(4)許された罰と負わされた罪
「ナナモ、医者になるのかい?」
気持ちの整理がまだつかないまま東京の家に帰って来たナナモは、いきなり言われた。
目の前には確かにマギーが居る。皺が目立つようになってきたのにほとんど化粧気のない、それでいて少しでも清潔感を出そうとしているのか髪の毛を束ねたマギーの奥まった眼窩からは、まぎれのなくヘーゼルの瞳が光っていた。
でも、マギーといつぶりの再会だろう。それに、いつ、なぜ、帰ってきたのだろう。ナナモはもしかしてと一応頬をつねってみた。
痛みはない。それにあれほど激しかった頭痛と吐き気が完全に消えている。
「どうして、マギーがここにいるの?」
ナナモはマギーからの問いには答えず、思わず問い返していた。
「何言っているんだい。ここは私の家だよ。帰ってくるのは当たり前だろ。それより、ナナモが持っているその封筒のことだよ。どういうことだい?」
マギーには何も言っていなかったのだろうか? いや、医学部を受け直すということは言ったはずだ。マギーからは了承を得た。だから、ナナモは受験したのだ。でも、マギーと交わした会話が事実だったかは定かではない。それにもし話したとしても面と向かってではないはずだ。もちろんVRの世界の出来事ではないし、ナナモの全てを御見通しだったような気がする。それなら話さなくても知っているはずだ。
「どうして黙っているんだい」
マギーはどうやら本当に何も知らないらしい。眉間の皺の深みと声の重みが先ほどより増している。
「連絡しようと思ったんだ。キリさんにも頼んでみたんだよ。でも、マギーはいつも僕からの電話には出てくれなかっただろう」
ナナモは、自然と漏れ出る言葉を押さえきれなかった。
「言い訳は要らないんだよ」
マギーはまるでナナモの手の甲をピシャリと叩いたかのような語気で言った。
ナナモは別に口答えしたわけではない。それに隠していたわけでもない。むしろ、ずっとマギーには言いたかったのだ。
マギーはそんな気持ちを汲み取ってはくれない。それよりも、本当にそう思っていたのかい? 合格したからそう思っただけじゃないのかい?と、無言で言い寄って来るようにナナモは感じた。
ナナモは、まるで叱られた子供のようにマギーの前にかしこまった。
「それで…」
マギーの眼光は相変わらず鋭かったが、ナナモはもはや立派な成人だ。だからなのかわからないが、マギーは椅子に座り、ナナモもマギーを直視した。
「なにから話していいのかわからないけど…」
ナナモは曖昧に切り出したが、さっさと話しな、時間は限られているんだよと、いつもなら口調が荒くなるマギーなのに、黙ってナナモの言葉を受け入れようと待っていた。
ナナモはその事が却って薄気味悪かったが、話し始めるにつれ、気にならなくなったというか、自分の事で精一杯だったし、全て聞いてもらおうと、鬱積した感情を吐き出した。
もちろん、異世界のことは言えないし、聞いても相手はすぐに忘れるとアヤベに言われていたので省いた。
ナナモにとってこの一年間は長かったはずだ。それなのに、大学に通い、授業も試験も受け、遊びにも行かずに家に帰ってから勉強していたという事実だけをかいつまむと、その羅列はナナモの高揚とは裏腹に案外少なかった。
ある程度話し終えあとに、どうして医学部をあきらめて工学部を受験したんだい?と、聞かれたらどうしようと思ったが、マギーは別にその事を聞いてこなかった。それよりも、医学の勉強がしたかったのかい?と尋ねて来た。
ナナモはハイと即答した。
「でも、問題があって」
ナナモは、言い訳などせず、甘えだと自分を戒めてから、マギーに田中と交わした会話の事を伝えた。
マギーは相変わらず全く口を挟まず、ナナモの話しを聞いていた。
「そうかい。わかったよ」
ナナモがひと段落着いたことを確認してからマギーは言った。
「もし、退学届を出した後に、入学が取り消されたら、また、僕は受験生になるんだよ」
ナナモは、マギーに言った。
「仕方がないさ。それにそうなったら、今度は正々堂々と医学部を受験できるじゃないか」
マギーは珍しくナナモに微笑みかけてきた。ナナモはせっかくのマギーからの贈り物の様な貴重な言葉なのに、あえて自らありがとうと素直に言えなかった。だから、「入学金や授業料を治めていたら、それすら無駄になるんだよ」と、言った。
