第3話 薬草工房
三日目の朝は、仕事から始めた。
まず、乾燥棚を作る。
ゴルドの家には壁沿いに棚がいくつかあったが、薬草を干すための棚は別に必要だ。窓辺に風が通る場所を選び、壁に釘を打って板を渡す。板は家の裏手に積んであった端材を使った。骨材の釘は硬くて丈夫で、石で叩くとしっかり壁に食い込んだ。
二段の棚を作り、上段に蒼苔を、下段に苦香草を広げた。窓から入る風が素材の間を抜けていく。蒼い苔の匂いと、苦い清涼感のある香りが部屋に満ちた。
いい匂いだ。
風が通る分、匂いが軽い。自分の好きな素材の匂いだけが漂っている。
次に、調合道具を棚に並べ直した。
乳鉢を棚の左端に。乳棒はその隣。小刀、布袋、量り皿を右へ順に並べる。師匠から教わった配置だ。利き手の動線に沿って道具が並ぶことで、調合中に手が迷わない。
聖騎士団では、道具は共用だった。調合室に備え付けの大きな乳鉢と大量の乳棒。番号が振られた薬瓶と規格化された量り。効率的だが、手に馴染むという感覚はなかった。
ここに並んでいるのは、全部私のものだ。師匠から受け継いだ乳鉢は、縁が少し欠けている。乳棒は握りすぎて真ん中がくびれている。使い込んだ道具には、持ち主の手の形が残る。
窓辺の蒼苔を一房取り、指で触れた。一晩干したことで水分が抜け、粒の散り方がさらに均一になっている。良い状態だ。
胃薬を作る。
乳鉢に蒼苔をひと房入れて、乳棒で丁寧に潰す。力を入れすぎると繊維が崩れて雑味が出る。力が弱いと成分が出ない。ちょうどいい加減は、何百回と繰り返した手の感覚が知っている。
潰した蒼苔を量り皿に移し、水を加える。魔石コンロに乗せた小鍋で煎じるのだが、その前に——ここからが薬師の仕事だ。
指先に魔素を集中させる。
淡い光が指先に灯る。微弱な魔素操作。これを蒼苔に向けて静かに流し込む。
魔素が蒼苔の成分に干渉し、有効成分だけを引き出す。不純物を弾き、苦味の元になる余計な繊維を分離する。目に見えるほどの変化はない。だが、指先の感覚で——魔素の流れが変わる瞬間の、あの微かな手応えで——成分が正しく抽出されていることがわかる。
「……よし。粒が揃った」
独り言。誰も聞いていないが、調合中はいつもこうだ。
小鍋で弱火にかけ、ゆっくりと煎じる。湯気が蒼みを帯びて立ち上る。苔の匂いの中に、薬効成分の清涼感が混じり始めたら火を止める。
煎じ液を布で濾して、小さな瓶に移した。
蒼苔の胃薬。一瓶で三回分。腹の不調や食あたりに効く。
続けて、軟膏を作る。
蒼苔の煎じ液を濃く煮詰めたものに、獣脂を加えて練る。獣脂は——手元にない。
棚を見回したが、ゴルドの家に残された素材はほとんど使い物にならなかった。三年前の乾燥薬草は風味も薬効も失われている。
困った。軟膏には油脂が必要だ。
少し迷ってから、戸口を出て通りに向かった。
集落の通りを歩くのは、まだ緊張する。昨日までの余所者が、急に用事を頼みに歩くのだから。
何軒か過ぎたところで、煙が出ている家を見つけた。朝の調理の煙だ。戸口が開いていて、中から肉を焼く匂いがする。
声をかけようか迷っていると、中から女が顔を出した。昨日鍋を返した、あの女だった。
「何だい、薬師」
「あの——獣脂を少し分けていただけませんか。軟膏を作りたいんです」
女は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに家の中に引っ込んで、陶器の小壺を持って出てきた。
「装甲猪の脂だよ。これでいいかい」
「十分です。ありがとうございます」
「何と交換する」
「え」
「ただで渡すわけにはいかないだろう。うちだって余ってるわけじゃないんだ」
当然のことだった。辺境では物々交換が基本だ。
私は鞄の中を探って、苦香草の束を取り出した。
「これは苦香草です。肉の臭み消しに使えます。装甲猪の肉に揉み込んでから焼くと、臭みが抜けて食べやすくなります」
女は苦香草を受け取り、匂いを嗅いだ。
「ああ、これか。たまに自分で採りに行くが、こんなに葉が大きいのは珍しいね」
「樹海の縁の奥の方に生えていたものです。日当たりが良い場所のものは、葉が大きくなるんですよ」
