(6)タカヤマ、フジオカ、サクラギ
ナナモはあれから毎日朝六時前に起床すると、誰にも気づかれないように神棚に参拝していた。もしかしたら、参拝することで突然小包が開き、中から赤子のように何かが飛び出してくるのでないかと期待していたからだ。しかし、きっと錯覚なのだろうが、かすかに光輝くように見える時がたまにあるくらいで、和紙で包まれた小包に大きな変化はなかった。
それでもナナモは授業が終わると、ナナモが居ない間に何かが起こっていなかったかと、すぐに寮に帰った。そして、ヌノさんの食事を食べ終えると、寮生が何人かミーティングルームでくつろいでいても、ちらと神棚の方へ視線を向けただけで部屋に戻った。
ナナモは再受験するわけではない。しかし、もし、その小包の中身がカタスクニから届けられたテキストなら、大学の授業と、カタスクニとの二つの授業が始まることになる。それも、今度はどちらとも大切だ。だから、精神的にも肉体的にも本当に自分は遂行出来るのだろうかと、気合だけは十分だったが、やはり不安で、知らず知らずのうちに出来るだけ邪念を捨てようと、他のことには出来るだけ深入りしないようにしていた。
だから、もう大学が始まってから一カ月近くたっていたのに、イチロウのように気が許せて何でも話せる友達にまだ出会えていなかった。そう言えば唯一の話し相手であるナカタ君さえも、最近は以前のように頻回に話しかけてくれることはなかった。
ひよっとしたら、この大学に居る間は友達なんてできないんじゃないんだろうか? また孤独に大学生活を送らなければならないのだろうか?しかし、ナナモはむしろ、それでもかまわないと無理に自分に言い聞かせようとしていた。
大学の講義はまだ化学や物理などの一般教養が主だった。しかし、試験がないわけではない。だから、ナナモがいくら医学の専門科目を学ぶために医学部に来たのだと声高に叫んでも、進級しなければ、一言さえも医学の専門講義を聞く事は出来ない。
それでも、それらは以前の大学の様にちんぷんかんぷんなことはなかった。それに語学については英語が主だったためにナナモにとっては有利だった。だから、授業についていけないとか、どうしてわからないのだろうという切羽詰まった感を今のところは全く覚えなかった。
だからではないが、ナナモはある程度大学での講義の宿題を済ませると、引き続き机に向かって鉛筆を握ってノートにあることを書き留める作業を行っていた。それは、アヤベから異世界の記憶が消えて行くと言われたことが気になったからだ。もし、このままカタスクニに行けなくなれば、カタスクニに行き、王家の継承者になるという使命とともにその記憶も消えて行く。その恐怖がナナモに鉛筆を余計握らせたのかもしれない。ノートパソコンに打ち込む方が賢明なのかもしれないが、イチロウからの手紙を読んでからは、一瞬で消えてなくなるデータより、直筆のノートの方がよっぽど安全だとナナモは思ったのだ。
それでもその作業は簡単ではなかった。なぜなら、ナナモの異世界の記憶がもはや途切れ途切れになってきていたからだ。だから、ナナモは振り絞るようないわば記憶と闘いながら少しずつノートに文字を埋めて行った。
しかし、実際、そううまくはいかなかった。もちろん、アヤベと最初に出会ったユーストン駅でのことは克明に覚えている。しかし、それ以外のことは、記憶のフラッシュバックのようにところどころ異世界の風景が、ヤオヨロズやアスカなどのワードとともに現れるのだけれど、連続した具体的な風景としては描写されなかった。
結局ナナモは、ロンドンで過ごした日々や、日本に帰ってきて受験勉強に勤しんでいた時期や、大学に通いながら再受験の勉強を行っていたナナモの現実を日記のように書き記していただけだった。
「ねえ、ナナモ君、夜遅くまで一体何をしているだい?」
珍しく、夕食時に食堂で出会った志村がナナモに尋ねて来た。
「えっ…」
ナナモは急に尋ねられたので狼狽した。
「ひよっとしてゲームオタクなのかい?」
オタク?
