(32)格子の迷宮と閉ざされた文筥
袂から取り出した手の指先は、三角縁神獣鏡を握っていたのではなく、真っ白な紙片を摘まんでいた。ナナモは何だろとその紙を見ると、カミヨ文字で「物語を全て読み終えたものだけが文箱に通じる」と、瞳に飛び込んできた。まさかこの紙が導いてくれるのかと、ナナモがもう一度浮き出た文字を読もうとした瞬間に、文字は消えた。そしてしばらくすると、格子状の模様が浮き出て来た。この紙は確か…、そうだ、西の方から巻物とは別にこんぶの君からだと言って渡された紙だ。丁度、格子柄が平安の都に似ていたので、ナナモが清き水を探す際に色々と書きなぐっていた紙でもある。しかし、目の前にある紙にはその時記した文字や記号は全て消えていて、格子柄だけになっていた。
袂に入っていたのだ。確か清き水で濡れていたはずだが紙は全く濡れていない。もしかして、清き水で祓われたのかもしれないが、この格子柄の紙が穢れていたとは思えない。
では、どうして?
ナナモはしばらくその紙をじっと見つめていた。何かを指示してくれるのではないかと期待した。
満月は形を変えない。光を雲が邪魔しない。それに牛車も動かない。
ナナモはおもむろに三角縁神獣鏡を取り出した。鏡ではなく装飾が施されている側を表にして紙の上に置いた。そして、天門の館から出られた時のように二礼四拍して両手を合わせた。
誰に何を願えばいいのだろう?
ナナモの迷いと同じように、三角縁神獣鏡のうさぎが動き出すことも、浮き上がり再び光り輝くこともなかった。
ナナモはわかってはいても三角縁神獣鏡が起動しないことに落胆した。だからかもしれないが、「物語を全て読み終えたものだけが文箱に通じる」と、溜息の代わりに紙から消えた言葉が口から漏れ出ていた。
ナナモは自分で発した言葉なのにハッとする。そして、「清き心を持つ君こそが我が創りし格子の迷宮の中で文箱を見つけることが出来る」という最後の文章を思い浮かべながらもう一度格子柄の紙を見つめた。
清き心を持つものは託宣に従う。ナナモはカタリベの言葉を思い出し、そう解釈した。
格子柄の紙。これが託宣なのだ。
何かが書かれてある。いや、もうすでに何かが書かれているのかもしれない。ナナモはもう一度食い入るように格子柄の紙に見入っていた。
ナナモは牛車の中に居るはずなのに、まるで格子の迷宮の中に居るような気分だった。
迷宮とは何だろう。
ナナモの心が沸々と揺れ動く。月も雲に遮られ形を変える。そして、牛車もナナモに呼応するかのように動き出す。
そうだ。格子の迷宮とは平安の都だ。だから、ナナモは方角を知り清き水を求められたのだ。
ナナモは袂から巻物に物語を書き記した筆記用具を取り出し、清き心で託宣を描こうとした。しかし、それは文字ではない。ナナモが格子の迷宮でたどった軌跡だ。
冬、秋、夏、春とナナモは都で訪れた屋敷を繋げていく。丁度、左右対称の三角が描かれる。そしてそれぞれの三角は、都の左右、いや、東西、いや、日出る側と日沈む側が対峙する一点で交わっていた。
そうか、この交わるところに文箱があるに違いない。ナナモは目を閉じ深呼吸すると今度は大きく目を見開き、ナナモが繋げた図柄が描かれている格子柄の紙を見た。きっとこの場所に牛車は向かってくれるはずだ。ナナモの意識は途絶えるどころか、益々、高まっていった。
交わりし場所に文箱があるということだけを、この格子柄の紙に書かれた軌跡は示しているのだろうか。これは託宣である。きっとそれだけではないはずだ、ナナモは牛車に揺られながらもなかなかその答えにたどり着けないでいた。
牛車が止まった。御簾から入り込む光は白っぽくなっていて、ナナモは朝が訪れつつあることを知った。きっと、御簾を開けると冷気が入り込んでくるだろう。その事でナナモの頭をリセットしてくれるかもしれない。しかし、ナナモはそんな期待より確実な根拠が欲しかった。だから、モーと始めて牛の鳴き声を聞いたのに、なかなか御簾を開けられなかった。
それでも、ナナモは外に出なければならない。まだ牛が牛車に繋がっていることはわかったが、前方から降りようとすると、不思議と後方の御簾が開いた。
ここから降りろと言うのか?