女は小さく頷いて、脂の壺を差し出した。
「じゃあ、これで」
「ありがとうございます。——あの、お名前を伺ってもいいですか」
「マーラだよ」
「マーラさん。軟膏ができたら、一つお持ちしますね」
「……ふうん」
マーラは壺を渡すと、さっさと家に戻っていった。あの「ふうん」は、少しだけ興味がある時の「ふうん」だと思う。たぶん。
家に戻って、軟膏の調合を再開した。
装甲猪の獣脂を魔石コンロで溶かし、蒼苔の濃縮液を加える。ここでも魔素操作が必要だ。
指先から魔素を流し込み、獣脂と蒼苔の成分を分子の層で馴染ませる。油と水は本来混じらないが、魔素が仲立ちをして乳化させる。聖騎士団の薬師が普通にやっている技術だが、魔素操作ができない一般の薬師には真似できない。
ゆっくりと練り上げていく。色が変わる。白い獣脂が、淡い蒼みを帯びた乳白色に。匂いが変わる。獣脂の重い匂いが消え、蒼苔の清涼感だけが残る。
「できた」
小さな壺に移した。蒼苔の切り傷用軟膏。傷口に塗れば、蒼苔の薬効成分が痛みを和らげ、化膿を防ぐ。聖騎士団では「標準外傷軟膏B」という番号がついていた。ここでは、そんな番号は要らない。
胃薬の瓶と軟膏の壺を棚に並べた。たった二つ。けれど、この集落にはこの二つすらなかったのだ。三年間。
午後、マーラの家に軟膏を届けに行った。
ついでに、イルダのところにも胃薬を持っていった。
「胃薬?」
イルダは石積みの塀に腰かけたまま、差し出した瓶を眺めた。
「蒼苔を煎じたものです。腹の具合が悪い時に、一口飲んでください」
「蒼苔の煎じ薬なら、自分たちでも作ってたよ」
「はい。でも、魔素操作で不純物を除いてありますから、効きが違うと思います。苦味も少ないはずです」
イルダは瓶の蓋を開けて、匂いを嗅いだ。
眉が少し上がった。
「……確かに、匂いが違うね。澄んでる」
「それが魔素抽出の効果です」
「ゴルドもこんなのを作ってたかねえ。いや——ゴルドのより上だよ、これは。ゴルドは魔素操作ができなかったからね」
イルダが私の顔をじっと見た。
「あんた、どこで薬師の修行をしたんだい」
「……師匠に教わりました。それだけです」
嘘ではない。ただ、その師匠が聖騎士団の上級薬師だったことは言わなかった。
イルダはしばらく私を見つめていたが、それ以上は聞かなかった。
「まあいいさ。ありがたく使わせてもらうよ」
そう言って、瓶を腰の袋にしまった。
マーラの家へ向かう途中、通りの脇にしゃがみ込んでいる子供が目に入った。五つか六つくらいの男の子だ。両手で何かを握っている。
蒼い傘のキノコだった。
足が止まった。傘の縁に沿って、魔素の粒がまばらに偏っている。蒼毒傘だ。
子供がそれを口元に運びかけた瞬間、私は駆け寄って、その手をそっと押さえた。
「待って。それは食べちゃだめ」
子供が驚いた顔でこちらを見上げた。
「お姉ちゃん、だれ」
「薬師のフィオナです。ねえ、このキノコ、どこで見つけたの」
「あっち。きれいだったから」
指先に魔素を集中させ、キノコの傘に触れた。冷たい。やはり毒キノコだ。食べれば腹を壊す。子供の体なら、もっとひどいことになりかねない。
「このキノコは毒があるの。食べられるキノコと見分けるにはね、魔素の粒の散り方を見るんです。ほら、ここ——粒が偏って固まっているでしょう。食べられるキノコは、粒が均一に散っているの」
子供はよくわからないという顔をしていたが、蒼い傘を私に渡してくれた。
そこへ、息を切らした女が走ってきた。
「トール! 何してるの——あ」
母親だった。事情を説明すると、女は顔色を変えて子供を抱き寄せた。
「ありがとうございます、薬師さん。この子、何でも口に入れるから——」
「蒼い傘のキノコは、見た目では食用と区別がつきにくいんです。もし迷ったら、いつでも聞いてください」
女は何度も頭を下げて、子供の手を引いて帰っていった。
胸の内に、小さな安堵が広がった。間に合ってよかった。
集落を回って、軟膏を三つ配った。マーラの家、畑の男の家、それから腰を痛めているという老人の家。胃薬は五瓶作って、イルダの分を含めて四瓶を渡した。
