(8)喫茶苺院とアメノ兄弟
珍しくというか当然なのだが、スマホにはマギーからの履歴が残っていた。しかし、それでもナナモはマギーからの電話が本当だったのだろうかとしばらく考え込む日々を過ごしていた。
寮では小岩に会わないわけにはいかなかった。しかし、最初はおそらく勧誘と催促の入り交じった何がしかの声を掛けてくれていたが、そのうち何も言わず微笑み掛けて来るだけになった。ナナモはその笑顔を見ると余計に小岩が恐ろしく思えて、思わず顔をそらしてしまうことがたびたびあった。
大学ではまだ剣道部員でもないのに、タカヤマがあのキツイ関西弁で話しかけてくる。ナナモはグイグイくるタイプは苦手だし、関西人に対してねちっこい印象を持っていたが、意外にさばさばしていて、最近では大学で一番話せる仲間になりつつあった。
フジオカとサクラギの二人ともタカヤマほどではないが、会えば何がしら話すこともあり、ナナモは案外嫌われていなんだと安堵するとともに、あれだけ孤独になろうと努めていたのにその事が嘘のように大学生活を楽しみ始めていた。
それでも、タカヤマには、剣道部に入るつもりなん?と、疑問詞とは最初思わなかったイント―ネーションで言われたし、金曜日の夜にはさすがにしびれを切らしたのか、小岩がナナモの部屋にやって来て、まだ、胴着と竹刀は買っていないのかと珍しく強い口調で迫られた。
ナナモは剣道部に入部する決心を固めていたし、今すぐにでも胴着と竹刀を買いにいくお金も時間も十分あったが、マギーから言われて…と、まさか言えなかったので、大学生活の充実度と反比例して、そのストレスは次第に大きくなって、息苦しささえ覚えた。
でも、ここは何とか踏ん張らないとと、もはや、誰が見ていようが、どう思われようが構わないと思うくらい時間を掛けて、神棚へのお参りを続けていた。
自室で毎日小包を見ていたが、何も変わらなかった。マギーの言葉よりも小岩やタカヤマからの催促よりも、東大を再受験すると言って自室に閉じこもっていて、食堂でもあまり話さない岸が、夕食時にたまたま隣に座って、僕もこう見えて、空手部に属しているんだと言ってきたので、やはり寮の規則は正しかったんだと納得したナナモは、夕食を早々に済ませ、自室に戻ると、居ても立っても居られなくなって、小包をリックの中に入れると寮を飛び出した。
陽が完全にくれていたが、灰色に染められていた周囲の景色を辛うじてまだ認識することが出来た。しかし、ビル群に囲まれているわけでも、風光明媚な自然が際立っているわけでもなく、ところどころに点在する田畑と、長い間の生活臭を醸し出している木造住宅と、その隙間を狙って建てられたコンクリートの低い建物が混在する、のどかな地方都市の雑然とした街並みが、大学を囲んでいた。
ナナモは受験が終わった時のように杵築駅に向かった。この田舎町で唯一の繁華街だ。ただし、大型ショッピングモールや娯楽施設があるわけではない。観光客目当てのホテルと飲食店がこぢんまりと軒を連ねて、奥ゆかしく手招きしている風だ。
ナナモは駅周囲には何度もこれまで来たことがあったし、あの剣道部の歓迎会もこの近辺で行われた。だからある程度地理感はあるはずなのに、急に暗幕が張られたかのような明暗の差に視覚が追いつかなかったのか、今どこを歩いているかわからなくなった。
ナナモはスマホを取り出そうと思った。地図アプリが簡単にナナモの居場所を教えてくれるからだ。しかし、ナナモがそうすることを阻止するように誰かの手招きが視界に入ってきて、ナナモは見知らぬ路地を奥へ奥へと進んで行った。
