(7)寮の掟
もはや入部するしかないのだと半ば観念していたが、会が終わり上機嫌で寮に戻って自分の部屋に戻ろうとした小岩をナナモは捕まえて、ミーティングルームに引きずり込んだ。ナナモは全く酔っていなかったが、小岩は、今夜はもういいだろうという言葉だけを繰り返すのがやっとだった。
ナナモも今小岩と話すことにどれほど意味があるのかわからなかったが、神棚の奥から蛍光灯の乱反射をかいくぐってナナモに覇気を送ってきている様に思えて、今しかないと覚悟した。
「寮生は必ず武道をやらなければならないのですか?」
ナナモは少し語気を強めて尋ねた。
「ああ、特別な理由がない限り…」
小岩はもうその話は言っただろという顔をした。
「だったら、弓道部に入ります」
ナナモははっきりと言った。
「もしかして、ナナモ君は弓道が一番楽だなんて思っていないだろうね」
小岩は少しだけ鋭くなった瞳をナナモに向けた。
「いえ…」
ナナモは、すぐに否定したつもりだったが、まさしく小岩の言う通りだと戸惑った。きっとかすかに痙攣した右頬を見られたに違いない。でも、カタスクニのことがある。歓迎会で小岩から言われてからナナモはずっとその事を考えていたし、肉体的に出来るだけ負担のないようにと考えたナナモの選択だった。
「確かに弓道は武道だけど、相手と闘って勝ち負けを競うわけではないから、手を抜こうと思えばいくらでも手を抜ける。なんたって弓道は自分との闘いなんだから。ある意味受験勉強と同じかもしれないな。だけど、弓道部に入って、実際、手に弓と矢を持って、的に向かって身構えてみて、その的に当たらなくてもいいやなんて思う部員がいると思う?たいていは、的のど真ん中を矢で射貫きたいと思うだろう。でも、弓を引く力がなければ、正確に的には当たらないし、集中力を高めないと気分がぶれちゃうし、ナナモ君が思っているより肉体的も精神的にも鍛錬に時間がかかるかもしれないね」
小岩の言葉はもはやほろ酔いではなかった。
ナナモは確かに小岩の言う通りかもしれないと思った。しかし、それでも誰かを巻き込まなくてもよい。弓道の相手はあくまで的だからだ。
「小岩さんのいうことはわかりました。でも、やはり、僕は武道をしなければならないのなら弓道を選びます」
ナナモはもう一度はっきりと言った。まだ、目じりが下がり、完全にアルコールが抜けたと思われない小岩だったが、眼光だけはより鋭くなってナナモに対峙しているように思えて仕方がなかった。
「ナナモ君の気持ちはわかったよ。でも、残念ながら、寮生がやらなければならない武道には弓道部は入らないんだ」
「えっ」と、ナナモは思わず小岩の顔を直視した。
「さっきも言ったけど、弓道は相手と闘うわけではないからね。相手と闘う武道じゃないといけないんだよ」
小岩の瞳はもはや完全に覚醒していた。
「本当ですか?僕が入寮に関する書類を読んでいないからって、いい加減なことを言っていないんでしょうね」
ナナモはなんだか出来過ぎたというよりもうまく乗せられている様に思えて、思わず身体をのけぞらせるような思いで小岩に言った。
「僕は嘘をつかないよ」
小岩は、今度ははっきりとした声で言い切った。
ナナモは、酔いに任せてナナモに付き合ってくれていた先ほどまでの小岩とは別人のようなその表情に思わずたじろいだ。ただ、だから、はいそうですかとすぐに納得出来なかったのは、志村がナナモに何も言ってくれなかったことがずっと気になっていたことと、ナナモにとってこれまでの一連の成り行きがまるでVRのように思えたからかもしれない。
ナナモは小岩の目の前で自分の右頬を強くひねった。痛みもあったし、当たり前だが小岩はナナモの突拍子もないを見て怪訝な顔をした。
「だったら、剣道か柔道か空手かの三択なのですね。もうこれ以上、条件はないでしょうね」