「ほおー、ナナモもそんなことを気にするようになったんだ。でも、もし、本当にそのことが気になっているんなら、だいたい、再受験なんか最初から考えなかっただろう」
そうかもしれない。でも、ナナモは全くそんなことなど考えなかったわけではない。ただ、再受験するという熱量が次第に強くなりすぎて周囲の感情を溶かしてしまっただけだ。
「ナナモ、よく聞きな。おまえがこれから医学を学ぼうとしているなら、もっとも大切なことは何かわかるね。そう、命だよ。そして、カミ様から与えられた命は限られているんだ。だから、悔いのないように精一杯生きることが必要なんだよ。でも、ヒトはカミ様じゃない。うまくいかないこともある。迷うこともある。でもそれでも前に進まなければならないんだよ。おまえならわかるだろう。そう、限られた命は二度と戻らないんだからね」
マギーはなぜか珍しくはっきりとした発音で話してくれた。むろん英語だ。でもナナモにははっきりとした日本語として伝わってくる。まるで、父と母がマギーに乗り移りながらナナモに話してくれているようだ。
「わかっています」
ナナモも丁寧な英語ではっきりと言葉を返した。
マギーの皺が一瞬ほどけたが、
「もう、二度はないからね。それに、学費を無駄にしたんだ。だから、贅沢はできないからね」と、すぐに、撚り合わせるとナナモに言った。
ナナモは、そんなことわかっているよと、思いながら、マギーの気遣いにハイと言うだけで精一杯だった。
「それと私は入学式にも行けないし、向こうでお前の世話をしてやることもできないからね」
ナナモはやはりそうなのかと思ったが、頷くしかなかった。
「下宿は学生寮に入るんだよ。それも六年間。イヤだなんて言わせないよ」
ナナモは、学生寮?と、思いながらもまた頷くしかなかった。
「じゃあ、しっかり勉強するんだよ」
マギーはそれだけ言うと、急にナナモに背を向けた。
「マギー、しばらく東京に居るんだろう。もう少し色々なことを話したいし、もし、入学が取り消された時はどうしたら…」
踵を返そうとしたマギーだったが、再びナナモを直視した。その表情にはいつもの厳しさが戻っていた。
「入学を取り消されても死ぬんじゃないよ。それにロンドンに戻ることも許さないからね。結果が出るまで東京に居て、これから毎朝、あの神社に参拝に行くんだ。私は忙しいからまた出かけないといけないし、もし、つらくなったら友達と話しな。もう、ひとりじゃないだろう」
マギーはもう一度踵を返そうとした。
「マギー、また、どこかに行くの?」
「お前のために老体に鞭打って稼がなくてはならならないだろ」
マギーはもはや背を向けていたが、その後姿は微妙に揺れていた。ナナモは何度も追いかけようとしたが、まるでヨウカイの術に嵌ったかのように動けなかった。それでもナナモは声をかけ続けた。しかし、マギーは、次第に霧の中に入り込んでいったかのように姿が消えていた。
「起きてください、起きてください」
誰かの声が連呼する。しかし、耳障りではない。むしろ、程よく鼓膜を揺らしてくれる。だからか、なかなかまどろみから脱出できない。でも誰だろう?いや待てよ、聞き覚えのある声だ。むろんマギーではない。そうだ、キリさんだ。きっと、マギーに言われて手伝いに来てくれたんだ。そう言えばキリさんには何も言っていない。
ナナモは是が非でも感謝の言葉を自分から掛けたくて、その強い意志で、無意識のゆりかごから飛び出すと目をこじ開けた。やはり瞳にはキリさんの姿が映っている。
「ありがとう。本当にありがとう」
ナナモはこころから感謝の声をあげた。いつもなら、ナナモの言葉に何やらいわくありげな微笑みを返してくるだけなのに、目の前のキリさんは満面の笑みでナナモを見つめている。しかも、その笑みからは透明感さえ伝わってくる。
「キリさん…」と、ナナモはもう一度呼びかけながら、何かにはじき返されるような圧を感じた。それどころかずいぶん意識がはっきりしてきて、平面ではなく立体として視覚が働きだすと、キリさんが微笑んでいるのではないことが分かって来た。
ナナモはキリさんをもう一度よく見た。いつもよりは目を細め、頬がゆったりしているようにも思える。ひよっとしたらナナモが知らない間にキリさんはずいぶん太ったのかもしれない。だから、心から微笑んでくれていると思ったのかもしれない。
「キリさん…、どうしたの?」
