(33)寮に戻ったジェームズ・ナナモ
ナナモはまどろみの中にいた。身体がだるいとか重いとか痛いとか一斉感じなかった。それどころかずいぶん心地よい。ガタンゴトンと時が過ぎて行く。身体もゆっくりと移動していく。
ナナモの意識を誰かが呼んでいる。その呼応に一致してまたガタンゴトンと音がする。よく聞くと牛車ではなさそうだ。そのことにやっと気が付いたナナモは目を開けた。
ナナモは薄手のダウンにジーパン、リュックを背負っていたがもちろん烏帽子など被ってはいない、そんないつもの出で立ちで列車の中にいた。誰も乗客がいない。古びた車両だ。もしかして、受験の時に異世界に行くために乗った列車かもしれない。しかし、あの時よりも乗り心地が良くてずいぶん早い。
異世界から戻って来たのだ。ナナモはきっとこのままオオヤシロノエキに着くんだと思うと嬉しさが沸き起こって来た。ひさしぶりにまたアヤベに逢える。そんな思いもあった。
しかし、ナナモの思いとは裏腹に完全に意識が戻ったナナモの目の前にはいつの間にか乗り合わせた乗客がいた。混んではいなかったが、向かい合うシートは隙間がなかった。録音されたアナウンスが聞こえ、列車は止まった。そこはもちろんオオヤシロの駅ではなく、ターミナル駅とは名ばかりの、簡素な地方鉄道の駅だった。
それでもナナモはもしかしてとアヤベの出迎えを期待した。しばらく、狭いホームで動かずに周りをキョロキョロと見渡していた。ホームから乗客が一人もいなくなり、プラスチック製の待合椅子がわざと素知らぬ顔をしてくれているのに、アヤベの出迎えはなかった。
ナナモは杵築の街に出た。何か変わったものが見えてくるのではないかと思ったが、いつもの見慣れた景色の中をナナモはいつもと同じ道順でとぼとぼと寮に向かって歩いた。
道すがら誰かに合わないだろうかと思ったし、両手のポケットに何度も手を入れてみたが、財布とスマホと寮の鍵以外、ナナモが触れるものは何もなかった。
「ただいま」と、寮の玄関のノブを回し、扉を開けたが、誰からも返事はない。ずいぶん久しぶりのような気がしたが、いや、きっと、それほど時間は経っていないのだろうと思った。
寮の扉はいつもよりやけに重く感じた。それでもいつも通り中に入るとちらとミーティングルームを見た。何も変わっていない。神棚もそのままだ。ナナモは参拝しようとしたが、身を清めてはいないと思って自分の部屋に向かった。鍵はかかっていなかった。「ただいま帰りました」と、ナナモは静かにドアを開けながら小声で言ったが、オオトシはいなかった。それどころかやけに閑散としている。しかし、ナナモはその変化を訝ることなく、倒れるようにベッドに横たわると、時が止まったように眠りについた。
「夜行バスで何度も京都へ行ってくれてたそうやなあ」
聞きなれた声がナナモに覆いかぶさってきた。しかし、ナナモはそのむさ苦しさのおかげで目覚めることが出来た。
「何時?」
「八時や」
ナナモは閉まったと、急いでベッドから起き上がると、寮の洗面所に行き、歯を磨き、顔を洗った。そして、そのままミーティングルームへ直行すると神棚に向かって、あ、すいません遅れましたと、一言行ってから参拝した。
「夜にも参拝することになったのかい?」
先ほどとは異なる声が語りかけて来る。影を作らないはずの蛍光灯がその人物の顔を半分消している。そしてその半分顔はにやけている。
ナナモは一瞬ドキッとして頬を摘まんだ。痛い。どうやら異世界ではないようだ。だからもう一度半分顔を見る。小岩だ。ナナモはもう一度頬を摘まんだ。やはり痛い。
だったら、今は夜なのだ。夜の八時なのだ。
ナナモはほっとした。それでも、もう一度神棚を見た。何も変わった事はない。
「小岩さん?夕飯は終わったんですよね」
ナナモはなぜかそう尋ねていた。小岩は残りの半分顔も蛍光灯に晒らしたが、冷めた感情を投げかけて来るだけだった。
「いや、いいんです。別にお腹が空いているわけでもありませんから」
ナナモはちょっと体調が…、とそこまで言った所でお腹の虫が鳴った。それでも小岩はナナモに対して相変わらず無感情だ。寮母のヌノさんに何か残っていないか頼んであげようかなんていう気遣いも一切ない。
「タカヤマがナナモの部屋で待っていたけどもう会ったのかい?」
親切気に話しかけてくれたがどうやら小岩は目の前の蠅を何とか払いのけたいだけのようだ。
「あっ、はい」と、ナナモはそうだ先ほどの関西弁は確かにタカヤマだと、寮ではいつもはしないのに、剣道部の先輩として一礼すると、自分の部屋に戻った。
「ちょっと出かけられへんか?」
部屋に戻ると大柄なのに妙に窮屈そうにかしこまったタカヤマに突然言われた。ナナモはオオトシがいないことよりもオオトシのスペースがやけに空いていることが気になったが、先ほどの腹の虫のこともあって、ああと、二つ返事で答えた。夏でもないのに妙に身体中がネバネバしているようだったので、ちょっとミーティングルームで待っていてくれないかと、急いでシャワーを浴び、下着を履き替えた。
「ごめん、ごめん」と、ナナモは出来るだけ早く支度したと思っていたが、先ほどよりも身を縮こませているタカヤマを見て、吹き出しそうになったが、「これから出かけるのならほどほどにね」と、先ほどまで完全無視を貫いていた小岩が、急に先輩の優しさを見せて来たので、これは?と、二人揃って一礼するとそそくさと寮を出た。
ナナモは居酒屋にでも行くのかと思ったが、タカヤマは自宅のマンションにナナモを招いた。