ナナモは少しいらだっていたのかもしれない。早口だったのか、小岩に二度聞き返された。
「ああ、そうだよ。ただ…」
小岩が一瞬戸惑っているかのように思えた。
「やっぱり、まだ、なにかあるんじゃないんですか?」
ナナモは、間髪入れずに詰め寄るように言った。
「いや、三択なのは変わらないんだけど、柔道と空手は直接相手と触れるだろう。僕はそういう武道というか、行為はナナモ君には不向きなんじゃあないのかなあと思ったんだよ」
小岩は、そう言った後に、僕の思い過ごしかもしれないけどと、付け足した。
ナナモは、そんなことはないですよと、すぐに言い返せると思ったのだが、
何かが喉にひっかかって声が出なかった。
そう言えば…。
物凄い力で凝縮された時間の中で、ふと、ナナモの記憶が映像ではなく音声として蘇る。
それは母との会話だった。でも母の声は聞こえてこない。母とのやり取りがまるで無名俳優だけのドラマのセリフのように流れていく。
ナナモは中学に入った時にいじめにあった。そして、自ら死を選ぼうとした。その事実は確かだ。でもその前に、ナナモは母親に格闘技を習いたいと頼んでいた。もしかしたら、いじめの予兆があって、なんとかそのわずらわしさから逃げたいと、それに自らを守りたいし、もしいじめられたらやっつけたいと感じ始めていたからかもしれない。それは空手や柔道のような日本の武道だったのか、ボクシングやレスリングのような西洋のスポーツだったのかわからない。しかし、直接相手の肉体を自分の肉体を使って支配する。そうしなければ支配される。そういう恐れから解放されるには、格闘技が一番有効な手段だと自ら判断したからかもしれない。
ただし、母はナナモの申し出を受け入れてはくれなかった。そして、何故習いたいのかをナナモに確かめる前に、年齢の割には身体が大きいのよ。だから、格闘技を習っていることを知った年上の人は戦いを望んでくるし、同級生は怖がって近づいてこなくなるわ、もし、そうなったらどうするの?と、言うだけだった。
母はきっとまだナナモが心と身体をコントロールできていないと思ったのだろう。ナナモに抽象的なことを言っても理解できないと思ったのだろう。それにもし、あの時、ナナモが格闘技を習っていたら、いじめに遭わなかっただろうか?確かにいじめは肉体的な強弱で回避できることもある。でも、あの時ナナモをいじめて来た同級生は、精神的な狡猾さでナナモを追い詰めていったはずだ。だから、もし、格闘技を習っていたら、心のコントロールが出来なくなったナナモは、自らの命を止めるのではなく、相手の命を止めようとがむしゃらに突き進んで行ったかもしれない。
でも、今のナナモは昔のナナモではない。痛みを心から感じられるし、人を傷つけることが肉体的だけでなく精神的にも良くないことだと理解している。それに何よりも大人になったナナモは、ハーフだからといって、周りの同年代の男性と比べて突出して体格が大きいわけではない。だから、今なら母はナナモが格闘技をすると言っても拒みはしなかったかもしれない。それに、ナナモは王家の継承者としてタミを助けないといけないと、ト書きが見える。だったら、直接相手と接する格闘技の方が良いはずだ。だから、ナナモは小岩にそう言おうと思った。しかし、その時、急に、なぜか背筋がぞっとして寒気が走った。
