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癒した手が人を殺すと知ったので、聖騎士団を辞めて辺境で薬屋を始めました  作者: 蒼月よる


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第9話 聖騎士の影

 数日後、私はまた灰枝に向かった。


 軟膏の在庫が減っていたのと、苦香草の種を仕入れたかったのと、あとはナタリアに頼まれていた薬草茶の配合を届けるため。いつもの用事だ。いつもの道を歩いて、いつもの門をくぐる。

 聖騎士の巡回の噂は、頭の隅に残っていた。けれど数日が経って、あの日の動揺は薄れていた。日常というのは不思議なもので、棚の瓶を並べ、蒼苔を擂り、集落の人の怪我を診ているうちに、記憶の水面が少しずつ凪いでいく。

 大丈夫。ただの巡回だ。


 灰枝の門を入ったとき、違和感はまだなかった。通りは普段通りで、行商人の荷車が道の端に停まり、食堂の前では猟師風の男が煙管を吹かしている。

 ギルドの扉を開けた。

 空気が、違った。

 広間にいる冒険者の数はいつもと変わらない。けれど、声が小さかった。依頼板の前に固まった数人が、顔を寄せ合ってひそひそと話している。別のテーブルでは、杯を傾けながら窓の外をちらちらと見ている男がいた。

 受付に向かうと、ナタリアがいつもの笑顔で——ただし、少しだけぎこちない笑顔で迎えてくれた。

「フィオナさん、いらっしゃい」

「こんにちは。薬草茶の配合、持ってきましたよ」

「ありがとう。あのね——」

 ナタリアが声を落とした。受付台に身を乗り出して、小声で言う。

「聖騎士が二人、昨日から灰枝にいるの」

 心臓が跳ねた。

 一瞬、視界の端が暗くなった。けれど私は受付台に手を置いたまま、動かなかった。動いてはいけない。

「……そうですか」

「遺跡関連の調査みたい。北の方にある遺跡で何か見つかったとかで、ギルドに記録の閲覧を申請してきたの。冒険者たちの採取記録とか、遺跡周辺の活動履歴とか」

「遺跡の調査」

「うん。だから、別に怖いことじゃないんだけど——やっぱりね、聖騎士が来ると皆そわそわするから」

 広間のほうで、冒険者の一人が仲間に話しているのが聞こえた。

「聖騎士団が腕のいい薬師を探してるって話もあるぜ。最近、団の薬の質が落ちたとかで」

 胸の奥が冷たくなった。けれど冒険者たちは気にする風もなく、そのまま世間話を続けていた。

 ナタリアは苦笑した。彼女にとっては、ギルドの空気が悪くなる迷惑事、その程度のことだろう。

 私は頷いた。頷きながら、自分の手が受付台の上で動いていないか確かめた。震えてはいない。握りしめてもいない。ただ置いてある。大丈夫。

「ナタリアさん、今日は素材の卸しだけで。薬草茶の配合はこれです」

 鞄から紙を取り出して渡した。指先が冷たかった。ナタリアは気づいただろうか。気づいていないといい。

「ありがとう。あ、軟膏の追加発注もあるんだけど、今日じゃなくてもいい?」

「次に来たときで大丈夫です。では——」

「うん、気をつけてね」

 ナタリアの目が少しだけ長く私を見た気がした。けれど何も言わなかった。ありがたかった。


 ギルドを出た。

 通りに出た瞬間、足を止めた。

 向こうの通りに、白い外套が見えた。

 二人。白い外套をまとった、背の高い人影が、通りの向こう側を歩いている。聖騎士だ。胸元に紋章があるのが見える。白い紋様。剣と盾の交差。

 ——あの紋章を、私もつけていた。

 体が動いた。考えるより先に、右手の路地に身を滑り込ませていた。

 路地は狭かった。建物の壁に背をつけて、息を殺す。心臓が喉元まで上がってきているようだった。指先が冷たい。膝が震えている。

 落ち着け。

 目を閉じて、ゆっくりと息を吸った。吐いた。もう一度吸った。

 通りの方から、足音が聞こえた。硬い靴底が石畳を踏む、規則正しい音。聖騎士の足音だ。駐屯地で毎日聞いていたあの足音と同じ。

 声が聞こえた。

「……遺跡の北側坑道は封印が生きていた。報告書にはそう記載する」

「了解した。他に確認すべき箇所は?」

「ギルドの記録を照合して、過去半年の採取活動に不審な点がなければ、明日には発てる」

 足音が遠ざかっていく。薄目を開けて、路地の入口から通り過ぎる二人の後ろ姿を見た。

 そのとき、右側の騎士の左腕が目に入った。白い外套の袖口から、包帯がはみ出している。巻き方が甘い。端が緩んで、ほどけかけている。


 あの包帯の巻き方は素人だ。薬師が——いないのか。


 思って、息が止まった。聖騎士団の包帯は、薬師が巻く。腕の包帯なら、まず傷口に蒼苔の湿布を当てて、その上から二重に巻いて、端を折り込む。あの巻き方は、自分で巻いたか、素人の仲間に頼んだか。どちらにしても、薬師の手ではない。

