第7話 樹海の中層へ
空がまだ灰色のうちに、工房を出た。
肩掛け鞄には銀葉草を持ち帰るための布袋と、採取用の小刀、それから念のための軟膏と鎮痛剤。水筒と干し肉も詰めた。革のエプロンを締め直し、鞄の紐を肩にかける。
集落の入り口で、ルッツが待っていた。いつもの苔皮の上着に、蒼牙のナイフを腰に差し、弓を背負っている。矢筒を腰の後ろに下げた寡黙な猟師は、私を見て短く顎を引いた。
「行けるか」
ルッツが短く聞いた。
「はい。お願いします」
「日が高いうちに戻る。中層に長居はしない」
「分かりました」
ルッツが頷き、歩き出した。私はその後に続いた。
集落の裏手から樹海の縁に入ると、すぐに空気が変わった。
湿った土の匂い。蒼苔の青い香り。頭上を覆う蒼い葉が朝の光を濾して、地面に落ちる光はほの白い。足元の蒼苔が靴底に柔らかく沈む。
縁は慣れた場所だった。薬草を摘み、蒼傘茸を探し、蒼苔を集めるために何度も歩いた道だ。蒼い下生えの間に見慣れた薬草の葉が覗いている。
ルッツは迷いなく歩いた。獣道を選び、太い根を跨ぎ、蔦を避ける。その足取りには無駄がない。何年もこの樹海で狩りをしてきた人間の動きだった。
一時間ほど歩いて、ルッツが足を止めた。
「ここからが中層だ」
私は周囲を見た。
——蒼が、濃い。
縁の蒼は、深い海を見下ろすような色だった。美しいけれど、どこか親しみのある蒼。
中層の蒼は違う。闇に沈みかけた海の底の色だ。葉も苔も蔦も、全てが深く暗い蒼に染まっている。木々の幹さえ蒼黒い苔に覆われ、灰色の樹皮がほとんど見えない。
光が減っていた。
縁では蒼い葉の隙間から白い光が差し込んでいたが、ここでは天蓋が厚く、地面に届く光はぼんやりとした蒼白い靄のようなものだった。昼なのか夕方なのか分からない薄明が、あたりを満たしている。
そして、魔素が濃い。
肌で感じる。手の甲に、頬に、首筋に。大気の中に漂う魔素の密度が、縁とは明らかに違う。手を翳すと、指先がほんのりと温かかった。魔素が体の表面に触れて、微かな熱を生んでいる。
音も変わっていた。
縁では鳥の声や虫の音が聞こえたが、中層では静かだった。静かすぎた。風もなく、葉擦れの音もない。遠くで何かが——木の軋みか、それとも別の何かか——低く、ゆっくりと響いていた。
「足元に気をつけろ。根が太い」
ルッツが言った。
その通りだった。中層の木々は縁のものとは比較にならない大きさで、根が地面を這い回っている。人の腰ほどの太さの根が、うねるように地表を走り、その隙間に蒼い苔と見たことのないキノコが生えていた。
キノコは傘が薄く透き通っていて、微かに光を放っていた。蒼よりもう少し白に近い、淡い燐光。
「あのキノコ……」
思わず足を止めた。
「触るな。毒がある」
「いえ、毒ではなくて——あれは灯茸じゃないですか。魔素を吸収して発光するキノコで、乾燥させると鎮静剤の素材になる……」
ルッツが無言でこちらを見た。
「……すみません。今日は銀葉草ですね」
素材を前にすると、つい。師匠にも同じことを言われた。「目的を見失うな」と。
ルッツがかすかに口元を緩めたように見えた。
中層を歩くのは、縁とは全く違う体験だった。
足元が悪い。太い根と湿った蒼苔に覆われた地面は滑りやすく、何度か体勢を崩しかけた。ルッツは淡々と先を行く。彼はこの地形を知っている。どの根を踏み、どの苔を避ければいいか、体が覚えているのだ。