路地の行き止まりに暗闇の中でも鮮明な真っ赤な門が見える。鉄製の槍を並べたようなその門からは、二階に白壁に真四角の濃い木枠の窓と、一階に人の出入りが十分可能な薄い木製の扉と小ぶりな窓がある建物が見えた。
ナナモはいままでこの辺りでこのような洋風な建物を見たことはなかったし、東京の白金あたりで見るその外観は、この土地に似合わないと第一印象で思った。しかし、次第に懐かしさが湧きおこって来る。もしかしたら、イギリスのとある場所で見たパブに似ていたからかもしれない。
でも、日本には居酒屋の文化はあってもパブの文化はないはずだ。ナナモは自分の記憶を追いかけるように、白夜のようなその建物に近づいて行った。
その建物はよく見ると喫茶店だった。木製の扉には、日本語で「喫茶苺院」と書かれてあったからだ。でも、このあたりの喫茶店はだいたい十七時頃には閉店する。だから、小窓からこぼれる弱々しい灯りに誘われなかったら、門を開け、扉を押し開けようとは思わなかった。
門も扉もほとんど抵抗なく開いた。中に入ると、間口の割には奥行きがずいぶんあった。明るすぎず暗すぎずの光彩の中、光の粒が見えるくらい磨かれた板張りの床に、ウンザーチェアーとテーブルが均等に配置された店内は、外装よりは、よりクリーミーな白壁に囲まれながら、丁度よい間隔で空間を創っていた。そして、何よりもナナモにより懐かしさをもたらしたのは、スマホに入っているはずの四人組が奏でるポップミュージックが、ナナモの鼓膜と同じくらいの振動で、店内をかすかに揺らしながら拡がっていたからだ。
ナナモはまるで宇宙飛行士のようにしばらく無重力の空間に心を遊泳させていたが、もしかしてと、もはや習慣になってしまったかのように鼻孔を何度か拡げていた。
あれ、コーヒーの香りがしない。
もしかして、VRの世界に迷い込んだのかとナナモは一瞬思ったが、続いて頬をひねると痛みは感じた。
「申し訳ありません。もう閉店しました」
ナナモの疑問に答えるように急に目の前に男性が立っていた。
オールバックの黒髪に丸眼鏡。ナナモよりは背が低かったが、がっちりした体格が目立つような黒エプロンから白ワイシャツがこぼれていた。
「あっ…、すいません。素敵な店だったし、灯りが付いていて、中に入れたものですから…」
ナナモは出来るだけ丁寧な言葉で言った。
「喫茶店ですよね」
ナナモはパブの事もあったので、確かめたい気持ちがまさってつい言葉を継いだ。
「はい」
男性は物静かに頷いた。男性の言葉は何かのスイッチだったのかもしれない。今までまったく匂わなかったのに妙に懐かしい香りが突然店中に拡がっていった。
「良い香りですね」
ナナモは思わず声を上げていた。その香りはコーヒーではなく紅茶の香りだったからだ。
「紅茶がお好きなのですか?」
男性はナナモに尋ねた。
「はい、色々あって、以前ロンドンに住んでいたものですから」
ナナモの声は店中に響いた。先ほどまで店内で奏でられていた音楽はいつしか聞こえなくなっていた。
「色々?」
「いや、いいんです。それに、僕はハーフですから」
「ハーフ?」
ナナモは何をこの男性に言おうとしているのだろうと、慌てて頬をつねった。痛みを感じたが、痛みを感じている幻なのではないのかと、何度も頬をつねった。
「どうかされましたか?」
男性はナナモの行為に不思議さを覚えたに違いない。それならここは現実で、痛みは本物だと、やっとナナモは落ち着きを取り戻した。
「もしかして、栄光寮に居られる医大の学生さんですか?」
男性はナナモの奇行が終わると相変わらずの穏やかな声でナナモに尋ねた。
「はい、今年からお世話になっています」
ナナモは突然の質問に戸惑いながらも素直に答えた。
「それでは、どの武道を選ばれたのですか?」
ナナモは目の前の男性をじっと見つめた。
