(9)起動した神木のタブレット
「お願いします」
ナナモは剣道という武術を行う術衣を意味する道着という分厚い綿でできた上着と、それよりもずいぶん柔らかな生地の袴に身を包みながら、竹で出来た直棒である竹刀を脇に置き、道場という板張りで敷き詰められた床に正座した姿勢で両手を前方に突き、深々と頭を下げて、練習の開始を示す作法をこなしていた。
ナナモはついに剣道部に入った。それはもはや逃れられない現実として、悪夢からでもVRからでも異世界からでもなく、過去の産物としてナナモの日常に加えられていた。ただし、剣道の武具が寮に備え付けられているというのに、寮生に必須のはずの武道の中で剣道を選んでいるのは小岩だけだった。ナナモはそのことを尋ねようとしたが、入部した以上今日から僕は先輩だからと、別に威圧的ではなかったが、いつものように小岩は薄気味悪い笑みを浮かべたので、ナナモは喉元まで湧き出た言葉をまた飲み込まざるを得なかった。
もしかして、寮の存続は剣道部の存続と関係するのだろうか?あの夜にたまたま小岩と会ったのだろうか?ナナモは妙な鳥肌が立ったことも相まって、しばらく小岩を直視できなかった。
「メーン、メーン、メーン…」
ナナモは初心者だからと、入部早々から防具を付けさせてもらえなかった。背筋を伸ばし、竹刀を中段で構え、大きく振り被ってから、メーンと声を上げて、振り下ろす。まだ、道場ではそればかりを繰り返していた。
「退屈だと思わないでほしい。剣道の初歩は姿勢だ。きちんと竹刀を持って構えることが出来なければ強くはなれないからね」
先輩たちの言葉は優しかったが、目力で押さえつけて来る。だから、野球でもキャッチボールが基本だろうと言われても、ナナモはハーフだが、ニューヨークではなくロンドンに居たし、たとえファンションモデルは上半身と下半身のバランスを取りながら歩いているだろうと言われても、ナナモは、パリに行ったことなどないしと、すべては剣の道に通ずると諭されてもなかなか納得できないままでいた。それでも、いつか、日本古来の鍛錬法を教えてくれるに違いないと期待していたが、持久力を付けるためにグランドを走り、筋力をつけるためにマシーンを使いと、医学部だからと、スポーツ医学に基づく現代的な練習法を強いられると、さすがにどうして剣道部になんか入ったのだろうと、後悔しか湧かなかった。
さらにナナモの気分を落ち込ませたのは、一緒に入部した同学年の新入生であるタカヤマとフジオカとサクラギの存在だ。三人ともいきなり道具を付けて練習している。タカヤマとサクラギは、文武両道の中高一貫の私立校でバリバリ剣道に熱中していた経験者で、時として先輩たちを圧倒しそうな気迫を持っていたが、フジオカは小学生の時だけ町の道場に通っていた程度だと言っていた。だから、せめてフジオカには追いつきたいと思ってみても、先輩からのOKのサインはなかなか出なかった。
「全くの未経験者やったんやなあ」
「だから、そう言っているだろう。この顔だし」
「見た目は関係あらへん」
タカヤマは剣道に夢中になりすぎたからと、二浪して大学に入学してきたのでナナモと同年齢だった。相変わらずの関西弁でずかずかナナモに入り込んでくる。最初は面倒だなあとため息交じりで、少し距離を置いていたが、タカヤマの関西弁のイント―ネーションや言葉遣いは別として、行き過ぎたユーモアはなく、また、誰かを誹謗中傷するようなこともなく、案外淡々と客観的に物事を見ているタカヤマにいつしかナナモは心を開くようになっていた。