タカヤマはナナモと一緒に部屋に入ると、珍しくすぐに鍵をかけ、振り返った。そして「ありがとうな」と、今にもあのごつごつした両腕でハグしそうな勢いで近づいてきた。
ナナモは寮に居る時からタカヤマの異変には気が付いていたが、まさかと、思わず後ずさりしながら、勝てるはずもないのに両腕の拳を強く握っては腰を少し降ろして身構えた。
タカヤマはそんなナナモを訝ることがないどころか、全くの上の空だった。それなのに瞳は異常に輝いている。ただ、剣道の立ち合いで見せるギラギラしたものではなく、ひと昔前の少女マンガのようにキラキラしたものだ。
「大丈夫かい?」
ナナモはゆっくりと拳から力を抜き、気持ち悪いからそれ以上近づかないでくれと言いたかったが、ぐっと押さえた。
ナナモの気遣いにタカヤマが反応してくれることを期待したが、やはり、いつもと違うタカヤマのままだ。ただ、薄ら笑いを浮かべながら、ナナモを歓迎しようとしているのか、学生にとっては少し贅沢な食べ物とお酒を小さなテーブルに所狭しと並べてくれた。
「乾杯!」
ナナモはなぜかタカヤマから一言の説明も受けないまま、注がれたビールを口にしていた。
「毎週京都へ通ってくれていたなんて思ってへんかったわ」
折角自分で用意したのにあてを全く口にしないタカヤマは、ビールを二~三杯立て続けにゴクゴクと流し込んだあと、やっと正気に戻ったのか、いつもの瞳でナナモに話しかけた。ナナモはタカヤマに言われてもすぐにはピンとはこない。ただ、京都という言葉が妙にひっかかるし、タカヤマと違ってまだ一杯目も飲み干していないのに少し頭痛がした。
ナナモはビールより食事だと、折角タカヤマが話しのきっかけを振ってくれたのに、よくわからなかったし、お腹が空いていたので、タカヤマの話にすぐに乗ろうとはせずに、むしゃむしゃとフライドチキンに食らいついた。
「ナナモは友達としてカリンさんを助けただけやんな。だから俺がカリンさんに告白してもええよな」
「京都?カリン?」
ナナモは靄がかかっている頭の書棚を懸命に整理しようとした。しかし、いくら整理しても記憶として蘇ってこなければ意味がない。だから、何も言わずに、もう一度。京都、カリンと言葉を繰り返してみた。
僕は異世界に行っていたんだ。記憶はまずナナモに京の都ではなく平安の都を、そして、カリンではなく花梨の姫を瞳に映し出す。あの時、願いが叶う文箱を見つけたナナモは穢れし花梨の姫を助けようとしたのだ。しかし、文箱は?そして花梨の姫はどうなったんだろう。
異世界へ行っていたといっても現実世界にナナモが居なかったわけではない。ただし、異世界から帰って来ると両方の記憶がしばらくなくなる。ナナモはアヤベから教えられたその事だけはなぜか覚えていた。
イチロウには記憶がないんだと正直に言えた。まだその事を知らなかったし、イチロウに異世界の話をその前にしていたからだ。しかし、タカヤマにはナナモは何も言っていない。だからいきなり話してもきっと信じてくれないだろう。でもそうとしたら、これからしばらくの間はタカヤマとは話がかみ合わなくなる。
ナナモは意外に冷静だったが、だからどうしようと色々と考えが交差して仕方なかった。それでもナナモは何か言おうと口を開きかけたが、ナナモの瞳に珍しく目じりを下げたままのタカヤマが映った。
そうだ、ここはタカヤマに任せよう。きっとあまり話し上手とは言えないが、上機嫌なタカヤマをうまく誘導したら自分からペラペラ話してくれるだろうとナナモは腹を括った。それにそのうち記憶が戻って来る。
きっとそのキーワードはマギーに違いない。
「御婆さんが今京都に居るんだ」
ナナモはそう切り出してみた。
「ナナモの御婆さん、マギーって言うんやってな」
ピンポン、当たりだ。
「結局どうなったんだよ。教えてくれよ」
ナナモは冷汗ものだったがタカヤマから直接聞きたいんだという素振りを見せるしか今はない。
「御婆さんから何も聞いてないんか?」
「ああ、僕の祖母は孫に厳しいんだよ」
ナナモは正直に言った。
「ナナモ、週末になったらこの頃居らんようになってたやろ。なんでかなって思って悪かったんやけど、こっそり夜遅くナナモの所に行ったんや。外から見たら電気がついていたから、ナナモおるやんって思って、部屋をノックしたら、オオトシ先生が出てきて、京都に行っているっておれに教えてくれたんや」
オオトシに京都に行くとナナモが言ったような記憶はない。
「ナナモ、オオトシ先生から古文習ってたんやってな。俺知らんかったわ」
「英語は話せるけど日本語は苦手だから」
ナナモはオオトシに相談した時のことを思い出した。
「まあ、それはええとして、俺、古文と京都ってどう関係があるんですかってオオトシ先生に尋ねたんや。そしたら、源氏物語を今勉強してるからって。でも俺も古文は苦手やからピンと来なかったんやけど、源氏物語はどこが舞台ですかって、逆に尋ねられて、京都やっていうくらいの事は分かるやん。だから、からかわれてるんかなと思いながらもそう答えたら、ナナモの御婆さん今京都で源氏物語の研究をしてるって、オオトシ先生が付け加えてくれたんや」
「オオトシ先生が本当にそんなこと言ったの?」
ナナモは思わず前のめりになったが、タカヤマはああと顔色変えずにすぐに頷いた。
「でも、その事とカリンとどう関係があるんだい」
「ナナモ、御婆さんの所でカリンさんも勉強しているってどうして言ってくれへんかったんや」
カリンって、ナナモはなんでいつもカリンって呼び捨てにするんやと、タカヤマは視線をずらしながら付け足した。
