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第五話 2.エマ(1)

 目に入ったのはワインレッドの天蓋。数分それをぼーっと眺めた後、沙樹は寝返りを打った。閉まったカーテンの隙間から朝の光が零れている。サイドテーブルの上の置時計は起きるにはまだ少し早い時間を指していた。もう少し寝ようかそれとも起きようか迷っていると、ベッドの端に投げ出された小さなノートが見えてそれに手を伸ばした。


「あ・・・・」


 昨夜の出来事を思い出して体を起す。だが、ベッドの上には沙樹しかいない。そこから降りて広い部屋の中を見ても、もうヴァンの姿はなかった。沙樹が寝ている間にここから出たのだろう。


「ヴァン・・・。」


 パラパラとノート捲る。最後のページにはヴァンへ贈る筈だった曲の歌詞。


(どうしよう。これ・・)


 歌は作らなくていい。そう言われてしまった。同時に告げられた傍にいて欲しい、という言葉が蘇る。

 確かに曲が完成すればそれを披露して此処を去るつもりだった。けれどヴァンは一つ勘違いしている。沙樹がこの屋敷に留まっている理由は二つ。一つは今明確な旅の進路が決まっていないこと。そしてもう一つがこの歌が完成していないこと。完成していなくてもヴァンが要らないのなら、ここに居る理由はないのだ。


(どうして私なんだろう・・)


 出会ってからまだ数週間。ヴァンに関して知らないことの方が多い。彼が抱えている悩みの本質をまだ知らない。いや、知らないフリをしているだけなのかもしれない。思い当たる節はあるのだ。沙樹が誘拐された時の男達の非難の言葉。アンバとの同盟。ヴァンの仕事をサボるくせ。そして彼が抱えている孤独感。そこに踏み込まないのは深入りしてはいけない、と理性が告げているからだ。必要以上の情を持てば近い内に訪れる別れが辛くなる。

 コンコンッとノックの音がして沙樹はノートから顔を上げた。それを自分の荷物の中にしまい返事をすると、扉を開けたのはメイド頭のマーニだった。


「おはようございます。シンガー様。今日はお早いですね。」

「あ、おはようございます。」

「お着替えをお手伝いしましょうか?」


 ふと自分の夜着に目を落とす。そしてぎょっとした。胸元が昨夜ヴァンにくつろげられたままになっていたのだ。そこから覗く胸の間、白い肌の上には彼が残した痕がついていた。


「いえ!大丈夫です。適当にクローゼットの中のものをお借りしますから。」


 慌てて胸元を隠しながらそう言うと、マーニは表情に何も出さずに言葉を続ける。


「そうですか。朝食まではまだお時間がありますから、お茶でもお淹れしましょうか?」

「あ、じゃあ、お願いします。」

「かしこまりました。」


 一礼して彼女が部屋から出ると、沙樹はほっと胸を撫で下ろした。胸元が見られてしまったかどうかは分からないが、さっさと着替えようと動き出す。


(心臓に悪いわ・・・)


 はぁぁぁと深く長い息を吐いて、顔を洗う為に洗面所へのドアを開けた。



 着替えを終わらせてお茶を待っていると再び扉がノックされる。顔を出したのはマーニだが、彼女はその手に何も持っていなかった。


「申し訳ございません、シンガー様。」

「どうかしたんですか?」

「朝食の前に、ブレディス殿下がシンガー様を部屋に呼ぶように、と。」

「・・・そうですか。」


 何の用だろう。こんな早い時間から人を私室に呼ぶのは多分普通じゃない。


「分かりました。部屋まで案内してもらえますか?」

「かしこまりました。」


 おかしいな。そう思った。朝一番に会った時と違ってマーニに笑顔はない。それが嫌な予感を呼ぶ。


(もしかして、昨夜のことで何か・・・)


 部屋の中には沙樹とヴァンしかいなかったとはいえ、この屋敷には使用人も多く、ヴァンには護衛もついている。彼が深夜に忍んで来たとしても、この部屋を訪れたことがバレない方がおかしい。