ナナモは、どうして、剣道をすることにしたんやと、タカヤマに尋ねられたので、別に隠しておく必要もないだろうからと、でもよくわからないんだと前置きした上で、寮の決まりについて話した。タカヤマはこの大学に学生寮があることは知っていたが、取り壊されると聞いていたし、まさか新入生が入寮できるとは思っていなかったようだ。四人部屋に一人で暮らしていることや、寮母さんが居て、食事付であることや、安い寮費で雨風をしのげていることを少し冗談交じりに話したら、ええなあと、うらやましそうにつぶやいたので、ナナモが、もし、タカヤマがナナモの代わりに入寮したら、寮の規則が変わって、サッカーとかラクビ―部に入らなければならなかったかもしれないぜと、冗談交じりに言っても、ひねりがないんや、おもろないと、その理由も話さないまま一喝された。
ナナモは剣道部だけでなく学校でも学校外でも少しずつタカヤマと時間を共にするようになった。ただし、だから、友達かと言えば、まだ、自分でその事を認めて良いものかどうかを測りかねていた。もっと、単純に、気楽に、そう思えばいいのに、別に馬が合わないとか生理的に合わないとか全くないのに、ナナモはもはやいじめの呪縛から解放されたとは思ってはいるものの、学校で友達を創るということにまだためらいを拭いきれなかった。
じゃあ、僕は友達じゃなかったのかい?と、イチロウからの声が聞こえる。いや、そうじゃないけど、イチロウはイチロウで友達とかそういうものじゃないんだと、ナナモは言いたかったが、その説明は難しく、やはり単純にイチロウは学校の同級生ではないという、ナナモにとってのわだかまりを感じなくて済む心地よさから友達以上の親近感を抱いていたのかもしれない。
だからなのかだからではないのかわからないが、剣道部に入部後、大学に入学してからの日々のことについてはイチロウ以上にタカヤマには話していたが、大学に入学するまでのことについては、ナナモはイチロウと同じようにすべてをタカヤマに話すことはなかった。特にユーストン駅やオオヤシロノ駅で起こったことは全く話さなかった。もちろんアヤベから異世界の事を話してはいけないと言われている。それにもし話したとしてもタカヤマはナナモには寄り添ってくれないような気がしたし、ナナモがこれから後ろではなく前を向いて懸命に歩いて行かなければならない現実が、そもそも、立ち止まって振り返るほどの余裕をナナモに与えてくれなかった。
人間関係とは難しいものだ。ナナモはロンドンから日本へ戻ってきて、もはや二年以上の月日が経っているに、改めて溜息をついた。そしてこれからけっして小さくなることはないだろうと思われる「わ」の中に、知らず知らずのうちに引き込まれていく過程を、恐怖ではなく喜びだと思えるだろうかと、タカヤマが時折誰彼となく、「オチあるんか、その話…」と、つぶやく声に、思わず、「それ壁じゃないよね」と、笑うしかなかった。
ナナモは入部してから数週間同じように基礎練習を続けていたが、やっと、身体が練習に慣れてきて疲れがたまらなくなってきたので、そろそろカタリベから言われた通り苺院に出かけようと思った。すると、部屋をノックされ来月から防具を付けて練習することになるから胴着に着替えてと、小岩に言われたナナモは、寮の防具室に連れて行かれた。
廊下の突当りで大きな真っ黒な錠前で閉ざされていたが、部屋番号が書かれてあったので、てっきり使われていない部屋だと思っていたが、小岩は錠前を開けると、ナナモを振り返った。
「いずれナナモがこの部屋の鍵を受け継ぐことになる」