ナナモの呼びかけがまるで空気を送り込んでいたかのように、キリさんの身体がさらに大きくなってエプロンからはみ出していく。
ナナモがもう少しキリさんと良い関係を築いていたら、きっと、冗談っぽく、風船みたいだよ。どうしたんだいと、尋ねていたに違いない。
「あなたですか、新入生は?」
はっきりと覚醒していたと思っていたが、そうではなかったらしい。キリさんの声とは似ても似つかわない少し甲高い声が急に聞こえて来た。それに風船は萎むどころかさらに大きくなって覆ってくる。まるで相撲の力士に覗かれているような威圧感だ。
ナナモは、何かを押しのけるかのように無意識に両手を上げていた。そして、やっと声の主がキリさんではないことを確認するとか細い声で尋ねた。
「ここはどこですか?」
「ここは栄光寮ですよ」
また、少し甲高い声がする。やはり耳障りではない。しかし、今度は、その声でブラックコーヒーを流し込んだように意識がはっきりしてきた。
「栄光寮? 杵築医科大学の学生寮のことですか?」
ナナモはやっとはっきりと今どこに居るのかが分かった。だったら、ここは寮のミーティングルームのソファーがあった場所のはずだ。確か、小岩という寮の住人とつい今しがたまで話していた。ナナモは自ら掛けた毛布を払いのけると、慌てて立ち上がり、目の前に大きな声の主が居ることなど忘れて、しきりに周りを見た。あの時は確か深夜二時だったはずだ。だから暗闇だったが、まるで飛び出す絵本のように、地味ではあるが凹凸のある空間が拡がっていた。
やはり、つぎはぎだらけだと、古めかしいソファーが直ぐに目に入ったし、ところどころ色褪せていたが、それでも妙に澄み切った壁は思っていたより清々しかった。
「案外きれいなんですね」
ナナモは思わずつぶやいた。
「当たり前ですよ。私が日夜闘っているのですから」
強大風船だとナナモが勝手に思っていただけで、今にもはち切れそうなほどの筋肉質ではない。小太りではあるが、エプロン姿が余計にそう思わせるのか柔らかさが際立っている。それに、若くはないが年老いている風でもない。ひと目でわかるきめ細かな色白の肌に、一重の瞳と少し下がった眉が印象的だ。
ナナモは初めて会ったはずなのに、吸い込まれるように心穏やかになった。
「寮母さんですか?」
ナナモが話しかけると、「そうですよ」と、先ほどより落ち着いた音調の声が聞こえて来た。
ナナモはその声を聞くと先ほどの心地よさは変わらなかったが、なぜか背筋を伸ばさなければならないという緊張感が走って、それまでのだるさが嘘のように消えて、すぐに立ち上がると直立不動の姿勢で、「よろしくお願いしますと」、頭を下げていた。
「ナナモさんですよね」
ナナモは、ハイと、妙に緊張しながら答えた。
「私は、ここの寮母をしています。ヌノと申します」
ナナモは小岩の少し意味ありげな微笑みを思い出して、さらに身体が硬くなるかと思ったが、程よい緊張が却ってナナモには心地良かった。
「初めまして、お世話になります。クニツ・ジェームズ・ナナモと言います」
ナナモははっきりと言った。
「クニツ…さん? あの…、ジェームズ・ナナモと言うのがお名前ですよね」
ヌノはナナモに確認するように尋ねた。
「ハイ。母がイギリス人で父が日本人なんです」
ナナモは、一瞬、あれっと、思ったが、ナナモの顔を見て何か感じたのかもしれないと勝手に想像して、あえて緊張を緩めながら言った。
ヌノさんは、そう、という表情をしただけで、あえてそれ以上ナナモの個人的なことを尋ねて来なかった。
「なかなかこられなかったので、入学されないのかと思っていました。みんな心配されていたのですよ」
もはやナナモは小岩とここで話した記憶は蘇ってきていた。だから、心配していたのは、寮の存続が掛かっていたからであって、ナナモ自身の事ではないことを知っていたが、あえて言う必要もないと思った。
「ところで、今日は入学式ですが、ご存知ですよね」
ナナモは驚いた。
「やはり、知らなかったのですね」
ヌノさんはあきれたというような表情を添えながらナナモに言った。
「実は…」
ナナモの脳裏にあることが浮かんだ。でもここに居るということは解決したのだろうか?いや、解決したはずだ。それも良い方に。だから、ナナモは入寮することが出来たのだ。