ナナモには聞き覚えのないワードだ。だから、にっこり笑ってやり過ごそうと思ったが、志村が珍しく、「ナナモ君はもう何かクラブに入ったのかい?」と続けて尋ねて来た。
「いえ、まだです」
今度は答えられないワードではない。だから、ナナモは素直に返事をした。
「人それぞれだから無理にとは言わないけれど、ナナモ君がもし医学に関わる仕事をしようと思っているんだったら、必ず人と関わらないといけないからね」
志村の何気ない言葉は、聞き流せないことはない。しかし、ナナモは重りを乗せられた様にしばらく動けなかった。
僕は何をしに再受験までして医学部に来たのだろう。カタスクニに行くためではなかったはずだ。医学の勉強が自分にとってもっとも大切なものだと思ったからだ。アヤベは電子工学部の学生となったナナモはすでにカタスクニの入学手続きを行っていたと言っていた。だから、ナナモは自らの意志で大学生になっていればカタスクニに行けたはずなのだ。でもそうしなかった。異世界ではなく、現実世界で生きるべき道をナナモは選ぶことが大切だと思ったからだ。
「ナナモ君?どうかした?」
志村は心配そうな表情でナナモに尋ねた。
「いえ、なんでもないです。ただ、医学の勉強が大変だって聞いていたものですから、クラブに入ろうとなんて思わなかったんです」
「そうだよね。クラブに夢中になって勉強がおろそかになったら本末転倒だからね。でも、それでも、何かに打ち込んで、それも、仲間と何かに打ち込んだっていう財産は医者になっても大切なときもあるし、クラブ活動で卒業するまでずいぶん時間がかかったけど、その後クラブ活動同様に頑張って、世界的な研究成果をだして教授になった人もいるからね」
「本当ですか?」
「教授になることが大切ではないんだ。きっとその人は、困っている人のために今度は夢中になったんだ」
「夢中…、ですか?」
「そうだよ。クラブ活動は夢中になるからね」
志村はそう言うとしばらくナナモの顔を見ていた。
「ナナモ君は運動が苦手かい?」
ナナモはどうだろうと思ったが、ロンドンに居る時にはサッカーもラクビ―もテニスも空っきりダメだったことだけは覚えている。だからと言って、自分で言うのも何だが運動神経が悪いとか、体力的にすぐにばててしまうということもなかった。ナナモは球技が苦手なだけなのだ。
志村は答えないでいるナナモにさらに質問を重ねなかった。
「あの…、もしかして…、志村さん、僕がハーフだからって、思っていません?」
志村を疑っているわけではないし、もしそう思われても今のナナモはもはや気にしなかったが、ナナモはサマーアイズでの事を思いだしていたのだ。
おそらく図星だったのだろう。志村は黙っている。ナナモはそう思った。だから、女性とテニスをしていて、うまく返せず、ボールが股間に当たって気まずい思いをさせたことを微笑みながら話した。
「僕はロンドンに居たんです。でも、テニスが一番嫌いなんです」
ナナモは笑い顔を消して、ルーシーとの消したくとも消せない過去を披瀝した。
ナナモの語気が少しだけ荒ぶっていたはずなのに、志村は顔色ひとつ変えなかった。ナナモはこの時になって、志村はナナモの外見だけで何かを判断しようとしていないのだと悟った。
「あの、志村さんは何かクラブに入っているんですか?」
ナナモは尋ねた。
「ああ、バレー部に入っている。今でも、練習には行っているんだ」
ナナモは志村がサッカー部に在籍していて、だからナナモを誘ってきたのかと思ったが、そうではなかったらしい。
「文科系のクラブもいいし、実は音楽部にも入っているんだけど、僕は外科医を目指しているから。でも、子供の時から身体が弱かったから、不純な動機かもしれないけど、何とか体力を付けたいと思って。それで、何とかできそうだと思ってバレー部を選んだんだけど、サッカーやバスケットのようにずっと走り回ることはないんだけど、なかなか体力的についていけなくて、結局、一度もレギュラーになれなかったんだ。でも、僕にとって、六年間やり遂げることが出来たことは自信になったし、何よりもバレーボールはチームプレーだから、仲間が助けてくれたし。本当に良かったと今でも思っているんだ」
志村はとても嬉しそうだった。
「六回生なのに忙しくはないのですか?」
ナナモは先ほどまではそれなりの間隔でヌノさんの料理を口に運んでいたが、もはや箸を完全に置いた状態で志村に尋ねていた。