「アヤベさん?」
ナナモはつい尋ねた。
「私はアメノです」
男性はナナモの早口の質問に対して、なぜすぐに理解できたのかわからなかったが、しかもあまり感情のない声で先ほどよりも早い口調ではっきりと言った。
ナナモはその事で言い返せなくなったが、アヤベとは似ても似つかないアメノという男性の顔をしばらくじっと見つめた。
「眉間に皺を寄せているということは剣道ですね。栄光寮の学生さんは経済的に大変だとお聞きしていますが、必要なものですから」
ナナモの懸念などどこ吹く風というような面もちで、アメノは言った。
ナナモはアメノの言葉をあやうく聞き流すところだった。
「えっ、でも、ここは喫茶店ですよね?」
ナナモは慌てて言った。
「はいそうです。この店の奥に隣接して武道専門の店があるんです」
ナナモはこの喫茶店ですらずいぶん奥行きがあると思っていたのに、さらにその奥に店があるとは、どこまで長いのだろうと、本当だろうかと訝った。
「でも、どうして。僕がここに竹刀と胴着を買いに来るとご存知だったのですか?」
ナナモは素直に疑問をぶつけた。
「ある方から連絡があったのです」
「ある方って、小岩さんですか?」
ナナモは小岩から何も言われなかったから、なぜ教えてくれなかったんだろうという気持ちも込めて尋ねた。
「いいえ」
アメノはきっぱりと否定した。
「それでは、誰ですか?」
「まあ、それはいいでしょう」
アメノは答えなかった。ナナモはアメノの目力に押されてそれ以上尋ねることができなかった。
「こちらに来てください。特別ですよ」
ナナモはアメノに喫茶店の奥へ奥へと導かれた。厨房はどんな風になっているのだろう、どんな種類の紅茶があるのだろう、どんなオーディオ機器が隠されているのだろう。ナナモは案内されながら気分が高まったが、ずいぶん歩いたはずなのに、瞬き一つで、いつの間にか、ガラスケースにこそ入ってはいなかったが、甲冑や刀が陳列されている歴史博物館に入ったかのような空間の中にナナモは一人ぽつんと埋没していた。
いつ着替えたのかわからなかったが、先ほどのアメノという男性が着物姿でナナモの前に立っていた。
「いらっしゃいませ」
「いつ着替えられたのですか?」
ナナモは思わず尋ねた。
「先ほど案内されたのは双子の兄です」
双子の兄?本当だろうかとナナモは驚いた。しかし、もはや、店には紅茶ではなくかすかにお香の香りがしていて、怪しさ万歳だったし、頬をつねってもどうせ痛みは感じるだろうと思って、ナナモは事の成り行きに任せようと思った。
「竹刀と胴着でしたね。少しお待ちください」
アメノ弟は、踵を返すようにナナモとすれ違うと、ナナモが今来たばかりの喫茶店の方に向かった。あのーと、ナナモが振り返ると、ほんの一瞬だったはずなのに、アメノ弟は藍色の剣道着を持ってきた。
「ツーセットあります」
あ、はいとナナモは答えたが、どうして英語何だろうと古風な和装の店内と、アメノ弟の佇まいからは全く不釣り合いだと思った。
もしかして、ハーフだから…。ナナモは深く考えるのをやめた。
「栄光寮の方の竹刀は、今まで京都の竹林から取り寄せたもので創られていたのですが…」
アメノ弟は顎を掴みながら少し間を置いてから、今まで気が付かなかったが、木製の重そうな扉を開けた。ナナモが中を覗くと、蜂の巣のように六角形の棚が、横長の壁のように並んでいた。
アメノ弟はその前でしばらく立ち止まっていたが、急に振り返りナナモの顔をじっと見つめてから、何かひらめいたものがあったのか、ある棚のひとつに手を突っ込んだ。
「ナナモさんには、奥出雲の竹が良いでしょう」
自ら名乗っていなかったのにどうして名前を知っているのだろう。やはり誰かから頼まれていたのかもしれない。
