第二話 1.四人(2)
* * *
「そんじゃ、おやすみ。」
「へ?」
そう言って宿の一室に入っていったビビとダルトを沙樹はポカンとした顔で見送った。
今夜取った宿は二人部屋が二つと聞いている。当然ビビと沙樹、ダルトとエドという部屋割りだと思っていたのに沙樹はエドと二人、廊下に取り残されてしまった。
「シンガー、何突っ立ってんの。ほら、こっち。」
ぐいっとエドに腕を引かれて入った部屋はビビ達の左隣の部屋。そこでエドは自分の荷物を入口側のベッドの脇に置いていた。当然のように部屋へ入った彼らについていけず、沙樹は恐る恐るエドの後姿に声を掛ける。
「あ、あの・・・。エド?」
「ん?どうしたの、さっきから。」
「いえ、あの。ビビとダルトは・・・」
部屋の入口に立ったまま動かない沙樹に首を傾げたが、エドは問われた内容に素直に応えた。
「言ってなかったっけ?あの二人は恋人同士なんだよ。だから部屋が一緒なワケ。」
あぁ、成る程。そう言って納得しそうになった沙樹は慌てて頭を振った。
「いや、それはそうかもしれないんだけど、でもそうじゃなくて・・・」
「何。どうしたの?」
「ビビとダルトが同室なのは分かったけど、・・・ここは?」
ビビ達が恋人同士なのは分かった。ならば同じ部屋であることは自然なのだろう。けれど残されたエドと沙樹はそうじゃない。するといつまでも沙樹が部屋に落ち着こうとしない理由が分かって、エドはにやりと笑った。
「何?同じ部屋じゃ不満?」
「いや、不満って言うか・・」
「それとも俺と一緒じゃ身の危険を感じる?」
上着を脱いで乱暴にベッドの上に放り投げると、エドは笑みを消して沙樹に近づいてくる。それが分かって慌てて後ずさった。けれど入口に立っていた沙樹の後ろは閉められたドアがあるだけ。それ以上の逃げ場は無い。
エドは腕を伸ばしてカチリとドアの鍵を閉めると、その手を沙樹の顔の横に突く。覆いかぶさるようにエドが顔を近づけてきて、沙樹は思わず眉根を寄せた。
「ちょっと・・・」
「期待してるなら、ご要望通りにしようか?」
「何も期待なんかしてません!!」
顔を真っ赤にした沙樹がそう言って睨みつけると、エドは何故か嬉しそうに破顔した。
「アハハハハッ。可愛いね、シンガー。」
「わっ!」
くしゃくしゃっと沙樹の頭を撫でたかと思うとエドは素早い動きで彼女の頬に唇で触れ、そしてさっと離れた。
「ま、俺達と旅をしている限りはしばらく同室だから我慢してよ。じゃ、おやすみ。」
頬に残った唇のやわらかい感触。何が起こったのか分からず唖然としている沙樹を見て満足そうに微笑むと、エドはさっさとベッドに入ってしまった。
「もう・・・。」
エドが女性の扱いに慣れているのは分かっている。サンドの青空市でも随分と女性客の注目を集めていたし、その仕草や言葉も女性に対する気遣いに慣れているのが伺える。そんな人を相手に一々その態度を気にしていてはこちらが気疲れしてしまうだけだろう。
沙樹はやっとドアの前から動くと、荷物を置いてベッドに突っ伏した。
花屋の手伝いで稼いだ給金で買ったのは紙を紐で括っただけの簡単なノートとインクペン。それを使ってアメイジング・グレイスの歌詞をつらつらと書いていく。勿論エド達に見られてはまずいのでこちらの言語で。
今彼らは自分達の芸を披露できる場所やお店を探しに出かけていていないのだが、沙樹は曲を考えておけと言われて大人しく留守番していた。昨日この街に着いた時にはもう夕暮れ時で、街を見て回ることが出来なかったからついて行きたかったけれど仕方がない。しばらくここに留まると言っていたからまだチャンスはあるだろう。
沙樹は手元のノートに書かれた歌詞を上から下まで何度も眺めて、うーんと唸った。どうしても宗教的な意味合いの強いこの歌はあまりこの国で披露するには向かない気がするのだ。教師でもあり神父でもあるラングから教わったのだが、この国の神という存在はキリスト教などと違い唯一絶対の存在ではない。太陽・大地・森や川などあらゆる自然の中に宿る魂のことを指し、それらに感謝を捧げることで人と自然との共存関係を保つことが出来る、という考え方なのだ。あらゆる物の中に魂が宿ると言うのは日本古来の八百万の神やアメリカのインディアンの考え方に近い。日本にいた頃から宗教に馴染みのない沙樹にとってはこちらの方が理解しやすい宗教観だ。
(そういえば・・・)
その時ふと、昔の映画を思い出した。キリスト教の賛美歌をくだけた曲にする為に神を恋人に置き換えて歌った映画。やはりここでも客に受けるのは恋愛を綴った歌だというから、それなら良いかもしれない。
一つ一つの歌詞を自分の唄い易い言葉に変えながら、曲の節と合わせていく。きっかけが掴めるとその作業はすいすい進んだ。
(こんなもんかな。)
本物はもっと長い曲だが、客の前で披露するなら歌詞を覚えなくてはならない。適度な所で止めにするとペンを置いて歌詞を再度見直す。一度部屋のドアを振り返り、ちゃんと閉まっていることを確認すると、小声で出来たばかりの歌詞を曲にのせた。