「そりゃ忙しいさ。でも、ナナモ君だから言うんだけど、今でもレギュラーで試合に出たいと思っているからね」
志村は一瞬目を輝かせた。
「それに、医学の勉強に追いまくられていてもその時だけは自分が別の世界に居るようにも思うし、白球を追っていたら、昔、身体が弱くていじめられていたことを忘れるからね」
「志村さんがいじめられていたんですか?」
志村は親分肌ではないし、陽気な方ではない。それでも、陰気かというとそうでもなく、話しやすいし、話しかけやすい。歓迎会の時もそうだったが、だから志村の穏やかさに皆いつしか志村の周りに集まってきていたに違いない。
僕もいじめられていたんですと、ナナモは言いたかった。でも、その記憶は次第に薄れてきているし、ナナモはあの夏期講習で克服したのだとアヤベから聞いた。そう言えば、誰かがあの時、ナナモと一緒になって志村が言うようにチームプレーで乗り切ったように思えた。
ナナモは急に頭痛がして、眉間に手をやった。志村はどうかした?と声を掛けてくれたが、大丈夫ですと答えた。
志村は、ナナモの身長の高さを最後に聞いてきたが、だからと言って、バレーボール部に入らないかとは誘ってこなかった。それより、残さずに食べないとね、折角ヌノさんが僕達の身体の事を思って作ってくれたんだからと、箸の止まったナナモを促すように、黙って食事を続けた。
ナナモはこの時、もし、志村が誘ってきたら、思わずハイと返事をしたかもしれない。何故ならナナモはロンドンでスポーツ以外でもチームで何かをすることはなかったからだ。でも球技が苦手なナナモはバレーボールを楽しめないだろうし、志村が卒業したら、きっと再受験と同じで他のことがやりたくなるだろ。ただし、ナナモはその事に大きな嫌悪感を抱いたわけではなかった。やりなおすことは悪くない。そう思えたからだ。でも、クラブ活動を始めたら…。
ナナモは、また、頭痛がした。
志村は今度はナナモの表情の変化に気が付かなかったし、それ以上、クラブ活動のことを話さなかった。
暫く二人は黙って食事をしていたが、先に食べ終えた志村が食器を返す為に席を立ちあがった。
「あの…、この大学には、日本の武道が出来るクラブはありますか?」
ナナモは相撲と最初言いかけたが、きっとこの大学にはないだろうと思ったのだ。
「武道ねえ。確か、空手と柔道と剣道、それに、弓道部があったなあ」
「ナナモ君は、武道に興味があるの?」
チームプレーの楽しさを話してくれた志村には悪いような気がしたが、ナナモはなぜかいじめられたことをふと思い出してしまっていた。
「僕、ハーフだし、しばらくロンドンで生活していたから、何となくあこがれがあるのかもしれません」
ナナモはルーシーのことが脳裏にかすめながらもとっさに答えた。
志村は、ナナモの顔貌やロンドンに居たことにもっと食いついてくるのかと思ったが、そう、と、頷くだけだった。
「それに、僕もそれほどスポーツが得意じゃないし、志村さんには悪いんですけど、個人競技なら自分のペースで練習できるし、周りに迷惑をかけないようにすむと思ったので…」
ナナモは何気なく言葉を継いだ。
志村は運びかけたトレーをもう一度テーブルの上に置いた。
「個人で出来る競技であろうと、出来ない競技であろうと、一人でクラブ活動をしていない限り、チームプレーなんだよ。だから、スポーツが得意だからといって、周りに迷惑をかけないということでもないんだ。その事はいずれわかるよ」
志村は再びトレーを持ち上げて、ナナモから離れていった。ナナモはあのーと、もう少し志村と話をしたかったが、最後の言葉を言い切った語気からは引き止められないと感じた。
ナナモはもう少しで食べ終わるというのにまた箸が止まってしまっていた。
ナナモは忘れかけていたいじめの事がふと走馬灯のようによみがえってきた。今更思い出してもだからなんなんだと思う気持ちと、でも、それで命を自ら断とうとしたことが、相対していて複雑な思いだったが、結局、ナナモの命は救われたが、それと引き換えに両親の記憶を失ってしまった。それはナナモが王家の継承者であるオホナモチになるべき運命を帯びていたからかもしれないし、両親の愛がナナモをただ救ってくれたからなのかもしれない。
走馬灯は、いじめの描写をハイスピードで映し出す。きっとナナモが断片的にしか捉えていなかったストーリーを細かく教えてくれる。でも、早すぎてわからない。ただ、ナナモがハーフだと言う単純な理由で色図けされているだけだ。でも、本当にそれだけだったのだろうか?
