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癒した手が人を殺すと知ったので、聖騎士団を辞めて辺境で薬屋を始めました  作者: 蒼月よる


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第4話 灰枝へ

 灰枝まで北に二日、とイルダに言われたとき、私はそれを近いと感じた。

 聖騎士団の駐屯地から辺境まで七日かかったことを思えば、二日はもう散歩のようなものだ。——とは言え、実際に歩き始めると話は違った。


 集落を出たのは朝靄が残る刻限だった。

 肩掛け鞄には蒼苔を乾燥させたもの、薬草の束、軟膏を詰めた小瓶を六つ、胃薬の包みを十。集落の人々が使わない分を持って行く。これが交易の第一歩だと、イルダは言った。

「灰枝のギルドに卸せば銅貨になる。銅貨があれば塩が買える。塩があれば干し肉が作れる。辺境ってのはそういう暮らしだよ」

 出発前にそう言ったイルダの声を思い出しながら、私は樹海の縁に沿って北へ歩いた。

 隣にはルッツがいた。初めての灰枝行きだからと、イルダが護衛につけてくれたのだ。ルッツは何も言わず、少し先を歩いている。


 道らしい道はない。木の幹に刻まれた傷や積まれた石を辿って歩く。左手には蒼い樹海が壁のように広がり、右手にはやせた草原が続いている。

 樹海の縁を歩くのは、もう慣れた。蒼い葉の下から湿った空気が流れてくる。苔と土の匂い。


 半日ほど歩いた頃、足元の茂みに見慣れない草が生えているのに気づいた。

 思わず足を止めた。細い茎に鈍い銀色の葉がつき、根元に小さな黄色い花が咲いている。

苦甘草にがあまそう……」

 声が漏れた。図鑑では見たことがあったが、実物は初めてだった。辺境の湿った土壌にしか自生しない、珍しい薬草だ。

 しゃがみ込んで、茎の根元に小刀を当てた。根を傷つけないように、丁寧に三本だけ切り取る。葉を指先で軽く揉むと、苦みの奥にほのかな甘い香りが立ち上った。

「それ食えるのか」

 ルッツが足を止めて、振り返っていた。

「食べられませんが、傷薬に混ぜると効きが倍になるんです。苦甘草の成分が獣脂と結合すると浸透力が上がって、薬効が皮膚の深いところまで——」

 気づくと早口になっていた。ルッツの目がこちらを見ている。慌てて口を閉じた。

「……すみません。つい」

 ルッツは何も言わなかったが、少しだけ口元を緩めたように見えた。

 苦甘草を布に包んで鞄にしまい、また歩き始めた。


 日が傾く頃、小さな沢のそばに野営地を見つけた。先人が使った焚き火の痕と、石を並べた風除けが残っている。

 苔皮のテントを広げ、魔石コンロで蒼苔のスープを作った。温かいものが腹に入るだけでありがたかった。

 一人の野営は、もう怖くない。聖騎士団を去った直後は夜が来るたびに心臓が縮むような思いだったが、今は違う。蒼苔を敷いて虫除けにする方法も、沢の音で魔獣の気配を読む方法も知っている。

 虫の声と沢の音を子守唄にして、私はいつの間にか眠っていた。


 二日目の朝、野営地を片付けて歩き始めると、道の様子が変わってきた。道標が増え、地面が踏み固められている。人がよく通る道なのだ。

 前方から荷車を引いた男とすれ違った。軽く頭を下げると、男も頷きを返した。ただそれだけのことなのに、不思議と安心する。


 昼を過ぎた頃、低い丘を越えたところで視界が開けた。

 ——灰枝だ。

 石を敷いた通りに沿って、装甲片の壁と棘鱗の屋根の建物が並んでいる。集落よりずっと大きい。家の数だけで五十は軽く超えている。骨材の柱が支える軒先には品物が吊るされ、通りを歩く人の姿がある。

 集落の何倍もの煙が、空に立ち上っていた。

 人の暮らしの煙。それが何十本もある。

 私は少し立ち止まって、その景色を見た。集落に来たときも煙に心を動かされたが、灰枝はまた違う。ここには生活だけでなく、商いがある。行き交う人の足取りが速い。目的を持って歩いている。

 ——さて。

 鞄の紐を握り直して、通りに足を踏み入れた。


 ギルドの支部は、通りの中ほどにある石造りの建物だった。

 他の建物より一回り大きく、入口の脇に冒険者ギルドの紋章——交差した剣と盾の意匠——が掲げてある。木の扉を押して中に入ると、ひんやりした空気と、紙と革の匂いが混じった独特の気配が迎えた。

