第二話 1.四人(1)
空も雲もあの太陽でさえ
一本のペンから躍り出たインクによって描かれたものだとしたら
私は泣くのだろうか それとも笑うのだろうか
* * *
サンドの街を出たことがない沙樹にとって知らない街は何もかもが新鮮だった。
今もそう。ビビ達に連れられ、まず入ったのは大勢の客で賑わっている大衆食堂。お酒も出しているこの店では旅人よりも地元の男性客が多い。ビビとエドに料理の注文はお任せにして、沙樹はキョロキョロと店の様子を伺っていた。
陽の落ちた店内を照らすのは植物油を使用したランプ。ホールには木製の丸テーブルが置かれ、そこに同じく木製の丸椅子が四個から六個並べられている。沙樹達が座った壁際の席は大きな窓から夜の街並みが見える。大きい街だけあって燈っている明かりの数も多い。サンドに比べれば随分と明るい夜の風景だ。
しばらくすると大きなエプロンをした年配の女性が木製のカップを四つ運んでくる。三つはラバ酒、もう一つはクワイ茶だ。クワイというのは香りの強い花茶で、この国の若い女性に人気があるらしい。エドが沙樹にと選んでくれたものだった。
「ほら、ボケッとしてないでカップ持って。」
「あ、はい。」
鮮やかな赤色をしたクワイ茶の香りを楽しんでいると、ビビに急かされ慌てて三人と同じようにカップを掲げた。それを待っていたビビがにっこり笑って口を開く。
「それじゃ、新たな仲間とこの街での仕事の成功を祈って、乾杯。」
合図と共に四つのカップが合わさる。だが、木製のカップではガラス製のグラスのように軽やかな音は鳴らない。沙樹にとっては不思議な乾杯の光景だ。
ここの食器のほとんどは陶器や木製でガラス製のものは見たことが無い。どうやらガラスの原料となる鉱物がそれ程採れないようなのだ。昼の間、建物内の明かりは窓から降り注ぐ日光を利用している為、生産されるガラスは主に窓用に消費されてしまう。ガラス製のグラスなどもあるにはあるのだが、やはり稀少価値が高く、高級品なのだという。
沙樹を除く三人はカップの中の酒を口にするとあっと言う間に空にしてしまい、早くも次を頼んでいた。ラバ酒は軽い酒なのか、それとも単に三人が酒に強いのかは分からないが、手元のお茶でもペットボトル一本分はあるグラスの中身を一口で飲み干すことは沙樹には難しい。呆気に取られていると、エドが料理の載った皿を差し出した。
「シンガー。ぼーっとしてると料理がなくなるぜ。」
「あ・・・。」
見れば確かに大皿に盛られた料理が次々とそれぞれの皿に取り分けられ、量が減っている。慌てて沙樹も自分の取り皿を受け取ると、まずはサラダに手をつけた。
「今日はこのまま宿を取るけど、明日からはこの辺りで仕事だよ。シンガーは何唄うのか考えてるのかい?」
ビビの問いに沙樹の手が止まる。
そうなのだ。彼らについて来たのは良いが、単に一緒に行くか?と言ってくれたエドとは違い、ビビは沙樹の歌声を買って誘ってくれたのだ。やはり歌を披露せずに過ごすと言うのは、単なるお荷物になるだけだろう。けれどこの世界の歌を知らない沙樹にはお客さんに披露する歌は何が良いのか、さっぱり分からなかった。
「それが、この国の歌は知らないし、何を唄ったら良いのか・・。」
しゅんとして肩を落とす沙樹を見てビビは眉根を寄せる。二又のフォークでソーセージを刺すと、それを齧りながらうーんと唸った。
「ねぇ、あの時教会で唄っていた歌はダメなのかい?」
「あ・・」
ドキッと大きな音を立てて沙樹の鼓動が鳴る。誰も聴いていないと思って英語で唄ったアメイジング・グレイス。異なる世界から来たとは知られたくない沙樹にとってこの世界には無い言語の曲のことは早く忘れて欲しかったのだが、ビビの印象には強く残っていたらしい。まさかあの曲を大勢の客の前で披露するわけにもいかず、何と言葉を返せばいいのか迷っていると、ビビが何気なく呟く。
「歌詞は良く分かんなかったけどさ、いい曲だよね。」
「え?本当?」
「あぁ。曲はそのままで歌詞を分かりやすいように変えてさ、唄ってみたら?」
