登校
今日もわたしは午前7時22分発の電車に乗って「死ぬこと」を考える。わたしは県内では少しばかり有名か中高一貫校に通っている。高校生になるとリボンの色が空色から淀んだ赤色になる。中学校を卒業するタイミングで電車が新しくなった。でももうその新しさの面影はない。少し黄味がかり、あるいは焦げ付いた鍋の底のような色をしている。真新しく朝は陽の光が、夜には点々と光る星たちがシルバーを照らす。そのきらめく姿に認めたくはないが少し感動してしまった。わたしの日課はただ電車に乗り、席が空いていることを期待して、また同じ結果に「またか」と思うわけではない。みんなは何を考えている?みんなが、わたしではない、1、2号車にいる彼らが思っていること。わたしの前に立っているおじさん。びくともしない。何百年もおいしげった森の中で生き物たちを見守る大木のような感じだ。いつも黒色のスーツ、シワひとつないシャツを第2ボタンまでしめ、藍色のネクタイ、外側だけが擦れている革靴。つり革には手を伸ばさずストンと左腕を落とし、右手には強く握られた茶色の少しくたびれていそうな鞄が握られている。移りゆく外の景色を眺めている。その時わたしは世界を共有できた気持ちになる。川端康成の「雪国」。全く関係のない雪景色。彼の本音、心の声、冒頭に詰まっている。外の景色は何も変わらない。しいていえば雪が降り、嵐が挨拶に来た時くらいだ。手元にある電子機器から目を離し、距離をとる、薄目で窓の奥を眺める。彼らは何を考えるのか。朝、たまたま耳に入った天気予報士の声か。乗車する前の少し間に交わした天気の話題について取り繕う人間関係の上に存在する会話か。いつも通りではない。環境が思考を変え、操る。操られた人々を、わたしは「死人」だと結論づける。前頭葉で。そして海馬にしまう。そんな思考回路を数十分の間ににつくる。これを知ったら何を思うのだろうか。お母さんはもうお弁当を作ってくれなくなるだろうか。精神病棟に入院させられるのだろうか。邪魔者は徹底的に隠し、排除する。見えなくて安心感を覚える。海の音を聞くとどうも安心する。母親のお腹の中にいるようだからだと科学者は言う。とても滑稽だ。笑いたくなった。薄ピンク色のマスクをした私。えくぼなんてそんな可愛らしいものはわたしには似合うはずもないが、その滑稽さに笑わされた私の顔にはとてもえくぼが似合いそうで仕方なかった。そんな自覚があった。そして今日も笑いそうになりながら登校する。スイッチが入る。そのスイッチが使いものにならなくなったとき、蛍光灯がちかちかと、+と-のイオンが右往左往しているとき、どうにもならなくなってもがいて、だんだんと消える。わたしは「殉死」だと結論づける。