ナナモはカリンがマギーと一緒に居るところに出くわした時の事を思い出した。しかし、ナナモはカリンと夏期講習が同じだったという別の思い出があるだけで、今カリンがどうしているかまではわからない。
「だから、僕とマギーとはそう親しい関係ではないんだよ」
タカヤマの瞳は疑いで一杯だ。けれども、ナナモとマギーとの関係は現実の様で現実離れしている。その事を誰に話しても信じてはくれないだろう。
「でも、どうしてその事を知ったんだい」
ナナモは話題を変えようとした。
「ナナモ、カリンさんに逢うためにわざわざ京都まで通ってくれていたんとちゃうかって思って、なんか、居てもたっても居られへんかったから、俺も夜行バスに乗って京都へ行ったんや」
「マギーがどこに居るか知っていたのかい」
ナナモが知らないことをタカヤマオが知っていたらぜひとも教えてほしい。そんな思いもあった。
「知るわけないやん」
あほかと、タカヤマは小声で初めに言ったような気がする。
「だから、俺にとって何かな…、たとえとして…、でも前もって言うとくけど、おもろないで」
「まあ、剣道の試合みたいに無我夢中で打ち込んで行ったという感じやな」
タカヤマは珍しくあたふたしながら言葉を継いだ。ナナモは折角なのでからかってやろうかなと思ったが、先の話しが聞きたくなった。
「だったらどうして…」
「医学部の剣道部に顔を出したら、たまたま、あの娘が居て」
あの娘って、とナナモは言いかけたが、タカヤマオが視線をまたずらしたので、ナナモはすぐに名前も顔もはっきりとわかった。
「ソフィアさんって、カリンさんの友達やったんやな」
タカヤマはソフィアに以前も会っていた。その時はものすごく冷たい態度であしらわれたが、タカヤマがナナモの名代で来たんだと言うと打ってかわったように暖かく迎え入れてくれたようだ。
「嘘はいけないよ」
「まあ、ええがな」
タカヤマはこういう時にはずるい関西人になる。しかし、何か憎めない。言葉なのか、性格なのか分からない。
「で、ソフィアはタカヤマに何を話したんだい?」
タカヤマはソフィアさんから聞いてるやろと前置きしながら、やっぱりあの娘はようわからんと、ナナモはソフィアに悪いと思いながらもあえて否定はしなかった。
「カリンさんに好きな人がいてて、ソフィアさんも最初応援していたらしいけど、なんかよからぬ噂を聞いたみたいで、カリンさんにそのまま伝えたらしいんや。そうしたら、急に怒られたらしくて。それで、ソフィアさんはナナモの御婆さんに相談したんや」
「マギーはどうしたんだい?」
「恋愛なんて人それぞれぞれだし、だましたりだまされたりが恋愛だからって相手にしなかったみたいなんや」
マギーの性格ならあり得る話だ。それにマギーはヒトの噂が大嫌いだ。
だったら、僕が出る幕はなかったんじゃないのかと、言いそうになったのだが、ぐっとこらえた。
「そうこうしているうちに、カリンさんの様子がおかしくなってきて。それに痩せて来るし。ナナモの御婆さんもほっとかれへんようになったみたいや」
「それで僕が代わりに働いた?」
ナナモはまた知っていなければならない事を尋ねていた。さすがにタカヤマはナナモの態度に何かを感じたようだ。
「ナナモ、知り合いに物凄い情報通がおるんか?」
タカヤマの眉間には皺が寄っていた。
情報通ってイチロウの事を言っているのだろうか?ソフィアはなぜかイチロウの事をタカヤマには詳しくは話さなかったようだ。ただし、別にタカヤマが悪いわけでもないのに、ナナモは、あえて険しい口調で、友達だ。だから情報通って二度と言わないでくれと言っていた。
タカヤマは、どうしたんやと、いつもなら軽い関西弁で返してくるのに、ああ、わかった、すまんと、素直に謝ってくれた。
「ナナモの、その友達が、色々と調べてくれて、その情報を元にナナモが動き回ってくれたって、ソフィアさんは言うとったけどな」
ナナモは僕がと、言いそうになったが、タカヤマが言ったとしたらきっとその通りなのだろう。
「カリンさんが好きになった男はちょっとお金に困っていたようで、それで誰かに付け込まれたみたいで、スマホで操作されそうになったらしいんやけど、ナナモのその友達が未然に防いでくれたみたいなんや」
イチロウなら朝飯前かもしれない。しかし、だからと言ってそのこととカリンがどう関係があったのだろう。
「その男はカリンさんからまずお金を盗もうとしていたようで、だから、近づいたって」
「どうしてわかったんだい」
「ナナモ、お前、俺をからかっているのか、なんぼカリンさんに俺が惚れてて、ナナモがカリンさんを助けてくれたからって、さっきからなんで知らぬ存ぜぬを貫き通すんや。ナナモがそいつに合って、話しを付けてくれたんやろ」
ナナモは、しまったと思った。と同時に僕が?と信じられなかった。もしかたら、マギーに無理強いされたのかもしれない。それでも、本当だろうかと半信半疑だった。
「カリン、いや、カリンさんが言いたくないことは僕も言いたくない」
ナナモの口から自然とこぼれていたが、タカヤマの顔がみるみる青ざめていくのがわかって、さらにナナモは、しまったと後悔した。
「カリンは大丈夫なのかな」
ナナモは自分がルーシーから恋人が出来たと聞かされた時の事を思い出した。しかし、今回はそれ以上のダメージを受けたはずだ。もしかして、自分と同じようにと、頭をかすめた。
「僕はそれだけ言った後はマギーに全てを託して、京都には行っていないんだ」
ナナモはきっとこれは真実だろうと、だから、本当に心配なので教えてくれないかと、先ほどのことをまだ気にしているタカヤマに向かって頼んだ。