でも、あれからナナモはどうしても人の集合体に自ら進んで属せなくなっていた。ロンドンのサマーアイズに居る時も、決して心から皆で何かを成し遂げようとしたことなどなかった。日本とは違って、ロンドンでは個人を尊重してくれる。それに多民族だし、ハーフがとりわけめずらしいわけではない。それでもきっとナナモの知らない階級社会はあるのだろう。ナナモがその社会に入ろうとしてもはじき出されるだろう。だからと言ってチームプレーを軽んじることはない。それにナナモは大学生だと言ってももはや成人だ。自ら命の選択をしない限り、自らの責任だけで生きていける。
このままでは王家の継承者どころか、医者にもなれないかもしれない。叔父のように医学研究者という道がないわけではない。しかし、それすら、はじめは誰かの教えを受けなければならないし、大きな仕事をするなら多くのひととつながりを持たねばならない。
「いじめ」
志村はその言葉からなにを学んだのだろう。ナナモは、しかし、志村は答えてくれないような気がするし、ナナモもそうだが、いじめに打ち勝った志村は単純に今生きられていることを楽しめばいんじゃないかと言うだけなのかもしれない。
ナナモは今何を悩み何をするべきなのかわからなくなってきた。
「何を話していたんだい?」
そんなナナモに妙に生暖かい声が聞こえて来た。眉間に皺が寄りそうなのをぐっと我慢して振り向くと、いつの間にか小岩がナナモの隣に座っていた。
「クラブの事です」
ナナモは先ほどの憂いを微塵も出さずにさらりと言った。
「クラブ?ひよっとして志村さんにバレー部に誘われたのかい?ナナモ君は背が高いし、それにイケメンだからかな」
小岩に悪意はない。でも、身長はともかくイケメンかどうかはバレーボールには関係ないだろうと、思わず吹き出しそうになった。
「小岩さんは何かクラブに入っておられるんですか?」
ナナモはまったくスポーツ臭のしない小岩に話しの流れという理由で聞いた。
「剣道部に入っているよ」
ナナモは小岩が運動などしていないと思っていたので意外だった。
「意外だったかい?」
小岩は心理学の講義を真面目に受けていたようだ。
「えっ、あ…、ハイ」
ナナモは間髪入れずの攻撃に思わずあたふたした。
「別にいいんだよ。それに、人は見かけによらないって。そう言うほうが格好いいからね」
ナナモは何も言えなかった。
「ナナモ君は現役かい?」
小岩は後輩に怒りよりは優しさで接してくれる。
「いえ、二浪しています」
ナナモは再受験したことは黙っていた。
「だったら、もう二十歳を過ぎているよね」
「はい」
「明日の夜、剣道部の飲み会があるんだ。いつもなら、居酒屋で低予算でやっているんだけど、今年は新入生が少ないって、卒業された先輩に話したら、じゃあカンパするからダメもとでもう一度勧誘を兼ねて食事会を開いたらどうだっていう話になったんだよ。焼き肉店でやることになったんだけど、学生の財布で立ち寄れる店じゃないし、いい機会だと思うんだけどどうかな」
ナナモは屈託なく話す小岩の顔をしばらく眺めていた。なぜかつい引き込まれそうになったが、初めて会った時の摩訶不思議な印象が蘇ってきて、何も答えられなかった。
「他にも新入生に声を掛けていると思うから、遠慮せずに来たらいいよ。それに腹いっぱい食べたからって、クラブに必ず入れとは言わないから」
ナナモは別に行くとは言っていないし、行くかどうか悩んでもいない。
「去年もやったんだけどね、ほとんどが食い逃げだったよ。それに、いまどき、メシで強引に入部させたってわかったら、問題になるからね。卒業した先輩は医者だから多分忙しくて来られないだろうし、来られたとしたら、何か新入生に話したいことがあるのかもしれないね。でも絡んでは来ないし、先輩の話しを聞くのもいいことだから。もし、良かったらどう?」
ナナモは、ごちそうさまでした。おいしかったですと、何時ものように言いたかったが、また、生暖かい声が聞こえてきて、何も言わずに、いや、何も言うべきではないと、食べ終えたトレーを持って立ちあがった。
ナナモの後ろ姿に向かって小岩はまだ何か話し掛けてきそうな気配を感じながらも、ナナモは振り返らずに部屋に戻った。
真っ暗の部屋に入ったが、机の上に置かれていた小包は少しも光っていなかった。
ナナモは机の蛍光灯だけを点けると椅子に座り、その小包を両手でしっかりと持ちながら、あれこれと思いを巡らすしかなかった。
クラブか?
