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第五話 1.痕跡(1)

 悪戯に投げられた小石は

 一体何を恨めばいいのだろう





 * * *


 沙樹はテラスに用意されたお茶に手をつけず、無意識に溜息を吐いた。テーブルの上に広げられているのはユフィリルを中心とした地図が載った本。アンバからヌーベルの港までの道筋を辿っては、その先の道が見えなくて溜息をつく。その繰り返しだ。

 ロードと話をしてから既に二日が経っている。沙樹はまだ城下から東にあるブレディス殿下の別荘にいた。旅の目的地であったマライヌ島へ行く手段がないと分かり、途方に暮れていたのだ。いつまでもここで世話になるわけにも行かないのは分かっている。けれど目的を失ったことは沙樹から未知の世界を旅する力を奪っていた。


(アンバに戻った方がいいのかな・・・・)


 ラングと子供達ならまた沙樹を受け入れてくれるだろう。そしてあの街で元の世界に帰る方法を探しながら生活をした方が沙樹としては安心だ。けど、それで本当に帰れるだろうか。このままピノーシャ・ノイエに近い土地を放浪しながら情報を集めた方が効率的かもしれない。それには危険も伴う、孤独も付きまとうけれど。

 答えの出ない疑問ばかりがぐるぐると頭の中を回る。溜息をつくと幸せが逃げる、なんて日本の言葉はすっかり頭の片隅に追いやられていた。気付けばメイドが淹れてくれたお茶はすっかり冷めてしまっている。日中だが曇りがちな今日は太陽がほとんど見えず空気は冷たい。淹れ直してもらうのも勿体無い気がして、沙樹は多少我慢して冷たいお茶を喉に流し込んだ。


「シンガー。」

「あ、お帰りなさい。」


 客室のテラスに顔を見せたのはヴァンだった。午前中からブレードと視察に出ていた筈だが、今帰ったばかりらしい。ヴァンが沙樹の向かいにある席に腰を下ろすと、いつの間にか後ろに控えていたメイドの一人が彼の前にティーカップを置きお茶を注いだ。淹れたばかりそれからは白く温かそうな湯気が立っている。


「今日は早いんですね。」

「あぁ。俺は大してやることもないからな。」

「カイルは?一緒じゃないんですか?」

「今ブレードの部屋に行ってる。」

「そう。」


 沙樹は再び地図に目を落とす。だが頭は働かない。ヴァンと何を話したらいいのかも分からない。


「何があった?」

「え・・?」 


 唐突な言葉に顔を上げる。すると自分を見るヴァンの真剣な目に、沙樹の顔から先ほどまで浮かべていた笑みが消えた。


「何、が・・?」

「誤魔化すな。この前から・・・、ロードと話をした後からお前の態度がおかしい。」


 気付かれていたのだ。人前ではいつも通り振舞っていたつもりだったけれど。ヴァンの口調は少し責めるような言い方だった。でも何て話せば良い?旅の目的は話せない。単にマライヌ島へ行きたいと言っただけで、ヴァンは納得してくれるだろうか。

 結局上手い言い訳が思いつかず、沙樹は彼から目を逸らした。


「そんなこと・・・」


 ない。そう言い終わらないうちにヴァンが席を立った。


「ヴァン?」

「ロードは良くて、俺には言えない事なのか?」

「え・・、ちが・・・」

「もういい。」

「ヴァン・・・」


 それ以上何も言わずにヴァンが客室から出て行く。バタンッとドアが閉まる音が聞こえた後、沙樹は今日何度目になるか分からない溜息をついた。


「シンガー様はピノーシャ・ノイエの出身なんですか?」


 鈴のように凛とした声。いつの間にか自分の隣に立っていたのは若いメイドの一人だ。彼女は沙樹に温かいお茶を淹れ直してくれていた。お礼を言ってそれを両手で包むように持つ。ヴァンとのやりとりが聞こえていただろうに、それには触れず他の話題を持ち出してくれたのは彼女なりの気遣いかもしれない。