小岩は入部してからはナナモをナナモ君ではなく、ナナモと呼ぶようになった。ナナモは新入生歓迎会の時も、クニツだと苗字を言い直したのに、誰一人クニツと呼ぶものはいなかったし、年下のタカヤマとサクラギでさえ、さすがにナナモとは言いにくかったのか、ナナモさんと呼んできた。同級生だからクニツでいいよと何度も言ったが、当然のようにナナモと呼んでくるタカヤマや先輩たちと呼応して、決してクニツさんとは呼ばれなかった。仕方がないかと、クラスメートや教官ですら、まだ、ナナモ・ジェームズだと思っている節があるので、クニツ・ジェームズ・ナナモだと、言い直すことにも疲れて来たし、日本では苗字はとても大切で意味があると言ってきたクラスメートもいたが、サマーアイズ流だと考えれば、ジェームズと同じように、ナナモと呼ばれても次第に違和感は薄れていた。
ギギーと、小岩は、ホラー映画でみる中世の洋館のような不気味な音を響かせて扉を開けた。昼間だったのに真黒で中は見えない。小岩はナナモを案内するかのように先に中に入って行くのかと思ったが、どうぞとナナモを促した。ナナモはえっと、本来なら絶対に従わないのだが、小岩は先輩である。先輩の言うことを百パーセント聞き入れなければならないという封建的は時代ではないが、小岩が何かイタズラを仕掛けてくるとは思えなかったので、ナナモは扉の向こうの漆黒の世界に足をゆっくり忍ばせた。
ナナモが扉の向こう側に完全に入った途端、灯りが付いた。
「自動なんだよ、びっくりしたかい?」
小岩はナナモの真後ろで言った。ナナモは灯りが付いたことよりすぐ近くで声がしたことに驚いて思わず振り返った。
「寮生以外、ここには入れないし、センサーが反応しないから明かりもつかないんだ」
「センサー?」
「寮生はみんなそう言っている。でもね、スマホの顔認識じゃないんだからね。でも良かったよ、やはり、ナナモは選ばれた学生だったね」
小岩は少し笑みを含ませて言った。
ナナモは小岩の意味するところをもう少し深堀したかったが、ナナモを追い越して前に進んで行くのですぐに踵を返さざるを得なかった。
そこはまるであの武具屋のような所だった。ちょっとした空間だが、もちろんインターネット販売の倉庫のような広さはない。しかし、明らかにミーティングルームよりは大きな容積の中に、数十人分だろうか、防具が整然と置かれていた。
防具とは打ち込みや突きから身体を守る道具のことで、フェンシングと基本的には同じだ。剣道の場合、基本防具は、面、甲手、胴、垂の四点から成る。面はさらに面金と内輪と面垂れと突き垂れから出来ていて、顔を保護する格子状の金属が特徴的だ。胴は胴胸と胸飾りと乳革と胴台からなり、腹部から胸までを守る構造をしていて、その中心の胴台はプラスチック製が主流だが、古風にも竹製で創られていた。甲手は甲手頭と甲手筒からなり、手から前腕までを守る。革製が主で、大きくて分厚いスキー手袋の様だ。そして、垂は腰や急所を守る防具だが、腰に巻くので、金属や木製ではなく分厚い布で出来ている。三枚の大垂と二枚の小垂の付いた構造で、大垂れの中央部には名前や学校名が刺繍されたり、袋状にしてかぶせたりする。
「竹刀の代わりはないから」
ナナモはだから買いに行ったのでしょうと、小岩に言いたかったが、小岩はだから買いに行ってもらったんだと、わざと嘘ではなかったことを強調したかったようだ。
「えーっと」
