第11話 恵みの棚
開店の朝は、思ったよりも早く来た。
目が覚めたとき、窓から差し込む蒼い光はまだ薄かった。虫の声が残っている。朝の鳥はまだ鳴いていない。
起き上がって、顔を洗い、革のエプロンをつけた。いつもと同じ朝の支度。だが今日は、その先が違う。
棚の前に立った。
薬の瓶が並んでいる。軟膏の小瓶が並んでいる。茶葉の袋が並んでいる。蒼実の砂糖漬けの瓶が、魔石灯の光を受けて蒼く透けている。香草塩の袋。蒼苔の乾燥パック。
一つひとつ、手に取って確認した。
胃薬は紙包みが十二個。軟膏は小瓶が八つ。鎮痛剤は五包。薬草茶の茶葉は袋が六つ。蒼実の砂糖漬けは瓶が四つ。香草塩は袋が七つ。蒼苔の乾燥パックは十束。
解毒剤は三本。これは手間がかかるぶん数が少ない。根蛇の毒腺を慎重に摘出して、蒼苔の煎じ液と合わせて。工程を思い出しかけて、首を振った。今は確認するだけでいい。
値札を見直した。字が歪んでいないか。金額を間違えていないか。
大丈夫。全部揃っている。
戸口を開けた。
朝の空気が流れ込んできた。蒼い樹海の匂いと、集落の朝靄の湿った匂い。遠くで誰かが蒼苔スープを煮ている匂いがする。
看板を見上げた。「樹海の恵み」。蒼い文字が朝の光の中で静かに浮かんでいる。
開店だ。
そう思った瞬間、お腹の底がきゅっと縮んだ。
一人で店を開いて、一人で客を迎えて、一人で売る。
——いや。
一人だけど、一人ではない。この集落には人がいる。看板を作ってくれたトーマスがいて、棚の木材を運んでくれた畑の男がいて、尻を叩いてくれたイルダがいる。
大丈夫。
深呼吸を一つして、戸口の脇に立った。
最初の客が来たのは、朝の光が通りを照らし始めた頃だった。
集落の女が一人、通りの向こうからやってきた。この集落に来た最初の夜に鍋を届けてくれた女だ。名前はマーラ。あの日の蒼苔スープの味を、私は忘れていない。
マーラは看板を見上げて、少し笑った。
「開いたのかい」
「はい。今日からです」
「ずっと待ってたよ。うちの亭主が腰を痛めてね。軟膏をもらえるかい」
「はい、もちろんです」
棚から軟膏の小瓶を取り出した。手が少しだけ震えていた。
「銅貨八枚になります」
マーラは腰の革袋から銅貨を数えて、私の手のひらに乗せた。八枚。冷たい金属の重み。
「ありがとうございます」
「こっちこそ。灰枝まで行かなくて済むようになって助かるよ」
マーラは小瓶を受け取ると、棚を見回した。
「蒼実の砂糖漬け? こんなものも売ってるのかい」
「はい。保存食にもなりますし、甘酸っぱくておいしいですよ」
「一つもらおうかね。うちの子が甘いもの好きでね」
砂糖漬けの瓶を一つ。銅貨四枚。
マーラは二つの品を抱えて帰っていった。振り向きざまに「頑張りな」と言った。イルダと同じ言い方だった。辺境の女たちは、みんなこういう言い方をするのだろうか。
午前中に、集落の人が三人来た。
胃薬を二包買っていった男。薬草茶の茶葉を一袋買った老婆。香草塩を二袋と蒼苔の乾燥パックを三束買っていった若い女。
若い女は乾燥パックを手に取って首を傾げた。
「これ、どう使うの」
「お湯で戻して、スープの素にするんです。蒼苔スープを手軽に作れますよ。あと、そのまま砕いて粉にすれば、傷口に振りかけて止血にも使えます」
「へえ。便利だね」
嬉しかった。自分が作ったものの使い方を説明して、相手が納得して買ってくれる。それだけのことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