ナナモは本当に心のコントロールが出来るようになったのだろうかと自問してみる。ロンドンでナナモはやられるだけでやり返さないなんて考えられないとクラスメートに言われたことがある。でも、実際、ナナモはそういう状況になったとしてもできなかった。それは命に対しての限りない恐怖にまだ打ち勝っていないという心の弱さと、相手を自らの力と拳で傷つけてしまって本当に良いのだろうかという迷いが、ナナモにまだ残っていたからだ。それに、ナナモは自らの命を絶とうと自らの意志で決めたわけではない。結果としてそうなったのだ。もし、同じようにナナモは相手の命を絶とうとしたら、どうなってしまうのだろうか?知らず知らずのうちに小さな悩みが大きな悩みに変化していくように、小さな暴力が大きな暴力を産むことがある。
ほんの一瞬の時間の推移だったが、小岩にというか、この寮の先人たちにナナモの心根を見透かされている様に思えて仕方がなかった。
「そうかもしれません」
ナナモは突然シャットダウンされた記憶のデイスプレイに向かって呟いていた。そして、剣道部に入る運命を感じ始めていた。
「でもね、ナナモ君、剣道は直接相手に触れないし、試合の時に使う武具は竹刀だし、武具が身体を傷つけないように防具で守られているんだけど、武具を使うということは、それが武器として用いられたら、生身の力よりは人を傷つける能力は高いし、武器を介することで人を傷つけているという感覚は低くなるんだ。だから、その事だけは忘れないでほしい」
「どういうことですか?」
ナナモは小岩の言おうとしていることが理解できないことはなかったが、あえて尋ねた。
「防具と竹刀が鉄でできていたらどうなると思う?」
(剣の道。それは戦いの道であり、ヒトがタミに代わろうとした時に産みだされたものだ。そして、その誕生とその目的とその後の歴史は日本でも西洋でも変わらない。)
小岩はあり得ないと思うけどと、剣道がなぜ生じたのか、無言でナナモに伝えようとしていた。
竹刀と道具か…。
ナナモは急にあることを思いついて、折角小岩が創り上げた崇高な世界を、きぜわしい日常に戻した。
「あの、もし、僕が剣道部に入ったとしたら、その…、防具が必要ですよね。僕は剣道の武具を全く持っていませんし、買うお金もありません。どうしたらいいんですか?」
ナナモは、多少大げさだったが、もし、何万円も費用がかかるのなら、それを口実のひとつに出来ないかと、出来るだけ真剣な面持ちを添えて尋ねた。
「竹刀と道着はどうしても買ってもらわなければならないんだけど、防具は寮にあるんだ」
小岩のさらりとした言い方に、ナナモの最後の抵抗は難なくかわされた。でもどうして寮に防具があるのだろう。そして、それなら竹刀も胴着も貸してくれたらいいのにと思った。
「身に着けるものは禊ぎを受けなければならないんだよ」
ナナモが頼もうとする前にその事を察したのか小岩が言った。
ナナモは禊ぎとはずいぶん神々しいことを言うのだと思ったが、なぜ竹刀までと思った。
「竹刀はいわば剣だ。それは剣道では自身の身体の一部だから…」
ナナモは小岩を直視する。もしかして、小岩さん…って、と、でも慌てて首を横に振った。
「竹刀と胴着だけだったら一万円くらいあったら何とか出来ると思うんだけど、ナナモ君、一万円って大変かな?」
小岩は先輩なのに、少し下からの目線でつぶやくように言った。
ナナモはすぐに大変ですと答えるべきだったのに、そうできなかった。なぜなら、ナナモにはアルバイトをしていた時に稼いだお金がまだ残っていたからだ。でも、反対に、すぐにいいえとも言わなかった。貯金があっても、ナナモにとって一万円はけっして安くはない。けれども、だから、それに、もし、本当にナナモに剣道部に入ってもらいたいのなら、竹刀と胴着をプレゼントしてくれてもいいはずだ。甘えかもしれないが、先ほどの焼肉店にどれほどのお金を払ったのかと思うと、ナナモは口には出来なかったが、そういう思いを込めて、しばらく小岩を見ていた。
小岩は急に視線を外した。そして、寮生は必ず武道をやらなければならないんだよと、言い残すと、もう遅いからと、ミーティングルームから去って行った。
