓子を載せたワゴンを押しながらローテーブルの前に行き、手際よくその用意をしながらエマは気付かれぬよう彼女を観察した。
シンガーという名前は珍しい。通常偽名を使用するのであればまず平凡な名前を選択する。アムベガルドに所属する人間の名前がそうであるように、人々の記憶に残らないことが重要なのだ。その点だけを考えれば彼女はシロに近い。
けれど彼女の態度。殿下に疑われ、その身を拘束されているのにも関わらず、屋敷の者達への態度は以前となんら変わりがない。もしも冤罪なのだとしたら人間はもっと怒りや悲しみの感情を持つ筈だ。彼女の穏やかな声や表情はどこかこの現状を受け入れているように、覚悟を決めているように見える。ならばやはりクロだろうか。
ポットからティーカップに注がれるお茶を見ていた彼女の口から不意に欠伸が漏れる。彼女は慌てて手で口元を覆うが、エマは別段気に留めなかった。何故なら夜彼女を監視しているエマは欠伸の理由を知っているからだ。深夜眠らずに歌を口ずさんでいるのだから寝不足にもなるだろう。眠れないのは何故なのか。疑われている今の状況を悲観しているのか、それとも夜に抜け出す機会を窺っているのか。
「どうぞ。」
「いただきます。」
ティーカップと菓子の入った皿を並べ、エマはワゴンごと後ろに下がった。一人だけのティータイムなんて寂しいことだ。けれど軟禁状態の今はそれも仕方がない。
エマは彼女の挙動一つ一つを見逃さないよう、けれど視線に気づかれないように上手く彼女を視界に収めた。彼女はまずティーカップを持ち口をつけた。少し息を吐いた後、クリームの載った焼き菓子に手を伸ばす。それを口元に運ぼうとして・・・その手が止まった。
「?」
行儀が悪いと知っていながらも彼女は一旦手にした菓子を皿の端に戻した。その手がお腹に当てられる。そこをさすっているようだ。
「どうかしましたか?」
その行動をいぶかしんで傍に寄るが口を開かない。エマがソファに座る彼女の足元に膝をついて顔を覗き込むと、その表情は何かに耐えるように歪んでいた。
「シンガー様?どうしました?御加減でも・・・」
「ごめ・・、なさい。ちょっとだけ・・痛・・・」
唇を噛み締めて痛みを訴えるその言葉に、エマの起した行動は早かった。まず彼女をソファに寝かせ、扉に前に立っている騎士に医者の手配を頼んだ。彼女が口にしたお茶の匂いを嗅ぎ、次に人差し指を浸けてひと舐めする。だが毒は入っていない。エマが淹れたのだから当然だ。外傷もないし毒を盛られたのでもない。ならば病気か。
彼女が着ていたブラウスのボタンを外し、首元を楽にしながらエマはあらゆる可能性に頭を巡らせた。自作自演のかもしれない。そう思ったが、彼女の顔色や額を流れる汗を見るとそうだとは思えない。顔を赤くすることや汗を流すことはある程度の訓練を積めば出来る技だが、急に顔色を青くする事は遥かに難しいのだ。
バタバタと部屋に近づいてきた足音が聞こえ、エマは扉に向かった。先に中から開けると、入ってきたのはロードとこの屋敷かかりつけの医者だった。
「エマ。彼女の様子は?」
「腹痛を訴えています。急激な痛みというよりは、じわじわと刺すような痛みようです。手で押さえている場所からすると胃の辺りだと思うのですが。」
「そうか。先生、お願いします。」
「はい。」
高齢の医者が彼女の元に駆け寄るのを視界に納めながら、ロードはテーブル傍に移動した。そこに置かれていたのは一人分のティーセットと菓子の乗った皿。胃痛を訴えているのなら当然疑わしきは食べ物である。けれどそれを用意したのはエマだ。いくら客人を疎んでいても、アムベガルドである彼女がそんな愚かなことに手を染める筈がない。ならば厨房の者か、もしくは・・・
「彼女が口にしたのはお茶のみです。」
エマの言葉にロードは顔を上げた。
「中身の確認は?」
「しました。ですが問題はありませんでした。」
「そうか・・。」
彼女の症状がどれだけのものかは分からないが、これがヴァンディス殿下に知れたら厄介なことになる。ロードは深く溜息を吐いた。
「心因性の胃炎ですな。」