ナナモは防具を付ける許可を得た日に道場で、身長やら頭回りやら、胴回りやらを小岩に測定されていた。おそらく、サイズごとにきちんと防具は並べらいるようなのに、それでも小岩はしばらくナナモを眺めては振り返り、眺めては振り返りを繰り返しながら、なかなか防具を選べなかった。そして、ナナモのどれでもいいですよというため息が聞こえて来たのか、たとえ引き継がれてきたものであっても、身体に合わなければ意味がないからと、防具とは命を守るものだという意味も含めて、ナナモを戒めながらもう一度防具を眺めていた。
ナナモは「命を守る」という言葉に急に心が締め付けられる思いがして、そうかもしれない、ルーシーに知ったかぶりで教えていた、「道」という言葉の意味を改めてかみしめていたし、命に対する戒めだと、小岩に申し訳ない思いで、すいませんと声にはださなかったが、頭をさげて謝った。
小岩にナナモの気持ちが届いたのかどうかわからなかったが、小岩は、置いてある中から一組の防具を選んだ。
「合うかな」
小岩は心配そうに尋ねたが、自信ありげな様だった。
「どうだい?」
「はい。丁度いいと思うんですが…」
ナナモはそう言ったように思ったが、渡された防具を一式身に着けて立ち上がった途端、頭痛と吐き気がして、急にその場に倒れ込んでしまっていた。
「唇も赤みが戻って来たし、大丈夫だよね」
ナナモは小岩の声に呼応して目を開けた。小岩はナナモが知らない間に、防具を全て外し、横たわったナナモの手首で脈をとっていた。
「すいません」
ナナモはまだ気分がすぐれなかったが、小岩に謝った。
「ナナモが謝ることはないよ。ひよっとしたら僕の不注意だったのかもしれない」
「不注意?」
ナナモは上半身だけ起こすと、小岩に尋ねた。
「いや、寮の口つだえっていうのか、先輩から代代受け継がれてきた申し送りに、寮の防具を付けられない寮生が現れるという文言があったんだ」
ナナモはもはや気分が回復していたし、身体を半分起こしても頭痛も吐き気もなかったので、立ちあがった。小岩は心配そうに、まだ、休んでいた方がいいよとは言ってくれたが、防具を外したナナモはもはやこの部屋に入った時のナナモのように戻っていて、ふらつきも全くなかった。
「それが僕だったんですか?」
ナナモはそうであるならば、ナナモは寮の防具を引き継げないことになるし、たとえマギーが払ってくれると言ってくれてもあの古道具屋で買い求めることは出来ないと思った。
「これはいい機会なのかもしれない。だいたい、僕だけ未経験者だし」
ナナモは声に出していたら小岩に聞かれると慌ててく口に手をやったが、そんなナナモの事を全く意にも介さないという風に、小岩は急に部屋の奥へとナナモを誘った。
そこは何となく照明が弱かった。
「ナナモにはこれしかないのかもしれないな」
ナナモの目の前には一組だけ防具が置かれていた。ただし、今まで見た防具と比べて妙に新しいような気がする。布生地部分に色褪せもなく、面金部分も言い過ぎかもしれないが黄金色に輝いているように思えた。
「これって新品ですか?」
ナナモは先ほどまでの邪念が嘘のように消えていて、自然と瞳をパチパチとさせる高揚感で一杯になった。
「いや、違う。でも、汚れたり傷んだりした箇所は修繕されたり取り替えられたりして、最後には細部まで丁寧に磨かれてから神社でお祓いというかお清めを受けたものなんだよ」
「神社でお祓い?」
ナナモはもしかしてと思ったが言葉にしなかった。
「なぜだかわからないんだけど、寮生としては生活しているんだけど、代々受け継がれた寮の伝統品を手に取ると、急に気分が悪くなる寮生が過去にも居たらしいんだ」
「じゃあ、以前はその方の防具だったんですか?」
「ああ」
ナナモは誰だろう。もしかして、先ほど言葉にしなかったが、そのことをちらと考えた。
(王家と関係ある人物だったのだろうか?)