ナナモは後方から降りて行くオンリョウの従者の事を思い出して背筋がぞっとした。しかし、この牛車が後方の御簾を開け、ナナモの降車を促したのは初めてだった。
何か意味があるのか?それでもナナモはなかなか降りようとは思えなかった。
しばしの躊躇が意外な物を見つける。
開かれた御簾の前には轅が見える。牛が牛車を引くために用いる長く平行に伸びる二本の棒だ。もしかして、こちらが前方なのだろうか?それでも確かに開け放たれた御簾とは反対方向に牛車は進んでいたはずだ。ナナモはどのようになっているのだと、降りて行った。
これはとナナモが思ったのも無理はない。ナナモが降り立った途端先ほどまで鳴いていた牛は牛車から消えていた。そして、前方が後方に代わったのか向きを変えるとそこにも轅が見えた。
どういうことだ?ナナモは二台が合わさった様な牛車を見て、そうか、やはりここが交わりし場所だと確信出来た。
ナナモはこれまでイライラしていたが、両轅の牛車を見て冷静さを取り戻せた。だからここはどこだろうとあたりを見渡した。
格子柄の紙の中心部である。ナナモは今まで見た事のない豪勢な大屋敷が聳え立っているのではないかと想像した。しかし、ここが都だとは思えないくらいぽっかりと空いた荒れ地には、四方に散在する草木と朽ちた屋敷跡だけが目立っていた。
湿地帯なのだろうか?ナナモはそのことを海岸に拡がる砂地にゆっくりと足を踏み入れた時のような足底から伝わる感触で知った。もしかして、嘗て立派な屋敷が建っていたのに低地のために雨で水浸しになることが多いので使われなくなったのかもしれない。でも、都の中央部なのになぜだろう?もしかして、ここも元人と関係ある場所なのだろうか?それとも穢れた場所なのだろうか?
ナナモはこんな場所だからこそ文箱が隠されているのではないかと思い直し、周囲に気を配りながら格子柄の紙を片手にあたりをウロウロと散策してみた。
ナナモはゆっくりと円を拡げるように探索して行ったが、奇跡は何も起こらなかったし、誰一人出会う者もいなかった。
牛車は消え、轍の跡だけが残る場所にナナモは戻ると、丁度座るのに頃合いの良い石がひざ下の草木から見えたので、もう一度格子柄の紙を見ようと腰を降ろそうとした。
ナナモが後ろ向きにまさしく膝を曲げかけたその瞬間ナナモのお尻をドーンという大きな音とともに突き上げてくるような衝撃が走った。ナナモは身体が都の果てまで飛ばされるような錯覚にしばし苛まれた。
しかし、ナナモは膝こそ伸ばしていたが、その場所にいたし、お尻も痛くなかった。
ナナモはどうしたのだろうと、振り返った。そこには先ほどと同じ変哲もない石があるだけだった。
もしかしてと、ナナモがその石に近づくと。その石はかすかに光ったように見えた。ナナモは驚いて顔が触れるほど近づくと、その表面に苔が生えていた。やはりここは湿地帯なのだ。ナナモは全く揺れていないのに水面の光のように苔が春日に靡いているように見えて不思議だった。
ナナモは苔の生えた石肌にそっと触れてみた。なぜか心地よい香りが指先から身体に入り込んでくる。すると、三つ柱の鳥居の中央部に鎮座していた岩が目に浮かんできた。
もしかして、この場所とつながっているのではないか?そうであるならば、この場所には鳥居はないがこの石は磐座に違いない。ナナモは先ほど腰掛けようとしていたことなど忘れてすばやく離れると、大きく一礼した。そして、今度は改まって二礼二拍してからおもむろに格子柄の紙を磐座に置いた。
ナナモは合掌しながらもこれまでの、そしてこれからの色々な思いがいくつも交差してきてなかなか無心にはなれなかった。それでも今は祈るしかない。しかし、時間ばかりが過ぎてゆくだけで、うっすらと新たな文字や図柄が湧き出ることもなければ、光り輝くこともなかった。
ナナモの不安をあおるように生暖かい春風が頬をかすめる。
ナナモはもう一度格子柄の紙を見た。しかし、その紙は微動だにしない。やはり、この紙に書かれてあることが全て託宣なのだ。だから、磐座にくっついたまま微動だにしないのだ。
ナナモはもう一度格子柄の紙にゆっくりと近づいた。今までは目の前で見ていたし、二つの三角は格子に目一杯拡がっていたので大きく感じていたが案外小さい。格子柄さえなければまるでリボンが磐座についている様に思えた。
リボン?平安の時代に?それに女の子につけるものだ。
ナナモは意図せず頬を緩ませてしまってから、やはり、こんぶの君からの贈り物なのだと胸が熱くなった。
きっとそれでもそれは何かのメッセージの始まりであり、リボンではないことは確かだ。
平安の都、貴族、和歌・・・。ナナモはジェームズにまでなって色々と連想したのだが最後にたどりついた答えは単純だった。
蝶だ。まさしく内裏に向かって羽ばたく蝶の姿だと思った。そうであるなら、この磐座から北へはばたけということなのか。でも何に向かって羽ばたけば良いのだろう。ナナモはその何かを掴もうと太陽を探した。雲間に覆われていなかったが、弱弱しい太陽の光がそれでもナナモを元気づけてくれた。だから太陽の光と自分を重ねながらかすかに影がさしている北を向いた。
蝶はどこに向かうのだろう。蝶が向かうのは花だ。だから北を向いているのだ。ナナモはやっとその図柄が意味することを理解した。
でもその花とは?