でも待てよ。それなら、ナナモに知らせが届くはずだ。しかし、ナナモにはその記憶が全くなかった。
「ナナモさんのおばあさまにはお知らせしたのですよ。今までどこにおられたのですか?」
ナナモは寮母の言葉を聞いてさらに驚いた。ナナモは在学受験許可書の件を包み隠さずマギーに話した。その時、マギーは躊躇なくナナモを後押ししてくれた。きっと、ナナモの悩みに珍しく言葉とともに寄り添おうとしてくれたのだ。だったら、いの一番にナナモに教えてくれてもよさそうなのにと、でも、それがマギーかもしれないし、入学が許されたのなら文句はなかった。
「僕の荷物は届いているのですか?」
「部屋にもう入れていますよ」
マギーはあれほどナナモには関わらないと突き放しておきながら、やはりちゃんと荷造りをしてくれたんだ。だから、何も教えてくれなかったんだ。
ナナモはマギーに頭を下げる気持ちを抱きながらも、マギーとの不思議な縁に溜息をつい漏らしていた。
「最近は業者に頼むこともあるのですが、親族以外の方がこられたのは…」
ヌノさんは、私が寮母としてここで働いている限り初めてのことですと、前置きしてから言った。
「でも、その方を、お部屋に案内したら、きれいに掃除をされて、どこから持ってきたのか、いくつか段ボールが寮の玄関に積まれていて、それを部屋に運ぶと、私に最低限必要な日常品を聞いたあとに、買い出しに行かれて。それほど荷物は多くはないはずなのですが、とても手際が良かったのか、時間が余ったようで、結構ですと何度も言ったのですが、廊下や洗面所なども掃除させて下さいと言ってこられたのですよ」
ヌノさんは話しを継ぎながら、その当時の事が思い出されたのか困った顔をした。
ナナモはどのような人ですかとあえて聞かなかった。きっと、キリさんに決まっている。ナナモはマギーの優しさに感謝したことを少しだけ悔いた。反対に最後まで何も話さなかったキリさんの事を考えると心苦しい気分だった。
「でも、どうして親族ではないと分かったのですか?」
ナナモはもはやどうでも良いことなのに、なぜかヌノさんに尋ねていた。
「ご本人がそうおっしゃられたからです。私とは似ても似つかわないですからって…」
ヌノさんはチラとナナモの顔を見た。
「でも、だったら、どうして僕と関係がある人だとわかったのですか?」
「タブレットを持っておられてナナモさんに関する事柄を見せて頂いたものですから」
キリさんらしいなとナナモは思ったが、恐ろしくてその事柄が何だったのかまでは聞けなかった。
キリさんがナナモの部屋のすべてをセッティングしたとしたら、ナナモはまたマギーの監視下に置かれることになる。そんな妄想が大きな溜息となって、今にも身体から漏れ出ていきそうだった。
隙あらば部屋から出て行ってやる。
ナナモは、小岩やマギーから言われたことなど忘れて、慌てて溜息を吸い込んだ。
「あの、その部屋ってやはり107号室ですか?」
ナナモは、あり得ないとは思うが、もしかして、キリさんが部屋を間違ってセッティングしたのではないかと思って尋ねた。
「そうですよ。やはり聞いておられたのですね」
小岩さんから聞いたんですと、もう少しで半開きになった口元から飛び出しそうになるのをぐっと我慢して、曖昧に、まあと返事をした。
「ただ、その方にはお話ししなかったし、ナナモさんがなかなかこられなかったので少し状況が変わりまして…」
ナナモは部屋が変わるのかもしれないと、半ば期待しながら、僕は気にしませんからと、勝手に答えていた。
「いずれお話しすることになると思いますが、最近入寮希望者が少なくなって本来四人部屋だったのですが、個室状態になっています」
ナナモは小岩から聞いていたが、また、そうなんですかと頷いた。
「ただ、ナナモさんの部屋だけは、一人部屋ではないのです」
ナナモは予想に反した内容だったので、驚いた。
「もし、誰も入寮生がいなければ少し困ることになるので、臨時に入っていただくことにしたのです」
今度は小岩の話しと少し違うとナナモは思った。しかし、小岩が、寮母さんから色々とねと、含みを持たせていたので、小岩が知らない間に何かが動いたのかもしれない。それに、遅れて来たナナモに非がないわけではない。さらに、マギーの指令でキリさんがセッティングした部屋だと思うと誰がいようといまいと関係ないようにも思えた。ただし、ナナモは愛想が良くないし、消極的な方だ。むろん明るい性格ではないので、相手に嫌がられないだろうかとそれが心配だった。