「それはいつ頃ですか?」
ナナモは尋ねた
「確か三~四十年くらい前だったと思うけど…」
小岩は曖昧に言った。
ナナモは、生まれる前なんだとがっかりしたが、どんな人だったんだろうと、まったく何も思い浮かばないのに、よりワクワク感で身体が浮いてしまいそうだった。
「防具をつけてみてよ」
小岩はナナモの気持ちなど当然慮ることもなく、どうやら先を急ぎたかったかのようにナナモに促した。
ナナモは、もしかして何かがまた起こるのではないかと流行る気持ちを懸命に抑えながら、恐る恐る防具を付けるとゆっくりと立ち上がった。
ハーフであるナナモは小岩より長身で痩せていて、手足が長い。それでも、その事がわかっていたかのように、身体にフィットしていた。
「もしかして、僕と同じような体格の人だったんですか」
ナナモは小岩に尋ねた。しかし、小岩はナナモの問いには答えずに、頭痛は?めまいは?気分は悪くない?と、先ほどのことがあったからかもしれないが矢継ぎ早に尋ねた。
ナナモは特に身体の変化は起きなかった。だからと言って、めらめらと炎が燃え上がり、まるで超人になったかのような高揚感も覇気も生じなかった。ただし、先ほどまでとてつもなく早く脈打っていたはずなのに、まるで晴天の芝生で大の字になって寝転んでいるかのような穏やかな気分だった。
「合ってるよな。これにしよう。でも、どうして、ナナモの体格がわかったんだろう」
小岩は面越しにナナモの顔をしばらくじっと見つめていたが、突然、それじゃ、これを道場に運ぼう。僕も手伝ってあげるからと、折角身に着けたのに、さっさと防具を外すように言った。
ナナモが知らない申し送りがあったのかもしれない。しかし、ナナモもそれ以上あまり深く考えないことにした。
ナナモが防具を全てはずすと、防具を入れる袋は自分で買ってきてねと、小岩もあの店を知っているのだろうか思いながらも、じゃあ、そろそろ行こうかという小岩の促しにナナモは従おうとした。
「あれ、弓道の弓矢があるじゃないですか」
先ほどまで薄暗く感じていた部屋の奥は、手前の数組の防具が置かれていた場所と同じように蛍光灯でより明るく映し出されていた。伝説の防具だとナナモが勝手に思っていたので周りが見えなかったが、冷静になると、途端に周囲が見え始めたのかもしれない。
ナナモは小岩を見た。小岩は何も言わず黙っている。
「寮生は弓道部には入れないんじゃないのですか」
ナナモは防具の一部を小岩に持ってもらっているのに立ち止まってはっきりとした声で言った。
「そうだよ」
小岩は悪びれずに答えた。
「でもここには弓道の弓や矢や的まであるじゃないですか」
ナナモはやはり小岩に騙されたのではないかと腹が立って、防具のことなど忘れて先輩なのに少し語気を荒げた。
「僕は弓道の道具がこの寮にはないとは言わなかったよ。ただね、入寮者が少なくなってきてから、弓道は第一選択には入れられなくなったんだ」
「どうしてですか?」
「さあね」
「また入寮書の規則に書いてあるっていうんじゃないでしょうね」
ナナモはやっと語気を下げた。
「いや、違う。それに、剣道部に属して入れば弓道は出来るんだよ」
「どういうことですか?」
「剣道に弓道が必要な時があるからさ。でも。まず、剣道を極めないとその資格は与えられないんだよ。だから、僕もまだ弓道は始められていないんだ」
小岩の瞳が少し揺らいでいる。こういう時の小岩は何かを隠している。小岩のことをけっして悪い人だとは思っていないが、隠し事が好きなのか、それとも寮の規則にすこぶる正直者なのかのどちらかだと、ナナモは、小岩の表情ひとつ変えない顔を見て、そう思おうとするしかないのかと諦めた。
ナナモは、土曜の練習終わりに、タカヤマから、来週から防具を付けられるようになったんやってな、よかったやん、前祝いや、飲みにいこうと、誘われたが、適当な理由を付けて断った。なんでや、ええやんかと、タカヤマが食い下がってきたら、きっと、上から目線でタカヤマは言っていないのだろうが、そう思ってしまって露骨に嫌な顔をしていただろうが、そうか、しょうがないな、また、行こかと、あっさり引き下がってくれたのでほっとした。