ナナモは戸惑いを覚えた。
竹刀は剣の代わりだ。アメノ弟は丁寧に一本の竹刀を取り出すと、ナナモに渡した。
ナナモも丁寧に両手のひらで受け取ると、そのまましばらくじっとしていた。「構えてください」
アメノ弟はナナモに言った。
ナナモはどのように竹刀を持てば良かったのか、わからなかったが、両手で持てばいいのだと、革製の布で覆われた柄の部分を持った。
「こう持つのですよ」と、両肘を曲げまるでプラカードを持つように佇んでいるナナモに、自ら他の竹刀を持って、竹刀の切っ先が前方に来るように肘を少しだけ曲げた力の抜けた状態で、竹刀を持つ構えを示してくれた。
ナナモは同じように構えてみた。もしかして、何か精気の様な電流の様な現象が起こって、ナナモの身体が浮遊するまでではないにしろ、ジェットコースターに乗ったような髪の毛が逆立つような高揚感で包まれるのではないかと思ったが、全くそのようなことは起きなかった。だから、この竹刀が自分に合っているかどうかはわからなかったが、身体の一部になったような気だけはかすかに覚えた。
「長さも、重さも、丁度いい。それに、やはり奥出雲の竹だったのですね」
ナナモのどこをどう見て思ったのか全く分からなかったが、アメノ弟は満足げにナナモが竹刀を持つ姿にしばらく見入っていた。そして、竹刀を丁寧にまたナナモから受け取ると、胴着と同じ藍色の竹刀袋に納めてナナモに渡した。
「あの、お金のことなんですが…」
ナナモは小岩から一万円くらいだと聞いていたが、財布に今は持っていなかった。
「お金はもはやいただいています」
ナナモが驚いていると、寮費に含まれているはずですと、アメノ弟はさらりと言った。
ナナモはそうかそういうことなのかと、誰かの顔が浮かんだわけではなかったが、アメノ弟に気付かれないくらいの含み笑いで一人頷くしかなかった。
ナナモは何とか胴着がリックの中に入りそうだったので、リックを開けた。アメノ弟は怪訝な顔で、皺になりますからと、紙袋に入れて渡してくれた。
「あの…、この店の近くに神社はありませんか?」
ナナモは、ありがとうございますというべきはずなのに、アメノ弟に尋ねた。先ほどリックを開けた時にあの小包が見えたからだ。
「小さな社ですが、真向かいにありますよ」
ナナモは、えっと一瞬思ったが、もはやそんな偶然がとまでは思わなかった。だから一呼吸置くと今度は丁寧にアメノ弟に頭を下げ、ありがとうございましたと言った。アメノ弟もありがとうございましたと、頭を下げていたので、ナナモはお兄さんによろしくお伝えください、今度は美味しい紅茶をいただきに行きますからと、言葉を続けたが、アメノ弟からは返事はなかった。
ナナモはガラガラと今にも音がしそうな木製枠の硝子戸をあけて、ゆっくりと外に出た。ナナモは振り返ってもう一度頭を下げて感謝の意を表したかったが、もし、店が無くなっていたらと思うと出来なかった。
店の外は灰色ではなく真黒だった。もちろん街燈などない。それでもナナモは言われた通り、前を向いた。すると、今まで、真黒の色彩しか捉えられなかったのに、うっすらと輪郭が浮き出て来た。
「鳥居だ」
それほど大きくはない。ヒトが二人ほど通れるくらいで、その高さも二メートルほどの高さだ。ただし、石造りでしっかりしている。
ナナモは鳥居の前で一礼し、中に入ろうとした。しかし、その一瞬何かに掴まれたような気がした。あれ、と思ったが、鳥居下に少し石段があって、足が引っかかったのだ。
ナナモは思わず今買ったばかりの竹刀で地面を突こうとした。しかし、慌てて体制を戻して何とか回避すると、そうか、ここからは神域なんだと、鳥居の前に紙袋に入った胴着と竹刀を置いた。