「わかりました。では、部屋に行って着替えてからその人と一緒に入学式に行きます」
ナナモは、ラフな格好をしていた。きっとキリさんの事だから、それなりの服装を揃えてくれているはずだ。ナナモは相部屋の同級生に挨拶したいという期待と不安もあって早々に部屋に行きたかった。
「まだ、その方は来られていません」
なぜか知らないが簡単には前に進ませてくれないらしい。
「えっ、どういうことですか?だって、寮母さんは今日が入学式だと先ほど言いませんでしたか?」
ナナモは当然と思って疑問をぶつけた。
「はい。ただ、その方は新入生ではありません。また、のちほど説明しますが、色々あったので…。それより遅れたら困りますので、早く着替えて学校へ行ってください」
ヌノさんはナナモがさらに尋ねたいという表情を制してから、言葉を続けた。
「入学式は記念講堂で行われます。きっと、皆がぞろぞろ歩いているのでついて行けばわかるはずです。それよりも、朝ごはんを食べてください。まだ朝食の時間ではないですが、今日は特別です。入学式は早く始まりますから」
ナナモは顔を洗い食事を急いで済ますと、部屋に案内され、ヌノさんから鍵を渡された。
扉を開け中に入ると、部屋の奥に大きな窓ガラスが目に入る。しかし、小岩が言っていたように日当たりはよくなかったので薄暗さを感じだ。しかし、もはや陽が昇っていたからか、部屋の電気をつけるほどではなかった。
部屋の作りは左右対称になっていて、窓ガラスの前に四つ机が一列に並んでいて、机の横には本棚が備え付けられていた。そして、扉に近い場所には二段ベッドが二対置かれてあった。
もし、机やベッドがなければかなり広い空間なのだろう。しかし、もし、個室として利用していても、四人分の装備品が邪魔をして、ナナモが東京で住んでいたマギーの家の自室より数段狭く感じられた。ただ、キリさんが部屋はきれいに掃除してくれていて、備え付けの衣装家具もあったが、何かキラキラとまるで新品の様な清々しさを覚えた。
ヌノさんが言っていたように、キリさんが、ナナモの荷物を運び入れてくれていた。それらは入口の右側に全て置かれていた。やはり相部屋なのだと、何かが急に脳裏に浮かびかけたが、じっくり思い出す時間は今はないのだと、ナナモはその記憶を掴み損ねた。
それほど荷物が多いわけではない。それにキリさんがある程度ナナモにもわかるように整理してくれている。だから、ナナモはざっと、荷物を見渡したあと、二段ベッドに掛けてあった背広に着替えた。
大学の入学式はこれで二回目だ。でも、あの時の記憶はほとんどない。
ナナモはネクタイをしっかりと最後に閉めると、寮を振り返ることもなく足早にヌノさんに教えられた記念講堂に向かった。
入り口で、封筒と名札があいうえお順で置かれていた。ナナモは自分の物を探した。
「クニツ…、クニツ…」と、ナナモは何度も「か」行を探したが、クニツと書かれた名札は見当たらなかった。
もしかして、入学が取り消されたのだろか?
ナナモは急に血の気が引いて動悸が激しくなった。ただ、頭痛はしなかったし、まだ両足はしっかりと地面を支えてくれていた。
ナナモは次々と講堂の中に入って行く新入生に逆らって、入り口からいったん外に出た。そして、もう一度考え直そうと、ゆっくりと記憶をたどり寄せた。
ナナモは在学生受験許可書のことが気がかりで、入学手続きをする前に、学生課に相談に行った。そして、そこで、履歴書に大学に在学していたこととその大学を退学したことを記載することを促され、その書類を元に入学が許可されるかどうかを大学側が最終的に判断すると言われた。だから、ナナモは待っていたのだが、その結果を知ることもなく、気が付けば学生寮に来ていて、すでに入寮することに決まっていると寮母であるヌノさんから言われた。つまり、ナナモの学生生活はもはや始まっているのだ。だったら、ナナモは入学を許可されたことになる。ヌノさんと話していたので、ヌノさんの前ではその喜びを十分かみしめることはなかったのだが、実は寮を出た時は、万歳と何度も大きな声で叫びながら飛び上がりたい気分だったのだ。
それがいざこれから入学式が始まろうとしているのに、自分の名前がない。
これはいったいどういうことだろう?