ナナモは、小岩から防具を与えられてから妙にイライラしていた。たとえ初心者であろうが、防具を付けて練習できると思うとワクワクするはずだし、確かに高揚感がないわけではなかったが、なぜかそう思えば思うほど身体が締め付けられるようで窮屈だった。
ナナモは、小岩に防具部屋に連れて行かれた夜に月を見た。そして、身体が月に吸い込まれるような浮遊感を覚えた。もしかしたら、このまま、月が欠けていってしまうとか、立ち込める暗雲に飲み込まれてしまうとかを考えると、防具を付けて練習できることよりナナモがすべきもっと重要なことがあるように思えて次第に居ても立っても居られなくなってきていた。もちろんナナモが思う重要なこととはカタスクニからのリモート授業の事だ。だから、いつあの店を訪れようかとそればかり考えていた。
何かをやるべき時間は作ろうと思っても作れない。しかし、強い意志があればひきよせられる。時に強い意志は、孤独と偏見を産むかもしれないが、それでも何かをやるべき時には必要だ。
だからナナモは、タカヤマからの誘いを断り、寮で夕食を済ませるとすぐに風呂に入り、下着まで着替えてから、自室の机の前に腰かけてひたすら夜が更けるのを待っていた。
ナナモは神木をリックに入れると、月夜がきちんと照らしているのを確認してから寮を出た。もはや、風呂上りの身体を夜風が身震いさせる季節ではなかったが、ナナモは月を眺めると背筋がぞくっとして気持ちを落ち着かせるのにしばらく時間がかかった。
ナナモは寮から少し離れた完全に大学の敷地の外である場所で、リュックからおもむろに布に包まれた神木をとりだし、布だけリュックに戻すと、両手でタブレット型のコンピューターのように、神木をみた。しかし、何も映らないし、何も変わらないその形状を見て、そうか、月にかざすのだと、そうすればマネキネコのアプリが作動するのだと、ナナモはカタリベから教えられた様に、神木を両手で持ち上げると月の方に向けた。しかし、やはり何も作動しない。ナナモはそう簡単じゃないのだろうなと思ったが、月はよく見ると三日月で、まあ、尖っている方に進んでみるかと、ほとんど反射のない暗闇のアスファルトを歩き出した。きっと、方向が異なれば何かが起こるはずだ。ナナモは根拠のない自信で歩き始めた。
ナナモはのんきに片手で神木のタブレットを持ちながらしばらく歩いていると、何か電気の様な刺激が伝わってくる。ナナモは立ち止まり慌てて両手で神木のタブレットを月にかざした。しかし、しばらくそのままの姿勢でじっとしていたが、先ほどと同じで全く何も変わらない。ナナモは気のせいなのではないかと、同じように片手に持って歩こうとしたが、いや待てよと、神木のタブレットを持ち上げるのではなく、両手で持ちながら下におろした。
勝手に動いたのかもしれないが、ナナモは、右手の人差し指だけではなく、右手全体で嘗てカタリベが映っていた神木のデイスプレイ部分に、ゆっくりと優しく触れた。すると、神木のタブレットに何かが一瞬光った。
そうか、月に反射させなければならないのだ。ナナモは注意深くタブレットを見ながら、神木のタブレットの四隅に映る光の粒を見た。
きっと、光の粒としか見えないが、ネコの形をしているに違いない。ナナモは、ずいぶん古いナビ―ゲ―ションのようにも思えたが、光の粒の方向に向かって歩き出した。
あっという間だったようなそうでないような時間の移動の中、光の粒がタブレットの中央で停止した時にあの苺院の鉄製の扉が見えた。
あれ?あの時は赤だったはずなのにと、同じ夜だったから光の加減が変わったわけでもなかったのに、白色に代わっていた。
ナナモは光の粒が消えたタブレットを布で包み直してリュックに中に入れた。
白い鉄製の門は閉まっていたが、ナナモは軽く押してみた。いつもならまるで高い重い壁が聳え立っているかのように跳ね返されるのに、今夜もあの時とおなじようにすんなりと門が開いた。