 私がいた頃は、あんな包帯のまま外に出す騎士はいなかった。

 胸の奥に、名前のつかない感情が落ちた。満足ではない。罪悪感でもない。ただ——ああ、そうか、とだけ思った。私がいなくなった場所で、何かが欠けている。それを見てしまった。ただ、それだけのことだ。

 遺跡の調査。私を探しているわけではない。

 頭では分かっていた。最初から分かっていた。薬師が一人抜けた程度で、聖騎士を二人も派遣するはずがない。ナタリアの言った通り、遺跡関連の調査だ。北の遺跡で何か見つかって、周辺の活動記録を確認しに来た。それだけのこと。

 それだけのことだと分かっているのに、足がまだ震えていた。


 路地を抜けて、裏通りを回って灰枝の南門に出た。表通りは避けた。聖騎士たちと顔を合わせる可能性を、一つでも減らしたかった。

 見つかったところで、おそらく何も起きない。私の顔を知っている聖騎士が灰枝に来ているとは限らない。五年間で顔を合わせた騎士は多いが、薬師の顔をいちいち覚えているかどうか。それに、たとえ覚えていたとしても、辺境の街で素材を卸している女が元薬師だと分かったところで、その場で何かするとは思えない。

 ——それでも、怖かった。

 理屈ではない。あの白い外套を見た瞬間、体が勝手に反応した。五年間の記憶が、理性より先に動いた。


 南門を出て、街道に入った。足が自然に速くなる。振り返らなかった。振り返ったら、白い外套が追ってくるような気がした。追ってくるはずがないのに。

 街道を歩き続けた。灰枝の壁が見えなくなるまで、一度も振り返らなかった。


 集落に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。

 いつもより早い。灰枝での用事を途中で切り上げて帰ってきたのだから、当然だった。

 集落の入り口で、畑仕事をしていた男が顔を上げた。

「おう、薬師さん。今日は早いな」

「ええ、少し。用事が早く済んだので」

 男は特に気にした様子もなく、鍬に目を戻した。


 通りを歩いていくと、家の前でイルダが椅子に座って蒼牙のナイフを研いでいた。

「あら、早かったね」

 イルダが目を上げた。皺の深い顔に、いつもの穏やかな目。

「はい。今日は卸しだけだったので」

「そうかい。——顔色が悪いね。暑気あたりかい」

「……少し、疲れただけです」

 イルダは何も言わなかった。ただじっと私の顔を見て、それから小さく頷いた。

「無理はおしでないよ。薬師が倒れたら元も子もないからね」

「はい。ありがとうございます」


 通りの先から、声が聞こえた。

「おい、薬師さん! 今日は装甲猪が獲れたぞ。でかいやつだ。食うか!」

 ルッツが家の前で毛皮を広げながら、こちらに手を振っていた。

「ありがとうございます。いただきます」

 ルッツはこちらに歩いてきて、不意に眉をひそめた。

「……どうした、顔色が悪いぞ」

「少し疲れただけです」

 ルッツは短く「……そうか」とだけ言った。それ以上は聞かなかった。ただ毛皮を広げる作業に戻りながら、背中越しに言った。

「肉は夕方に持ってく。食え」

 大物が獲れた日は、集落全体が少し浮き立つ。


 工房に向かって歩いていると、角から子供が飛び出してきた。

「先生! 先生、薬草茶ちょうだい!」

 集落の子供だった。以前、熱を出したときに薬草茶を飲ませた子だ。苦い苦いと泣きながら飲んで、治った後も「先生の薬草茶」と言って時々もらいに来る。苦いのが癖になったのか、それとも工房に来るのが楽しいだけなのか。