昼過ぎに、灰枝からの客が来た。
冒険者が二人。どちらも若い男で、革鎧に蒼牙の剣を佩いている。銅牌だろう。日に焼けた顔に、樹海の泥がついていた。
「ここが噂の薬師の店か」
「はい。いらっしゃいませ」
二人は棚を物色し始めた。軟膏の小瓶を手に取り、蓋を開けて匂いを嗅ぐ。
「いい匂いだな。灰枝のギルドで買ったのと同じやつだ」
「ギルドに卸しているものと同じです。蒼苔と苦香草を配合した軟膏で、切り傷と擦り傷に効きます」
「四つくれ」
「四つ……ですか」
「パーティの分だ。仲間が二人、灰枝で待ってる。足りなくなるといつも困るんだよ」
男は軟膏の小瓶を手のひらで転がしながら、続けた。
「先月、聖都から取り寄せた軟膏を使ったら全然効かなくてよ。仲間が腕の傷を化膿させちまった。三日も動けなくて、依頼を一本潰した」
もう一人が頷いた。
「あんたの軟膏は灰枝で試して効くのが分かってるから、わざわざここまで来たんだ。聖都の薬に金払うくらいなら、半日歩いたほうがましだ」
「それは大変でしたね」
私はそれだけ答えた。
聖都の軟膏の質が落ちた。それが何を意味するか、私には分かっていた。分かっていたが、口には出さなかった。
胸の奥で何かがざわついたが、表には出さなかった。ただ、軟膏を紙で包む手が、少しだけ丁寧になった。自分でも気づかないほどの、ほんの僅かな変化だった。
軟膏四つ。銅貨三十二枚。一度にそれだけの額が動くとは思っていなかった。
もう一人の冒険者が鎮痛剤に目を留めた。
「鎮痛剤もあるのか。これは効くのか」
「蒼傘茸から抽出した成分が主原料です。頭痛や筋肉痛に効きます。戦闘後の体の痛みにも」
「二つくれ」
鎮痛剤二包。銅貨二十枚。
二人は解毒剤も一本ずつ買っていった。銅貨三十枚。
合計八十二枚。二人が帰ったあと、手のひらに残った銅貨の重みに、少しめまいがした。
午後、もう一組の冒険者が来た。こちらは三人組で、そのうちの一人が足を引きずっていた。
「軟膏を——」
「見せてください」
足首を確認した。腫れている。打撲だ。蒼牙狼に蹴られたらしい。
「軟膏を塗りますね。それと、この鎮痛剤を飲んでください。蒼苔の煎じ茶で流し込むと効きが早いです」
薬を渡しながら、怪我の手当てをした。聖騎士団で何百回とやってきたことだ。手が勝手に動く。軟膏を塗り、布で巻き、固定する。
「……すげえな。手つきが違う」
「薬師ですから」
三人から合計銅貨四十六枚。
夕方近くになって、見覚えのある顔が通りの向こうに現れた。
栗色の髪を一つに束ねた女性。ギルドの制服ではなく、私服の簡素なワンピースを着ている。手に包みを抱えていた。
ナタリアだった。
「フィオナ! 来ちゃった」
「ナタリア。灰枝から?」
「今日は非番なの。看板を見たくて」
ナタリアは戸口の看板を見上げて、満面の笑みを浮かべた。
「かわいい。蒼い文字がいいね。誰が作ったの」
「集落の大工のトーマスさんに。文字の色は奥さんが蒼苔の染料で」
「素敵。はい、これ、お土産」
差し出された包みを開けると、小さな焼き菓子が入っていた。灰枝の菓子屋で売っている、蒼実を練り込んだクッキーだ。
「ありがとう。嬉しい」
「お店の開店祝い。ちゃんとしたのはまた今度持ってくるね」
ナタリアは工房の中に入ってきて、棚を一つひとつ見て回った。
「すごい。品揃え良くなったね。この蒼苔の乾燥パック、ギルドでも扱えないかな」
「在庫が安定したら卸せると思います」