ナナモは防具が寮のどこにあるのか尋ねたかったが、胴着と竹刀を手に入れる前に防具のことを知っても仕方がないと思いとどまった。
ナナモは小岩が去った後も一人ミーティングルームのソファーに腰かけていた。蛍光灯が交互に輝いている。きっと視覚では捉えられない速度のはずなのに、ナナモには暗闇が一瞬訪れるような光の揺らぎを感じた。そして、ふと視線をあげると、神棚が見える。ナナモは本来ならカミ様が祀られているはずなのに、カミ様とは異なる誰かが、神棚の脇から小岩との会話をずっと黙って聞いていたのではないかと、背中がむずむずした。
ナナモはここで朝まで横になろうと思った。部屋に戻ればきっとそのまま寝込んでしまって起きられない。ここならヌノさんが声を掛けてくれる。そんな期待を今のナナモは抱きたかった。それでも、ナナモは念のために携帯の目覚ましをセットした。
ナナモが、今、しなければならないのは、クラブ活動ではなく、神棚に向かって参拝することだ。早くあの小包が開けばいいのにと、ナナモは夢の中で、その願いを繰り返していた。
聞きなれた音楽だ。いや、忘れることはない。いや、忘れてはいけない音楽だ。そう、ルーシーが愛していた曲。そして、ナナモを目覚めさせてくれた曲。だから、今でも目覚ましはこの曲だ。
ナナモはヌノさんに起こされることはなく、スマホに起こされた。つい先ほどまで小岩と話していたことなどすっかり忘れてしまうほど、ミーティングルームの古いソファーに身体を埋没させていた。それでもロンドンでは遅刻魔のナナモが一瞬でシャキッと目覚めることが出来たのはルーシーのおかげだ。
ナナモは洗面所で歯を磨くと、そのまま自室に戻ってから着替えを持って風呂場へ行った。ナナモは昨夜のアルコールなどほとんど残っていなかったというよりも、知らず知らずのうちに代謝されていたのか、短い睡眠であったが、とてつもなく深い眠りだったのか、いつもと変わりがない気分だった。
ナナモはシャワーの冷水を全開にして頭からかぶった。身を清めたい気分だったからだ。それでもすぐに意気込みは萎えてしまって、温水と浴剤で身体をくまなく洗った。
ナナモはいつものように午前六時の参拝を行った。昨夜はまるで神棚に備え付けられている隠しカメラに見張られている様な気配で支配されていたが、今は木漏れ日のような日差しと相まって清々しさだけが輝いていた。
「あれ、ヌノさんは?」
ナナモは食堂から漂って来る料理の香りでヌノさんの存在を確認するのだが、今朝は全く無臭というか、この寮特有の少し古い建物から滲み出る木材の湿った香りだけしか、感じなかった。
「あっ、そうか今日は日曜だ」
ナナモはだから昨夜歓迎会が行われたのだと、合点が言った。
日曜日は朝食と昼食が出ない。学校が完全に休みだということが理由ではない。用事があるからと、その詳細は教えてくれなかったが、決まりだと、ヌノさんから以前教えられた。
ヌノさんは寮内の敷地の特別な場所で生活していると、小岩が言っていたが、いったい何をしているのだろう?
ナナモは一瞬身体がピクリと反応したが、この寮は謎ばかりだけど卒業するまで寮生活を送るから、そのうち…と、詮索しようとする気持ちも萎えてしまった。
ナナモは自室に戻った。ちらと小包に眼をやったが、相変わらず何の変化もなかった。昨夜のことがあったので、いっそ小包を開けて中身を取り出してみようと思ったが、その事ですべてが無くなりそうで、思いとどまった。
ナナモはせっかくの休みなのに、どこに行こうとも思わなかった。だいたいまだ誰かと約束して出かけたことなどない。同級生の下宿を行き来したこともない。昨日会った、確か、タカヤマという明らかに関西言葉を話す同級生は何をしているのだろう。今頃まだ寝ているのだろうか?