ナナモはこのまま何もしなくても良いのだろうかと思いつつ、いや、小包が開き、アヤベからカタスクニへの招集を受けたなら二刀流では済まないと、身震いする。きっと、その生活は三刀流とまでは行かないまでも再受験の時の忙しさどころではない。
だが、現実として、何も生じてはいない。それに自分で今できることは神棚に参拝することだけだ。それとて何かが得られる保証などない。再受験とは違ってあくまでナナモは待つ身なのだ。もしかして、アヤベはもう現れないかもしれない。もしそうなら、ナナモは友達も作らないまま、孤独にこのまま過ごさなければならないかもしれない。
だったら前に進もう、という声に耳を傾けてもいいじゃないかと思う。それにチームにはあこがれがある。それは運動部であろうがそうでなかろうが関係ない。でも、それはかってナナモが弾き飛ばされた「輪」の中に再び入り込むことになる。輪なのか和なのかわからないが、ナナモが高く厚い壁に囲まれて身動きできなくなったあの場所だ。
ワ?和?輪?ナナモは急に頭痛がして小包を傍らに置いた。ナナモが右手の人差し指で額を押さえた途端に何かが映像として飛び込んでくる。
丸いテーブル。ずいぶん古めかしい装束に身を包んだ面々。ナナモはその中で一生懸命何かを話している。会議なのか?でも、不意にその場所から一人飛び出してしまう。孤独に走り続けるナナモは誰かに取り押えられる。そして、刃が差し迫る。もうこれまでかと諦めかけていた時、先ほどの面々の中の誰かがナナモを救ってくれる。
この記憶は確か…。ナナモは慌ててノートを取り出した。そして、しきりにペンを走らせ何かを書きなぐっていた。
仲間。
最後の文字を書き終えたナナモは机にうつぶせになって眠り込んでしまっていた。
ナナモは小岩から誘われた次の日に歓迎会に参加していた。しかし、もちろんナナモの意志ではない。小岩には、行きますと、はっきりと返事をしていなかったからだ。それなのに学校から寮に戻ってきたら、ヌノさんに出会って、今夜は夕食は要らないのね、どこかに行くの?と、ナナモが夕食を断ったことが今までなかったので、不思議がって尋ねられた。
もちろんナナモはそんなことはしていない。いつものように、寮で夕食を摂るといそいそと自室に戻って、あのノートに文字を埋める作業を行おうと思っていた。
「僕は断っていませんよ」と、もう少しで声帯を揺らす呼気が肺の奥の奥から漏れ出てきそうなのを、唾を飲み込んだために開かなかったからだ。
もしかして、小岩さん…? 食堂からはおいしそうな香りが漂ってきているはずなのに、妙に生暖かい、酸っぱめの風が鼻先から入り込んできて邪魔をする。
ナナモはでも、どこかで行われるか、いつ始まるかまで知らなかった。
「あの…」
ナナモはヌノさんに声をかけた。ヌノさんは食事の支度で忙しそうにしていたが、顔だけはナナモの方に向けてくれた。
「この辺りで、僕が一人だけで入れそうにない、ちょっと高そうな焼肉店ってありますか?」
「焼肉?私はもう齢であまり行かないからよく知らないけど、誰から聞いたの?」
そう言えばヌノさんの年齢をナナモは知らない。見た目で判断してはいけないが、キリさんよりは年長で、マギーよりは若いように見える。
「小岩さんです」
ナナモは慌てて答えた。
「小岩君から?」
ヌノさんは何かひらめいたような雰囲気をナナモに発したように思ったが、やはりわからないわ、と、食事を断ったナナモを気にしていたことなどすっかり忘れてしまっているのか、また、食事の支度に視線も身体も完全に移していた。