ナナモはそう言えばと、あることを思いだして、でも、まさかと思い直しながら、机の名札を見た。ただし、今度は「な」行だった。
「ナナモ・ジェームズ」
ナナモはもう一度その漢字と英語の混じった名札を見つめた。
まさか…と、何か嫌な胸騒ぎがしたが、ナナモはしばらくその名札をじっと見つめるだけで身体が動かなかった。
「どうかされましたか」
聞き覚えのある声だ。ナナモはすぐにその声の主の方に視線を向けた。そこには驚いた田中の顔があった。
「田中さん!どういうことですか?」
おそらく、学長は祝辞とともにこれから医学の勉強を志す新入生を鼓舞するような見識のあるお話をしてくれたのだろう。しかし、ナナモにはそれらが全て素通りするような衝撃がまだ尾を引いていた。
ナナモと再会した田中は別人のように罰の悪そうな顔をしていて、ナナモに、「ナナモ・ジェームズ」いう名札と書類を渡すと、そそくさとどこかへいなくなった。
ナナモは名札のことはともかく、おめでとうございますという言葉か、少なくとも笑顔で迎えてくれてもいいのではないかと思ったが、そんな期待は完全に外され、不安に苛まれるだけだった。だから、辛うじて、これからのスケジュールや購入品などの説明だけを箇条書きに記憶にとどめておくと、初対面のこれからともに勉強していく同級生と挨拶ぐらい交わそうという、ナナモらしからぬ思いも全て消し去り、購買部にも向かわずに、ナナモは慌てて学生課へ向かった。
記憶にはっきりと残っている扉をデジャブのように開けて中に入った。しかし、誰も職員はいない。当然かもしれない。まだ、新入生に対してのもろもろの確認事項を説明しなければならないはずだ。だから、学生課の職員は忙しい。ただ、田中だけはあの場から素早く立ち去った。きっと偶然ではないだろう。だったらやはり田中はナナモと会いたくない理由があるはずだ。ナナモはその事が気がかりで仕様がなかった。
でも、何れ会えるし、会わなければならない。ナナモは焦る気持ちを押し殺して学生課を後にしようとドアノブに手を掛けた。
「あの…」
どこからか声がする。ナナモは握ったドアノブを反射的に放し、振り返った。しかし、やはり誰もいない。幻聴なのか?そうであるならずいぶん疲れている。
ナナモはもう一度ドアノブの方に手を掛けた。しかし、手を掛けるとまた、同じ言葉で、同じ弱々しい、まるで猫じゃれ声が聞こえてくる。ナナモはまたドアノブを放し、振り返った。しかし、やはり誰もいない。ナナモはもう一度振り返ろうとしたが、馬鹿らしくなって、「田中さん、おられるのでしょう」と、カマを掛けてみた。
ナナモは何か殺気を感じたので、その方向に視線を向けると、相談室の扉があいて、中から田中が出て来た。
「やはり、クニツさんでしたか」
「どうかされたのですか…」
ナナモはすぐにでも在学生受験証明書の事を聞きたかったが、講堂でちらと見ただけではよくわからなかったが、田中はナナモが合格電報を受け取ったあとにここにやって来たときとは別人のように覇気がなく、頬がこけ、以前よりなよっとしていた。
「いや…、あの…、実は…」
田中はナナモがここに来たわけを理解していた。だから、余計にしどろもどろになった。ナナモはその事がわかって反対に気が落ち着いてきた。少し時間が掛かろうが、何れ質問すれば答えてくれる。そしてそれはきっといいことだろう。
少なくとも入学式を終えたナナモは、きっとそうではないのだろうなと、薄々感じながらもそう思い込もうとした。
「実はクニツさんとお会いした後に、子供が病に罹りまして、大学の附属病院に入院していたのです。恥ずかしながら、妻とは離婚したというか…、逃げられまして、両親がある程度は手伝ってはくれたのですが、もう一人居る子供の面倒を看なければならないものですし、検査なども多かったものですから私が仕事の合間に付き添わなければならなくて…」
「そうでしたか」
ナナモは、田中に寄り添うような口調で言った。
「難病だったのですが、大学の先生方に助けて頂いて、やっと退院のめどがついたところなんです」
「それは良かったですね。田中さんも大変だったんですね」
ナナモは心からそう思った。
