〜猫とお化けトンネル~ACT10
「うわぁー」
そう言葉にならない叫びをあげながら浅井は、暴れだしていた。その力が尋常ではなかったのだろう。健吾は飛ばされる形となった。厳密には、健吾自身が浅井の力に合わせて飛んだというのが正しい。
「何?あれ」
佳奈美が浅井を見て呟いた。近くにいるスタッフやあさ美も、この状況に呆気にとられている。それは、健吾を吹き飛ばしただけでなく浅井の後ろに黒いモヤのような物を見たからだろう。
「リィーーーーーー」
人が発声する声からは、かけ離れた音を出しながら、浅井は天を仰ぐように立つ。目は、完全に白目になっている。誰が見ても正気の表情ではない。
「秋山さん、皆を車に乗せて下さい」
健吾は、佳奈美に叫んでいた。尋常ではない状況に、冷静な判断ができなくなっている佳奈美は、健吾の言う通りに行動するしかなかったようである。伊藤咲を安全な状態にしたかったというのもあるだろう。
「ノウマクサマンダバサラダンセンダマカロシャダソバタヤウンタラタカンマン…」
健吾は、いつものように、両手の指を絡めるようにして組み、真言を唱えはじめる。不動明王の印と真言である。健吾もこれから浅井がどうなるかに気付いているのであろう。
「みんな車に乗ったわ、あなたも早く」
ワゴン車のドアから身を乗り出した佳奈美が健吾に叫んでいた。しかし、佳奈美の声は、浅井の雄叫びと健吾の真言に打ち消される。
「何?」
そう呟いたのは、佳奈美の後ろから顔を出した高梨あさ美であった。あさ美は、浅井の後ろの黒いモヤが、形を変えていく状況から目が離せないようであった。
「リィーーーーーー」
もう一度、浅井が声にならない叫び声をあげた時、黒いモヤは異形へと変化していた。その形は、一人の人間の体に複数の顔が付いている姿であった。
胸の辺りから上に複数の顔や頭が生えているようである。その顔達が、思い思いの動きをしている。さながら、亡者が苦しみ悶えているようである。いや、この比喩は真実なのかもしれない。
「フドウ」
そう叫んだ健吾の目の前には、炎をまとったヒトガタが現れた。そのヒトガタは、少し地面から浮いた状態で、漂っている。その姿は、やや痩せ型の男が、黒いコートを着ているようにも見える。
左腕には、縄のように長い炎が巻きつき、右の手首には、炎の塊がまとわりつく。このフドウは、霊的な存在である事は確かだが、詳しくは私達もよく理解していない。ただ、同じく霊的な存在である悪霊に、直接干渉する事ができる。
つまり、物理的な肉体では、触れる事ができない悪霊を、直接攻撃する事ができる、という事である。佳奈美とあさ美は、背中を向けて立つ健吾の前に姿を現した存在に、言葉が出ないようであった。
「ハァー」
気合を入れるように放った健吾の声に合わせて、フドウと呼ばれる存在は、浅井が背中に背負うように立つ異形に対して接近して行く。
まるでその動きは、地面の上を流れるようである。ただ歩いている訳ではなく、走っている訳でもない。これが、八卦掌という武術の歩法なのだと知るものは、健吾の訓練する武術を知っている、私だけであろう。
「ガキン」
まるで金属同士がぶつかり合う音がする。浅井の背中にいる複数の顔を持つ異形が、急速に接近するフドウに、手を伸ばすように攻撃をしたのだ。
フドウは、異形が伸ばした右腕の内側に、自らの左腕をこすり当てるようにして、異形の懐に入りながら異形の右胸の辺りの顔に左掌底を当てる。そのまま左腕の肘を折りたたむようにしながら、さらに一歩踏み込み、肘打ちを異形の鳩尾に打ち込んだ。
八極拳の「頂肘」である。技の流れとしては、「猛虎硬爬山」の流れに近い。肘打ちをくらった異形は、大きく後方へと吹き飛ぶ。異形が剥がれた浅井は、糸が切れたマリオネットのように地面に倒れ込んだ。
「リィーーーーーー」
異形は、声にならない声を出しながら、悶える。フドウは、悶えている異形に、自らの左腕に巻き付いている炎の縄を放つ。炎の縄は、大蛇が獲物に巻き付くように、異形の身体全体に巻き付いていく。
「ナウマクサマンダバサラダンカン」
健吾がそう真言を唱えると同時に、浅井から引き剥がされた異形は、フドウの縄から放たれる炎に焼かれていた。
「リィーーーーーー」
また、同じような声にならない声を出す異形は、フドウの縄から放たれた炎によって焼かれ、消えていった。浄化されたのであろう。
「何?どういう事?あなたは何者なの?」
ワゴン車から降り立った秋山佳奈美が、一気にまくし立てるように、健吾に質問をぶつけていた。
