第16話 筋肉痛とドレスと、ゆで卵
翌日。
イーゼルベルグ伯爵家の朝は、再び異変に包まれていた。
「……エレノア様?」
侍女が声をかけると、寝台の上で、ぴくりとも動かない人影がある。
「……う、動けません……」
かすれた声。
それは、昨日までとは明らかに違う種類の弱音だった。
◇ ◇ ◇
「……筋肉痛、ですね」
ユーリアは、淡々と判断した。
「き、筋肉が……裏切りましたわ」
「いいえ、働いた証拠です、良かったですね」
そう言い切られて、エレノアは
「ヨ、ヨカッタ……」
と片言になりながら半泣きで天井を見つめる。
脚、背中、腹部。
全身どこを動かそうとしても、じわじわと鈍い痛みが広がる。
「私の身体にもこんなに、筋肉があったのですね」
はっきりと主張してくる。
――ここにいる、動かせと。
◇ ◇ ◇
「安心してください」
ユーリアは、お腹がすきましたわと呟いているエレノアの横にしゃがみ込む。
「今日は“激しい運動”はしません」
その言葉に、エレノアの目がきらりと輝く。
「本当ですの!?」
「はい。今日は――」
一拍置いて。
「姿勢と歩き方を練習しましょう」
「……いいえそれは運動ですわ!」
ユーリアの鉄壁の笑みに
エレノアは、静かに目を閉じた。
◇ ◇ ◇
朝食前の着替えの時間に、事件は起きた。
「……え?」
エレノアは、侍女が持っているドレスの袖に、恐る恐る腕を入れる。
破れないように気を付けないといけないのだが、それが今日は。
昨日まで“パツパツ”だった感覚が。
「……きつく、ない?」
エレノアは、ゆっくり自分の腕を見る。
「……一日で、変わるものですの?」
「いいえ、浮腫みが抜けただけです」
「……むくみ?」
「はい。昨日、動いたことで血流が良くなったんです」
エレノアの胸が、どくんと鳴る。
(……変化、しているの?)
◇ ◇ ◇
朝食。
テーブルに並んだのは――
「……ゆで卵?」
「……チーズ?」
「……朝からお肉?」
昨日までの“白い洪水”は、影も形もない。
代わりに並ぶ、質素だが力強さを放つ料理たち。
エレノアは、そっとユーリアを見た。
「……甘いものはありませんの?」
「今日はありませんね」
しょぼん、と肩を落とすエレノアに、
「でも、三日後にあります」
と告げると、ぱっと顔が上がる。
「三日後!?」
「はい。楽しみにしていい“お菓子の日”です」
エレノアは、思わず拳を握った。
「……あと三日……動けば……」
ぼそぼそと、真剣に計算し始めている。
(……やっぱり、お菓子のモチベは強いわね)
◇ ◇ ◇
朝食後、ボールルームにて、背筋を意識しながら歩くエレノアの姿があった。
ぎこちない。筋肉痛もあるため、ストレッチ(激痛)をさんざんしてから、望んでいた。
「足は腰から前に動かすイメージで、そうそう、ちゃんとリズミカルに出ています」
「はいっ」
エレノアはボールルームの鏡に映る自分を横目に歩く。
まだ丸いしまだまだ重量感がある。
それでも。今朝感じたドレスの袖の感触を思い出し、前を向く。
(……昨日の私より、前にいるために)
その実感が、胸の奥に、静かに灯った。
◇ ◇ ◇
その夜。
エレノアは、大きな疲労感と少しばかりの達成感に浸っていた。
(変化があると嬉しいですわね)
こうして、連日、伯爵令嬢の“現実的な一歩”が、刻まれていった。
◇ ◇ ◇
柔らかな陽光が差し込む中、イーゼルベルグ伯爵夫人は一通の封筒を手にしていた。
厚手の紙。上品な封蝋。
それらは、見慣れた社交界の様式。
「……招待状ね」
思わず呟く。
この時期に。しかも、エレノア宛てだ。
夫人は、ほんの一瞬だけ表情を曇らせてから、執事に視線を向けた。
「エレノアを、呼んでちょうだい」