田中は少しだけ頬を緩めた。ナナモはその優しそうな面持ちについ吸い込まれそうになる。
「ナナモさんは入学式を終えられてまっすぐにここに来られたのは在学受験許可書の件が気になられていたからですよね」
田中は腹をくくったように言った。
ナナモは大きく頷いた。ただ、田中の事情を鑑みてみるとグイグイと質問できるような感じではない。本当はそうしたいのだが、それくらいのわきまえはナナモにもあった。それでも、しずかに、ゆっくりと、「それで…」と、ナナモは話しを切り出した。
「結論から言うと、クニツさんの件はあの時のままです」
「まま?」
ナナモは驚いた。そして、そう言われるであろうということを予感していたのに数倍ショックが大きかった。
「田中さんの事情は分かりました。しかし、それならそれで誰かに頼むことは出来なかったのですか?」
ナナモは出来るだけ強い口調にならないようにと気を使いながら言った。
「そうですね、急だったので気が回りませんでした」
田中はそれだけ言うと、それ以上の言い訳を一切せずに、すいませんと、ナナモに謝った。
ナナモはそうかもしれないと、田中を責めようとは思わなかった。ナナモの事より大切なことが突然生じたのだ。ナナモもいじめられていた時、なぜいじめられるようになったかなど考えずに、周りへ目を向けることなど一切なくて、毎日自分のことだけを考えていた。
「では僕はどうなるのですか?」
ナナナモはそれでも聞かないわけにはいかない。
「不正ではなく不備ということで処理させていただきます」
田中は申し訳なさそうに言ったが、ナナモは不正という言葉が気になった。
やはり、不正なのですねと、ナナモが言うと、いや、そう言うつもりで言ったわけではありませんと、田中が慌てて言い返した。
「でも、教授会で決まったことではないのですよね。もしかしたら、それは田中さん自身が決められたことなのですか?」
田中は返事をしなかった。
「僕は前にも言いましたが、すべてを掛けて退学届を提出し、履歴書を送って、僕自身の行いを審議していただこうと意を決したんです。それは、医学部に来たからです。そのことについては以前お話ししましたよね」
ナナモは自分では気づかなかったが、少し感情を露わにしていたのかもしれない。
田中はまた返事をせずに今度はうつむくだけだった。
「だったら、今から学長の所に行きます」
黙っている田中に苛立ちナナモはつい口走っていた。
「ナナモさん、どうかやめてください。もし、そうなれば私が責められます。私がこの職場を去らなければならなくなります」
田中は視線をあげると、物凄い形相でナナモに言った。
ナナモは田中の子供のことなど忘れて、僕の知ったことではないと言いたかった。しかし、もともと在学生受験許可書を出さなかったのはナナモが悪いのだ。もしそんなことをしなければ田中はナナモと入学前に会わなかったし、今ここでナナモに会わなくてもいいし、自分自身を責めることはなかったのだ。ナナモはついムキになっていた自分を責めた。そして、もはや後戻りできない歯車に乗るしかないのだと思いなおした。
僕がもともと不正を働いて受験したんだ。それを大学も田中さんも救ってくれたんだ。僕はこれからそのことをずっと重荷として生きなければならない。しかし、もはやもう一度大学を辞めることも、事実を明らかにすることもできない以上、前に進むしかない。
ナナモは腹を決めた。
「わかりました。だったら、二人だけの秘密にしていただけますか。ただし、もし、履歴書が公になって、僕の不正が罰せられたとしても、それは僕が悪いことなので、田中さんは知らぬ存ぜぬを貫いてください。約束ですよ」
田中は頷きはしなかったが、うっすらと瞳に涙を溜めていた。
「書類のことは良いのですが、僕はジェームズ・ナナモではありません。クニツ・ジェームズ・ナナモです。だから、ナナモが苗字ではなく、クニツが苗字です。その事は何とかしていただけますか?」
ナナモはそれだけは譲れないと思ったし、将来的にもややこしいことになると考えた。
「苗字については責任をもって訂正します」
田中は以前会った時のようなしっかりとした顔つきではっきりとナナモに言った。