「カリンさんは相当落ち込んでいたみたいやったんで、ナナモの御婆さんが預かってしばらく一緒に暮らしていたそうや」
タカヤマは重い口を開けた。
「それで、カリンは、いや、カリンさんは元気になったのかい?」
「ああ、今はとっても元気になったみたいや。また、相撲の練習を再開するって張り切ってたなあ」
タカヤマは先ほどの事を忘れ、カリンが元気になった事を祝うように声を弾ませていた。
「でも、どうして、タカヤマはそのことを知ってるんだい」
ナナモは何気なく訊いた。タカヤマは急に尋ねられて、困惑しているというか、赤面していたが、往復夜行バスで京都に行ってきたところだからと、珍しく口ごもっていた。
「実はナナモの御婆さんが嵐山に俺を招待してくれたんや。ナナモの大学の友達に一度会ってみたいし、カリンさんもソフィアさんも来るからって」
ナナモは驚いた。いつの間にタカヤマはマギーのお気に入りになったんだ。でもそれより、マギーはタカヤマに何を話したのだろうとそのことが気がかりで恐ろしかった。
「ナナモの御婆さんはするどいなあ。この話ししたらきっとナナモは固まって青ざめるからって」
タカヤマは声こそ出さなかったが、笑顔を一杯溜めていた。
「心配するなって、ナナモの御婆さんは来えへんかったんや。私は邪魔やろう
からって」
「だったら、僕も呼んでほしかったなあ」
「だから、誘わへんかったんやって。ナナモの御婆さんは本当にするどいなあ」
タカヤマはもはやマギーに操られている。それにイチロウでも解決できないほどたちが悪い。
きっとソフィアがうまく取り持ってくれたに違いないが、ナナモはふとカリンとタカヤマはどんな話しをしていたのだろうと思った。きっとその輪の中には話の種としてナナモも居たに違いない。ただ、最初だけだ、なぜならカリンもソフィアもナナモが言いたくないことは言わないような気がしたし、タカヤマはその時の事を想いだしているかのようなにやけ顔にはナナモはもはや必要ないように思えたからだ。
ナナモはこれだけタカヤマと話して居ても全く蘇ってこない現実世界の記憶の中で、皆が元気になってくれて良かったという感情が湧き上がってきて安らぎを覚えた。
「なあ、ナナモ、カリンさんってどんなタイプの人が好みなんやろ」
タカヤマは中学生のような質問を、中学生から未だ大人になっていないナナモに尋ねて来る。
「カリンは相撲をしているから、なんでもいいんだけど日本の武道をしてる人が良いのかもしれないな。ただ、僕はその事をカリンから直接聞いたわけじゃないから。それにしばらくは恋愛に臆病になるかもしれないからね。でも今度会ったら、どんなことがあってもいつもカリンのことを第一に想ってくれる人がいいかもしれないねと伝えておくよ」
ナナモはルーシーの事を思い出して言ったつもりだったが、タカヤマはそうかと、他人事のように呟いた。しかし、目じりは下がっているのに、剣道の試合で見せた炎が瞳の奥で宿り始めていることをナナモは見逃さなかった。
嵐山で過ごした映像を何度でも再生しながら終始上機嫌なタカヤマとは夜遅くまで久しぶりに楽しい酒を酌み交わした。
これからタカヤマとカリンがどのような関係になって行くかはわからないが、うまくいけばと願うしかなかった。
タカヤマオは泊まって行けばと、朝までナナモとすごしたいようだったが、ナナモはタカヤマのマンションを後にした。ナナモは全く酔っ払っていなかったが気分は千鳥足だった。
西からの浜風が吹いてこなかったからか、やっと真冬の峠を越えたところだったのに、身に染みるような寒さを感じなかった。その道すがら、もうすぐ春が来る、そんな予感が星も月も全く見えない淀んだ夜空の下、ナナモを覚醒させた。現実の記憶はまだあやふやのままだったが、王家の指令として平安の都に居た記憶は何となく思い出されていた。だから、寮に戻り自分の部屋を開けた時に、中から、お帰りなさいと待ちわびていたようにアヤベが現れるのではないかと緊張して部屋の前まで来たのにしばらく動けなかった。それでも何度か深呼吸して気を落ち着かせてからゆっくりと扉のノブを回した。鍵がかかっていなかった。だからかまた緊張する。しかし、ナナモはもう深呼吸はしなかった。あえて緊張を楽しもう。ナナモは深夜だということも忘れて大きな声でただいまと、言った。
「おかえり。ずいぶん遅かったんだね」
懐かしい声がする。しかし、アヤベではない。
「オオトシ先生!」
ナナモはタカヤマの笑顔とは異なる嬉しさで緊張が解けて行く。
「寮を出られるのですか?」
ナナモはがらんとしたスペースにちょこんと座っているオオトシを見て思わずそう尋ねていた。
「ああ」
オオトシの返事は短い。しかし、その余白にはオオトシの優しさが見え隠れする。
「ここでの研究がひと段落着いたので、今週中に今私が所属している大学の研究室に戻ろうと思っているんだ」
ナナモはオオトシが一人になりたくて住まいを変えようとしているだけだと思って尋ねたのだが意外な返事に戸惑いを隠せなかった。
「本当ですか?」
「ああ、僕がここの卒業生だってことで、皆がスゴク協力的だったし、物理の教授が僕の研究テーマを理解してくれて様々なアイデアを提供してくれたんだ。だから、思ったより早く仕事が進んだし、全く新しい研究テーマも見つかりそうなんだ」
オオトシはタカヤマが乗り移ったかのように饒舌だった。そして何よりもオオトシの子供のような笑顔をナナモは始めて見た。
「急ですね」
ナナモは寂しそうに言った。
「そうだね。でも、それはナナモ君のおかげなんだよ」