 ヴァンは正当な王位継承権を持つ王子。それがどこの馬の骨かも分からない女に現を抜かしていては問題にもなるだろう。二人が恋仲でないにしても、一晩共に過ごしていてはそれを言った所で信じてもらえるかは分からない。先ほどマーニに胸の痕を見られていたなら尚更だ。

 沙樹は困惑しつつ部屋を出て、マーニと共にブレードの部屋へ向かった。






 開けられた扉から中へ入ると沙樹は目を見張った。ブレードの私室には彼だけではなく、ヴァンやカイルもいたからだ。


「おはようございます・・。」

「おはよう。シンガーさん。適当に座ってくれて構わないよ。」


 ブレードに促されて沙樹は一人掛けのソファに腰を下ろした。正面にはブレードとヴァン。隣にはカイルがいる。沙樹が座ると同時に中にいたメイドがお茶を用意してくれた。それらが終わり、マーニ達が部屋から退出したのを確認すると、やっとブレードが口を開いた。


「朝早くからごめんね。少し、君には訊きたいことがあって。」

「はい。何でしょう?」


 ブレードの顔を見ながら沙樹は頷く。今はヴァンの顔を見ることが出来なくて、変に緊張しながらブレードの質問を待った。


「シンガーさんの旅の目的地はピノーシャ・ノイエ?」

「えぇ。そうです。」


 その話はロードとしている。ブレードが知っていてもおかしくはないのだが、何故今更そんなことを確認する必要があるのだろう。


「元々は城下から真っ直ぐ北上しようと思ってたんです。」


 ヴァンとカイルの二人と共に城下町まで行き、そこからヌーベルまで最短距離を移動しようと思っていた。けれど思わぬ事件に巻き込まれ、今はこのお屋敷でお世話になっている。


「そう。でも城下の真北は山岳地帯だ。例え馬を持っていても突っ切るのは難しい。北の港へ行くのなら東側から迂回した方がいいだろうね。」

「そうでしたか。」


 此処に来て飽きるほど地図を眺めたが、そこまで考えていなかった。東へ迂回するのならここに来たのも無駄ではなかったのだ。頭の中で地図を描いていた沙樹にブレードは少し真剣な顔を向けた。


「ここで冬を越しますか?」


 思わぬ提案に沙樹は目を丸くした。


「え?」

「ユフィリルはもう冬の季節に入っています。これから北へ向かうとなればより寒さは厳しくなる。」

「でも・・・」

「アンバと違ってここの冬は厳しいですよ。」


 沙樹はユフィリルの冬を知らない。雪深い地ならば確かに移動は難しいだろう。けれど前に進まなければ、という焦りがあった。少しでも早くピノーシャ・ノイエに行きたい。少しでも早く元の世界に帰りたい。沙樹は膝の上でぎゅっと手を握った。


「とてもありがたいお誘いなんですが・・・」

「先を急いでいるんですか?」


 沙樹は無言で頷いた。


「そう。行くんですね・・・。」


 そう呟いたかと思うと、途端にブレードの目が変わった。先ほどまでの笑みはなく、その視線はどこか冷たい。


「では急いでいる理由は何です?」

「え?」

「少しでも早くここを出たいのは、何か後ろめたいことがあるからでは?」


 何を言っているんだろう。そう思った。後ろめたいことなんて何もない。けれどブレードの目はどこまでも冷えていて、沙樹を突き放すようだった。


「・・どういう意味ですか?」

「コヴェルでの事件に裏で意図を引いていた者がいることが分かってね。」


 思わずヴァンの顔を見る。けれど彼も知らなかった事実ようで、同じく驚きの表情でブレードを見ていた。


「おい、どういう事だ?」

「ヴァンの身近に情報を売った者がいるんだ。君がコヴェルにいるってね。」


 その時ヴァンの頭に浮かんだのは『彼女がいればカモフラージュになると思った』というカイルの言葉。カイルだってただヴァンを迎えに来たわけじゃない。彼は護衛でもあるのだ。いつでもヴァンの身の回りの危険に気を払い、第二王子の身分を隠す為にシンガーとの同伴も許した。けれど事件は起こった。あの事件に協力者がいたのならそれも頷ける話だ。けれど――