ナナモはどうしようと思ったが、今夜は外で食べてみようと、そう言えば大学周囲を日が暮れてからウロウロしたことなどなかったなと、これじゃあ、大学生じゃないし、ロンドンならパブでも行こうと思っても、そういうところはここにはないし、東京のように数メートル歩けば、コンビニか何かの飲食店にすぐに入れるという場所でも杵築という地方都市は違うので、ナナモにとってある種、宝探しの気分になっていた。
ナナモは部屋に戻ると。今日講義で出された課題をざっと済ませてから寮の外へ出た。
お化け屋敷とは言わないが、外は暗い。いや、東京以外の都会から離れた地方都市は皆同じなのかもしれないが、とにかく、蛍光灯の数が少ないうえに、電飾が圧倒的にみすぼらしいように思う。
いや、東京の電圧が特別なのだ。ナナモは誰かに見られたら気味悪がられるほどニコニコしていた。
ナナモはふと空を見上げた。あれほど暗いと思った街並みなのに、夜空はほのかに明るく、何よりも、珍しく雲ひとつなかったこともあって、四方八方に散りばめられた星々が大粒の今にもこぼれ落ちそうな涙のように光り輝いていた。
ナナモはどこかで同じよう光景を見たような気がしたが、記憶を掘り起こしてその場所を特定することは出来なかった。
でも、これだけ星々が輝いているのなら、もしかして…。
ナナモは夜空を照らし出す月、それも満月が出ていないかと、見上げたまま身体を一回転させた。でも、これだけ、星々が輝いて見えるんだ。だから、満月など見えるはずがない、はず…、いや、満月がある。ナナモはゆっくりと目をこすった。そして、誰かに急に吹きこまれたように、ウサギとつぶやくと、まさか、その満月にウサギの影が見える。
ナナモは、見上げていた瞳をあわてて下げると、周りの匂いをクンクンと嗅ぎ、頬をつねってから、まさか、イチロウがわざわざ杵築まで来たんじゃないだろうかと、「イチロウ、ここに、居るのかい?」と、無意識に声を発していた。
「ナナモ君…、やなあ」
懐かしい声が聞こえて来た。やはり、イチロウが居るのだ。ナナモは小躍りするような気分になった。
「イチロウ?」
ナナモはでも、あの時、イチロウが話しかけて来た関西弁は、VRの中だけだったはずだ。だったらと、もう一度、頬をつねったが、その痛みとともに、暗闇から巨人が姿を見せた。
「イチロウって、俺の事ちゃうよな」
「誰…、ですか?」
「タカヤマや」
「タカヤマ…、さん」
巨人と思ったが、膨張しているというよりもがっしりしている。ナナモよりの少し背が高く、久しぶりに視線を若干上げなければならなかった。
「同じ学年やで、俺の事知らへんかったんか」
タカヤマという同級生は、そう言うと、溜息を洩らした。
「まあ、俺も今日まで、正直、ハーフでイケメンなヤツがおるとは思っていたけど、それがナナモ…、くんという、苗字やとは結びつかへんかったからなあ」
タカヤマはどこかに行こうとしていたのか、カミを整髪料で整えていた。周りが暗いから余計に思ったのかもしれないが浅黒く、一重だが鼻筋が通っていて、何よりも背筋をピーンと伸ばした姿勢がりりしかった。
「寮まで呼びに行ったんやけどおらへんかったからなあ」
ナナモはタカヤマという同級生に急に言われて驚いた。
「僕に何か用事が…?」
ナナモは全く心当たりがなかった。それに、タカヤマの第一印象だが、関西弁が生々しくて、イチロウのように何かを仕掛けてくるようには思えなかった。
「小岩先輩からメールが来て、ナナモを誘ってきてくれへんかって頼まれたんや」
ナナモは、あっと、小さな吐息を漏らした後ですべてを理解した。
「タカヤマ君、もしかして…、剣道部なの?」
ナナモは、半分は、否定されたいと思いながら尋ねた。
「タカヤマ君って?タカヤマでいいよ。俺も、ナナモって言うから」