ナナモはオオトシの研究に携わっていないどころか以前少し説明を聞いたが全く理解できなかった。
僕が一体何をしたのだろう。それとも、ナナモが異世界に行っている間に、現実世界ではナナモは何かをしていたというのだろうか。
ナナモは言葉に詰まった。
「ナナモ君が私に英語を教えてくれただろう。実は今までのデータを異なったアプローチで処理できそうだったから解析したら面白そうな結果が出たので、海外で発表してきたんだよ」
海外?もしかしてロンドンと思ったが、オオトシはボストンと付け足してから話しを続けた。
「そこに私の今のボスも来ていて、そろそろ戻ってこないかって言われたんだ。でもね、教授は私の語学力に感心していたんだよ。海外の研究者とそれなりに話すことが出来ていたから」
オオトシは当然ナナモ君の様には行かないけど、医学用語は限られているからねと、また付け足した。
「僕は先生が海外に行っているなんて全く知りませんでした」
「あれ、ヌノさんには言っておいたはずなんだけどな。でも、ナナモ君も忙しそうだったから。夜にはどこかに行っていたのかなかなか帰ってこないし、週末は京都に行っているし、だからかもしれないな」
ナナモは返す言葉がなかったし、曖昧な記憶では返しようがなかった。
「僕、先生に京都に行くって言いましたか?」
ナナモは少し現実のナナモの過去をタカヤマと同じように尋ねてみた。もしかしたら、ナナモではなくヌノさんに言っていたのかもしれない。
「ああ、そうだよ。御婆さんから呼び出さているんですけど、どうしましょうと、私は相談されたからね」
でもなぜオオトシに相談したのだろう。
「ナナモ君、御婆さんは苦手だって言っていたけど、本当は大好きなんだよね。それに、マーガレット先生は有名なんだよ。だから、僕に古文なんか教わらなくても、もっと、古の日本が分かるって私は確かアドバイスしたはずだから」
マギーの事を先生が知っている。ナナモはなぜですかと多分その時も恐ろしくて聞けなかったに違いない。
「勉強になっただろう」
オオトシは当然だというような顔でナナモを見た。
「いえ、祖母の用事に付き合わされただけでした」
ナナモはタカヤマから聞いていたのではっきりと言い返すことが出来た。だから古の日本どころか、折角先生に教えてもらう機会を得たのに僕の古文は進んでいませんと、本当は全く役立たなかったですと言いたかったがそのことはこらえた。
「だから、先生にもう少し古文を教えてもらいたかったです」
ナナモは素直に言った。
「すまなかったね。ナナモ君が古文より、英語の時間を多くしてくれたからね」
オオトシの謙遜に、ナナモはそんなことはないですと、あたふたした。
「でも、ナナモ君にはマーガレットさんがいるからね」
オオトシはおそらく励ましのためにナナモに言ったのだろう。しかし、ナナモは、マギーから古文を教わることはないだろうと思ったし、もし、教わるならカリンから教わりたいと思ったが、タカヤマの竹刀の先が見えてため息が出た。
「ナナモ君、僕に何か言いたいことがあるんじゃない?」
オオトシはナナモのため息を異なる感情ととらえたようだ。しかし、ナナモはオオトシとは全く異なる想いが募っていた。
ナナモは格子の迷宮でのあの物語についてもはやはっきりと記憶が蘇っていた。だから、オオトシにあの物語のことを話したらどう思うだろう。ナナモとは異なる解釈を抱いたのだろうかと、ワクワクする気持ちが抑えられなかった。
「どうしてそんなことを聞かれるのですか」
しかし、ナナモは相変わらず暗い口調で、オオトシにそう尋ねていた。
「ナナモ君が毎夜毎夜、夜中に寝言を言っていたから、心配になってね」
「寝言?」
「ああ、でも英語だったし、寝言って意味のない言葉が多いから、最初は気にしていなかったんだけど。年を開けてからひどくなっていたし、部屋は暑くないのに寝汗を掻いていたからね。だから心配になって、ナナモ君には悪かったんだけど、スマホに録音して、翻訳してもらったんだ。意味がない言葉もあったんだんだけど、僕は穢れているって、その言葉だけははっきりしていたんだ」
ナナモはオオトシに言われるまで気が付かなかった。朝の参拝があったので、夜遅くなっても寮に戻っていたし、夏の遠征では寝言のことは言われなかった。ただ、あの時は、意識を失って異世界に居たので寝言どころではなかったのかもしれない。
ナナモは、「僕は穢れている」と、声には出さなかったがゆっくりと心の中でつぶやいた。
そうか、だから、僕は平安の都に行ったのだ。ナナモはアヤベの事を思い出した。
ナナモは実は…、と、本当は文箱の物語をオオトシへのはなむけとして今夜は満面の笑みを添えて語ろうと思っていたのに、覇気のない声でオオトシに、再受験許可証を出さずに受験したことを話していた。
ナナモは今まで誰にも話していなかったし、もし、オオトシが寮を出ると言わなかったらきっと話さなかっただろう。でも本当は誰かに話したかったのだ。モヤモヤした気持ちを引きずりたくはなかったのだ。だから、その苦しみが寝言に変わったのかもしれない。
ナナモはオオトシが明日誰かに話すのではないだろうかと思わなかった。しかし、同時にオオトシに話して解決するとも思わなかった。それにオオトシも突然告白されて戸惑ってしまうかもしれない。それでも、ナナモはこれまでの経緯を話していた。
「そう言う事情があったのかい」
「はい。今まで黙っていてすいません」
ナナモは素直に謝った。
「苦しかったんだね」
オオトシの言葉を聞いて、ナナモは胸が熱くなった。それでも必死に涙がこぼれるのをこらえた。