ナナモは連絡先を交換しなかった後悔と信念の狭間の中で、ベッドに横になって瞳を閉じたが、昨夜ほとんど寝ていないのに、あの一瞬のうたた寝で失われたエネルギーが完全に回復したかのように、頭ははっきりしていて、せっかく落ち着いて気分を落ち着かせようと思ったのに、却ってイライラが募って起き上がった。
ナナモは唐突にルーシーと話がしたいと思い立った。
ナナモは関東西部大学を中退したことも杵築医科大学に入学したことも一切ルーシーには伝えていなかった。ルーシーに彼氏が出来たということが何となくナナモの気持ちを前に進ませなかったからではあるが、受験許可書や王家の継承者などのことが足枷となって、現実がまだ定まっていなかったからだ。
だが結局、ナナモはもう一度再受験のために勉強することなどなく、医学部での授業を受けているどころか、大学のクラブに入ろうとさえしている。もはや、現実は幻でもVRでもない。ナナモはもういいやと開き直って、ルーシーにすべてを打ち明けたい。いや、聞いてもらいたいと思った。
この寮はWi―Fiが完備されている。もちろん使い放題だ。最近は、賃貸のマンションなどはWi―Fi付きが多い。しかし、古い、まるでアナログ感満載の寮の中で、なぜタダで使えるのかを、小岩に尋ねたナナモは、ここは大学の敷地内だからと簡単に言い返された時には驚いた。大学ではすべての学生がタダでWi―Fiが使える。だからだと言わんばかりだった。
ナナモは意を決してPCを起動させた。しかし、そんなナナモの決意にふいに入り込もうとする影が忍び寄る。それは、たいていは招かれざる人物だが、なぜか拒むことは出来ない。PCを開けたままの状態で、ナナモはいつもより余計に大きな音で鳴り響くスマホを探した。
「遅―い」
いつになく甲高いその声は、マギー? でも、いったい? それに突然?
ナナモはしまったと思った。慌てていたので、スマホの画面を確かめなかったのだ。もし確かめたからといって出なかったわけではない。しかし、深呼吸を少なくとも一回はすることが出来た。そういう余裕はあったはずだ。
「マギー?」
「ああそうだよ。私の声を忘れたのかい?」
ナナモは激しい心臓の鼓動がまだ収まらない。
「どうしたの?」
「ずいぶんのご挨拶だね」
マギーからはナナモが医学部に入学し、入寮し、大学生活を始めてからも一度も連絡がなかった。もちろん、ナナモは何度かマギーに連絡したが、相変わらずなしのつぶてだった。
「何度か連絡したんだけど、電話に出てくれなかったじゃないか」
「忙しかったからね」
マギーは相変わらずの返事だ。でも、だったら、マギーは元気なんだと、ナナモは安堵した。
「マギー今どこに居るの?東京に戻ってきているの?それともまだ奈良にいるの?
