第二話 2.喧嘩(1)
順調と言えば順調だと思う。アメイジング・グレイスの要領で曲のレパートリーも増えていき、客前で歌うことに慣れてきた沙樹は連日エド達と共に興業に回った。イベントごとが無ければ多いのが酒場での営業で、そうなるとやはり終わるのは深夜過ぎになる。今まで孤児院の子供達と共に規則正しい生活を送っていた沙樹にとってはこれが中々の体力勝負で、唯一順調でない事と言えた。明け方近くまで客に付き合う三人についていけず、毎夜先に宿屋へ戻ることになる。申し訳ないな、と思いつつも疲労と睡魔には勝てず、今日もベッドへ直行したのだった。
明かりのない部屋のドアが静かに開く。自分より先に部屋へ戻った沙樹が眠っていることを承知しているので、同室のエドは毎回足音を忍ばして部屋に入る。ドアを閉めて上着を脱ぐと、一息ついてベッドに座った。決して高級ではない宿屋のベッドがギシッと音を立てる。慣れた手つきでブーツを脱ぎ捨て、サイドテーブルの上に用意されている水差しに手を伸ばすと、気持ちよさそうな寝息を立てている沙樹の横顔が視界に入った。
(おいおい・・・)
そこでやっと沙樹が布団も掛けずにベッドの上で丸くなっていることに気付いた。今までの疲労の蓄積もあるのだろう。着の身着のままで眠りこけている姿は初めて見る。エドはそっと近づくと沙樹の肩をゆすった。
「シンガー?布団も掛けずに寝たら風邪引くよ。」
「・・ん。」
起しては可哀想だと思うのだが、彼女がどいてくれなければその下敷きにされている掛け布団を使用することが出来ない。けれど全く起きる様子の無い彼女の寝顔を見て、思わずクスリと笑みが漏れた。
自分のベッドから毛布を取ってやろうと思った所で、指にさらりとした絹のような感触が触れてその動きを止めた。そちらに目線を落とせば、肩に置いた自分の手の甲に彼女の黒い髪がかかっている。その感触に惹かれ、普段弦を弾く長い指を絡ませれば艶やかな髪がさらさらと落ちていく。同時に触れる首筋の肌は柔らかく温かい。髪を掬い、流れるに任せて下に落ちていくのを見つめる。それを繰り返している内に止まらなくなり、沙樹が寒そうに体を丸めていることも忘れて、その指を頬に滑らせる。たどり着いた先は薄い桃色をした唇。そっと人差し指でそれに触れれば、驚くほど柔らかで弾力のある感触に心臓が跳ねる。
(可愛いなぁ・・・)
起きている時はあんなに警戒心が強いのに、一度眠りに落ちてしまえばこの有様。自分の理性を試しているのかと罵りたくなるが、目の前の彼女はそんなことなど微塵も思っていないだろう。見るなと言われれば見たくなる。触るなと言われれば触りたくなる。それが人の性というものだ。普段警戒されている分、無防備な姿に近寄りたくなるのもまた人の性だろう。いや、男の性か。
そんなことを頭の中で言い訳しながらもエドの手は止まらない。客に付き合い呑んだ酒の勢いもあって、指ではなく唇でその白い肌に触れたくなりぐっと身を屈めた。けれどそこで思わぬ邪魔が入った。
「エド!!!」
「うわっ!!なんだよ!」
バンッと思い切り大きな音を立ててドアを開けたのはビビだ。彼女は猫目をさらに吊り上げて部屋に入ってくる。いつもは綺麗に束ねられている金髪も今は彼女の感情を表すように振り乱れていた。
「アンタ隣の部屋に行きな!!アタシが此処で寝る!!」
「はぁ?何なんだ、急に。」
まさか自分がシンガーに手を出そうとした所を見て怒っている訳ではないだろう。むしろ面白がってもっとやれ、と言いそうな彼女なのだ。だがすぐにその理由に思い当たってエドは溜息を付いた。
「兄貴と喧嘩でもしたのか?」
「・・・・。」
「したんだな。」
「だって、アタシばっかり・・」
「ハイハイ。分かったよ。今日の所はどいてやるから、明日には仲直りしとけよ?」
いいとこだったのに、と心の中で文句を言いながらも荷物を持って部屋を出て行く。その後姿にビビが声を掛けてきた。その顔には先程まで怒っていたとは思えないほど嫌な笑みを浮かべている。
「エド。」
「・・なんだよ。」
「邪魔して悪かったね。」
「っ!!うるせぇ!!」
やはり見られていたのか、と思うと同時に羞恥心を掻き立てられ、再び乱暴な音を立ててドアが閉められる。ただでは転ばない主義のビビは動揺するエドの行動にクククッと喉を鳴らして笑った。すると、もぞっとベッドの上の沙樹が動いた。
「・・・あれ・・。ビビ?」
「あぁ。ごめんね。起しちまったみたいで。寝るんなら着替えてちゃんとベッドの中に入りな。」
二度も大きな音を立ててドアを開閉されれば起してしまうのも無理はない。目を擦りながら緩慢な動きで沙樹は体を起した。
「どうか、したの?」
「ちょっとね。今日はエドと部屋を交換したんだ。」
「そうなんだ。」
「エドの方が良かったかい?」
「ううん。ビビと一緒の方が、気が楽でいいもの。」
(おやおや、可愛そうにねぇ。)
貧乏くじを引かせてしまったエドにちょっと同情しながらビビは苦笑する。まぁ、それでも男として意識されているだけマシなのかもしれないが。
すると沙樹は隣の部屋と繋がった壁をちらりと見た。
「ダルトと喧嘩でもしたの?」
「!?」
付き合いの長いエドならともかく、沙樹に言い当てられるとは思わずビビは素直に驚いた。
