——過去②
「最初、説得は俺が行く予定だったんだ」
中年の刑事が続ける。
「だが、セキュリティー会社が撮影していた立てこもり直前の防犯カメラの映像に、女房と息子が映っていた段階で俺は事件から外された。
身内が絡むと冷静な判断が下せない。俺も若いころ身内が事件に関係した警官を外したことがあるから理由は分かる。
だったらそれ相応に場数を踏んだやつに説得を当たらせればよかったんだ。
だが上の連中もキャリア様ご自身が自信満々に行きなさるから行かせてやれと抜かしてやがってな」
大きくため息をついて額に当てていた拳を解き、もう何千回も繰り返してきた動作でポケットからタバコを取り出した。
片手ですったマッチを人差し指と中指で挟み、タバコの先に近づけると、ジジッと音をたてて先端が赤く光る。
灰皿に突っ込んだマッチはしばらく白い煙を漂わせ、黒くなった頭が軸からポロリと落ちた。
「その後はだいたい想像どおりの筋書きだ。
女房は別れたくないと言ってくれたが、俺が刑事である以上、またいつかこんな事件に巻き込まれるかも知れない。
その時にまだ身内だったら、俺は助けたくても助けられない。俺の話に納得してくれた女房は、息子より一つ年上だった娘を連れて離婚届けにハンコを捺してくれたよ。
今は実家で暮らしている。今年十一歳だから、あと五年すればあの少年と同じ高校生だな」
冷め切ったコーヒーに手を伸ばし、一気に残りを飲み干す刑事から目をそらせながら、若い刑事は口ごもる。
「先輩が……先輩がキャリアを嫌う理由は分かりました。申し訳ありませんが、自分には何も出来ません」
「当たり前だ。別にお前さんを責めている訳じゃない。これはあくまで俺のこだわり、俺の私怨だからな」
「だったら尚のこと分からないです。どうして先輩はあの少年にこだわったんですか?」
詰め寄られた刑事はタバコを持ったままの手で、髪に白いものが混じった頭をカリカリと掻く。
「俺はあの少年に殺人犯の姿を見たんじゃない。
やり場のない憎しみと悲しみが渦巻く絶望のどん底の表情……息子の通夜の時、亡骸を前にじっと座り込んでいた女房の表情と同じだったんだ。
ただ一つ違うのは、女房は相手がどんなに憎くても手を下す訳にはいかないが、少年は下せる所にいたということだ」
「じゃあやっぱり先輩は少年のことを……」
「真実は分からん。もう終ったことだからな。
ただ、万が一俺の勘がどこかで真実を言い当てていたとするなら、振り上げた刃はどこかに納めなければならない。
普通はそれが出来ないから俺たちが無理矢理にでも押さえつけて奪う。だがあの美容クリニックの院長のおかげで、誰かさんは納めるべき鞘は持っている。
俺に出来ることと言ったら、その刃を鞘に納めるタイミングを与えてやることくらいしかないだろう」
「それだとみすみす真犯人を見逃すのと同じじゃないですか。いえ。でもまだ彼がやったという証拠は何もなかったですよね」
「そうだな。もし本当に真犯人がいるとすれば俺ではなくキャリア組の連中が捕まえるだろう。あいつらだってバカじゃないんだ。
さて、詰まらない話を聞かせてしまったな。これで先に会計してろ、俺は小便してから戻るとする」
一万円札を差し出して席を立った刑事が外へ出ると、若い刑事が顔色を変えて待っていた。
「どうかしたのか?」
「先輩、署から連絡です。例のリストにあった主犯格の最後の高校生が、行方不明になったそうです」