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癒した手が人を殺すと知ったので、聖騎士団を辞めて辺境で薬屋を始めました  作者: 蒼月よる


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第10話 看板

 最近、工房の戸を叩く音が増えた。


 集落の人だけではない。灰枝から半日かけて歩いてくる冒険者が、週に二人、三人と現れるようになった。

「軟膏をくれ。灰枝のギルドで売ってたやつと同じのを」

「胃薬はあるか。蒼苔の、苦いやつ」

 最初の頃は驚いた。灰枝のナタリアに卸していた薬が冒険者の間で評判になり、わざわざ集落まで買いに来る者が出てきたのだ。

 ナタリアの手紙にはこう書いてあった。「フィオナの軟膏、冒険者に大人気です。在庫がすぐなくなるので、もっと作ってください」——最後に「あと、今度遊びに行きます」と添えてあった。


 集落の人からの注文も変わってきた。

「フィオナ、虫刺されの薬は作れるかい」

「うちの婆さんが膝が痛いって言うんだが、何かないか」

「苦香草の束を分けてくれないか。あれで肉を焼くとうまいんだ」

 薬だけではなく、香草や蒼実の加工品まで頼まれるようになった。


 ある日の夕方、工房で軟膏を練っていると、イルダが来た。

 低い塀に腰かけるのが好きな人だが、今日は戸口に立ったまま、腕を組んで工房の中を眺めていた。

「繁盛してるね」

「ありがとうございます。最近は灰枝からも——」

「知ってるよ。冒険者が集落を通るたびに、あんたの家に寄ってるのは見えてる」

 イルダの目が棚を見た。乾燥した蒼苔の束、瓶に詰めた軟膏、布袋に入れた苦香草。棚は埋まりかけていたが、整理されているとは言い難かった。作ったものを空いた場所に置いているだけだ。

「フィオナ」

「はい」

「いつまでそうやって、空き家の片隅でこそこそ作ってるつもりだい」

 こそこそ。

 言われてみれば、そうかもしれなかった。工房とは言っても、ゴルドさんの家の一角を使っているだけだ。看板もなければ、商品を並べる棚もない。客は戸を叩いて「あるか」と聞き、私が奥から出してくる。それは店ではなく、ただの物々交換だった。