 中は広くはない。受付の台が一つ、壁に掲示板、奥に扉が一つ。冒険者の姿は二人ほどで、壁の掲示板を見上げていた。辺境のギルド支部は、牧歌的だ。

 受付には若い女が一人、座っていた。

 栗色の髪を耳の後ろで留めて、手元の帳簿に何か書き込んでいる。私が近づくと顔を上げ、丁寧な笑みを浮かべた。

「いらっしゃいませ。ギルドの受付です。ご用件をどうぞ」

「素材の買取をお願いしたいのですが」

「買取ですね。登録証はお持ちですか? あ、個人の持ち込みでしたら登録なしでも受け付けますよ」

 ナタリアと名乗ったその受付は、仕事の手際がよかった。書類を手早く出し、私の名前と集落の名を記入し、素材の確認に入る。

「では、中身を見せていただけますか」

 私は鞄を開けて、品物を台の上に並べた。


 乾燥蒼苔の束が四つ。

 薬草——苦香草と蒼傘茸の乾燥品が各三束。

 軟膏の小瓶が六つ。

 胃薬の包みが十。


 ナタリアは一つずつ手に取り、色と匂いを確かめた。蒼苔の束を指先でほぐし、乾燥の具合を見ている。軟膏の瓶を開けて匂いを嗅ぎ、指先にほんの少し取って粘度を確認した。

 ——目利きができる人だ。

 受付の仕事をしているだけあって、素材の品質を見る目が確かだった。

「……これ、すごくいいですね」

 ナタリアが蒼苔の束を持ったまま、少し目を丸くした。

「乾燥の加減が絶妙です。水分が残りすぎてもいないし、乾かしすぎて粒が潰れてもいない。これ、ご自分で採って処理されたんですか?」

「はい。集落の近くの樹海の縁で採って、日陰で三日ほど乾かしました。途中で一度裏返して、均等に風を通しています」

「なるほど……通りでいい状態なわけだ」

 ナタリアは感心したように頷いて、次に軟膏の瓶を手に取った。

「この軟膏もですね。粒が均一で、嫌な匂いがない。冒険者さんに持ち込まれる軟膏って、たまに変な臭いがするんですよ。獣脂の精製が甘いと」

「獣脂は三回漉してから使っています。手間はかかりますが、そうしないと肌につけたとき刺激になるので」

「三回……」

 ナタリアが小さく息をついた。何かを言いかけて、やめた。代わりに帳簿に値をつけ始める。


「蒼苔の乾燥品、品質上のものとして——束あたり銅貨三で、四束で銅貨十二。薬草類は束あたり銅貨二で、六束で銅貨十二。軟膏は一瓶銅貨四で——」

「あの、軟膏をもう少し見ていただけますか」

 私は口を挟んだ。棚に並べかけた小瓶を一つ取り、蓋を開けてナタリアの前に差し出した。

「蒼苔と獣脂を魔素操作で乳化させています。粒の大きさが揃っているのは、そのためです。切り傷に塗れば半日で痛みが引きます」

 ナタリアが瓶に鼻を近づけ、もう一度匂いを嗅いだ。指先で少量を取り、掌の上で伸ばしている。

「……確かに、伸びが全然違いますね。これは銅貨五でいいです。いえ、五で買い取らせてください」

「ありがとうございます」


「では改めて。蒼苔の乾燥品が銅貨十二、薬草類が銅貨十二、軟膏は一瓶銅貨五で六瓶の銅貨三十。胃薬は一包み銅貨二で、十包みで銅貨二十。合計で——銅貨七十四です」

 銅貨七十四。

 私はその数字を聞いて、少し驚いた。

 物価の感覚がまだ曖昧だが、食堂の一食が銅貨一だと聞いている。七十四食分。十日分以上の食費に相当する。

 初めての卸しで、これだけの額になるとは思っていなかった。

「品質が良いので、通常より少し上乗せしています」

 ナタリアがそう言って、銅貨を数えて並べた。

「ありがとうございます。正直に言うと、思っていたより多くて驚きました」

「辺境の薬師さんの手仕事って、丁寧なものが多いんですよ。量産じゃないから、一つ一つに手間がかかってる。ギルドとしてもありがたいです」

 ナタリアは書類にまとめの署名をしながら、ふと顔を上げた。

「また持ってきてくださいね。特に軟膏は、冒険者さんの消耗品なので需要が絶えないんです」

「わかりました。定期的に来るようにします」

 銅貨を鞄にしまいながら、私は少しだけ口元が緩むのを感じた。


 ギルドを出て、通りを少し歩いた。

 灰枝の街は、歩いているだけで集落との違いが目に入る。

 肉屋の軒先には装甲猪の肉が吊るされ、道具屋の棚には蒼牙のナイフや革の手袋が並んでいる。鍛冶場からは金属を叩く音が聞こえ、革工房の前では獣脂の匂いがした。

 人の数が違う。集落では朝も昼も同じ顔ぶれだが、ここでは知らない顔ばかりだ。冒険者らしき装備の者、荷を担いだ商人、日用品を買いに来た近隣の住人。それぞれが自分の用事を済ませて、足早に通り過ぎていく。