 沙樹は力なく、口元だけで微笑んだ。


「・・・どうでしょう。」

「え?どういう意味です?」


 適当な街の名前を言って誤魔化すことも出来た。ピノーシャ・ノイエ出身だと言っても良かったかもしれない。けれど今はなんだか嘘をつく気にならなかった。


「確かめに行くんです。ピノーシャ・ノイエに。」

「・・・・・。」


 メイドはそうですか、と言っただけでその言動に怪訝な顔一つしなかった。あぁ、プロだな、と沙樹はそんな場違いなことを考えていた。






「帰った早々忙しないな。」


 視察から帰った所ですぐにブレードに呼び出され、カイルは執務室のソファにその身を沈めた。そもそもヴァンをここに連れてきたら第十騎士団に戻るつもりだった。だがシンガーが共に滞在しているのと、ヴァンが視察に付いてきて欲しいと言うのでまたここに留まっているのだ。おまけに視察を終えて自分に与えられた客室でのんびり休もうと思った所を呼び出されたのでは、愚痴の一つも言いたくなる。


「それで?何の用なんだ?」


 執務室の中にはブレードとカイルの二人だけしかいない。ソファの前のローテーブルには既に退室しているロードが淹れてくれたハーブティーが置かれている。だが正面に座ったブレードはそれに見向きもせず、真面目な顔をカイルに向けた。


「第十一騎士団から報告が上がってきたよ。」

「ヴァンを脅迫した奴らの?」

「あぁ。」


 普段人当たりの良い笑みを浮かべるブレードが冷めた目をしている。彼のこんな表情を見るのは初めてではない。カイルは嫌な予感がして、黙って続く言葉を待った。


「ヴァンがコヴェルの街にいるという情報を奴らに流した者がいるらしい。」

「相手は分かっているのか?」

「・・いや。情報屋を通してだった。互いに顔を見せないやり方で情報交換をする奴らだ。ヴァンの情報を売ったのが男か女かも分かっていない。」


 貴重なものや危ない情報ほど売る側と買う側が慎重になる。カイルが一度潜入捜査で入ったことがあるのは真っ暗な部屋の中で一言も発せず、紙に記した情報をやり取りするだけの店だった。他にも色々とやり方はあるのだろうが、互いに身分を明かさないことが絶対条件。バレればそこから足がつく可能性が高いからだ。


「一般国民だってヴァンの顔を知っている人間はいる。そこまで追うのは不可能だろう。」

「だが、それが身近にいる人物だったら?」

「何?」


 ヴァンの身近と言えば身内になる。だが城内には山ほど人間がいるし、王子ともなれば仕事に関わる人間の数を把握しきれるものではない。内部犯ならどれほど困難であろうとも突き止めなくてはならないが、それはカイルの仕事の範疇とはズレている。なら、今ここで自分に話す理由は何だ?それに思い当たってカイルは息を飲んだ。


「まさかお前・・・」

「彼女が敵ではないという保障はどこにもない。」

「シンガーを疑っているのか!?」


 非難の目を向けられてもブレードは表情一つ変えない。まるでそれが当たり前だと言わんばかりに。

 確かにシンガーはヴァンとカイルにとっては突然現れた旅の同伴者だ。だが最初に声を掛けたのも、同伴を申し出たのもヴァンからだった。彼女が意図したものではない。それはカイルの口からブレードにも伝えられている筈だ。けれど彼の考えはカイルとは違うらしい。


「彼女には不明な点が多すぎる。何故アンバからユフィリルに来たのか、君だって知らないんじゃないのか?カイル。」

「・・ヌーベルへ行くと言っていた。」

「成る程。ヌーベルか。先日ロードと話をしたいと言っていただろう。彼にピノーシャ・ノイエについて聞いたらしい。ヌーベルからピノーシャへ渡るつもりらしいな。」


 ユフィリルに滞在せず、ピノーシャ・ノイエに行くのが目的というなら尚更ヴァンとは関わりがない。それなのにブレードが彼女を疑う理由とは何なのだろう。話が見えず、多少の苛立ちを感じてカイルは怪訝な顔をした。