ナナモは苺院と書かれた木製の扉を押して中に入ろうと思った。しかし、今度はそう簡単には開かない。ナナモはどんどんと扉をそれでも控えめに叩いたが反応はなかった。
やはりそう簡単ではないのかもしれない。それに、確かに店の中から灯りが漏れ出ていない。当たり前だが、もはや、すっかり陽が暮れていて、本来なら営業している時間ではないのだ。ナナモはリュックから再び神木のタブレットを取り出そうと思ったが、カタリベのアメノ兄弟の事を思いだして、思いとどまった。その代わり、二礼二拍し、自分の名前を名乗った。
しかし、何も変わらない。苺院の周囲はほのかに明るさが残っていたが、見上げてもいつしか月は雲に飲み込まれていた。それでも、ナナモはあたりをキョロキョロと見渡した。どこからかいつもナナモをいざなってくれるウサギが現れてくれないかと探してみた。
マネキネコというタブレットなのだ。ネズミ一匹も現れないのかもしれない。ナナモは途方にくれたが、何かを考えないとカタスクニには行けない。いや、カタスクニからの授業を受けられない。ナナモは何かがあるはずだと、しばらく開かずの扉の前で考えていた。
ナナモは今朝から今までの事を思い返していた。朝、寮の神棚に参拝してから朝食を摂り学校へ行った。講義が終わり、剣道部で練習をしてから、寮に戻り、夕食を済ますと風呂に入った。
ナナモはオオヤシロノエキでの事を思いだしていた。いや、あそこだけではない。今まで何かに遮られることがあれば、清水で禊ぎを行っていたはずだ。
ナナモは手水舎のような甕を探した。しかし、門の周囲にはなにもない。それに、ナナモは寮の風呂ではあるがきちんと身体を洗い禊ぎを行ってきた。それからマネキネコに従ったのだ。穢れていないはずだ。だったら…。
ナナモは、もしかしたらと、ここは杵築だということを思い出して、二礼二拍ではなく、二礼四拍してから自らを名乗ってみた。
突然、店内の灯りが付いた。ナナモは恐る恐る扉のドアノブをゆっくり回して押してみた。すると今度はなんの抵抗もなくドアが開きナナモは中に入ることが出来た。
「いらっしゃいませ」
アメノが何事もなかったかのようにナナモを迎え入れてくれる。
「こんにちは」
ナナモも、営業時間のことなど忘れて、挨拶する。以前会った時のように、オールバックの黒髪に丸眼鏡、白ワイシャツに黒エプロン、という出で立ちだったが、もしかしてアメノ弟だったらと、しばらくじっと見つめていた。
カタリベに言われたけど区別なんかできないと、ナナモはあきらめて誰も他に客が居ない店内の四人掛けのテーブルに腰かけた。
あの時は確かポップミュージックが流れていたと案外はっきりした記憶が思い出されたが、ナナモはこういう時には必ず頬をつねってみる。痛かったが、何も匂ってこなかった。
「ご注文は?」
アメノはナナモに尋ねた。
「紅茶を」
ナナモは記憶を頼りに尋ねた。
「ミルクティーですか、レモンティーですか?」
ナナモはしばし考えてから、「ストレートで、銘柄はお任せします」と、言った。アメノは軽く頷くと奥の方へ入って行った。
ナナモは逸る気持ちを押さえ、リュックの中から神木のタブレットを取り出さずにいた。しかし、なかなかアメノは戻ってこない。それに、紅茶の香りが全くしない。ナナモはそれでもしばらくじっとウインザーチェアーに身を張り付けるようにして座っていた。
三十分以上は経過したかもしれない。特に正確に測っていたわけではないが、ナナモには相当長く待たされている様に思えた。それでも、一時間以上もかけて珈琲を煎れる店もある。この店は特別なのだから、それもありうると思った。ナナモはとうとう我慢できなくてこういう時はいつもするようにスマホを取り出そうとした。
「あれ?」
ナナモは確かに出かける時にポケットに入れて来たはずだ。
ナナモは、つい先ほどまでの記憶が確かめられないもどかしさと、つい先ほどまで寮のWiFiに繋がっていたスマホはこの場所にはにつかわしくないのだと自らに言い聞かせようとした。