巨大な蒼い木々が立ち並ぶ中を進む。幹の太さは大人が三人で抱えるほどもあり、見上げると蒼い天蓋が遥か頭上に広がっている。その天蓋の隙間から差し込む光は弱く、蒼白い筋となって地面に落ちていた。
光の筋の中を漂う魔素が、肉眼でも見えるような気がした。ほんの微かに、空気が揺らいでいる。
二時間ほど歩いた頃、ルッツが立ち止まった。
「沢がある。そのあたりに生えてないか」
指差した先に、細い水の流れがあった。苔むした岩の間を、蒼黒い水がゆっくりと流れている。
沢の縁に近づき、周囲を見回した。銀葉草の特徴は知っている。葉の表面に銀色の産毛があり、魔素を多く含む土壌にしか生えない。水辺を好み、半日陰の湿った場所に群生する。
沢の縁を歩きながら、目を凝らした。蒼い苔の間に、蒼い草が生え、蒼いシダが広がり——蒼ばかりだ。全てが蒼い中から、銀の色を探す。
十歩、二十歩。沢に沿って上流に向かう。
——あった。
岩の陰、水しぶきがかかる位置に、小さな葉が群生していた。蒼い葉の表面に、細い産毛が銀色に光っている。蒼白い光の中で、その銀色だけが違う色をしていた。
「ルッツさん、ありました。銀葉草です」
声を抑えて言った。中層で大声を出してはいけない。ルッツにそう教わったわけではないが、この場所がそうさせた。
ルッツが近づいてきて、頷いた。
「摘むなら早くしろ。長居はしたくない」
「はい」
銀葉草の前にしゃがみ、鞄から小刀を取り出した。
だが、すぐには切らなかった。
まず手を翳して、魔素の流れを感じた。銀葉草の葉に含まれる魔素の密度、根が吸い上げている土壌の状態。薬効が十分に蓄えられているかどうか、魔素操作で確かめる。
指先に伝わる感覚。魔素の粒が細かく、密度が高い。葉の繊維の中に薬効成分がしっかりと詰まっている。いい状態だ。
「銀葉草は、根を残して葉だけを摘めば再び生えてきます。根元から三枚目の葉より上を切る……ここです」
独り言のように呟きながら、小刀の刃を当てた。茎を傷つけないように、斜めに切る。魔素を刃に通して、切り口が酸化しないようにする。
一本。布袋に入れる。
二本目。同じように魔素を確かめ、丁寧に切る。
三本目。四本目。群生の中から状態の良いものを選び、根を傷つけないように摘んでいく。
六本。これだけあれば、煎じ薬を数回分作れる。エミルの再発防止には十分だ。
布袋の口を紐で縛り、鞄にしまった。
「終わりました」
「よし。帰るぞ」
ルッツが踵を返した。
帰り道は、来た道を戻る。
中層の蒼い薄明の中を、ルッツの背を追って歩いた。鞄の中の銀葉草が、歩くたびにかさりと小さな音を立てる。
そのとき、ルッツが急に足を止めた。
片手を上げて、私に「止まれ」の合図を送る。
私は足を止めた。
静寂の中に、音が混じった。
低い、唸り声。
樹海の蒼い暗がりの奥から、それは聞こえてきた。一頭ではない。複数の、低く響く声が重なり合っている。
「蒼牙狼だ」
ルッツが囁くように言った。その手が、腰の蒼牙のナイフにかかっていた。
蒼牙狼。群れで行動し、魔素を介した連携で獲物を追い詰める魔獣。危険度D。銅牌の冒険者なら数人がかりで対処する相手だ。
私の背筋が冷えた。薬師に戦闘能力はない。
「何頭くらい……」
「三か四。まだ遠い。こっちに気づいてるかは分からん」
ルッツの目が、蒼い暗がりの一点を見据えていた。
「風上にいる。匂いはまだ届いていないはずだ。今のうちに迂回する」
ルッツが方向を変え、元の道から逸れて太い根の間に入った。私は息を殺してその後に続いた。