告げられた医師の診断を聞いて、沙樹は溜息を吐いた。要はストレスが原因の胃痛ということだ。サラリーマンが仕事のストレスでよく陥る症状だった気がする。
(ストレスか・・・)
覚えのない罪で拘束され、最小限の人としか接触しなかったこの数日間は思ったよりも沙樹の心にダメージを与えていたらしい。その事実に驚くと共に情けない気持ちで一杯になる。するとそんな心の内を察したのか、白髪の医者は沙樹を労わるような優しい目を向けた。
「先ほどあなたの境遇については聞きましたよ。仕方のないこととは言え、医者としてはこの環境にいつまでもいることは賛成できん。屋敷の者にはあなたの食事と投薬について指示をしておきますが、気分転換に庭を歩くぐらいのことが出来る様話をしておきましょう。」
「はい。ご面倒おかけします・・。」
「それが儂の仕事なんだ。面倒なわけがない。」
垂れた目を細めて笑うその姿はなんだかほっとするものだ。沙樹もつられて笑みを見せるが、動いたと同時に胃が痛んだ。それを表情で察した医者の眉間がわずかに寄る。
「まずは薬を飲んでゆっくり眠りなさい。心と体は繋がっておる。上手く心が休まらない時は無理にでも体を休めた方がいい。少しはマシな筈だ。」
「はい・・。」
差し出された粉薬と水の入ったコップを見て体を起した沙樹は一瞬怯んだ。粉薬は苦手なのだ。けれどそんな子供のようなこと言っている場合ではない。なんとか粉薬を口の中に納めて水で流し込むが、その苦味にむせてしまった。
「ゴホッゴホッ。」
「大丈夫ですか、シンガー様。」
ロードの大きな手が優しく沙樹の背を撫でる。言葉に出来ないので何度も頷きながら横になった。それを見た医者は呆れた顔を向ける。
「何だ。粉薬も上手く飲めんのか。」
「・・すいません。」
「だがこれが一番効く。しばらくは我慢して飲むように。」
「・・・・・はい。」
複雑な立場にいる殿下の客人。そう知っていても遠慮のない医師の態度は沙樹にとって心地よい他人との触れ合い。
立ち上がった医者に沙樹が再びお礼を言うと、ロードが客室の扉を開けた。
「シンガー様。エマを置いていきますので、何かあれば彼女にお申し付けください。」
「はい。ありがとうございます。」
沙樹は横になったまま二人を見送った。部屋に残されたのは沙樹とエマというメイドの二人だけ。彼女はこの屋敷で最も若いメイドだった。人形のように可愛らしい容姿をしているので、沢山いるメイドの中でも比較的沙樹の覚えが早かった顔だ。
彼女はテーブルからティーセットを片付けていた。
「エマ、さん。」
「何でしょう?シンガー様。」
「すいません。お医者様を呼んでくださってありがとうございました。」
「いえ。当然のことをしたまでですから。」
そう言って彼女は笑顔を見せた。事務的な笑顔だなと、ついこの前まで会社勤めしていた沙樹は思う。そうこうしている内に他のメイド二人がやってきて、ティーセットの載ったワゴンを運び出す。エマはロードの言った通り部屋に残り、けれど沙樹の休息の邪魔にならぬよう部屋の隅に控えた。自分の部屋に家族でも友人でもない誰かがいるのでは落ち着かない。それでも連日の寝不足と薬の助けがあって、沙樹はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
(心因性、か・・・。)
王家を脅かすような情報を掴み、それを流して誘拐の手伝いをするような者がなる病気だろうか。エマは沙樹の顔色の悪い寝顔を見ながらそう思った。
彼女が屋敷に来て早々に荷物を調べたが犯罪組織に繋がるようなものは見当たらなかった。着替えを手伝った時に観察した体には特別鍛えたような部分も見当たらず、古傷も刺青もない。旅をしているせいか貴族の令嬢達とは違って少し日焼けしているぐらいのものだ。どう見てもただの一般人にしか見えない。
けれど過去の痕跡がない、というのがどれだけ異常なことなのかエマも知っている。酒場で歌を唄い生活費を稼いでいたというが、この歌姫の過去には一体何があるのだろう。
(何者なの、あなたは・・・)
胸の内だけで零れたその呟きに応える者はどこにも居なかった。