第一話 1.ひとり(1)
予感も予兆もない“それ”は
劇的でも運命的でもなく
ただ、現実として目の前に横たわっている
* * *
全身に纏わり付く倦怠感。体を動かすのも面倒で中々布団の中から起き上がる気になれない。自分の体温で温まった布団は気持ち良く、浮上しかけた意識をトロトロとした温度の中に沈めていく。けれどやけに周りが煩くて、沙樹は仕方なく重い瞼を持ち上げた。
光を捕えた沙樹の二つの目は数秒置いてやっと目の前の光景をはっきりと映し出す。まず目に入ったのは子供の顔だった。赤毛の髪と飴色の髪の男の子が二人。
(・・・誰?)
あぁ。きっと夢だろう。だって明らかに外人の男の子だ。知り合ではないし、まず一人暮らしの自分の家に子供がいる筈が無い。昨日テレビで海外映画とか見たっけ?そんなことをぼんやり考えながら力の抜けた体を無理やり起した。するとベッドに乗りあがるようにして沙樹を見下ろしていた子供達は嬉しそうにそこから退き、バタバタと部屋から出て行く。けれど完全に覚醒していない沙樹の意識はもうそこから外れていた。
沙樹は低血圧気味だが、いつも寝起きは悪くない。それなのに今日はやけに体がだるくて、中々目を開けることが出来なかった。その証拠に窓の外は既に明るい。
「あ!時間!!」
よく寝た、と思えるようなこの体の感覚。絶対に仕事は遅刻だと確信し、慌ててベッドから飛び降りる。先程まで動かなかった体も、危機感を感じてすぐに動き出したのはやはり社会人の性だろう。けれど目の前の光景に沙樹の体は再び止まった。
「・・・・え?」
樹の木目がむき出しの壁。同じく木製のタンスや椅子。振り返れば自分が寝ていたベッドも木製で、綿のシーツと羽毛布団。避暑地に立てられたロッジのようなウッドテイストで素朴な家具。どれも見覚えのない、明らかに自分ではない部屋。
「どこ、此処・・。」
先程までの慌てようなど無かった事にしてしまう程、今沙樹の頭の中は真っ白だった。
昨夜はいつものように仕事場の同僚に挨拶をして会社を出た。同僚と言っても二十四歳の沙樹にとって自分より遥かに年上のおじさんおばさん達ばかりだが、いつも自分に親切にしてくれる人達だ。赤ん坊の頃、駅のベンチの下に捨てられていた沙樹に身内はいない。国の施設出身で、大学への進学は叶わなかったものの、国の援助金で高校まで出て小さな電子部品のメーカーに就職することが出来た。沙樹と一番歳が近いのが今年三十の男性社員。皆年上だが、だからこそ可愛がってもらっている。ランチや仕事終わりなど誰かと食事に行けばおごってもらえたし、おしゃべり好きの経理のおばちゃんはよく作り過ぎたおかずや頂き物のお菓子を分けてくれる。食費がかからないのは社会人になって一人暮らしを始めた沙樹にとってはありがたい話だ。とにもかくにも大変お世話になっているその会社を出て、帰路についた所までは覚えている。
(でも・・・そう言えば・・・)
よくよく考えてみれば家賃7万円の、見慣れた1Kのアパートのドアを開けた記憶が無い。もしかして帰りの途中でボーッとしてたら事故にでもあって此処に運び込まれたのだろうか。
「あ、服・・。」
自分の体に目を落とせば、水色のアンサンブルにベロアの黒スカート、控えめな柄ストッキング。昨夜会社を出た時と同じ服を着ている。やはり昨日は自宅に帰らなかったのだ。だが、冷静になって自分の体をあちこち触ってみても、どこにも怪我は見当たらない。
ほっとしたのも束の間、ベッド周りには自分の荷物が無いことに気が付いた。
「バッグが無い・・・。」
慌てて小さな部屋のあちこちを見てみるが沙樹のバッグはどこにもない。初給料で買ったお気に入りのホワイトレザーのバッグだったのに。中に入っているはずの財布や携帯も気になる。クレジットカードやキャッシュカードも入っているのだ。
その時、半分開けられた窓から心地の良い風が吹いた。春を感じさせる暖かで柔らかな風。その風に誘われるように窓際まで行くと、沙樹は目の前の光景に息を呑んだ。
「・・・何これ。」
なだらかな丘の上に広がる町並み。それは沙樹の知っている東京ではない。コンクリートの道路も空を遮る電線も、鉄筋の建物もない。まるでテレビで見た異国の田舎の風景。ぽつぽつと背の低い木製やレンガ造りの建物が点在し、その中には煙が昇っているものもある。遠くて見えにくいが、煙突が付いているのかもしれない。周囲に人の姿はないが、少なくとも沙樹の暮らしている都市ではない。
あまりの衝撃にそこから目が離せないでいると、後ろから足音が聞こえて沙樹はびくっと体を震わせた。ぎこちない動きで恐る恐る振り返る。すると開けっ放しだったドアから顔を見せたのは深いブラウンの髪と目を持った背の高い壮年の男性だった。
「誰・・・?」
また外人の夢?そう心の中だけで呟きながら一歩後ろに下がる。だが、沙樹が知っているどのハリウッド俳優にも似ていない。会社にも外国人はいないし、近所にいる中国人留学生とも違う。会ったことの無い人物だ。記憶の隅にも無い顔が夢に出てきたりするのだろうか。
彼は穏やかな表情で微笑むと、静かな足取りで部屋の中に入ってきた。紺色のノーカラーのシャツにゆったりとしたカーキのスラックス。一見地味な装いだが、深緑色のリボンに吊るされたコインのようなものを首から提げていて、それが目に付いた。よく見れば随分と古いもののようだ。そこには植物の葉と蔓が刻印されている。
そして彼は沙樹に向かって男性らしい低く、優しい声で言葉をかけた。
「ハッシュ・シャレール。シュー・カンタ・ム・マー?」
眩暈がした。