内裏に咲く花。この季節なら桜だろうか、いや、梅かもしれない。ナナモは折角前に進めると思ったのにまた身体が固まった。
きっとまだそれほど平安の都では有名ではない。それに儚い花のはずだ。それでも、艶やかで美しく多くの蝶を誘う花に違いない。
美しき君。ナナモはあの物語を最初から諳んじていた。そして、その物語をある物語に重ねることで、その花が目の前でナナモを誘っていた。
ナナモはハッとする。西の方の屋敷に咲いていた花を思い出したからだ。しかし、ナナモが思い浮かべた花が正しいとは限らない。それでもゆっくりと声に出してみた。
ツ・バ・キ。
三文字だ。ナナモは何かの偶然に苛まれながらも、蝶は花に、つまり、彼の地に居るこんぶの君は内裏に居る西の方に会いたがっている。
しかし、もしそうであるなら、こんぶの君にとって文箱は必要ない。でも本当にそうであろうか?もしそうであるなら文箱の物語の巻物を西の方に託すであろうか?
中将はこんぶの君など知らないと言っていたが、こんぶの君は存在していて、かなり高貴な人のように思えた。しかし、何らかの理由で清き水をどうしても得られなかったのかもしれない。だから、誰かに託そうとしたのかもしれない。
ナナモは最後の清き水が三つの水が合わさったものだと知っている。だったらツバキも合わさらないといけない。それは何だろう。そうだ漢字だ。ナナモは平安のカナ文字よりはましかもしれないが、漢字が苦手だ。ロンドンに居る時は叔母が必要以上にナナモに教えてはくれていたが、スマホ時代のナナモにとっては漢字を読むことは可能だが、即座に漢字を書くことが不得手になりつつあった。
ツバキってどの様な漢字だったのだろう。
スマホを持たないナナモではあったが、確かこうだったはずだと思って、袂から筆記用具を取り出し、手のひらに「椿」という文字を書こうとして、筆が止まった。
ナナモは。美しき君の意味を、そして三角が一点で接する意味をもう一度考えた。
美しき君は清き心を持つ君だ。清き心は清き水で清められる。ならばその清き水を得たのは誰だ。ナナモだ。ナナモは月の君と呼ばれていた。陽の君ではない。椿は、生命の宿る春の輝きで日出る花だ。まるで皇家の様だ。しかし、ナナナモは王家だ。日沈む花とは言わないが、春に生命を譲る冬の季節に生きる花であるはずだ。
「椿」の「春」を「冬」に変えてみる。「柊」だ。ナナモの掌にはその漢字が浮き出ている。
柊ってどう読むのだろう。ナナモが自分の手を見ながら何度考えても先には進まない。あと少しなのに。あと少しで文箱にたどり着けるのにと、ナナモが思えば思うほど何も湧いてこなかった。
ナナモは思わず磐座に置かれた格子柄の紙を取ろうとした。格子柄の紙が何かを伝えてくれるのではないかと思った。
しかし、簡単に手に取ることが出来ると思っていたのにくっついていて離れない。それでいて強引に引っ張ろうとしても破れそうにない。
元糺の岩と同じだ。ナナモは二礼四拍してから、そっと格子柄の紙に触れた。すると、今まで磐座の一部と化していた格子柄の紙が静かに浮き上っていく。ナナモはもう一度合掌すると静かに優しく手に取った。
ナナモは筆記用具で蝶の羽のように拡がった二つの真ん中に接する点の所に、「柊」という漢字を書いた。しかし、ナナモがしっかりした文字で「柊」と書いたはずなのに、格子柄の紙には平安のカナ文字が浮かびあがって来る。ナナモは読むことができなかった。やはり無駄なのかと思い始めた時に、カナ文字はまさしくミミズのように動き出した。そして、それぞれが蝶の形の四隅を徘徊した後に元の場所に戻ってきた。先ほどは縦方向だったのに今度は横方向だ。しかし、やはりナナモが読み得ない平安のカナ文字にやはり見える。
ナナモはあきらめるしないのか思った時に、思わずもう少しで瞳にくっつくのではないかと思うくらいの距離で格子柄の紙を見つめた。
「Holly」
ナナモは目で何度もなぞりながらそれでも信じられなかった。しかし、叔母の顔が再び思い浮かぶ。そして、ルーシーと過ごした時を懐かしむ。
「ヒイラギ」
ナナモは「Holly」と、口ずさみながらその四文字の日本語を何度も反芻した。
だから僕が巻き物を届けるためにやって来たのか?