「いえ、ただ、僕が弱い人間だからです」
ナナモは全ての意味を込めて言った。そして、どうしたらいいでしょうかと、尋ねた。
「ナナモ君は事務の人の事を気にしているんだろう。だったら、言えないよね。それに、大学に提出している学歴には嘘がないわけだろう。それにカンニングして受験したわけじゃないんだから、もはや大学は認めているということになるんじゃないかな」
オオトシも田中と同じことを言った。それ以上でもそれ以下でもなかった。しかし、それでもひっかかる。それでもナナモにのしかかる。だからナナモは悩んできたし、今でも苦しんでいるのだ。
ナナモは、またふりだしに戻ったようで悲しかった。ただ、もうひとつの理由が本当はあるんですと、オオトシの優しさについ声を出しそうになったが、ナナモはそれは言えないと、ぐっとこらえた。
僕の穢れを祓うには、やはり辞めてもう一度受験し直すしかないのだろうか?でもそうしたら王家の継承者にはなれない。年齢がタイムリミットを過ぎる。
それでもいいのかもしれない。いくら祓い清めても決して拭えない穢れがあるくらいならその方が良いのかもしれない。
でももしその事を知ればアヤベはきっと悲しむだろう。
「でも、何故、私に、話そうと思ったんだい?」
ナナモは黙っていた。おしつぶされるような物悲しさで身体が金縛りに合っていた。もしかしてあの時も、と、ナナモの脳裏を一瞬かすめたが、オオトシの手がスッと伸びてきて引き上げてくれた。
「もしかして…」
オオトシは青ざめた顔でナナモと同じことを呟いた。そしてナナモの鼓膜を穏やかな声だがドンドンと叩いてくる。
「ナナモ君は私がデータを改ざんしかけたのに踏みとどまったという話しを聞いたから、余計に自分は穢れていると思ったんじゃないのかい」
ナナモはオオトシから聞いた話を思い出した。確かにあの話しを聞いてからしばらくオオトシを直視出来なかった。
「でもね。あれは本当は違うんだよ」
「違う?」
「そうなんだ。私こそ弱い人間なんだよ」
「先生が。どうしてですか?」
オオトシはナナモから視線をはずしたままだし、珍しく、膝が小刻み揺れていた。
「実は私はあの時医局の先輩の圧力に負けて勝手に解釈したデータで発表したんだよ。教授にもクニツ先生にもだまってね。そうしたら、偶然にも学会でその発表が優秀賞に選ばれたんだ。若手の教室員の中では私ひとりだったから、物凄く嬉しかったし、多少有頂天になっていたんだと思うんだけど、大学に戻って、クニツ先生に報告したんだよ。そうしたら、クニツ先生は僕を叱ることはしなかったんだけど、物凄く悲しい顔で、医学は誰のためにしなければならいだって、とても穏やかな声で私に話しかけて来たんだよ。だからかもしれないけれど、私はハッとなって、手には優秀賞の賞状を握り占めていたんだけど、慌てて後ろに隠して、すいませんって、クニツ先生に謝っていたんだ。そして、今からこの賞を返しに行きますって言ったんだけど、そうしないことをクニツ先生はわかっていたんだと思うんだけど、私に、そんなことをするよりも、これから一生懸命に真面目に医学に取り組めばきっとその穢れは祓われることが出来るんだ。だから、どんなことがあっても勉強を頑張って下さいって、励ましてくれたんだよ」
オオトシはそう言うと、振り返りカバンの中から、質素だが使い込まれて光沢のある小さな木製の箱を取り出して、ナナモの前で開けた。
「クニツ先生にもう一度解析法を教えてもらいたいと、私が頼むと、クニツ先生は大学を去ることになったからって、私に万年筆をくれたんだ」
オオトシが取り出した万年筆は木箱よりも漆黒なのに力強く輝いていた。
「何かにくじけそうになったらって、それ以上の言葉はなかったけど私には十分だったんだよ」
オオトシの瞳には涙が溢れている。しかし、その涙の粒は、先生への感謝以外にも、穢れとこれまで戦ってきた軌跡が見え隠れする。
「ナナモ君は自分の事を弱い人間だとさっき言っていたけど、そんなことはないし、半年ほどだったけど、何に対しても一生懸命だったよ。それに、友達や寮の先輩に話せなかったことを気にしているのかもしれないけど、秘密にしたいことは誰でも持っているからね」
もはや何も言えなくなったナナモに向かってオオトシはゆっくりとまるで子供の時にもらった宝物のように摩り撫でながら万年筆をナナモに差し出した。
「この万年筆をナナモ君に譲るよ。私がここに来たのは何かの縁かもしれないからね」
「先生にとって大事な万年筆ではないのですか?」
「大丈夫だよ。今の私ならクニツ先生に会っても、いただいた万年筆は後輩に譲りましたって、笑顔で言えるような気がするからね」
オオトシの瞳から涙はすっかり引いていた。そしてその先には晴天の下、清き世界が果てしなく広がっていた。
「クニツ先生にもしお会いすることがあれば、ジェームズ・ナナモが、杵築医科大学で勉強中ですって伝えてください」
「ああ、わかったよ」
残り香のような晩冬の冷気が栄光寮を厳かに包んでいる。ただ、この部屋だけは早春の息吹で芽生えていた。
ナナモは、この万年筆があっても寝言は消えないだろうと思いながら、「ありがとうございます。大事に受け継ぎます」という意味を古語に変えて告げた。
オオトシは笑いながら、それでも嬉しそうに頷いてくれた。
オオトシがいなくなった部屋は元の通りナナモ一人が占有することになった。最初はオオトシと同室になることに緊張が付きまとっていたが、今では懐かしいし、その広々とした空間が却って寂しく思えた。