ふと、鞄の中に手を入れた。指先が苦香草の束に触れる。茎を折ると、鋭い苦い匂いが指の間から立ち上った。
「苦香草の匂いは蒼牙狼が嫌います」
できるだけ小さな声で、ルッツに言った。ルッツがちらりとこちらを見て、短く頷いた。
私は折った苦香草を地面に置きながら歩いた。三歩ごとに一本、茎を折って匂いを出し、足元に落とす。匂いの壁を作るように。薬師の知識が、今この瞬間に使える。そのことが、震える足を前に動かしてくれた。
足音を立てないように、根を跨ぎ、苔を踏む。蒼い苔は柔らかく、足音を吸い込んでくれた。
唸り声はまだ聞こえていた。だが、遠ざかっている——気がする。ルッツの判断が正しかったのだ。この人はこの樹海を知っている。どこに獣道があり、どこを通れば魔獣を避けられるか。
十分ほど無言で歩いた。
ルッツが足を緩めた。
「抜けた。ここからは縁に向かえる」
私は息を吐いた。止めていた息が、白く曇って消えた。
ルッツがちらりとこちらを見た。
「度胸あるな。苦香草を撒くなんて、咄嗟に出る判断じゃない」
褒められ慣れていないので、どう返していいか分からなかった。「ありがとうございます」とも「そんなことないです」とも違う気がして、結局何も言えなかった。
中層を抜けた瞬間、世界が変わった。
蒼が明るくなった。光が増した。鳥の声が聞こえ、風が蒼い葉を揺らした。空気が軽い。肌にまとわりつくような魔素の密度が薄れて、自分の体がふっと軽くなるのを感じた。
「……戻ってきた」
思わず呟いた。
ルッツがちらりとこちらを見て、何も言わなかった。けれどその足取りも、少しだけ速くなった。
集落に戻ったのは、日がまだ高い時間だった。
ルッツが言った通り、日が高いうちに帰れた。
「助かりました。ありがとうございます」
集落の入り口で頭を下げると、ルッツは短く言った。
「次に行くなら、前の日に言え」
それだけ言って、背を向けかけた。
だが、二歩ほど歩いたところで足を止め、振り返らずにぽつりと言った。
「そういえば、灰枝に来てた行商人が言ってたが、聖都のほうじゃ薬が不足してるらしい。軍の薬が効かなくなったとか」
私は一瞬、息が止まった。
聖都の薬。軍の薬。それは——聖騎士団の薬師室が作っていた薬のことだ。
「そうですか」
短く返した。それ以上は何も言えなかった。
ルッツは特に気にした様子もなく、そのまま歩いていった。背中が集落の通りの向こうに消えるまで、私はその場に立っていた。
風が蒼い葉を揺らした。虫の声がどこかで鳴っていた。
——関係ない。もう、関係のないことだ。
そう自分に言い聞かせて、工房に向かった。
工房に戻り、すぐに調合を始めた。
鞄から銀葉草を取り出す。布袋を開くと、銀色の産毛をまとった蒼い葉が六枚。摘んでから時間が経っていないので、まだ瑞々しい。薬効が逃げないうちに加工する必要がある。
まず葉を一枚ずつ広げ、乳鉢に入れた。乳棒で丁寧に潰していく。銀葉草は繊維が硬いので、魔素を通して柔らかくしてから潰す。指先に魔素を集中させ、葉の繊維に干渉する。硬い繊維がほどけ、中に含まれた薬効成分が染み出してくる。
潰した葉に少量の水を加え、弱火にかけた。魔石コンロの小さな炎が、乳鉢の底をゆっくりと温める。沸騰させてはいけない。銀葉草の薬効は高温で壊れる。魔素で温度を感じ取りながら、適温を保つ。
煮出すこと半刻。薄い銀色の液体が出来上がった。蒼苔の煎じ薬とは違う、澄んだ銀の色。匂いは青臭いが、苦みは蒼苔ほどではない。
小瓶に移し、蓋をした。三回分の煎じ薬。朝に一回ずつ飲めば、エミルの喉と肺の炎症を鎮め、再発を防げるはずだ。