タカヤマはナナモの質問に答えなかったが、もはや、どこの高校?ハーフって、どことどこの国、他の国の言葉も話せんの?等、初対面とは思えないほどのずうずうしさでナナモに入り込んできた。
ナナモはもはや、これは小岩の敷いたレールに乗るしかないのだとあきらめて、このタカヤマという男の質問にどこまで答えていいのかと訝りながらも、それでもなぜか嫌な気持ちにはならなかった。
ナナモは、知っていると思うんだけど、僕はナナモという苗字じゃなくて、クニツっていう苗字だし、ナナモもジェームズも僕の名前だと説明すると、ホンマか、でも、クラスでは皆ナナモって、ナナモ・ジェームズだって、だからハーフやと噂してたけどと、今更クニツって言いにくいからナナモでええやろうと、ナナモが噂って何?と尋ねているのを無視しながら、そう押し付けてきた。
ナナモは溜息が出かけたが、別に間違っていないし、ロンドンでも皆がジェームズって呼んでいたから、名前で呼ばれても違和感はなかったし、ふと事務員の田中さんの顔が思い浮かんで、ナナモはタカヤマに気が付かれないように、苦笑した。もはや、行くしかないんだと、剣道部の新人勧誘会が行われている焼肉店にタカヤマと一緒に歩き出した。道すがら、タカヤマは早口で何か言ったあとに、一人で笑っていたが、ナナモは今焼肉って食べてもいいんだろかと、妙に神棚に参拝していることが気になった。
焼肉店に着いてから会が終わるまで、ナナモはしこたま酒を飲んでいたが、一切乱れなかった。酒を飲んでいたのは、先輩からの強要ではない。やはり焼肉を食べることに罪悪感があって、何時もならパクパクと率先して食らいつくのに、出来なかったからだ。
タカヤマ以外に、フジオカと言う男性とサクラギという女性もいたが、ナナモは剣道部に入るか決めかねていたので、タカヤマ一人でも暑苦しかったので、現役で入学したのだそうだが、二人とはほとんど絡まなかった。
ナナモは隙を見計らって、小岩の所に行った。夕飯を勝手にキャンセルしたのは小岩さんですね、と、ナナモが尋ねると、そうでもしないとねと、ニコリともしなかった。
「僕はまだ剣道部に入るなんて決めていませんよ」
ナナモは正直に言った。
「ああ、知っている。でも、ナナモ君は寮生だろう。だったら、何かの武道をしなければならないことは知っているよね」
小岩はナナモに当然とばかりに言った。
「いえ、知りません」
ナナモは初めてだと言う表情を素直に付けて返した。
「入寮書に書いてあっただろう?やっぱりナナモ君は読んでなかったのかい。そうか…」
「でも、志村さんはバレー部ですけど」
ナナモはやれやれという小岩を遮るように言った。
「ああ。そうだな。体力的なことあって、志村さんはバレー部に入ったけれど、その代わり、他の部活動もしているんだ」
志村は確かに音楽部にも属していると言っていた。
「音楽部ってもしかして…?」
ナナモは蜂蜜色の壁の景色とともに急に頭痛がしてそれ以上言えなかったが、小岩はナナモの言葉を制するように言葉を継いだ。
「武道は基本なんだ。武道のほかにサッカーや卓球や自分のしたいことをしてもらっても構わない。けれど、必ず武道をしてもらわなければならない。それが寮生の掟だよ」
小岩は、力強く言い切った。
「小岩さんは、他のクラブに属しているのですか?」
ナナモは念のために尋ねてみた。
「もしかして、ナナモ君、人を見かけで判断しちゃいないよね。だめだよ。僕は小柄だけれど、まあまあ、体力はあるんだ。だから、チームプレーのクラブに憧れはあったんで、一時、属していたんだけど、ふたつ掛け持ちすると、時間がね。僕は、あまり頭が良くないし、要領も悪いから、留年しそうになって、だから、今は剣道部だけにしているんだよ」
小岩はどのクラブに属していたのか言わなかったし、ナナモも尋ねなかった。