コンコンと部屋を誰かがノックする。タカヤマならもっと激しいはずだ。だから、オオトシがまた舞い戻ってくれたのかと願う気持ちで扉を開けた。しかし、眼の前に居たのは寮母であるヌノさんだった。
「ナナモさん宛に届いた手紙を持ってきたの」
ヌノさんはナナモに真っ白な封筒を手渡した。
ナナモは以前同じようにヌノさんから郵便物を渡されたことがある。ナナモはデジャブではないかと一瞬頭をよぎったが、頬をつねろうとはしなかったし、気分も高揚しなかった。あの時以来ヌノさんは郵便物を部屋までわざわざ持っては来なかった。それに今日は手紙だけだ。でもどうしたのだろう。
「ナナモさんの御婆さんから私宛に京都のお菓子を色々送っていただいたのよ」
ナナモはマギーが!と、思わず叫んでいた。
「だから、お礼を言っていただきたくて」
ナナモはどうしてマギーはナナモに黙ってと最初思ったが、もしかして、キリさんではないかと、はい、わかりましたと、軽く微笑みを添えて答えた。
「オオトシ先生がいなくなったので寂しいですね」
ナナモは、祖母は今京都に住んでいますからと、マギーの話しを膨らませればよかったのに、ヌノさんがそれだけのことでわざわざナナモの部屋をノックしたとは思えなかったので、そう尋ねた。しかし、ヌノさんは、そうねと、あまり寂しそうではないトーンでつぶやくと、オオトシのいなくなった部屋をちらとでも覗くことはなかった。きっと先生の事だからヌノさんに黙って出て行くことなどあり得ない。だから、もうお互いが別れを惜しんだ後なのかもしれない。ナナモは取り越し苦労だったのだと、自分勝手な思い込みでヌノさんを気遣った若さに赤面した。
「でも、また、誰かが来るかもしれないわよ。だからこれからも今まで通りきれいにしておいてくださいね」
ヌノさんはまるでナナモの部屋の中を覗いていたかのような言い方だが、表情ひとつ変わらない。
「新入生ですか?」
ナナモは反対に感情的になって思わず声を上げた。ヌノさんは、さあ、と言ったきり、御婆さんによろしくお伝えしてくださいねと、もう一度言うとナナモの前から去って行った。
ヌノさんは侮れないし、栄光寮にはまだまだナナモが知らない秘密がある。
ナナモは、ヌノさんが去り際に見せた微笑みが瞳から離れなくてしばらく鳥肌が消えなかった。
ナナモはゆっくりと扉を閉めた。ヌノさんが最後に言ったことは気になったが、追いかけてもう一度尋ねても何も話してくれそうになかったので、部屋の中に戻ると渡された手紙を見た。
(クニツ・ジェームズ・ナナモ様)
そうきちんと書かれてあったが、どこを見ても送り主の名前が見当たらない。もしかして、新しいカタスクニからの託宣なのだろうかとナナモはすぐに開封せずにしばらく手に取ってから何度も何度も摩りながら見つめたが、あの時の様な不思議な感覚を覚えなかった。それでもナナモは身を清めようと誰もいない風呂場に行って頭から水を被った。
冷たい。ナナモは慌てて身体を拭くと急いで服を着た。
ナナモはあの時と同じように二礼二拍して、手を合わせた。ナナモは開ける前にもう一度封筒を見つめたが、青白く光ることはなかったし、触っても精気が身体の中に入り込んでくるという感覚はなかった。
ナナモはハサミを持った。そして自ら封筒に切れ目を入れた。
ジェームズ・ナナモ君、元気かい?
イチロウの字だ。ナナモは久しぶりにその特徴的な文字を見て、跳ねる気分が収まらなかった。
俺の名前を封筒の裏に書かなかったから、きっとナナモは誰からの手紙だろうとワクワクしたのではないだろうか。
俺はでもきっと俺からだと知ったらもっとワクワクしただろうと願っている。
ナナモは今日は何の日かわかっているかい?
きっともうすっかり忘れているだろうが、もし、忘れていたら、ナナモはとてもハッピイな日々を送っていたということだと俺は安心するだろう。
そう、今日は一年前にナナモが杵築医科大学から合格通知の電報が届いたと、俺に教えてくれた日なんだよ。
ナナモはあれから俺に手紙を何度かくれたし、色々と愚痴も書いてあったけど、大学を辞めたいとは一度も書いてこなかった。もちろん俺はそれでもナナモがまた大学を辞めるんじゃないか、俺に黙ってまた密かに勉強し始めているんじゃないか、あれだけ憧れていたのに思ったより医学の勉強に興味が湧かなくなったんじゃないかと、ずいぶんやきもきしていたけど、もう、今日からは受験できる大学はないし、あらたな合格通知が送られてくることはないから、ナナモは大学を辞めずに、医者を目指してこれから医学の勉強を頑張るんだと俺はナナモを応援することができるようになって本当にうれしく思っているんだ。
でも、その反面、ナナモは電子工学の世界に戻って来ることはないんだろうなと思うと寂しい気持ちもあるんだ。
機械と人間、仮想世界と現実世界。俺たちは両極端の世界でこれから生きていくのかと思うとあの時、二人はどうしてあの場所で出会ったんだろうとその縁に驚かされる思いだ。だから、何かこの一年、何度かナナモのサポートをさせてもらったけど、俺はその都度楽しくて嬉しくて仕方なかったよ。それに俺はナナモのおかげでまた新しい世界を作ることが出来たんだ。
ナナモは、今、えっ、何?と、つぶやいてくれたのかもしれないが、きっとわからないと思うし、でもナナモの事だからわかっていたよとほくそ笑んでいるのかもしれないけど、もしそうなら、あのコトダマと同じようにナナモには秘めた力があるんじゃないかって、俺はまたナナモが良い意味で分からなくなるかもしれない。