「楽しみ。——あ、この香草塩、私も買っていい?」
「もちろん。でもナタリアはお客さんじゃなくて友達だから、一つおまけしますね」
「え、いいの? やった」
ナタリアは香草塩を二袋と、薬草茶の茶葉を一袋買ってくれた。銅貨七枚。おまけの香草塩を一袋。
棚の脇に置いた椅子に腰かけて、ナタリアと焼き菓子を食べた。蒼実の酸味がほんのり効いた、素朴な甘さの菓子だった。
「おいしい」
「でしょう? 灰枝の南通りの菓子屋で買ったの。最近できた店なんだけど、おいしいんだよ」
蒼苔の煎じ茶を淹れて、二人で飲んだ。苦い茶の味と、甘い菓子の味が、口の中で混ざる。
ナタリアが窓の外を見た。樹海の縁が蒼く光っている。
「いい場所だね、ここ。灰枝より静かで」
「うん。最初は静かすぎて不安だったけど、今はこれくらいがいい」
「フィオナ、変わったね」
「……変わった?」
「最初に会ったとき、もっと緊張してた。目が怖かった、って言ったら失礼だけど——どこか、追い詰められたような顔してたよ」
覚えている。灰枝のギルドに素材を持ち込んだ日のことだ。あの日の私は、集落に来て間もなくで、まだ自分がどこにいるのかも分かっていなかった。
「今は、いい顔してる」
「……ありがとう」
夕方になって、ナタリアは帰り支度を始めた。灰枝まで半日の道のりを、暗くなる前に発たなければならない。
「また来るね。今度は泊まりで」
「うん。泊まる場所は用意するよ」
ナタリアは戸口で振り返った。
「今度は私が食べに来る。フィオナの料理、食べたいんだよね。ギルドの食堂の味に飽きてるの」
「腕を振るうよ」
ナタリアが手を振って、通りの向こうに消えていった。
一人になった工房で、今日の売上を数えた。
銅貨を調合台の上に並べる。十枚ずつ、列にする。
一列、二列、三列——。
最終的に並んだ銅貨は、百七十三枚だった。
百七十三枚。
銅貨一枚は食堂の一食分に相当する。つまり今日一日で、百七十三食分の価値のものを売ったことになる。
もちろん、材料費や道具の消耗を差し引かなければならない。蒼苔は自分で採るから費用はかからないが、砂糖や塩は灰枝で買っている。瓶や紙も消耗品だ。
それでも。
銅貨の列を見つめた。
一枚を手に取った。使い込まれた銅貨だ。誰かの手から誰かの手へ渡ってきた、辺境の日常の重み。
蒼苔を採り、薬草を摘み、キノコを見分け、調合し、瓶に詰め、棚に並べ、客に渡した。その一つひとつの手間が、この銅貨の重さになっている。
——これで暮らしていける。
その実感が、じわりと胸に広がった。
暮らしていける。薬を作って、食品を作って、売って、買って、食べて、眠る。その繰り返しで、私はここで生きていける。
聖騎士団を出たとき、先のことは何も考えていなかった。ただ逃げるように歩いて、辿り着いた集落で薬師を始めた。それがいつの間にか、店になった。
棚を見た。空いた場所がある。今日売れた分だ。明日はまた採取に行って、調合して、並べる。そしてまた売れて、空いて、補充する。その繰り返し。
それが、嬉しかった。
銅貨を革袋に入れて、棚の奥にしまった。
窓を閉める前に、外を見た。樹海の縁が夕闇に沈んでいく。蒼い光が、夜の色に変わっていく。
魔石灯をつけて、明日の準備を始めた。蒼苔を煎じて、胃薬の粉を練る。乳鉢の中で蒼苔が砕ける音が、静かな工房に響いた。
今日は良い一日だった。
明日も店を開ける。明後日も。その次も。
調合台に向かいながら、口元が緩んでいるのが自分でも分かった。