「どうしてそう思うんだい?」
「だって、それくらいしかビビがこっちに来る理由が思い当たらないもの。」
「・・・。まぁ、喧嘩というか、あの男は怒らないからアタシが一方的に怒ってるだけなんだけどさ。」
ビビはエドのベッドまで移動すると、乱暴にその上に体を投げ出した。
「恋人同士って言ったって、一方的にアタシがつきまとってるだけなんだし。」
「え?でも・・・」
「そうなんだよ。」
沙樹の目が何か言いたげに泳ぐが、ビビはそれを遮った。同情の言葉など今は聞きたくない。それよりも沙樹には自分の話を聴いて欲しかったのだ。年下の娘に愚痴を零すなんて姉御肌のビビには情けなく感じられるが、今日くらいは勘弁してもらいたい。ビビは体を横にして向かいのベッドの上に座る沙樹の顔を見ると、昔を思い出して目を細めた。
「ダルトとエドはさ、最初から二人だけで旅をしてたんだ。もう二年前になるかな。二人がアタシのいた店に立ち寄ってね。その時初めてダルトと顔を合わせたんだ。」
「店って?」
「ディバイロさ。」
「ディ・・バイロ?」
聞いた事のない単語に首を傾げると、「あぁ」と納得したようにビビは一つ頷いた。
「そうか。教会にいたんじゃそんな言葉耳にしないよね。ディバイロっていうのは女が男の客に体を売る店のことだよ。そこで働く女をディーナって言うのさ。」
ディバイロ。つまり娼館。それが分かって目を見開いた沙樹に、ビビは卑下するわけでもなく笑って見せた。
「元々アタシは娼婦だったんだ。」
「そうなの・・。」
ビビが悲しんでいるわけでも嘆いているわけでもないのだから、沙樹が顔を曇らせるのはおかしい。そう思った自分の表情が一体どんな顔をしているのか分からずに、ただビビの言葉を待つ。
「別に借金のカタに売られたとかそんなんじゃなくてさ。母親が娼婦だったもんだから、アタシはそこで育ったんだ。学もないから当然ように同じ職に就いたわけだけど、別にいつ抜け出しても良かった。単にその理由がないだけでね。けど、そこにあの二人が来た。」
ビビも先程の沙樹と同じように壁の向こうを、いやそこにいるであろうダルトの方を見た。
「アタシは店の一階にあるホールでダンスを披露していてね。その楽師にと三日間だけあの二人が呼ばれたんだ。店のオーナーが声を掛けて連れてきたらしい二人の演奏は素晴らしくてね。アタシもすぐに二人に興味を持った。そこで、ダルトに一目ぼれ。」
「一目ぼれ?」
「そう。おかしいだろ?散々男に体売ってきた女がさ。今更一目ぼれなんて。」
そう言って苦笑するビビに向かって、沙樹は首を横に振る。
「人を好きになるのに職業とか、そんなのは関係ないよ。」
「・・あぁ。ありがとね。ダルトもそう言ってくれたんだ。」
そういったビビの目はとても穏やかで、嬉しかったんだろうな、と沙樹は思った。当然経験がないので娼婦の仕事を知っていても気持ちは理解してあげられない。無理矢理その職についたのではないにしても、普通の男女のような恋愛を望むことはやはり難しいのだろう。恋をして店を抜けたって娼婦という仕事に対しての偏見や差別はどこにでもあるだろうから。その差別意識を持たないダルトの優しさは魅力的だと思う。それは言葉だけではないのだと、沙樹だって思いたい。
依頼された三日が経って、二人はビビのいた娼館を後にした。そのまま街を去ってしまうのだと知ったビビは店を抜けて無理矢理二人について行ったのだという。それからはダンサーのビビを加え、三人で旅をしながら芸を披露するようになったのだ。
そこまで話を終えると、ビビは目線を下げてぽつりと零した。
「アタシはダルトを好きだけど、ダルトは違う。」
「そんなこと・・・」
「ダルトは一度もアタシを好きとは言わない。多分自分に付きまとってここまで来ちまったアタシに同情してるんだろうさ。・・・優しい男だから。ダルトはアタシを突き放せない。」
いつも快活な笑顔で艶やかなダンスを披露するビビがここには居ない。沙樹の目の前にいるのは恋愛に打ちひしがれ、体を小さくして震える一人の女性だった。
「ビビ・・・。」
「アタシもそれを分かってて利用してるんだ。まぁ、お互い様って所さ。でも、割り切っていてもやっぱり時々爆発しちまうんだよね。今日みたいにさ。」
本当にそうなのだろうか。いつもダルトがビビに向けているあの優しい目は、愛しさからくるのではなく単に同情なのだろうか。男女の恋情も庇護の情も紙一重。その境は当事者ではない沙樹に見分けはつかない。ビビは同情だと言っているけれど・・。
「ビビは、本当にダルトが好きなんだね。」
「・・あぁ。愛してる。」
さりげなく彼女の赤い唇から紡がれた言葉にドキッと沙樹の胸が鳴った。『好き』ではなく『愛している』。それは今まで沙樹が口にしたことのない言葉だ。 高校のバンド仲間の一人、圭太と付き合っていた頃、恥ずかしいので数回だけではあるけれど『好き』と口に出した事がある。けれど『愛している』とは随分かけ離れた感情だった。未だそれを経験していない沙樹にとってそれは随分と大人な言葉に思える。どうしたら『愛している』と人前で堂々を言える程、人を好きになれるのだろう。
沙樹はその後ビビに何の言葉も掛けることが出来ず、ベッドの中へ戻るしかなかった。