お礼に塩をもらった。小さな布袋に入った粗い塩。灰枝から運んでくるのだという。辺境では塩は貴重品だ。
それから、根菜を三本。干し肉を一握り。蒼酒の入った革袋を半分。
どれも「余っているからあげる」という顔で渡してくれたが、辺境で余っているものなどないことくらい、私にもわかる。
夕方、もらった塩と素材で料理を作った。
まず、蒼苔スープのアレンジ。
昨日マーラがくれたのと同じ蒼苔スープを作る——蒼苔を水で煮出し、根菜を薄く切って入れる。ここまでは辺境の標準的な作り方だ。
ここに、乾燥させた苦香草を少量加えた。
ほんの一つまみ。入れすぎると苦くなる。蒼苔の苦味と苦香草の苦味は種類が違うので、少量なら互いの苦味を相殺して、清涼感だけが残る。薬師の知識がなければ思いつかない組み合わせだ。
一口飲んだ。
「あ」
蒼苔の苦味が軽くなっている。その代わりに、苦香草の清涼感が鼻に抜ける。根菜の甘みが前に出てきて、全体の味がすっきりと澄んだ。昨日のスープよりずっと飲みやすい。
「おいしい」
声に出して言った。自分の作ったものを自分でおいしいと言うのは少し気恥ずかしかったが、おいしいものはおいしい。
次に、装甲猪の塩焼きに蒼実のソースを試す。
もらった干し肉を水で戻し、薄く切って塩を振り、装甲片のフライパンで焼く。装甲猪の肉は脂が多く、フライパンに油を引かなくても脂が滲み出てくる。じゅう、と低い音を立てて、肉の表面が焼き色をつけていく。
その横で、蒼実を小鍋で潰しながら煮詰めた。酸味が飛びすぎないように弱火で。途中で塩をひとつまみ加える。蒼い液体がとろりと煮詰まって、艶のあるソースになった。
焼きあがった肉に、蒼実のソースをかけた。
蒼い。見た目は不思議だ。焼けた茶色の肉の上に、蒼いソースが光っている。
一切れ、口に運んだ。
装甲猪の濃厚な脂が舌に広がる。そこに蒼実の酸味がすっと切り込んできて、脂っこさを洗い流す。後味に、蒼実の微かな甘みと、塩の余韻が残る。
「合う——」
思った通りだ。装甲猪の脂に蒼実の酸味は合う。辺境の素材だけで、こんなに味が変わる。聖騎士団の食堂では出てこない味だ。あそこの装甲猪は、ただ焼いて塩を振るだけだった。
匙を置いて、窓の外を見た。
夕暮れの空に、集落の煙が何本も上がっている。あの煙の下で、みんなが夕飯を食べている。同じ蒼苔スープを、同じ装甲猪の肉を、それぞれの家で。
聖騎士団では、癒すことは戦わせることだった。私は五年間、その薬を作り続けた。けれど私は見てしまった。だから、ここにいる。
このスープの先には、明日の畑仕事がある。明日の狩りがある。ただそれだけの、当たり前の明日が。
ここで作る薬は違う。胃薬はお腹が痛い人のためのもので、軟膏は畑仕事で手を切った人のためのものだ。治った人は、また畑に出て、また夕飯を作る。その繰り返しの中に、生きるということがある。
癒して、生きて、暮らす。
それだけのことが、こんなにも穏やかだった。
蒼苔スープの残りを飲み干した。苦香草の清涼感が、舌の奥にすうっと残っている。
明日は蒼苔をもう少し採りに行こう。胃薬の在庫を増やしたい。それから、蒼実のソースをマーラに味見してもらいたい。迷惑がられるだろうか。いや、あの「ふうん」の顔を見る限り、少しくらいは興味を持ってくれそうだ。
乾燥棚の苦香草が、風に揺れている。蒼苔の匂いと苦香草の匂いが混じって、この小さな家を満たしている。
ゴルドさん。
会ったことのない前の薬師に、心の中で話しかけた。
あなたの家を、使わせてもらっています。あなたの棚に、私の道具を並べています。あなたが三年前に残した薬草の茎が、まだ棚の隅にありました。捨てずにとってあります。
いい家です。窓から風が通って、樹海の匂いがして、素材を干すのにちょうどいい。
ありがとうございます。
目を閉じて、深く息を吸った。蒼い空気が肺を満たした。
明日も、ここで薬を作る。明日も、ここでご飯を食べる。
そのうち、灰枝にも行ってみたい。イルダの言っていた交易の町。ここで作ったものが、どこまで届くだろう。
それだけのことが、今はとても大切だった。