夕方、マーラの家を訪ねた。
エミルはもう寝台から出て、家の中を歩き回っていた。
「薬のお姉ちゃん!」
戸口から覗いた顔が、ぱっと明るくなる。
「元気になったね」
「うん! でもお母さんがまだ走っちゃだめって」
「お母さんの言う通り。もう少しだけ、おとなしくしてて」
マーラに銀葉草の煎じ薬を渡した。
「これを明日から三日間、朝に一回ずつ飲ませてください。苦みは少ないですが、はちみつを混ぜても構いません」
「中層まで行ってきたの……?」
マーラが小瓶を両手で受け取り、私の顔を見た。
「ルッツさんが一緒でしたから。大丈夫でしたよ」
嘘ではない。大丈夫だった。蒼牙狼の唸り声に肝が冷えたのは——まあ、言わなくていいだろう。
「……ありがとう」
マーラの声が、少し震えていた。
工房に戻る道すがら、空を見上げた。
夕焼けの空の端に、蒼い樹海の稜線が黒く浮かんでいた。あの蒼い影の奥に、中層がある。さらにその奥に、深層がある。
中層で見た景色を思い出した。闇に沈みかけた蒼。光る苔。銀色の葉。大気に満ちた魔素の密度。そして、蒼牙狼の遠い唸り声。
縁で採れる素材だけでは、薬師として足りないことが分かった。銀葉草のような希少な薬草が、あの中層にはまだたくさんあるのだろう。灯茸もそうだ。乾燥させれば鎮静剤になる。他にも、図鑑でしか見たことのない素材が眠っているはずだ。
——そしてその奥には、深層がある。
深層には銀牌以上の冒険者しか入れない。魔素濃度が桁違いに高く、上位の魔獣が棲む領域。けれどそこには、もっとすごい素材がある。樹海王蟲の体液は万能薬の原料になるという。霧蜘蛛の蟲糸は最高級の包帯になる。
今の私には、手が届かない。
けれど、知っている。あの蒼の奥に、薬師にとっての宝が眠っていることを。
工房の戸を開け、中に入った。
棚に並んだ調合道具。乳鉢、乳棒、小刀、布袋、量り皿。乾燥棚には蒼苔と薬草が吊るされ、蒼い香りが工房に満ちている。
棚の端に、銀葉草の煎じ薬を作った乳鉢がまだ置いてあった。その底に残った銀色の液の痕を指で触れた。
今日、一つ確かめたことがある。
私は中層に行ける。ルッツの助けがあれば、必要な素材を採りに行ける。蒼牙狼は怖かった。けれど逃げ方を知っている人がいれば、薬師でも中層に踏み込める。
自分の足で歩いて、自分の手で摘んで、自分の目で確かめる。それが辺境の薬師だ。
板張りの床に座り、干し肉を齧った。水筒の水で流し込み、鞄の中身を一つずつ確認して元に戻す。明日の朝、エミルの様子を見に行こう。銀葉草の煎じ薬の飲み方を、もう一度マーラに説明しておきたい。
窓の外で、虫の声が始まっていた。途切れることなく続いている。辺境の夜の音。
目を閉じると、中層の蒼い薄明が瞼の裏に浮かんだ。あの深い蒼。あの静寂。あの、肌にまとわりつくような魔素の密度。
怖かった。けれど、美しかった。
樹海は恐ろしくて、豊かだった。
あの奥にはまだ知らない素材が、知らない薬草が、知らない世界がある。
薬師として、もっと知りたいと思った。
でも今日は、ここまで。
布を敷いて横になった。体が重い。中層を歩くのは、思った以上に体力を使うらしい。
明日の朝、エミルが銀葉草の煎じ薬を飲んで、また「にが」と顔をしかめるだろう。マーラがはちみつを混ぜてやるだろう。ダルクが無言で息子の頭を撫でるだろう。
その光景を思い浮かべて、私は目を閉じた。
辺境の夜は、今日も静かだった。