「それが、何か関係あるわけ?」

「彼女について調べたが何も出てこない。」


 意味が分からない。言葉にしなくてもカイルの表情はそう言っていた。怪しい点が何も出てこないなら疑いようがないではないか。それを察したブレードは息を吐き、部下から受けた報告内容をそのまま伝えた。


「彼女がアンバの孤児院に二ヶ月いたことまでは分かっている。けれどそれ以前の痕跡が全くない。どこで生まれたのか、どうしてサンドの街に来たのか。誰も知らないんだ。」

「・・・・。」


 カイルもブレードが言わんとしている事に気付いたのだろう。彼の表情が硬くなった。


「生きてきた痕跡を全く残さないなんて一般人には出来ない芸当だ。彼女は犯罪組織に関わっている可能性が高い。教会の紹介状を手に入れる為にサンドの孤児院に転がり込んだ、というのが僕の見解だよ。カイル。」


 二人の間に沈黙が流れる。ブレードは何も言わずにカイルの言葉を待っていた。しばらくした後、カイルは険しい顔のまま溜息をついた。


「・・ヴァンには言えないな。」

「だから君だけに話をしている。」

「この事を知っているのは俺とお前だけ?」

「この屋敷では。」

「彼女のことを調べたのは近衛か?」

「いやアムベガルドだ。」

「!?お前・・・」


 黒の契約者(アムベガルド)とは決して表に姿を現さない、裏の仕事を引き受ける者達のことである。護衛から政務まで王家の命があればなんでもこなす。カイルも極一部のアムベガルドとは仕事を共にしたことがあるので顔を知っている者もいるが、ユフィリル王家に一体何人のアムベガルドが仕えているのかは知る術もない。彼らの力ははっきり言って未知数だ。騎士団とは求められる能力があまりに違う。王家に仕える者達の中でも異質な存在である。その彼らを使ってまでシンガーを調べ上げたということは、ブレードは本気で彼女を疑っているのだ。

 続く言葉を失ったカイルを見て、ブレードは言葉の勢いを落とした。


「・・やり過ぎだと思うか?」

「止めはしないさ。それがお前だ。」


 どれほど周囲に反対されても、ブレードはヴァンのためなら何でもやる。例えそれがヴァン自身の意思に反しようとも。ヴァンが兄を苦手な理由はそこだ。反発心もあるが愛ゆえだと知っているから強く出られないのである。付き合いの長いカイルだからこそ、それを良く分かっていた。


「・・ありがとう。カイル。」

「だが、俺の考えとは別だからな。」


 彼の行動を責めはしないが、それは彼の出した結論に賛同しているからではない。間髪入れずにそう言うと、ブレードはそれまで纏っていた重い空気を消して、きょとんとした顔で見返した。


「君は、ここまで言っても彼女を信じられるの?」

「勿論。」

「どうして?」


 カイルに彼らしい笑みが戻る。その時頭にあったのは、シンガーがカイルのリクエストに応えて唄ってくれたあの歌だった。



“いつまでもいつまでも 僕はこの歌を唄おう

君から貰った心を胸に 前に進むと決めたから”



「あの子が俺の味方だからさ。」


 あの歌を聴いて、シンガーはかつての想い人をカイルがどれだけ大切にしているか分かってくれている、と思った。二つ名を与えられているとは言え、カイルには味方の数だけ敵も多い。真面目とは言えない勤務態度も、二つ名を与えられたことへの嫉妬の念も、彼が同性愛者であることもその要因である。だからその全てを知っても尚、カイルの為にあの曲を選んでくれた、唄ってくれた沙樹の心を信じようと思うのだ。

 ブレードは納得していない顔を向けるが、カイルは微笑んだままやっとティーカップに手を伸ばすのだった。

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