でも、すぐには無理だろうなと、ナナモは思ったが、これから会おうと思えば毎日だって田中とは会える。だから、ナナモは、よろしくお願いしますと頭を下げるとそれ以上は言わなかった。
ナナモはもはやこれ以上田中と話すことがなかった。いや、きっと何かもっと良い解決法があるはずだと、それでもしばらくはこの場所から立ち去ることに抗っていたが、やはり何も浮かんでこなかった。
ナナモは後ろ髪を引かれる思いで、田中と別れ、覚悟を決めたわけではないのに学生課の扉をきっちりと閉めた。そして 購買部によることもなく一人学生寮に向かってとぼとぼと歩いていた。そう言えば、ナナモが入寮しなければ栄光寮はつぶれると言っていた。だから、田中のしたことは結果として正しかったのかもしれないし、そうなる運命しかナナモには残されていなかったのかもしれない。
だったら、僕のしたことはやはり不備ではなく、不正だったのだ。やはり、僕はこれから罪を背負って生きなければならない。
ナナモは寮に戻っていたのに、自分の部屋に戻らず、ミーティングルームのあの傷んだソファーに腰かけていた。
(クニツ)
なぜかその言葉が頭の中で何度も響いてくる。そしてナナモの周りに誰かが近づいてきて話しかけて来る。きっと、新入生としてナナモを歓迎してくれているのだろう。しかし、ナナモにはその姿がおぼろげに映るだけで捉えきれない。ミーティングルームで、ナナモだけが、透明なブースの中に閉じ込められている。ただ、そのブースの中は本来静寂な世界なのだろうが、いたるところから声がナナモにかまってくる。それは良いことなのか悪いことなのかわからない。しかし、実感がない。まるで、皆が座って、台本読みをしている様な、周りは熱弁なのにナナモ一人だけ棒読みをしている。
「ナナモくんってジェームズ・ナナモっていうんだってね。ハーフなんだろう。なんか格好いいな」
「あの…、僕、本当はクニツ・ジェームズ・ナナモっていうんですけど」
「クニツ?」
「そうなんです。今年は共通テストで、なにか、コンピューターが僕の名前を入力し間違えたようで」
「いまどき、そんなことがあるかな?」
「そんなことあるわけないよ」
ざわざわとはっきりしない言葉が混じっている。
「でもだったら中央官庁のメインコンピューターがウイルスに犯されることって誰が考えられましたか?」
ナナモが言った。
「そうだね。確かに絶対なんてないよね」
「ウイルスって何の事、ウイルス学って、けっこう難しいんだよな」
「おまえ、ニュース見ていなかったのかい?共通テストの…、あれの事をナナモくんは言っているんだよ」
誰かがコソコソと耳打ちしている。
「へえーそんなことがあったの」
「合格したらもう受験の事なんかきれいさっぱり忘れるからね。それに興味も無くなるし」
「とにかく僕は、クニツ・ジェームズ・ナナモっていうんです」
まるでブースのアクリル板に自分の名前を書いている様にナナモは言った。
「分かったよ。でも、クニツって言いにくいし、ナナモって呼んでもいいだろう」
今度ははっきりとナナモに届く。
「ナナモって間違いではないんだし」
「それにヌノさんもナナモくんって言っていたから」
「寮母さんが言っていたのならもはやナナモで決まりだ。キミは寮内ではジェームズ・ナナモ、いや、ナナモ・ジェームズだ」
「異議なし」
レトロな寸劇の台本なのかもしれない。しかし、その事が却って新鮮なのかもしれない。
ナナモはとにもかくにも今は主人公だ。きっと、そのうち受験と同じようにナナモに関心を示さなくなるだろう。けれど、なぜかナナモはこの場所が気に入りだしていた。
ナナモは、「クニツ」としての罪を背負うことになったのだが、ジェームズ・ナナモとしては罪を背負ってはいないと思えたからかもしれない。
ナナモはブースから出ようと思った。いくら考えていても仕方ないと思えたし、罪を告白する術を絶たれた以上、退学だと言われるまでしがみつくしかないと思った。と同時にそうであるならここでナナモは暮らすしかない。
ナナモは大きな背伸びをしてブースをぶち壊した。
かなり大きな音を立てたはずなのに、ミーティングルームのソファーに腰かけていたのはナナモ一人だった。