「僕は本当に何らかの武道をしなければならないのですか?」
「ああ」
小岩は当然と言う顔をしたし、ナナモが選ばれて寮生になったと小岩から聞かされたこと思い出していた。
ナナモは寮生の掟だという小岩の言葉を反芻していた。そして、その言葉はアヤベとの会話と混じりあって、嗚咽とともに酸っぱさをナナモにもたらした。
(僕は医学を学びながら、武道もこなし、その上、王家の継承者としての使命を享受しなければならない。小岩さんと同じように時間がいくらあっても足りなくなるし、体力的なことはそうだが、それぞれが異なる三つの事を行う状況に精神的に耐えることが出来るだろうか。でもアヤベさんは、異世界にいても、現実と同じ時間軸に居ると、言っていたようにも思う。そうであるならば、可能かもしれない)
ナナモはそう思いながら、慌てて首を横に振った。
(大学に行きながら、再受験するだけでも大変だったし、受験が終わったから王家の継承者たる使命に没頭できたのかもしれない。それに、異世界での記憶は薄らいでいくとはいえ、異世界で負傷した傷は現実世界で消えることはないと、アヤベさんは言っていた。僕は、医学を学びに来たのだ。そしてそのために寮生活をしなければならないし、寮生活を継続するのは武道が必要なら、もはやカタスクニには行けないことになる)
ナナモは急に気が滅入って来た。
(でも仕方がない。医学が第一なのだ。でも、王家の継承者になることを今更止めることは出来ないし、あきらめたとしたら、その瞬間に医学への道が閉ざされて、ロンドンに舞い戻るどころが、この世に存在しなくなるかもしれない)
ナナモは無煙処置を施されているロースターの前にいるのに、煙に身体中が覆いかぶされている様な重い気分になった。
「武道は絶対やらなければならないのですね。そして、僕はこの大学を卒業するまで栄光寮から出られないのですね」
ナナモは確かめるように言った。しかし、小岩は何も答えなかった。それどころか、良く焼けた肉が良いんですと、折角、グルメそうな先輩が自ら焼いて後輩たちの皿に取り分けていた肉を、再び網の上に乗せていた。
ナナモは、新入生の歓迎と勧誘を兼ねて行われていた焼肉会のことなど絵空事のようにしか感じなかった。それに、焼き肉の肉汁の焦げる匂いに惑わされ、全く血管の中を巡り回って行かないアルコールで痛みを麻痺されている。だからか、もし入部したら先輩にあたる人々から次々と話してこられ、酒を注がれ、食べたくもない肉をさらに盛られて行く現実をまるでイチロウのVRの世界に居るかの如く感じていた。
それでも、これはきっと現実なのだろう。始まりがあれば終わりがある。過去に立つと未来が見えないが、未来が現実になると過去になる。分かったような、分からないような時間の推移の中、結局この会に出席していた新入生は関西弁を話すタカヤマと、最後まで話さなかったが、フジオカとサクラギだけだった。
そう言えば、剣道部には女性もいる。ナナモは知らず知らずのうちに四人で皆の前に立たされて自己紹介をした時に初めてそのことに気が付いた。ただ、クニツ・ジェームス・ナナモだと自己紹介した時、どこからか女性の声で、ハーフなの、格好いいじゃんという、なぜか、ナナモにとって違和感の強い黄色い声が聞こえてきたときはげんなりした。
「クニツ?ナナモじゃないのか?小岩!どうなっているんだ」という声もして、小岩が、ナナモですよ、彼はナナモ君ですよと、より甲高い声で叫んだ時には、もはやナナモは剣道部から逃げ出せないんだと観念した。そして、このことが解決しない限り、きっと、あの小包はどんなことをしても開かない。そんな、呪術師が大切している丸い水晶の奥の奥に映る文字をナナモは代わりに復唱していた。