そうか、とすんなり納得した。孤児院で子供達に聴かせていたあの子守唄のように、沙樹の知っている歌をここの言語に変えて唄えばいいのだ。それならこちらの歌を知らない沙樹でもある程度のレパートリーを持つことが出来る。ビビに聴かれた歌詞のことを追求されずに済んだ沙樹はほっと胸を撫で下ろし、同時に顔を上げた。
「うん。やってみる。」
そう意気込むと、嬉しそうにビビが笑った。
「エド。」
「ん?」
「そういや、アンタ。私より先にあの子を口説いてたんだって?」
それを聞いたエドがゴホッとむせる。あの子というのは当然シンガーの事だ。当の本人は今ダルトと共に席を立っていて、二人でカウンターに行って酒を受け取っている。大抵アンバのこういう店は一・二杯目までは店員が運んで来るが、それ以降は自分のカップを持って貰いに行くのが常識なのだ。
シンガーが居ないのを見計らって口を開いたビビは、その狙い通りエドを動揺させたことに満足しているようで上機嫌に笑っている。
「な、何を・・・」
「シンガーから聞いたよ。どういう風の吹き回しだい?」
面白がっているビビを見てエドは舌打ちしたくなった。初めて教会で彼女を見た時に自分達と共に行かないか、と誘ったのは確かにエドだ。珍しい髪の色をした女性。凛とした意思の強さとは裏腹にどこか弱さを抱えているように見えて、声を掛けてみたくなったのだ。
「別にいいだろ。ピノーシャ・ノイエに行きたいって言ってたから、なら国境まで一緒に行ってやろうかって・・」
「ふーん。」
「な、なんだよ・・・。」
「いやぁ。別にぃ。あの子は今までのアンタの趣味とは随分毛色が違うなって思ってたからさ。」
趣味というのは明らかにエドがこれまで相手にしてきた女性達のことを指している。それが分かってエドは顔を引きつらせた。出会ってから既に二年になるこの仕事仲間は自分の素行をよく知っている。それだけにアレコレ口を出されれば厄介な相手だ。
「そういうつもりで誘ったんじゃなくて・・・」
「でも、『気に入った』んだろ?」
「なっ・・・」
言った。確かに言った。初めて会ったエドに声を掛けられ、警戒心を露にしたシンガーに向かって掛けた言葉。何故自分を旅に誘うのか、その問いの答えがそれだったのだ。
(そんなことまで話したのかよ!)
エドの顔が赤くなるのを見て、ビビは更にニヤリと笑みを深くした。女性への口説き文句を身内のような存在に知られるのはいやに恥ずかしいものなのだ。
「あの子を責めないでおくれよ。私がちょ〜っといじわるなこと言って聞き出したんだからさ。」
「な、何を言ったんだ・・?」
「それは女同士の秘密だよ。」
妖艶な笑みを浮かべてビビがカップを傾ける。彼女を前にした男性の多くはその女性らしい魅力に喉を鳴らす所だろうが、彼女の恐ろしさを十分に知っている身からすれば緊張で唾を飲み込むしかない。彼女に口で勝つ事は出来ないのだと、昔から嫌と言うほど理解しているエドは深い深い溜息をついた。
シンガーには、ビビのように妖艶な魅力は無い。豊満な体型で色気が滲み出ているわけでもないし、可愛らしい愛想をふりまいているわけでもない。けれど彼女の艶やかな黒髪も触ったら柔らかそうな肌も神秘的で綺麗だ、とエドは思っている。
エドは女性にモテる自分を自覚しているし、旅をしている身軽さもあって多くの女性達と遊んできた。相手にするのは大抵自分から売り込んでくるような積極的な女性が多く、それなりに恋を楽しんできたと思う。だから、シンガーのように自分に興味を示していない女性を口説いた事は皆無に近い。ガッシュを弾いて街を歩けば、女性達がこぞって寄って来るのが常なのだから。
彼女に声を掛けたのは気まぐれなのかそれとも運命的な何かなのか、それは分からない。けれど女性が喜ぶ運命という言葉を彼女に使ってみた所で通用しないだろう、というのは付き合いの短いエドでも分かる。
視界の端にダルトと共に戻ってきた彼女の姿を捉えて、エドは情けない顔で笑うしかなかった。