第四話 1.トラファ
目の前の愛しい人を運命だと嘆くのは
現実という檻の中へ足を踏み入れる勇気に変わる
目の前のその道を運命だと笑うのは
己が臆病者であることを認める瞬間に他ならない
* * *
“大地揺れる 大いなる喜び
大気震える 勇敢なる足音
さぁ行かん 御旗の元に 太陽の加護は王の剣
さぁ行かん アシアの印 御身を守るは銀の盾”
青空の下、沙樹の口から流れるのはアンバで広く知られている昔の英雄を称えた歌だ。エド達と旅をしている時に客からリクエストがあったのがきっかけで覚えた歌で、子供から大人までアンバの国民に人気の曲だった。
城下に近いコヴェルという街に立ち寄った沙樹達はたまたまそこで開かれていた大道芸のイベントに足を止めた。飛び入り参加可能なそれに興味を持ったカイルが勝手に沙樹の出演を決めてしまったのだ。集まった街人達の前にしぶしぶ立った沙樹がアンバから来た歌い手だと自己紹介した所、この曲のリクエストがあったのである。
出演を渋っていた割りに、唄い始めれば堂々としたものだ。そんな沙樹の姿を他の観客達と混じって遠くから眺めているヴァンに、隣にいたカイルは何気なく声を掛けた。
「歌の続きが聞きたいと言ったのは本音?」
一瞬、ちらりとヴァンの目がカイルに移される。けれどそれはすぐに沙樹の元へ戻された。
「本当だ。俺は、あの歌に救われた。」
「救われた?」
酒場で聴いたあの曲の前半部分、理想ばかり追っている、怯えてばかりで一歩を踏み出さない臆病さを表現している歌詞を聞いた時には自分のことを言い当てられているようで寒気がした。優秀な兄の影で何も出来ない無力な自分。まさしく自分のコンプレックスが見透かされていると思った。けれどサビの部分。それでもいいと、そのままの自分で良いんだと唄ったあの歌詞にヴァンは救われた気がしたのだ。
「そう。」
それだけ言うとカイルは珍しく口を閉じた。もっと深く突っ込まれるのではないかと思っていたヴァンは意外そうにカイルの横顔を見る。
「何?」
「いや、別に・・」
「君はもっと自分の事を話せばいいのに。」
目線を逸らしたヴァンに向かって、カイルはわざと聞こえるように目の前で溜息をついた。それを聞いたヴァンはムッと口を歪める。
「お前がオープン過ぎるんだ。惚気話なんか聞いた所で面白くも無い。」
「あれはシンガーが聞きたいって言ったんだろ?それに君も大人しく横で聞いてたじゃないか。」
「・・・お前が運命だと騒いでいたあの男のことなら知っている。」
「そりゃそうでしょ。今は俺より君の方がずっと会う機会が多いんだから。」
「あんな抱いても硬そうな奴のどこがいいんだか。」
「だからいいんじゃないか。柔らかい感触の男なんてただの贅肉の固まりだ。俺はごめんだね。」
そう言ってカイルは肩をすくめる。その姿に何となく毒気を抜かれて、ヴァンは口調を緩めた。
「違いない。で、結局あいつはお前の運命ではなかったわけか?」
「いや、運命だったよ。」
そう言い切るカイルの思考が理解できず、ヴァンは眉根を寄せる。
「でもフラレたんだろう?」
「何も結ばれるだけが運命の相手じゃない。彼との出会いは人生を変えるほどのものだった。それは間違いなく俺にとっての運命だと思うね。」
「・・・・・。俺には分からん。」
「そうかな?シンガーは君にとって運命ではないの?」
「あの娘が?」
「『救われた』んでしょ?」
確かに救われた。けれどそれは彼女に?それともあの歌に?