ナナモはもう一度鳥居の前で一礼し、中へと進んで行った。その途端、目の前に満月が煌煌と輝いていて、小さな社が目に入ってきた。
ナナモは手水舎を探したが、そういうものはなかった。代わりに、小さな甕に水が張っていて、溢れないのが不思議だが底から水が湧き出ていた。
どこかで見たような気がする…、と、ナナモは思ったが、もはやその記憶を深堀しようとは思わなかったし、湧き出る清水も目の錯覚なのだと、手と口元を清めると社に向かった。
社には目立つほどの大きさで注連縄が吊り下げられていた。ナナモは自然と二礼二拍した。そして、自らの名前を告げ、何かしらを願おうと思った途端に背中に急に重みを感じた。
ナナモはリュックを背負ったままだった。そうだ、今一番大事なことがあると、ナナモはリュックを降ろし、中から小包を取り出すと前に置き、もう一度二礼二拍し、名前を言った。
すると満月に晒された小包が急に輝きだした。ナナモは、あっと思わず声を上げて、その小包を取り上げようしたが、その小包がぼっと音を立てたかと思うと燃え上がった。ナナモは、「水」と、声をあげたが、身体は全く動けなかった。だから、白煙が暗闇に拡がる様をただ見ているだけしか出来なかった。
ほんの一瞬の出来事だったのかもしれない。何事もなかったように、影の様な塊が目の前に見えた。燃え失せてしまったのだと思ったが、何も変わっていなかったんだとナナモは小包に近づいた。しかし、そこには小包はなく、あたり一面の草花に精気をあたえるような香りを携えた、まるでまな板の様な薄い一枚板が置かれてあった。
ナナモはその板を取り上げた。丁度、A4サイズの大きさだ。
ナナモはその板をしばらくじっと眺めていた。
「ナナモ、いつまでワシを待たせるつもりなんじゃ」
まな板はまるでタブレットのデイスプレイのように、ある人物を映し出していた。
「マギー、いや、カタリベだ」
あの懐かしいアニメ顔が目の前にある。
「カタリベとは何じゃ。呼び捨てにするのか」
「すいません。カタリベさん」
ナナモは怒られながらも懐かしさがこみあげてきて仕方がなかった。でも、いつもとは違ってずいぶん古風で簡素なデイスプレイだ。
「カミ様から託された神木じゃよ」
シンボク?ナナモは神社に聳える大木を思い浮かべた。
「お前さんには見えんのじゃよ」
カタリベに神木の一部だと言われても、ナナモには薄い一枚板にしか見えなかった。それでも、カミ様に繋がっている。ナナモはその事の方が嬉しかった。
ナナモはまな板の様な平たい板、いや、神木の一部を両手でしっかりと持ったまま、カタリベと冷静になって向き合った。
「アヤベさん、そう、アヤベさんから、僕に何か伝言がある…はずですよね。僕はずいぶん待っていたんですよ」
ナナモはせかすようにカタリベに尋ねた。
「なぜ、コトシロの言葉をお前さんに伝えなくてはならんのじゃ。それにその態度は何じゃ。俺はお前さんを待たせたつもりはないはずじゃ」
相変わらずのアニメ顔のカタリベは妙におちついた声だが、顔色や表情はつかみきれない。
「だって…、いや、ですから、カタリベさんはコトシロさんからカミ様からの託宣を何か伺っておられるはずでしょう」
「知らん」
ナナモはまたかとため息が出た。
「でも、カタスクニで僕は王家の継承者としてオホナムチになるための授業を受けなくてはならないんじゃないのですか?」
「は?何をいまさら?それに去年お前さんを連れていってやったのに、途中から来なくなっただろう」
「それは…」
ナナモはその事はコトシロが全て知っているはずだと言いたかった。
「ワシが色々とカタスクニについて教えてあげようとしたのに、無視したじゃろう」