「キョウトだよ」
「京都?そこで一体何をしているの?」
「何を?そりゃあ、働いているに決まっているじゃないか。なんたってお前の学費と生活費を稼がなくちゃならならないからね」
「ごめん…なさい」
ナナモはその事についてはどうしようもなかったし、奨学金の事を考えたことがあったが、ナナモの両親の生死がはっきりしないことと、なぜかマギーがその事に触れようとしなかったのでナナモは手続きに入れなかったのだ。
「別にお前が謝ることじゃないさ。ところで、大学生活はどうだい?友達は出来たのかい?」
マギーは以前も同じことを聞いてきた。ナナモは曖昧に答えたが、それは再受験をするためだった。でも、今は違う。ナナモは念願の医学部に合格した。それにまだ専門課程の講義だけというわけではない。比較的自由な時間が多い。
「ああ、まあ…」
ナナモは楽しいよ。友達も一杯出来たからと、すぐに返事をすればよかったのだが、きっと、その嘘の声色はマギーにばれる。それに、この寮にナナモを送り込んだマギーのことだから、ナナモが自室で感じたようにこの寮での出来事も全てマギーに筒抜けのように思えた。
「まさか、また、大学を辞めるつもりじゃないだろうね」
「そんなことはないよ」
ナナモはすぐに答えた。
「だったらまだあのことを悩んでいるのかい?」
ナナモは受験許可書の事をマギーに話したことがある。あの時、マギーはナナモを励ましてくれた。その言葉は今もナナモの胸に刻み込まれている。
「悩んでなんかいないさ。それに、前に進むしかないだろうし、あれから大学からは何も言われていないから、もう大丈夫だと思っている」
ナナモはあえて元気声で言った。しかし、本当はまだその事を引きづっていた。いや、これから一生忘れることはないだろうし、何か事があるたびに暗い影として忍び寄って来るに違いないと思った。だから、もう一度、再受験しようかとも考えたが、田中やアヤベに会ってからナナモはもはやそのことを運命として享受するしかないと決めた。
「まさか、ハーフだって…」
マギーがまだその事を気にしているのかと、ナナモは言葉にする前に、笑みをこぼしていた。しかし、すぐに、もしかしてナナモが受験許可書のことで後悔しているように、マギーも自らの命を落とそうとしたナナモのことを、そして記憶とともに忽然と消え去った娘夫婦の事を、罪として気にかけているのかもしれないと思うと、笑みもすぐに消えた。
「ハーフだから得をしていることが多いよ」
カラ元気ではない。クニツではなかったというオチはあるが、確かにナナモはその顔貌から皆にすぐに名前を覚えられた。
「ただ…」
「ただ…、なんだい?」
マギーはナナモが王家の継承者としての使命を果たすためにカタスクニで学ばなければならないことについては、一応知らないことになっている。だから、ナナモはしばらく言葉に詰まった。
「マギー?何か僕に送ってくれた?」
ナナモは苦し紛れにそう言葉を発した。
「いいや」
ナナモは一応尋ねただけだ。あの小包の事をマギーは知っていたとしても絶対に知らないと言うし、事実知らないだろう。でも、すべてはあの小包から前に進めなくなっているのだ。
「誰かから何か送ってきたのかい?」
「いや、いいんだ」
ナナモはあえてこの話題を切った。そして、そう言えばと、言葉を継いでマギーに尋ねた。
「大学から栄光寮の書類が送られてきただろう。それどこにあるんだい?」
「エイコウリョウ?」
「大学の学生寮のことだよ」
マギーはああ、と言ったきりしばらく黙った。
「栄光寮には色々規則があるんだけど、僕は知らなかったんだ。マギー知っていたのに、どうして教えてくれなかったんだい?」
ナナモは特に強い口調で言ったわけではない。ただし、先ほどよりはずいぶん冷静になっていた。
「お前に渡したはずだよ」
マギーは一瞬間を置いたはずなのに、ナナモより強い口調ではっきりと言った。
「えっ、僕は持っていないよ」
「そんなことはないはずさ。だって私はお前に寮に入ることを確認しただろう。ナナモはその時、私に何も言わなかっただろう」
「あれは…」
「それともナナモは何も確認しないで寮に入ることを決めたのかい?」
ナナモはその通りだと言いたかったが、マギーはだからナナモは受験許可書を確認しなかったんだと叱られそうで黙っていた。
「その誰かから送られてきた書類がそうじゃないのかい?」