皆の前にいるシンガーを見る。国境でたまたま出合った旅芸人。黒髪に黒い目、そして象牙色の肌。真面目で素直に人に対して頭を下げることが出来るひねくれた所の無い性格。大人しいかと思えば興味を持ったものに目を輝かせて勝手にいなくなる。年下に見える容姿のくせに酒に酔ったヴァンを気遣ったりする。彼女と一緒にいる時間はとても短い筈なのに、思い出される事柄がやけに多くてヴァンは無意識に苦笑した。今までこんな女性はヴァンの周りにはいなかった。その事に気付いてしまったのだ。関所を抜けたあの日、歌の続きを聴きたいと言ったのは、もしかしたら単に彼女ともう少し一緒にいたいと思ったからなのかも知れない。いや、多分本当はそのことにずっと前から気付いていた。けれど素直じゃなかった自分の心がそれを認めようとしなかっただけなのだ。
「・・そうかもな。」
自嘲するように言うヴァンを見て、カイルは少し硬い表情に変わった。
「シルフィーナ嬢との見合いが一月後だったね。今回君が逃げ出したのはそれが理由?」
それを聞いた途端にヴァンの顔が不機嫌なものに変わる。
「逃げてなんか・・・」
「ヴァン。君のは甘えだ。」
「っ・・。」
「どうするのか、城下に着くまでに決めることだね。」
そこで会話が途切れた。再びシンガーに目線を戻したカイルに対してヴァンは何も言い返せずに拳を握る。そんなことは勿論分かっている。そう言いたかったけれど、それは単なる言い訳だと自分でも分かっていた。
大勢の人達からの拍手に応えて手を振ったシンガーは次の大道芸人と交代にその場を離れた。イベント主催の人達にねぎらいの言葉を掛けられ挨拶をして、ヴァン達の下へ戻ろうと観客達の間をすり抜ける。多くの人でごった返す中でキョロキョロと辺りを見渡しながら歩いていると、ぐいっとその腕を引かれた。
「ヴァン?」
背の高い男性に腕を取られたまま人ごみを抜け出す。だが、そこで沙樹は息を飲んだ。広くなった視界に入ってきた相手の男性はヴァンでもなければカイルでもない。見知らぬ人物。多くの街人と同じ綿製のシャツとスラックス。こげ茶色の髪に細い顎が印象的な神経質そうな中年男性。
「あの・・」
「お前、ブッツ・トラファ・ヴァンディスの女だな。」
「え?」
硬い声で言われた言葉。けれど知らない単語が出てきて沙樹は意味が分からず戸惑った。『ヴァンディス』はもしかしたらヴァンのことかもしれない。けれど『トラファ』とは聞いたことが無い。ヴァンの苗字だろうか。
「トラファ・・・?」
聞き返すと男はフンッと鼻を鳴らした。
「なんだ。トラファが分からないのか。余程の田舎者だな。トラファってのは国王の子息の事だよ。お嬢さん。」
ブッツは二番目。そしてトラファは国王の子息。つまり、
(ヴァンが、ユフィリルの第二王子?)
ならば以前カイルが言っていたヴァンの兄、ブレードは第一王子ということになる。突然突きつけられた事実だったが納得のいくこともあった。ヴァンが王子なら二つ名を持つほどの実力者であるカイルがわざわざ国境を越えてまで迎えに来る意味がある。
「・・私はただの同伴者よ。」
この見知らぬ男の目的は沙樹ではなくヴァンディス王子なのだ。とっさに沙樹は掴まれた腕から逃れようとするが、いつの間にか彼の仲間が集まっていた。すぐに両腕を後ろ手に掴まれ五・六人の男達に囲まれてしまう。
「ただの、ね。お前が殿下とどんな関係だろうと、見知らぬ女を傍に連れて歩くわけが無い。殿下にとってお前にはそれなりの価値があるはずだ。」
つまり沙樹の身柄と引き換えに彼らは何かをしようとしている。それが分かってもこの状況下では既に逃げ出すのは難しい。それでも沙樹は震えそうになる体を叱咤して、目の前の中年男を睨み付けた。ヴァンが本当に王子なのか今は分からない。けれどこの男達の目はどこまで真剣で、そして暗い。それが嘘だとは思えない。
「あなた達が言っていることが本当なら、尚更ヴァンの、トラファ・ヴァンディスの命を危険に晒してまで私を助けに来るはずが無いわ。」
「・・・それはやってみなくては分からないだろう。」
「ちょっ・・」
あっという間に両手を縛られ、口に布を噛まされる。無理矢理帽子と大きなコートを着せられ、抱えられるようにして沙樹は荷車に押し込まれた。
「誘拐?」
その言葉と共にヴァンの表情が硬くなる。戻った宿の部屋でヴァンにそれを告げたカイルは何度彼のこの顔を見ただろうか、そう思った。
「・・間違いないのか?」
「これ。」
カイルが差し出したのはメモ程度の小さな紙。歌は終わったのに戻ってこないシンガーに気付いた二人が探しに行こうとした所で小さな男の子がカイルに渡したものだ。知らないおじさんに渡せと言われた、と言っていたそのメモには安っぽい青く変色したインクで書かれた殴り書きの一文があった。
‘歌姫を返して欲しくばヴァンディス王子一人で謝罪に来い。モラーデンの泉’
「そういうことか・・・」
ぐしゃっと強く握られた拳に小さな紙は握りつぶされる。怒りと共に震える拳が木製のテーブルに叩きつけられ鈍い音を立てた。
「くそっ!」
「・・ここから一番近いのは十一だな。俺が連絡を取ってくる。ヴァン、お前はここから動くなよ。」