 ——にぎやかだ。

 交易の街の賑わいというのは、集落とはまるで違う。雑然としていて、けれどその雑然さが心地よかった。


 昼を過ぎていた。朝から歩いて何も食べていない。

 通りの角に食堂を見つけた。木の看板に「灰枝の鍋」と書いてある。入口の前に出された木の椅子に座っている冒険者が、湯気の立つ椀を持っていた。

 戸を開けて中に入ると、食べ物の匂いに包まれた。

 肉の脂が焼ける匂い。根菜の煮える匂い。そしてかすかに、パンの匂い。

 ——パン。

 辺境の集落では見なかった。穀物は耕地が限られるため、辺境ではほとんど手に入らない。灰枝は交易拠点だから、行商人が持ち込むのだろう。

 木の台に座って、品書きを見た。

 根菜のシチューが銅貨一。装甲猪の塩焼きが銅貨二。焼き魚が銅貨二。パンが銅貨一。蒼酒が銅貨一。

 集落では選択肢がなかった。蒼苔のスープと干し肉と蒸し芋。それが毎日の食事で、不満はなかったが、品書きに並ぶ種類の多さに目が泳いだ。

「根菜のシチューと、パンをお願いします」

 声をかけると、奥から中年の男が頷いた。

 待つ間、食堂の中を見渡した。

 木の壁に装甲片を打ちつけた頑丈な作りで、長い台に椅子が並んでいる。奥で冒険者が三人、肉を頬張りながら話をしていた。声は大きいが、殺気はない。冒険者の食堂というのは、こういう雰囲気なのだろう。

 ——ふと、声が耳に入った。

「北のほうで聖騎士団が動いてるって話、聞いたか」

「ああ。巡回が増えてるとかなんとか」

「またどっかの集落が処理されんのかね」

「知らねえよ。こっちまで来なきゃいいがな」

 心臓が、一瞬だけ跳ねた。

 聖騎士団。北で動いている。

 私は何も聞こえなかったふりをして、シチューが来るのを待った。


 根菜のシチューとパンが運ばれてきた。

 匙を動かしながら、頭の中では別のことを考えていた。ナタリアの言った銅貨七十四という数字。次に卸すときは軟膏を増やしたほうがいい。蒼苔の乾燥品も、もう少し丁寧に仕上げれば単価が上がるかもしれない。

 パンをちぎってシチューに浸し、口に運んだ。温かかった。味はよく分からなかった。頭の中は明日の帰り道のことと、次の卸しのことでいっぱいだった。

 気がつくとシチューの椀は空で、パンもなくなっていた。食べた気がしなかったが、腹は満たされた。それでいい。今は味を楽しむより、先のことを考えるほうが大事だった。

 銅貨二枚を置いて席を立った。


 食堂を出ると、午後の日差しが通りに落ちていた。

 銅貨七十四から食事代の二を引いて、七十二。まだたっぷりある。

 塩を買おう。イルダに頼まれた塩。それから、できれば蜂蜜も。蒼実の砂糖漬けに使えるし、薬草茶に混ぜれば子供でも飲める。

 道具屋で塩を銅貨五で買い、行商人の荷台で蜂蜜の小壺を銅貨十で見つけた。高いが、辺境では手に入らない。迷ったが、買った。

 残り銅貨五十七。

 鞄が来たときとは違う重さで肩にかかる。素材を出して、生活の糧を得て帰る。当たり前の交易の一巡りを、私は初めて自分の足でやった。

 銅貨の一枚一枚が、自分の手仕事の対価だ。自分で作って、自分で運んで、自分で売った。その実感が、鞄の中でかすかに触れ合う硬貨の音になっている。


 灰枝で一泊するつもりだった。

 安宿を探して、銅貨四で一晩の部屋を取った。狭いが清潔で、板張りの床に苔皮の敷布が敷いてある。窓から灰枝の通りが見えた。

 日が落ちると、通りに魔石灯が灯った。集落にはない光景だ。集落では夜は暗い。獣脂灯と魔石灯が各家にあるだけで、通りには灯りがない。

 灰枝の夜は、少しだけ明るかった。

 宿の寝台に横になり、天井を見る。

 銅貨五十三が鞄の中にある。塩と蜂蜜が手に入った。ナタリアという目利きの受付がいて、定期的に卸せる道ができた。

 明日の朝、もう少しだけ灰枝を見て回ろう。それから集落に帰る。帰ったら、イルダに報告して、塩を渡して、蜂蜜で蒼実の砂糖漬けを作る。

 ——やることがある。

 それが嬉しくて、私は目を閉じた。

 灰枝の夜は、集落の夜より少しだけ騒がしかった。けれど、それも悪くなかった。

 明日の朝、ギルドの前で薬を売ってみよう。冒険者たちに、私の軟膏の価値を知ってもらう。


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