「……店を、出したいと思っています」


 口にしたのは初めてだった。

 頭の中では何度も考えていた。棚を増やして商品を並べ、値札をつけて、看板を掲げて——でも、そのたびに躊躇していた。

 自分の名前で薬を売ったことは、一度もない。

 店を出す。自分の名前で、自分の場所で、自分が作ったものを売る。

 それは想像もできなかったことで、だから少し怖かった。


 イルダが鼻を鳴らした。

「灰枝の冒険者が言ってたよ。最近、聖都の薬房の薬が質が悪いって。あんたの薬のほうがよほど効くってさ」

 事実を述べているだけの、平坦な口調だった。褒めているわけでも、持ち上げているわけでもない。ただ聞いたことを伝えただけ、という言い方。

「……そうですか」

 私はそれだけ返した。聖都の薬房。それがどこを指すのか、私には分かる。だが今の私には関わりのないことだ。

 イルダはそれ以上その話を続けなかった。

「ようやくその気になったか」

「……ようやく、ですか」

「あんたが集落に来てからずっと待ってたよ。薬師が一人で黙々と薬を作って、頼まれたら渡して、それでおしまい——そんなのは薬師じゃない。商売だよ、商売」

 辛辣だが、目は笑っていた。

「ゴルドもね、最初は同じだったよ。引っ込み思案の爺さんでね、頼まれないと何も出さない。あたしが尻を叩いて看板を出させたんだ」

「ゴルドさんも……」

「薬師ってのはみんなそうなのかね。素材には目を輝かせるくせに、売るとなると急にもじもじする」

 ルッツにも似たようなことを言われた気がする。薬師はみんなそうなのか、と。


 翌朝、私は集落の大工を訪ねた。

 トーマスという名の、がっしりした中年の男だ。装甲片を加工して建材にするのが本業だが、木工もやる。集落の家の修繕から棚の製作まで、何でも引き受ける人らしい。

 工房の前で装甲片を削っていたトーマスは、私を見て手を止めた。

「薬師さんか。何か壊れたか」

「いえ、壊れたのではなくて——看板を作っていただきたいんです」

「看板?」

「店の看板です。工房の入り口に掛けるものを」

 トーマスは目を丸くして、それから大きく頷いた。

「ほう。店を出すのか。いいじゃないか。素材は何がいい。装甲片は長持ちするが重いぞ。木なら軽いが雨に弱い」

「木でお願いします。文字を彫っていただけますか」

「彫れる。で、店の名前は」

 名前。

 考えていなかった。いや、考えてはいたのだが、決められなかったのだ。

「少し待ってください。明日までに決めます」

「明後日でもいい。看板は急がねえよ」

 トーマスは笑って、装甲片の加工に戻った。


 その日の夜、工房で考え続けた。

 魔石灯の弱い光の中、調合道具を並べた棚を眺めながら、名前を考える。

 薬師の店。蒼い樹海の素材を使った薬と加工品の店。

 「蒼苔堂」——硬すぎる。「樹海薬房」——ありきたりだ。「フィオナの薬屋」——恥ずかしい。

 窓の外を見た。蒼い樹海の闇が広がっている。虫の声が波のように寄せては引いている。

 樹海の恵み。

 蒼苔も、苦香草も、蒼傘茸も、蒼実も、装甲猪の素材も——全部、樹海がくれたものだ。私はただ、それを受け取って、形にしているだけ。

 「蒼の薬棚」。悪くないが、薬だけではない。香草も食品も売りたい。

 ……いっそ、シンプルなほうがいいのかもしれない。


 翌日、トーマスの工房を訪ねた。

「決まったか」

「はい。『樹海の恵み亭』で、お願いします」

 トーマスが首を傾げた。

「亭? 飯屋じゃないだろう」

「……そうですね。『亭』はおかしいですか」

「薬屋だろう。『樹海の恵み』でいいんじゃねえか。すっきりしてる」

 樹海の恵み。

 声に出してみた。「樹海の恵み」。うん。

「それでお願いします」


 看板ができるまでの三日間、工房の改装に取りかかった。

 トーマスに頼んで棚を二つ追加してもらった。一つは薬を並べる棚。もう一つは食品と香草を並べる棚。材料費は銅貨二十枚。安くはないが、これから取り戻せばいい。

 棚の配置を考えた。入り口から見て左側に薬の棚、右側に食品の棚。奥が調合台。お客さんが入ってきたとき、まず目に入るのは薬の瓶が並んだ棚。いや、食品のほうがいいだろうか。

 何度も並べ替えて、結局、入り口の正面に食品の棚を置いた。蒼実の砂糖漬けの瓶や、乾燥した苦香草の束、薬草茶の茶葉を詰めた袋。こちらのほうが彩りがあって、目を引く。

 薬の棚は左側に。胃薬、軟膏、鎮痛剤、解毒剤。瓶にはそれぞれ中身を書いた紙を貼った。文字はあまり上手ではないが、読めればいい。


 値付けは思ったより悩んだ。胃薬は銅貨五枚、軟膏は八枚。灰枝の相場と揃えた。鎮痛剤と解毒剤はもう少し高い。手間のかかるものほど値が張るのは当然だ。

 食品のほうは安めに設定した。薬草茶の茶葉が三枚、香草塩が二枚、蒼実の砂糖漬けが四枚。手が届きやすい値段にすれば、薬を買いに来たついでに手に取ってもらえる。

 値段を書いた紙を棚の前に立てかけた。

 一歩下がって、全体を眺める。

 店っぽくなってきた。

 左の棚に薬が並び、正面の棚に食品が並び、奥に調合台がある。棚は新しい木の匂いがする。瓶のガラスが魔石灯の光を反射して、薄い蒼色にきらめいている。


 三日目の昼過ぎ、トーマスが看板を持ってきた。

 腕の長さほどの木の板に、太い文字が彫られている。

 「樹海の恵み」。

 文字の溝には蒼苔から取った染料が流し込んであって、木の地色に蒼い文字が浮かんでいた。

「どうだ」

 トーマスが少し誇らしげに言った。

「……きれいです。とても」

「蒼苔の染料は俺のかみさんが塗った。色が出るのに半日かかるんだが、いい色になっただろう」

「はい。ありがとうございます」

 看板の代金は銅貨十五枚。トーマスは「薬師さんの店なら安くしとく」と言ってくれた。


 工房の入り口、戸口の横の柱に、看板を掛けた。

 蒼牙のナイフで穴を開け、革紐を通し、柱の釘に引っかける。少し斜めになったので直した。もう一度下がって、見た。

 「樹海の恵み」。

 蒼い文字が、午後の光の中で静かに存在していた。


 お店だ。


 その言葉が、胸の奥からゆっくりと浮かんできた。

 聖騎士団の薬師室にあったのは部署番号の札だけだ。

 ここには、名前がある。私が考えた名前。私の店の名前。

 看板の下に立って、もう一度見上げた。蒼い文字。木の匂い。革紐が風に揺れて、かすかに軋む音がする。


 しばらくそうしていたら、通りかかったイルダが足を止めた。

「できたのかい」

「はい。さっき掛けました」

 イルダは看板を見上げて、目を細めた。

「樹海の恵み、ね。いい名前だ。ゴルドの店は『蒼苔堂』だったよ。味気ない名前だったけどね」

「蒼苔堂……」

「あの爺さんは蒼苔しか頭になかったからね。あんたのほうが商売上手だよ」

 褒められたのだと思う。イルダの褒め方はいつも分かりにくい。

 イルダは看板をもう一度見て、小さく頷いた。

「明日から開けるのかい」

「はい。朝から」

「そうかい。——まあ、頑張りな」

 そう言って、イルダは通りを歩いていった。蒼牙のナイフが腰で揺れている。小さな背中が、夕日の中に消えていく。


 工房に戻って、棚をもう一度確認した。

 薬の瓶、軟膏の小瓶、茶葉の袋、蒼実の砂糖漬け、香草塩。全部揃っている。値札も貼った。棚も拭いた。調合台も片付けた。

 窓を開けると、樹海の縁から夕暮れの蒼い風が吹き込んできた。虫の声が遠くで鳴り始めている。

 鞄の底の紋章のことを、ふと思い出した。

 聖騎士団の紋章。あれは「所属」の証だった。あの紋章がある限り、私は聖騎士団の薬師だった。紋章を外した日に、私はどこにも属さない人間になった。

 今、入り口に掛かっている看板を見た。

 「樹海の恵み」。

 これは、所属の証ではない。

 ここにいる、という宣言だ。


 明日、店を開ける。

 緊張と、少しの興奮と、たくさんの不安を抱えて、辺境の夜を迎えた。


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