“両手一杯の愛を 与えてくれたあなた
悲しみに傷つけられ 下を見ていた私に
見失った光 失くした温もり
今は確かに この腕の中にある
その笑顔だけが 私を導く
未来という名前の 果てない道へ
昇る朝日に照らされて 私は唄うこの歌
ずっとあなたがこの手を 取ってくれるから”
最後の音を伸ばしきるのと、パンパンパンッという乾いた音が部屋に響くのは同時だった。
「エド!」
驚いて入口を見ればそこには手を叩いているエドがいる。彼は笑いながらドアから離れると荷物を置いて、沙樹が座っている備え付けのテーブルの向かいに腰を下ろした。
「いいね。それがビビお気に入りの曲?」
「うん・・。どう、かな?本当はもっと堅苦しい歌詞なんだけど、優しい言葉に代えてみたの。」
「いいと思うよ。恋人の愛に救われた女性の歌って感じで。聴いていて分かりやすかったし、綺麗なメロディーだった。」
「良かった。」
ほっと溜息をつく。結果的に不意打ちの披露となってしまったが、改まって皆に聞いてもらうよりは緊張しなくて良かったのかもしれない。
「でももっと練習しなくちゃね。歌い慣れていない歌詞だし。」
「なら俺が伴奏してやるよ。」
そう言って立ち上がると、エドは自分の楽器を取りにベッド脇へ向かう。当然のように布のカバーから取り出したガッシュという弦楽器を見て沙樹は目を丸くした。
「聴いたばかりの曲なのに、できるの?」
「ちょっと、プロを舐めないでくれる?同じメロディーの繰り返しだから出来るさ。ま、練習は必要だけどね。」
そう言って軽く弦をはじくと、再び席に戻る。指慣らしの為に滑らかな動きで何度か弦を鳴らすと、エドはガッシュから顔を上げた。
「じゃ、音を覚えるから、もう一度ゆっくり唄ってみて。」
「うん。」
今度は先程よりも腹に力を入れて歌いだす。木造の宿屋ではやはり大きな声は出せないが、出来る限り本番に近くなるよう音程に気を使って歌う。ガッシュの優しい音の響きが自分の声を混ざり合うのは、まるで元の世界で仲間達とセッションをしていた頃のような、久しぶりの心地良い感覚だった。
* * *
(みんな、元気かなぁ・・・)
沙樹は一人、明かりの消えた宿屋の一室で夜空を見上げながらそんなことを思った。
今日初めて客前で披露したアメイジング・グレイスは中々好評で、今の所その一曲しかレパートリーがないのだが、それでもアンコールを貰い三回歌った。初めての緊張とあいまって疲れの見えた沙樹にビビ達が先に上がっていいよと言ってくれたので、その言葉に甘えて一人先に宿屋に戻っているのだ。
今は深夜少し手前。ビビ達は後三時間ほど戻ってこないと言っていたから先に寝ても良いのだけれど、疲れた体に反して中々心は落ち着かない。沢山の客から浴びた拍手の興奮と、頭に浮かんだ元の世界の思い出とで瞼はなかなか落ちそうに無かった。
高校の頃、音楽が好きだった沙樹は友達と一緒に軽音部に所属していた。吹奏楽にも興味はあったのだが、楽器を買うお金がないのと友達の勧めでそちらに入部したのだ。ほとんどがコピーバンドだったが逆に知っている曲ばかりで面白かった。友達は沙樹の歌うバラードが好きだといってくれたけれど、自分はどちらかというとポップで明るい曲が好きだった。メロディーに合わせて体を動かすのが好きなのだ。かといって大勢の前で歌う程ではないと自覚していたので、友達のバンドのボーカルがいない時の代役や練習の付き合い程度の活動だった。高校を卒業して沙樹が社会人になっても彼らは皆大学に進学していて、沙樹の時間が合えば一緒にご飯を食べたり、カラオケに行って遊んだりする息の長い友達だ。
今日、エドやダルトの演奏に合わせて歌っていると、今は遠く感じる友人達のことを思い出して目頭が熱くなった。
(美鈴とタカはまだ付き合ってんのかな。なっちゃんは大阪の大学に行っちゃったんだよね。圭太は、工業大だっけ。溶接やってるお父さんの仕事手伝いたいって言ってたもんな。)
皆それぞれに自分達の道を歩んでいる。それなのに自分は何をやってるんだろう。自分がここにいる間、元の世界はどうなっていくんだろう。
(もし無事に元に戻れたとしても、浦島太郎状態だったらやだなぁ。こっちにいる間向こうは時間が動いてない、なんて都合良過ぎだよね。)
何もかもが元通りになって、何事も無かったかのように過ごせればいいのに。誰にも話せないであろうこの世界の出来事も、きっと歳を取ればいい思い出になるだろう。
(会いたいな。)
皆に会って、美鈴とタカの惚気話を聞いて、なっちゃんの大阪土産でも食べながら、またくだらない話で笑い合いたい。気を使わずに笑うことの出来る場所はこの世界にはないものだから。
(会いたいよ・・・)
今宵も空に浮かぶ白い月は、沙樹の頬を伝う雫に反射して小さな光を落としていった。