そうか、だからあの時、何かをナナモは教わったような気がしたのだ。
「無視したわけではありません。ただ、なぜか記憶がなくなったんです」
「記憶がなくなったんじゃない。お前さんは王家の継承者になるんだと、あれほど息巻いていたのに、カタスクニに連れて行った途端、もっと、やりたいことがあるって、王家の継承者になるなんてすっかり忘れていたじゃろう」
ナナモは全く言い返すことが出来なかった。
「それがなんじゃ。やりたいことが終わって少しカタスクニでの勉強を経験させてやろうと助け船を出してあげたのに、わしの言うことなどすっかり忘れてしまって、危うく死ぬところだったんじゃぞ」
カタリベは機関銃のように言葉を継いでくる。確かにナナモは何らかの装備品を与えられていたのに、使えずにアスカで危険な目に何度かあった。
「その上、使命を忘れて道草ばかりしよって…」
「すいません」
ナナモは謝らざるを得なかった。しかし、アスカという異世界へ行った時の記憶は薄れていくし、その目的は王家としてのタミとともに皇家を助けるための歴史を学ぶためだったのではないのだろうか?
「言い訳や、質問など一切許さん」
カタリベはナナモの心を読めることを忘れていた。
「すいません。でも、僕はやっと、進むべき道を自ら切り開くことが出来たのです。だから今度こそカタスクニできちんと学べると思います」
ナナモはデイスプレイのカタリベに真剣なまなざしを添えてはっきり言った。
「はあ?誰がそんな軽口をたたいているのじゃ。コトシロがお前さんをカタスクニ連れて行こうとしたのに、お前は断ったらしいな」
「別に断ったわけでは…」
「言い訳するな。それに、神社参りもせずに、何かノートに未練たらしいことを書き連ねているらしいのお」
見られていたのだ。ナナモの部屋はマギー以外にも監視されている。
「神社には確かに行かなかったのですが、寮の神棚には毎日きちんと参拝していましたよ」
ナナモは、見ていたんでしょうと言いたかったが、ぐっとこらえたし、事実、嘘ではなかった。
「そうだな。でも、あの神棚は…。まあ、いい」
カタリベは急にトーンを下げた。
「あの…、それで、カタスクニのことは…」
ナナモはここぞとばかりに尋ねた。
「カタスクニにはしばらく連れてはいけなくなったのじゃ」
「どうしてですか?」
「色々とな」
そうかそれでコトシロ、いや、アヤベさんの代わりにカタリベが現れたのだとナナモは思った。
ナナモはカタリベの顔を直視した。少し、カタリベの目が泳いでいる様に思えたが、声としては出ていなかったが、カタリベから、コトシロはカミの託宣しか伝えられないのじゃよと、聞こえてきたようにナナモは思った。
何か事情があるんだ。
ナナモはあきらめたくはなかった。ただ、よほどのことかもしれないと黙って自らに言い聞かせるしか今はなかった。
「じゃあ、僕は王家の後継者、つまりオホナモチへの学びが閉ざされるのですか」
ナナモはそれでも一部の望みだけは持っていたかった。
「そんなことはない」
カタリベはやっといつもの表情と語気に戻った。
「でも、お前さんは今やらなければならないことがある」
「何ですか?」
「まず、医学の勉強じゃ」
ナナモはそれはするに決まっていると思った。
「まだ、始まったすべての講義が医学に関することだけではないだろう。だから、手を抜いてはおらんか?」
ナナモはドキッとした。特に、同級生たちは英語の授業で四苦八苦している。「次に、剣道で身体を鍛えるのじゃ。新入生で未経験者はお前さんだけなんじゃからな。決して音をあげるんじゃないぞ。武道は心身ともに鍛えられる。それに、剣の道は王家の道にも通じるのじゃぞ」