ナナモはもしかしたら、キリさんからかもしれないと、マギーにキリさんに渡さなかったと尋ねたが、ナナモはでもあの小包の宛先が消えてしまったのはなぜだろうとやはりキリさんは関係ないし、マギーが知らぬ存ぜぬを貫くのならもはや仕方がないのではないかと諦めた。
「で、その規則の事で困っていることでもあるのかい?」
黙っているナナモにマギーは尋ねた。
「寮生はクラブ活動で武道をしなければならないんだ」
「やればいいんじゃないのかい」
「でも…」
「同級生はいないのかい?」
「剣道部を勧められているんだけど、剣道だったら、他に三人いる」
ナナモは新入生歓迎会に参加したことは黙っていた。
「だったら、友達も出来るし、仲間が増えるんじゃないのかい」
「そうだけど…」
ナナモは言葉を濁した。
「もしかして、また、いじめられると思っているんじゃないだろうね」
先ほどと異なり今度のマギーの言い方には棘はなかった。
「クラブ活動は色々とお金がかかるから…」
ナナモははぐらかすことなく正直になった。言葉尻が弱くなったのは、本当はもうひとつ大きな理由があったのだが、言えなかったからだ。
「そうだね。剣道には武具が必要だからね」
マギーは妙に落ち着いた声で頷くように言った。
「武術には空手とか柔道部もあるから武具は要らないんだけど、素手で相手と闘うのは僕には不向きだと思うし、試合に行ったりしなければならないだろう。やはり遠征費とか諸々の費用がかかるからね」
ナナモはマギーにそうだねと言ってほしかった。もし、マギーの一言があれば小岩の言っていた特別な理由を堂々と皆に言えるからだ。
「武具は全て必要なのかい?」
マギーは小岩との会話をすべて聞いていたのかもしれない。いや、きっと、聞いていなくて知らぬ存ぜぬだが寮の規則を熟読しているに違いない。
「武具は寮にあって貸してくれるそうなんだ。だから、胴着と竹刀だけを新しく買えばいいだけなんだけど…」
ナナモは正直に話した。
「高いのかい?」
「一万円くらいだそうだけど」
「だったら買えるだろう。今月は物入りだと思ったから自由になるお金を振り込んでおいたからね」
ナナモは確かにキリさんを通じて古風だが印鑑と通帳を渡された。しかし、ナナモが自分で設けた口座があって、バイト代が残っていたので、通帳の中身をまだ確かめてはいなかった。
「贅沢は敵だよ。でも、誘惑に負けそうになることはあるからね。それに、お金は怖いからね。他人から借りたらだめだよ。本当に困ったら私に言いな」。
マギーは、ナナモの返事も待たずに言葉を継いだ。
「もし、僕が剣道にのめり込んで勉強がおそろかになったらどうするんだい?」
ナナモは無駄だとは思いながらも最後のあがきを止めなかった。
「ナナモ、いいかい?武道は身体を鍛えるだけじゃないんだよ。心も鍛えるんだよ。だから、今みたいな弱気なことを言うんだったら余計ナナモには必要だね。だから、やんな」
マギーにはどうやら裏目に出たようだ。
「わかったよ」
もはや、逃れないレールに乗ってしまったとナナモは観念した。
「ところでナナモ。神社に参拝しているのかい?」
マギーは唐突に尋ねた。ナナモは杵築なのでオオヤシロの事を言っているのかと思ったので、まだだよと、答えると、寮の近くに神社はないのかいと聞かれた。
「ああ、その神社ね。寮母さんに聞いたんだけど、マギーと参拝したような神社は近くにないんだ。でも、その代わり寮の中に神棚が祀ってあって、そこに参拝しているよ」
ナナモは言った。
「そうかい。ならいいんだ」
ナナモは、参拝することに意味があるのかをマギーに尋ねたが、マギーは答えずしばらく黙っていた。もしもしと促していても、電話口の気配は消えてはいなかったが、しばらく沈黙が続いた。
「さっきの竹刀と胴着の事だけど、ある店に行きな。そこで買うといいよ」
「ある店って?マギー、寮から近いのかい?」
「そのうち、誰かが教えてくれるはずさ。いいかい、それまできちんと神棚に参拝するんだよ」
マギーはそれまで黙っていたのに急に早口でまくしたてるように言った。ナナモは、どういうこと?誰かって誰?それに、どうして神棚が関係するの?と、矢継ぎ早に尋ねたかったが、言葉にする前に電話は切られた。ナナモはかけなおそうと思ったが、きっと出てはくれないだろうとあきらめた。