第二話 3.国境(1)
サンドを出てから二週間。沙樹達はモスカという街にいる。ここから国境は目と鼻の先で、それを今宿屋一階の食堂でエド達に説明してもらっている所だ。
エドの長い指がアンバの地図の上を滑っていく。その指が止まったのは、ここモスカだった。
「俺達が今いるのがここ。そんでこっから行ける国境は二つある。」
「二つ?」
「そう。見ての通りアンバの北部は小国が隣接してる。モスカから近いのはバハールとユフィリルのどっちかだな。どっちもこの街からなら一時間もかからずそれぞれの国境まで行ける。」
バハールとユフィリル。どちらも聞いたことのある国の名前だ。あれは確か、ラングの授業で聞いたのではなかっただろうか。
「もしかして、バハールとユフィリルって三年前まで戦争してた国?」
「そ。その辺りは知ってるんだな。」
「うん。ラングさんの授業で教わったから。」
そうか、と言うとエドは何やら考えるように顎に手を置いた。
「なら、どうやって戦争が終わったのかも教わった?」
「うん。ユフィリルがこの国と同盟を締結したって。」
「そう。だから当然アンバから入国するならユフィリルの方が安全だと思う。どっちの国も戦争から随分経つし、それほど危険はないと思うけど、やっぱり女一人じゃ心配だしな。」
一人、という言葉にドキッとする。けれど最初から沙樹は一人で行くと決めていた。今まで一緒にいてくれた三人と別れることに不安はあるが、目的地が違うのだ。一人で行かなくてはならない。
不安そうな表情を浮かべる沙樹にビビは笑って見せた。
「大丈夫さ。ユフィリルって国は元々争いごとを好まない穏やかな気性の人が多くてね。王城の政権も安定しているし、治安も悪くない。バハールに隣接している村や街は被害も大きくて復興には時間が掛かってるみたいだけど、反対の東側の土地は昔とそうは変わらないよ。商業主義のこの国と違って所々に王国騎士団が警備に付くお堅い国だけど、だからこそ安全も保障されてる。結果的に戦争に負けた形になったバハールに行くよりはユフィリルの方がオススメだよ。」
「うん。ありがとう。ビビ。」
やっと沙樹に笑顔が戻る。それを見てエドは一つ頷いた。
「よし、決まりだな。明日は朝から出発してユフィリルの国境まで行こう。あそこは入国するのに関所の奴らが結構小うるさいけど、それを越えさえすれば大丈夫だから。」
「うん。」
明日には三人と別れることになる。それを思うと再び下を向きそうになるが、沙樹はその想いを表に出さずに立ち上がった。
「エド。ちょっといいかい?」
「あ、あぁ。」
それぞれの部屋に戻ろうと立ち上がった所でエドはビビに呼び止められた。一瞬ちらりと沙樹が振り返るが、ダルトに促されて階段を上がる。エドが再び席に座り、二人の姿が見えなくなった所でビビが真面目な顔を向けた。
「あの子と一緒に行くのは止めておきな。」
前置きの無い唐突な言葉。けれどエドにはその意味が分かった。何も言わずともビビは見抜いていたのだ。いや、それはここにいないダルトも同じなのだろう。国境で別れる予定の沙樹と共にユフィリルへ行くかどうかエドが本気で迷っていることに。
「・・別に俺は」
「でも、迷ってるんだろ?このままシンガーと別れるのかさ。」
「・・・。」
言葉を返せないエドを見て、ビビは一瞬目線を彼から外す。今まで言わずにおいた言葉がある。けれど言わなければダメか、と嘆息した。
「記憶が無いって言ってるけど、あの子は多分、自分の帰るべき場所を知ってるよ。」
「え?」
「小難しいことはアタシには分かんないけどさ。」
ビビが偶然聴いた、沙樹が一人夜の教会で唄ったあの歌。本当の歌詞を聴いたのはたった一度だけれどそれを今でもしっかり覚えている。確かにあれはアンバでも、この周囲の隣国でも使用されている言語ではなかった。記憶が無い、という彼女の言葉がどこまで本当かは分からないが、少なくともおぼろげな記憶から引き出されたのとは違う、しっかりとした歌声だった。あの言語が使われている場所が、彼女の行くべき旅の終着点なのだろう。それが見えている彼女がエドといつもまでも一緒にいるとは思えない。
「人の色恋に口を出す気は無いけどさ、でもまだ本気じゃないんだろう?」
「そうかもしれない。けど、」
「らしくないよ、エド。」
「・・・分かったよ。」
ビビはそれだけ言うと席を立った。自分の言葉を聞いたエドの表情はいつも笑顔の彼には似合わないものだったけれど、彼をその表情にさせたのは自分だけれど、それでも言わなくてはいけなかった。それに後悔は無い。
ビビが階段を上がっても、エドが席を立つ気配は無かった。
「眠れないのか?」
「あ、お帰り。」
「・・・。ただいま。」
時刻はもう深夜。今夜の営業はなかったから、エドは適当な店に呑みに行っていた。明日は朝からここを出る。てっきり今日は早めに寝ているかと思ったのに、呑んで帰ってきたエドを備え付けの椅子に座っていた沙樹が出迎えた。窓辺に椅子を移動して外を眺めていたようだ。今夜は彼女の顔を見たくなかったのに、見事にその期待は裏切られてしまった。
エドの足が自然と沙樹の元へ向かう。何も言わずに傍に来たエドの様子がいつもと違うことに気が付いて、沙樹は座ったまま彼を見上げた。
「エド?」
ふわり、と香るのは彼がよく口にするラバ酒の匂い。触れてはいないのに、あまりに近い距離のせいで空気越しに彼の体温が伝わってきて落ち着かない。居た堪れなくなってもう一度彼の名前を呼んだ。
「エド?どうしたの?」
「・・・本当に」
「え?」
ぼそり、と呟いた声が聞き取れない。彼らしくない低く、暗い声が沙樹を不安にさせた。エドの目がまっすぐ自分に注がれている。
「本当に一人で行くのか?」
亜麻色の目がいつもとは違う色を含んでいる。それが自分を責めている気がして沙樹は目を逸らした。
「・・・うん。」
「そう、か。」
すっとエドが離れていく。けれど沙樹には掛ける言葉がなかった。彼は何も言葉にしないけれど、どこか苛立っているのを感じたのだ。
亜麻色の髪を束ねている紐を外すと乱暴に髪をくしゃくしゃとかき混ぜ、エドはそのままベッドに突っ伏した。沙樹は窓にかかったカーテンを閉め、自分も静かにベッドの中で横になった。