最後の言葉はナナモにはピンと来なかった。しかし、その事を尋ねようとした途端目力で跳ね飛ばされた。
「そして、寮にある神棚に参拝することを忘れるんじゃないぞ」
やはり参拝することには意味があるのかもしれない。
「それでは、大学の事だけをしていれば良いのですか?」
「誰がそんなことを言ったのじゃ」
だって、今、カタスクニはいけないし、代わりにやらなければならないことはすべて大学や寮でのことばかりではないかと、ナナモは喉もとから吐き出したかった。
「リモート授業を受けてもらうことにしたのじゃよ」
ナナモはやはりカタリベは一筋縄ではいかないなあと、溜息をつこうとした時だったので、カタリベが継いだ言葉に、思わず、えっと、驚きを漏らしてしまった。
「リモートって…」
「何も驚く事なんてないだろう。お前さんもルーシーとリモートで話していたじゃろうが」
カタリベはわざと少しだけほくそ笑んだ。ナナモはカミの使いであるカタリベなので嫌味ではなく励ましだととらえようとした。
「リモートって僕のパソコンがカタスクニに繋がっているわけがないじゃないですか」
ナナモは、でも絶対あり得ないことはないと、薄々感じながらも、それならば、異世界はやはりVRになると残念な思いがした。
「当たり前じゃ。カタスクニは神聖な世界じゃよ。お前さんのパソコンは穢れているからのお」
また、カタリベは少しだけほくそ笑んだ。ナナモは、僕のパソコンのどこが穢れているんだと思いながらも、強くは言い返せなかった。
「だったら…、」と、ナナモはもう一度カタリベに食い下がろうとしたが、そのほくそ笑みを目の前で見ていて、「あっ」と叫んだ。
「そうじゃ、お前さんは今誰と話しておるのじゃ」
ナナモはこの神木がパソコンそのものの役割を果たしているということに今頃になって気が付いた。
「でも、寮では何も反応がなかったどころか、小包からも出てくれなかったんじゃないですか?」
ナナモはだから今までやきもきしていたんだとこれまでの思いをぶつけた。
「寮ではWiFiに支配されているからのお」
カタリベは溜息交じりの声で言った。ナナモはどういうことですかと、尋ねたが、カタリベは答えてくれなかった。
「だったら、僕はどこでカタスクニからのリモート授業を受ければ良いのですか?」
ナナモはカタリベに向かって尋ねた。
「苺院に来て授業を受けるのじゃよ。曜日は特に指定はせん」
カタリベは平然と言った。
「苺院?」
「そうさ、ナナモが先ほど来た喫茶店じゃよ」
ナナモはもはやその名前を忘れていた。確かアメノというヒトだったような気がする。
「そうじゃよ。アメノは時としてお前さんを監視するかもしれないが、決して敵ではないし、むしろ守ってくれるはずじゃ」
「ただし、アメノとアメノ弟は双子じゃ、だから、アメノは表と裏なのじゃ」
カタリベの声は届かなかったが、口元は動いていた。
「良いか、大学の敷地内では真っ白な絹の布に包んで隠しておくのじゃぞ。神木は誰にも見られるんじゃないぞ」
カタリベは強い口調で言った。ナナモは寮内もですかと、尋ねると、そうじゃ、寮も大学の敷地内じゃろと、無言の会話が行き交った。
「でも喫茶店は午後五時に閉店するって言ってましたよ。クラブを始めたら平日だったら間に合わないし、土日はお店が混雑していますよね」
「今夜はどうして入れたのじゃ」
「知らない間に来ていました」
ナナモは言った。
「知らない間に来れるわけはないじゃろう」
そうかもしれない。誰かが導いてくれたような気もする。
「マネキネコじゃよ」
ナナモはヒトの様な気がしたが、もしかしてヨウカイ?と思った。
「道案内のアプリのことじゃ」