実は、ナナモが京都に何度も足を運んでくれた時に訪れた京の都のデータが、コンタクトレンズを通して僕の所に送られてきていたんだ。ナナモがなぜ、京都に行くたびにコンタクトレンズを付けてくれていたのか分からないけど、僕にはすごく役立っていたんだ。だから、ナナモが俺に、コンタクトレンズをなくしてしまったって、スマホで謝りの連絡をくれた時にも俺は大学からの供与品だったんで一応少し強い口調で、しょうがないと言ったけど、あれは冗談のつもりだったんだ。だから、その後ナナモがこれもなくすといけないからって、王室の公邸を黙って撮影して保存しておいたUSBを送り返してきてくれた時には本当にすまないと、しばらく落ち込んでいたんだ。
でも、そのおかげで俺はイギリスの公邸と日本の御所を融合したような仮想宮廷を作ることができたんだ。もちろん、おなじようなコンタクトレンズ装着型で、完全立体型だ。そこでは色々な貴族社会を体験できるんだけど、その重要な点はしきたりがありその事を学ばなければならない点なんだ。ナナモはきっと、それのどこが面白いのと思っているんだろうけど、しきたりは文化となり文明となる。だから知らなければ日常生活に支障がでたり、社会生活にも支障が生じたりするんだよ。俺たちはその事を知らず知らずのうちに忘れている。もしくは、日常の一部になっているんで、もはやしきたりなんて思わないのかもしれない。けど、宮廷では決してないがしろには出来ないし、穢れの根源になることもあるんだ。
西洋と東洋、イギリスと日本。正反対の様だけど、同じ人として必要な共通な要素を新しいしきたりとして俺は皆で作り上げようと思っているんだ。
ナナモ、でも、誤解しないでくれよ。しきたりを学べなかったり従わなかったりした人を排除しようとは思っていないから。それに、絶対者は要らない。
俺の仮想宮廷は決して理想宮廷ではないから、まだまだ道のりは険しいんだ。それに表も裏もあるし、助けも裏切りもあるからね。それでも、一つの仮想現実のひとつの規範となればと、俺は今日もキーボードを叩きながらそれでもナナモの事を想いながら決して笑顔を絶やさないように汗をかいているんだ。
ナナモ。俺は何度でも言うけど、いつでも応援しているよ。お互い前に進むしかないんだ。だから頑張ろうぜ。
それじゃあ。
キタジマ ソウイチロウ
追伸
ロンドンにまた連れて行ってくれないかな。きっと今度はダイヤモンドを身に着けた美しい女性に会えるような気がするから。
ナナモはイチロウからの手紙を読み終え、ほっこりとする暖かさとともに、何かを考えなければと、思わず立ち上がったタイミングでまた部屋がノックされた。
またヌノさんかと思ったが、部屋の前に立っていたのはタカヤマだった。手に何か持っている。
「返そう返そうと思ってたんやけど、なんか気に入ってしまって」
タカヤマはキリさんが作ってくれたおせちの入っていた容器をナナモに返すと明日の語学試験は何とか自力で頑張ってみるよと言って、ヌノさんと同じようにすぐに帰って行った。
今のは本当にタカヤマだったのだろうか。もしかしてアヤベが文筥とともに今度こそカタスクニに行きましょうとナナモを誘いに来てくれたのではないだろうか。
ナナモは知らず知らずのうちに頬を自らつねっていた。痛みがあり、部屋には誰もいなかった。ただし、机の上にはたった今返してもらった容器が置かれてある。あの時の印象と変わりなく漆塗りで細かな装飾が施されている。もしかしたら何世紀も前に作られた由緒ある品物かもしれない。ナナモはしばし心が奪われたかのように見入っていたが、急にイチロウから届いたこれまでの手紙とこれからも届けてくれるだろう手紙を文箱としてこの箱の中にしまっておこうと思い立った。閉ざされた文箱ではない。何かでナナモが気落ちした時にはいつでも開けて読み返すことが出来る。
ナナモはゆっくりとその箱を開けた。きっととても短い時間だったし、なんと言っているのか分からなかったが、うんうんと頷く両親の優し気な声が聞こえてきたように思えた。
春からは医学に関わる専門分野の講義が本格的に始まる。電子工学基礎理論のように分からないでは済まされない。
ナナモのあの件は相変わらずのままだ。オオトシには話したが、タカヤマにもイチロウにさえも話せずにいる。それでもタカヤマの熱い思いや、イチロウの深い念いが伝わってくると前向きになれる。
それでもナナモは二人にはこれからもあの事を話さないだろう。話してもきっと、「それで?」と、ナナモの憂いを断ち切るように二人は無視するだろう。
僕は穢れている。でも、二人の清き水が合わせればと、ナナモは明日タカヤマとともに受ける英語の試験のテキストにざっと目を通してから、さっき読んだばかりのイチロウからの手紙をもう一度読み返した。
後期試験が終わり、全ての試験で合格点を得られたら二回生に進級する。
ナナモは大きな溜息をついた。そして、今まで送られてきた手紙を机の中から取り出すと、先ほど読んだ手紙と一緒に文箱の中に入れ、きっちりと蓋をした。
明日、苺院へ行ってみよう。
ナナモは、久しぶりにアメノの煎れてくれる紅茶が飲みたくなった。きっと格子の迷宮での出来事をカタリベは全て知っているだろう。もしかしたら、また、あの耳をつんざくような大声で怒られるかもしれない。
それでも、良い。それでも、良い。それでも…。
ジェームズ・ナナモはこみあげる微笑みの中、三回目は言わずに胸に秘めながら、イチロウにあの物語の事を伝えたいと、叶わぬ願いとは知りながらもオオトシから贈られた万年筆を思わず握っていた。