「だからって、その話をシンガーにする必要がどこにある。」

「あるさ。彼女が・・・」

「内通者かもしれない。」


 ブレードとヴァンが同時に沙樹を見る。最後の言葉は彼女自身が発したものだった。


「そう思っていらっしゃるんですね?」

「・・あぁ。そうだよ。」


 沙樹の表情から温度が消える。

 あぁ、そうだ。どうして忘れてたんだろう。身内も後ろ盾も友人もいない。守ってくれる人は誰もいない。この世界に私は独りなんだ。大切な人たちは皆あちらの世界にいる。此処には、いない。


「シンガー?」


 様子が変わった沙樹をヴァンは愕然と見返した。何故否定しないのだとその表情が告げている。一方ブレードはそんな弟の表情を痛ましげに見た後、冷めた表情に戻って沙樹を見た。


「君には色々と訊きたいことがある。」

「どうぞ。」


 沙樹は逃げずに真っ直ぐ彼を見返した。けれど内心は静かな怒りと不安で一杯だった。ここで言葉を間違えれば、自分は冤罪を被せられるかもしれない。


「君の出身地は?」

「分かりません。」

「サンドの町へ来る前はどこにいた?」

「分かりません。」

「君が記憶喪失だというのは本当か?」


 そこでヴァンが息を飲んだのが分かった。アンバでは記憶喪失ということになっていた。けれどヴァンとカイルの二人にそのことは話していない。自分は調べられたのだ。記憶喪失のことを知っているのなら、恐らくラングの教会のことも調べているのだろう。


「本当です。」


 ユフィリルの人間がわざわざアンバまで行って自分のことを訊いて回ったなら、きっとラング達は心配するだろう。悪いことをしてしまったな、と思う。


「何故ピノーシャ・ノイエへ向かっている。」


 その質問の答えはもう出ている。ほんの少しの苛立ちと共に沙樹は息を吐いた。


「・・その答えは今殿下がお聞きになったでしょう。」

「何?」


 どこから来たのか。どうやってサンドの町に行ったのか。


「それを私も知りたいからですよ。」

「シンガー・・?」


 不安に瞳を揺らすヴァンの表情が目に入る。沙樹はそれに力なく微笑んだ。記憶喪失以外は全て本当のことだ。これ以上、沙樹に言えることなど何もない。だが今の答えでブレードに沙樹の全てが伝わるわけもなく、彼は厳しい目を向けた。


「悪いが身柄は拘束させてもらう。牢に入れるつもりはないが、客室からは出られなし、監視がつく。何か言いたいことは?」

「いえ、何も。」


 今までもメイドが常に傍にいたのだ。今更監視が付いたとしてもそう変わらない。それにあれほど豪華な部屋から出られないくらいなら大して不便でもない。彼らの前で自分を『証明』出来ない以上、疑われるのは仕方がないと腹を括った。


「連れて行け。」


 その命令と同時に扉の向こうに控えていた騎士二人が姿を現した。沙樹は大人しく彼らについて行く。腕を拘束されるようなことはないものの、前と後ろを騎士に挟まれ、部屋を出た。背中の向こうから聞こえてきたのは、ヴァンの怒鳴り声。


「ブレード!!!彼女を離せ!!」

「ダメだ。お前も聞いただろう。彼女には不明点が多すぎる。これ以上お前の傍に置いておくわけには行かない。」


 そうだ。相手は第二王子。素性の知れない人間など近づくべきではないのだ。


(だからヴァン、そんな風に誰かを、自分を責めないでいいんだよ。)


 心の中だけでそう呟くがヴァンに届く筈もなく、沙樹は廊下を先へと進んだ。

 ただ一人、カイルだけが言葉を発することなくじっとソファに座っていた。

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