マネキネコという、飛び出すアプリだと言う意味なのだろうか?ナナモは今度は少しもほくそ笑まなかったカタリベを怪しんだ。
「だったら、どのようにして起動させるのですか?」
ナナモは真剣に尋ねた。
「今夜はどのようにしたのじゃ」
また、質問かと、思う前に、ナナモをにらみつけるカタリベが見えた。だから、マネキネコのようにナナモは一生懸命考えた。
「月…」
そうか、とナナモが頷く前に、目の前のカタリベが頷いていた。
「良いか、リモート授業が終われば必ず絹の布で覆んじゃぞ。苺院と武具屋は隣同士だが、神木をそのまま、武具屋へ持っていくのではないぞ」
「どうしてですか?」
「あの武具屋は寮とつながっているからじゃよ」
カタリベはそれ以上話してくれなかった。
「でも、アメノ弟は良いヒトでしたよ」
「だから、油断するのじゃよ」
カタリベはやれやれという顔をした。
「アメノとアメノ弟は双子じゃし、二人とも良いヒトじゃ。但し、あの場所は良くない。場所でヒトが変わることもあるからのう」
何も言えずにいたナナモに向かって、カタリベは意味深に言葉を継いだ。
「もし、アメノとアメノ弟の区別がわからなくて、神木を持っていかれたらどうするのですか?」
ナナモは自信なさげに尋ねた。
「アメノ弟は神木を持つことは出来ない。それに苺院の中だったら、アメノ弟に神木を見られたってかまわないのじゃよ。きっと、デイスプレイに映っている映像は見えないはずだし、声も聞こえないはずだから」
ナナモは少し安心した。けれど、それだけカタリベが強く言うということはそれだけではないし、アメノ以外にも誰かが神木を狙ってくるのかもしれないと、ナナモは心細くなった。
「なにをビビっているのじゃ。お前さんはこれから武道を極めるのだろう。そんな心意気でどうするのじゃ。お前さんは、リバプールで何を学んだのじゃ」
「ルーシー…」
ナナモはため息をぐっと飲みこんだ。
「もしも困ったことがあれば、何も考えずにこの神社に飛び込め。いいな」
「だったらここで授業を受けたらだめなのですか?」
ナナモは尋ねた。
「ダメじゃよ。苺院じゃなければならんのじゃ」
カタリベは最後にナナモを睨み付けるながらそう言うと神木のタブレットのデイスプレイから姿を消した。ナナモの目の前には、何事もなかったかのように元に戻ったまな板、いや、目には見えないが、はるか上空まで聳え立つ神木の一部である木の板が、先ほどとは異なり神々しく輝いていた。
ナナモはもう一度参拝しようと社に近づいた。すると、真っ白なキラキラ光る絹の布が畳んで置かれてあった。ナナモは急いで拡げると、きちんと神木を包んで、背負っていたリュックの中に入れたあとに一礼した。
ナナモは踵を返し、鳥居の端を通り、神域の外に出た。鳥居の傍らにはまるで番犬のように先ほど渡された胴着と竹刀がナナモの瞳に飛び込んできた。ナナモは神社から離れることに名残惜しかったが、先ほどとは異なる覇気が身体の奥底に入り込んでくる様な気がして熱くなった。
ナナモはふと目の前を見た。その途端、今までナナモを見張っていたかのように道具屋の灯りが消えて、あたりは急に真黒になった。
ここはどこだろうと、ナナモはもはや思わなかったし、マネキネコは現れないだろうと思った。それでもナナモはきっと寮に戻れると強く思えたのは、暗闇になれた瞳に映る雲の隙間から月明かりを捉えることが出来たからだった。
「僕はもう逃げません」
ナナモは最後にそうつぶやくと、月明かりに向かって歩き出した。きっとこれから忙しくなるだろう。それと同時に、色々な「わ」の中に組み込まれていくのだろう。
ナナモは今度こそ、その「わ」から、弾き飛ばされないように、そして、自ら逃げ出さないようにと、力強く思った。