「ガシャーン」と、急に奥の方で大きな音がしたのでナナモはスマホのことなどすっかり忘れて椅子から飛び上がってしまった。
どうしたのだろうと奥の方を覗くように身体を傾け、そして周囲を伺いながらゆっくりと歩を進めようとした時に、奥からアメノの姿が見えて、ナナモは急いで座り何食わぬ顔をした。
「お待たせしました」
アメノは表情一つ変えずにナナモの目の前に紅茶を置いた。
もしかして弟と喧嘩でもしたのだろうか、それともすり替わったのかとナナモはもう一度アメノの顔を見たが、やはり区別などできないと、あきらめた。
「ごゆっくり」
アメノがナナモのそばを離れた途端、急に、紅茶の香りが鼻から入って来た。
妙に懐かしい。それでいて心が落ち着くような甘い香りがした。
ナナモは一口飲む。すると、口いっぱいに拡がる香りが再び熟成されて、鼻から入って来た香りと重奏するように、頭の隅々まで拡がって穏やかな気分となった。
ナナモはしばし恍惚の時を過ごしていたが、妙に眩し気な物体に揺り起された。
ナナモはストレートティを頼んだはずなのに、そこには檸檬がスライスされずにまるまるひとつ置かれていた。そして、その檸檬には紅茶が冷めないうちに始めましょうと、書かれてあった。
ナナモは目をこすりもう一度見た。檸檬は置かれてあったが、文字はどこにも書かれていなかった。
アメノは店内から姿を消していた。ナナモはその事を確認すると、リュックから神木のタブレットを取り出し、布を外すと、テーブルの上に置いた。
ナナモはためらわずにマネキネコを作動させたときのように手で優しく触れた。しかし、いくら待っても何も起こらない。そう言えばここには月明かりは届かない。だったら、外に持っていくのだろうか?でも、カタリベは苺院でリモート授業を受けるように言っていた。
ナナモはまた考えないといけないかと思ったが、ここは喫茶店だ。でもおそらく神域なのだろう。だったらと、このタブレットはカミのおられる社かもしれない。ナナモは、苺院の扉を開けたと時のように、椅子から立ち上がると二礼四拍して自らを名乗ってみた。
今度は何も起こらなかった。ナナモはゆっくりと腰掛けると、まだまだ、芳醇な漂う紅茶をもう一口とカップに手を掛けようとした。
先ほどは気が付かなかったが、傍らにおしぼりと透き通るように透明な小さなコップに水が注がれていて置かれている。日本の古き喫茶店では、店に入ると注文を取りに来る店員さんがまずメニューとともに置いてくれることがしばしばだ。
ナナモもきっとそうされたのだろうが、緊張で気付かなかったのかもしれない。ナナモはその澄んだ無色無臭の水を口にしたあと、両手をおしぼりで丁寧に拭いた。
そうすると、何か今までナナモが憑りつかれていたかのようなナナモの身体から、すべてが取り除かれていく様に思えて来た。
ナナモは改めて紅茶を一口ゆっくりと飲んだ。ナナモはもはやこの神木のタブレットがカミではなくツワモノがおられる社だということを溜飲が下がる思いで理解した。だからではないが、ナナモは手全体ではなく、今度は人差し指で優しく触れながらある三文字を書いていた。その文字は、ナナモにとって大切な言葉であり、きっと、カタスクニにいるツワノモにも届けなければならない言葉だった。
ナナモの指がタブレットから離れた瞬間に、ナナモは、神木のタブレットに向かって、一礼すると、オホナモチ・ジェームズ・ナナモですと、自らを名乗っていた。
神木のタブレットは急に輝き、「ようこそ、カタスクニへ」と、日本語と英語でかかれた文字が映し出された。そして、デイスプレイにはカタリベではなく、もちろんコトシロでもなく、ナナモの遥か遠い記憶の中でそれでもぼんやりとした輪郭なのにはっきりとした存在感を醸し出していたカタスクニの校長が現れた。
「待っておったぞ、イナサ以来だな」
ナナモはその声に導かれるように雲の中で浮遊していた。眼下には土俵ではなく、いかにもツワモノがおられる大きな社殿が垣間見えた。
「やっと第一歩が始まる」
ナナモは思わず拳を握りしめ、神聖な場所であるのに、喜びの雄叫びを挙げた。