ヴァンの怒りが分かるからこそ、何も言わずにカイルは踵を返す。だが返事をしない彼が気になり、ドアノブに手を掛けた所でもう一度振り返った。
「聞いているのか?ヴァン。」
「俺が行く。」
想定内の言葉だ。カイルが昔から知っているヴァンなら責任を感じてカイルの言う通り自分だけ安全な場所にいようとはしないだろう。それは『あの時』もそうだった。
だから眉一つ動かさずカイルはそれを否定した。
「ダメだ。立場をわきまえろ。お前が行けば騎士団は守るものが二つに増える。」
「・・・。」
ヴァンが唇を噛む。自分よりも八歳も年下の男。けれどその両肩に抱えているものは遥かに大きく、自分が守るべき存在でもある。だからカイルは真実のみを口にする。
「いざとなったら騎士団はシンガーよりお前の命を優先する。分かるな?」
「・・・。」
ヴァンの拳に更に力が篭る。握ったままだったドアノブを回したカイルを止めたのはヴァンだった。
「カイル・・。」
「・・何?」
「どうしてシンガーの同伴を許した。」
歌の続きを聴きたい、と言ったあの言葉。あれは素直になれないヴァンの精一杯の誘いの言葉だった。当然あんな言葉ではヴァンの意図などシンガーに伝わるわけが無い。ヴァンの考えもシンガーの当惑も分かっていて、彼女が自分達と一緒に来るよう促したのはカイルだ。
カイルは少し目元を緩めた。
「彼女がいればカモフラージュになると思った。それを逆手に取られるとは思わなかったけど。」
ヴァンに敵は多い。彼が第二王子というだけで。彼を取り込んでも、その命を盾に取っても国家を動かせる。味方だろうと敵だろうと彼と関わるだけで大きな力を得る事となるのだ。だが、今回の犯人の要求はそうではなかった。“謝罪”という言葉がその全てを示している。だからこそ、ヴァンは自らの責任をより感じているのだろう。
カイルはいつものように笑ってヴァンを見た。
「大丈夫。騎士団の連中が何と言おうと必ず彼女は助けるよ。」
「・・頼む。」
「任せて。俺は異端児だからね。」
パタンッとドアが閉められる。遠ざかっていくカイルの足音を聞きながら、ヴァンは拳の中で潰れた紙くずを床に投げ捨てた。
* * *
沙樹は自分でも驚くほど冷静に周囲の様子を見渡していた。今彼女がいるのは古い小屋の中。街から外れた森の中に建てられたもので、長い間放置されていたのだろう。中は埃だらけだった。そこに夕暮れのオレンジ色の光がヒビの入ったガラス窓から降り注いでいる。
沙樹を拉致した男達はここには居ない。一人は見張りとして表にいるが、他の数人はここに着くなりどこかへ行ってしまった。いつになるのか分からないけれど、その内戻ってくるだろう。彼らの目的がヴァンへの恐喝だとしたら、ここに彼を呼ぶのか、それとも沙樹を彼の元へ連れて行くかする筈だから。
後ろに回され縛られた手をごそごそと動かす。しばらくするとスルリと片手が縄から抜けた。
(できた!!)
一年前、会社の忘年会の為に先輩社員と一緒に練習した縄抜けだ。マジックに使用される縄抜けの方法にはいくつかある。沙樹は彼らに縛られた時、とっさに両手首の側面をつけ、横にしていたのだ。手を抜く時は手のひら同士を合わせるように手首をくっつければ隙間が出来てそこから手を抜くことが出来るのである。
(結構子供だましな方法なんだけど、意外と縛ってる方も気付かないものなのよね。)
もう片方の手も縄から抜いて縄の結び目を解く。次に足の縄をギリギリまで緩めた状態にして、今度は一度解いた縄を手首に上手く巻きつけた。そのまま拳の中に縄の端を握りこめば結んでいないのに手首が縛られているように見えるわけだ。
勿論縄を全て解いてこの小屋を出ることが出来れば一番いい。けれど一つしかない入口には見張りがいるし、窓から出てもすぐにバレてしまうだろう。地理の分からない沙樹ではすぐに捕まってしまうのがオチだ。そうなれば縄抜けなど出来ぬようきつく拘束され、監視も厳しくなる。ならば確実に逃げることが出来るまで機会を伺わなくてはならない。
生きて元の世界に帰る為には、こんな所で失敗するわけには行かないのだ。
(ヴァンとカイル。大丈夫かな・・・)
自分でも言った通り、自分と彼らは先日知り合ったばかりのただの同伴者だ。沙樹がこうなった以上無視するような人達でないとしても、王子であるヴァンの身を考えれば彼本人が取引に応じる訳がない。カイルもいるし、警察の役割をしているユフィリル騎士団の人が助けに来てくれるのかもしれない。
(王子、か・・・。)
増々物語のようだな。そう思うとなんだか笑えてくる。本当ならただの高卒OLなのに、一国の王子と旅をしていたなんて言っても誰も信じてくれないだろう。おまけに拉致され人質に取られるなんて、三文芝居もいい所だ。でも、だからこそ冷静でいられるのかもしれない。現実ではない物語のようだから、どこか第三者のように外側から眺めている気分なのだ。誰も自分の名前を呼んでくれないこの世界でシンガーという人物を演じているのであって、『沙樹』という登場人物はここに存在しない。だって『沙樹』は地球の、日本に住むただのOLだから。
そう思えば思うほど、冷静になると同時に虚しさが胸の中に居場所を作る。段々と大きくなるそれはぽっかりと空いた穴の様で、沙樹は寒気を感じてその身を震わせた。