「はいはい。工房においで、淹れてあげるから」

「やった!」

 子供が先に駆けていく。その後ろ姿を見ながら、私は少しだけ笑った。


 何でもない日常だった。

 畑の男。イルダ婆さん。ルッツ。子供。灰色の屋根。夕餉の煙。蒼い樹海の影。

 何も特別なことはない。辺境の集落の、ありふれた午後。

 けれどそれが、今の私にとっては全てだった。


 工房に入って、薬草茶を淹れた。子供が椅子に座って足をぶらぶらさせながら待っている。

「先生、今日は何か採ってきた?」

「今日は灰枝に行ってただけだよ。採取はしてないの」

「つまんないの。先生が樹海から帰ってくるとき、変なキノコとか見せてくれるの好きなのに」

「変なキノコって言わないの。ちゃんと名前があるんだから」

 薬草茶を小さな器に注いで、はちみつを少し垂らした。子供はそれを受け取ると、ふうふう冷ましてから一口飲み、顔をしかめた。

「にが」

「苦いけど体にいいでしょう」

「うん。……にがいけど、好き」

 子供が笑った。その笑顔を見ながら、私は思った。

 この子の笑顔を、守りたいとか、そういう大きなことではない。

 ただ、この子が苦い薬草茶を飲んで「好き」と笑う。その日常が続けばいい。それだけのことだ。


 子供が帰った後、工房で一人になった。

 夕暮れの光が窓から差し込んで、棚の瓶を橙色に染めている。薬草の乾いた匂い。虫の声が遠くから聞こえてくる。

 鞄を棚の横から取り上げた。

 底に手を入れる。指先が布に触れた。硬い感触。布越しに、金属の角が分かる。

 紋章だった。

 あの夜、外して、布に包んで、鞄の底にしまった紋章。捨てられなかった紋章。駐屯地を出てから一度も取り出していない。触れることすら避けてきた。

 今日、手を伸ばした。

 布越しに、その輪郭をなぞった。剣と盾の交差。小さな金属片。磨かれていた表面は、鞄の底で布に包まれたまま、もう曇っているだろう。

 五年間の証。そして、私がその一部だったことの証。

 あの駐屯地で、私は確かに人を癒した。ガレスの肩の古傷に湿布を貼った。ディルクに薬草茶を淹れた。名前も覚えていない若い騎士の擦り傷に軟膏を塗った。

 その手が何をしたか知った上で、それでも——私は薬師だった。癒すことしかできなかった。

 それは罪だったのか、それとも。

 ——答えは、まだ出ない。


 紋章から手を離した。鞄を棚の横に戻す。

「……もう、いいんだ」

 声に出して、言った。

 もういい。答えが出なくても、もういい。あの場所にはもう戻らない。あの白い外套をもう纏わない。私はここにいる。ここで薬を作り、ここで人を癒す。それだけのことを、毎日繰り返す。

 それが私の答えだ。答えが出ないということが、答えなのかもしれない。


 ふと、ナタリアの顔が浮かんだ。軟膏の追加発注。「次に来たときで大丈夫です」と答えたのは、今日の昼のことだ。次に灰枝に行くときでいい——さっきまではそう思っていた。

 けれど、次はいつになるだろう。聖騎士がいる間は行きたくない、と思っている自分がいた。聖騎士が発つまで待とう、と。でもその間に、ナタリアの棚は空になる。冒険者たちが軟膏を求めてギルドに来て、在庫がないと言われて帰っていく。怪我を抱えたまま。

 怖い。灰枝に行くのが怖い。白い外套と顔を合わせるかもしれないと思うだけで、指先が冷たくなる。

 でも、怖いからといって届けないわけにはいかない。

「明後日、灰枝に行こう」

 声に出して言った。自分の声が、工房の静けさの中に落ちていった。

 紋章から手を離した代わりに、棚の乳鉢を手に取った。蒼苔の粉末を足して、軟膏を練り始める。聖騎士がいようがいまいが、薬師の仕事は変わらない。ナタリアが待っている。冒険者たちが待っている。この手は、そのために動く。


 窓の外に目をやった。

 蒼い樹海の影が、夕闇の中に溶けていく。空は橙から紫へ、紫から藍へと移ろっている。虫の声が、波のように寄せては引く。

 ここが私の場所だ。

 ——まだ完全にはそう言い切れない。聖騎士の白い外套を見れば、体は今日のように震えるだろう。灰枝に行くたびに、誰かに見つかるのではないかと胸が冷たくなるだろう。完全な安全なんてどこにもない。

 けれど、少しずつ。

 畑の男が声をかけてくれること。イルダが顔色を見てくれること。ルッツが肉を分けてくれること。子供が薬草茶を飲みに来ること。ナタリアが小声で教えてくれること。

 そういう小さなものの積み重ねが、私の足をここに留めている。逃げるのではなく、ここにいることを選ぶ。選び続ける。毎日、毎日、少しずつ。


 窓を閉めた。

 明日は蒼苔の採取に行こう。樹海の縁で、朝露が残っているうちに摘めば、一番いい品質のものが取れる。それを擂って、胃薬を作る。軟膏も補充しなければ。ナタリアに追加発注の分を届けるのは、次に灰枝に行くときでいい。

 やることがある。明日も、明後日も。

 それが、今の私の全てだった。


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