高梨あさ美も佳奈美の後ろで健吾を見つめていた。いや、厳密には健吾の後ろで漂うように立つフドウを二人は眺めていた。
「その後ろのは何」
さらに佳奈美は質問を重ねていた。いつもの健吾なら、戦闘が終わればすぐにフドウを消すのであるが、この時はまだフドウを自らの後ろに漂わせている状態であった。
健吾本人は、気を失った浅井の襟首を引っ張りながら、ワゴン車の近くまで引きずってきていた。
「フドウって俺は呼んでます」
健吾は、まず自らの後ろに漂うヒトガタについて答える。
「俺達は、コイツを使って悪霊退治をしています」
「悪霊退治?」
佳奈美は、そう呟く事しかできないでいた。短い時間で、あまりにも色々な事がおきて、理解が追いついていないのだろう。
「さっきのは悪霊だったのですか?」
あさ美が佳奈美の後ろから質問していた。
「ガキン」
その時、健吾の背後でけたたましい音が響きわたった。その時私達は、信じられない程の巨大な力に身を縮める事となった。今まで何も感じなかったトンネルから、巨大な力が流れ出していた。
そして、数え切れない程の霊が、トンネルの中から溢れ出す。今まで、何の力も感じなかったのが嘘のようである。
「源之助、これは何だ」
「わからん」
健吾が叫ぶのに対して、私も大声で答える。と言っても、いつも通り他の人間には、私の声は猫の鳴き声にしか聞こえない。
「ウソだろ!こんな物、人間にどうにかできるレベルじゃないぞ」
呆然としながら健吾は呟いていた。いや、健吾だけでなく、そこにいた者達は、皆呆然としていた。それは私も同じであった。あまりにも巨大な力を前に、思考が止まっていたのだ。
「ニャー」
他の人間には、鳴き声にしか聞こえない声を出しながら、私は自らの力を解放する。私の身体の上に、大人の人間より大きな猫の姿が現れた。
見た目は、巨大な猫というよりも、豹のように見えるだろう。私と同じく、身体全体が黒い。いや、私の右前脚同様、巨大な豹も右前脚が白くなっている。特別、猫の形態と違っているところは、尻尾が複数あるところだろうか。
この巨大な豹のような猫形に、名前は今のところない。これは、健吾のフドウと同種の存在である。フドウと同じく、霊的な存在である悪霊に、直接干渉する事ができる。
物理的な肉体では、触れる事ができない悪霊を、直接攻撃する事ができる存在だという事である。私は、この存在を呼び出す事で戦闘態勢を整えていた。
このように、いち早く態勢を整える事ができたのは、私が猫だからだろうか。人間より野生に近い事が、この差を作ったと言えるかもしれない。
「ヴァジュラ」
私が態勢を整えたことで、健吾も正気にもどったのか、そう叫びながらフドウの右手首にまとわりついている炎を、剣の形に変形させながら戦闘態勢を整えた。
「逃げるぞ」
私は、健吾にそう言いながら、豹のような猫形をトンネルの方に少し前進させた。健吾もフドウを前に出す。
まるで、この二つの霊的な存在を盾にするようにである。健吾が、フドウをすぐに消さなかったのは、このような状況になる事を、何となく感じていたからかもしれない。
「車を出して下さい」
健吾は、片手で私を抱き抱えながら、撮影用のワゴン車に飛び乗る。入口にいた佳奈美とあさ美を、ワゴン車の奥に押し込むようにして乗り込んだ。
フドウと私の猫形は、ワゴン車の外でトンネルから更に湧き出てきた霊達を迎え撃つ。私達が車に乗り込んだ時には、トンネルから湧き出てきた大量の霊達が、ワゴン車へと群がりはじめていた。
フドウは、右手に握る炎の剣を使い、霊達を斬り伏せていく。私の猫形も前脚の爪を使い、霊達に迎え撃つ。
「早く車を出して!」
ワゴン車に乗り込んだ健吾が、叫んだ事で我に返った運転手が、車を急発進させる。急発進した車の慣性に耐えながら、健吾はワゴン車の後方に移動しつつ、後部ガラスから離れていくトンネルを凝視していた。
私も健吾と同じく、トンネルの方を見る。その間も、トンネルから湧き出た大量の霊達が、私達が乗るワゴン車に群がり続けていた。そして、車の外に着かず離れずの状態で漂い続ける、フドウと私の猫形でトンネルの霊達を迎え撃ち続けていた。
この攻防が数分続いた後、トンネルの霊達は消え去った。私達の乗るワゴン車が、トンネルから遠く離れたからであろう。車に乗るスタッフ達は、ワゴン車の周りに群がっていた霊達が居なくなった事に安堵していた。
車の周りは夜の静けさに包まれていた。暗闇を走るワゴン車は、まるで夜というトンネルの中を走り抜け、遠くに見える町の光という出口に向かっているようであった。