ナナモはカタリベではなくアヤベの顔を思い出した。しかし、嫌な気は全くしなかった。それよりもこれで前に進めると、ジェームズ・ナナモであることに感謝した。
ヒイラギならロンドンで何度も見た事がある。しかし、真っ赤な実は知っているがどのような花なのか形も色も分からなかった。
ナナモはどうしようと思ったが、ヒイラギは葉に特徴があることを思いだした。確か邪気を払うためか棘棘しい葉の形が特徴的なはずだ。
ナナモはでもこのような場所にヒイラギの木が生えているのだろうかと思いながらも、その一方で、必ずあるはずだと、もはや信じるしかないと、決して見逃さないぞという覚悟で注意深く探索した。
どれくらいナナモは探しただろう。しかし、この場所から遠く離れていないはずだ。だったらあの特徴的は木葉をナナモが見間違えるはずがない。
ナナモはあの時中将が投げ出した水筒を腰に付けたままにしていた。中将は、もはやこの水は花梨の手から穢れし水に代わったと言っていた。しかし、ナナモにとっては清き水のままだ。決して、穢れし水ではない。それに、ナナモが最後に身を清めた水と同じだ。だから、あの清き水で濡れたままの袂からだした筆記用具で物語は書けたし、文字を浮かびあがらせてくれたのだ。
少なくとも今は穢れし水ではない。
ナナモは誰かに祈ることも願うこともなく、磐座に水筒の水を掛けた。すると、磐座からからめきめきと幼木が映えて来る。そして、そのうちみるみる大木となってナナモの前に聳え立った。
ヒイラギの木なのかもしれない。ナナモがその急速な成長を見守るように見上げたが、ナナモはその木がヒイラギではないことをその葉の形状から知った。
やはり、清水は穢れていたのか?ナナモは思わず項垂れ下を向いた、まさにその時、磐座は大木の幹に置き換わっていてその周囲を背の低い草木が周囲を囲むように生えていた。
小さいが真っ白な花が重なりながらところどころで咲いている。丸い突起が妖精にようでその愛らしさに思わず手を伸ばした時、ナナモは痛みを覚えた。
ヒイラギの葉だ。ナナモはついにヒイラギの花にたどりつけたことに興奮した。
ヒイラギは大木を守っていたのだろう。だから文箱はこの大木にきっと隠されている。
ナナモが清き美しい君ならきっと文箱が得られる。しかし、ナナモが清き美しい君でなければ跳ね返される。ナナモは穢れている。しかし、どんなに穢れていてもその穢れを背負いながら前に進もうと思っている。その心は一点の曇りもない清き心だ。ナナモは自分を信じるしかなかった。
ナナモは二礼二拍ではなく二礼四拍してから、筆記用具で物語を書いた利き手をまっすぐにヒイラギの葉の間に忍ばせて行く。すると今度は痛みを全く覚えないどころか、吸い込まれるように中に入って行く。ナナモは何かを掴もうとする意志を全く働かせていない。それなのに自然と取り出していた手には木の箱が握られていた。
これが文箱なのだ。こんぶの君の物語は実在したのだ。
ナナモは改めて両手に持って眺めた。しかし、手に持っているとは思えないほど軽い。それに、豪華な装飾が施されているのかと思ったが、木目以外何もない。それでいて、透き通っているのではないかと思えるほど清く、かすかに光っている。
この文箱は神木で出来ている。いや神木の一部なのだ。ナナモは神木のタブレットを思い出した。だったら、もしかして、王家が皇家に譲ったものではないのだろうか。だから、皇家とタミとが関わる清き水が元人の守る清き水には必要だったし、それを求める君は王家と関わっていなくてはならないのかもしれない。
ナナモは、ならばと、無性に文箱を開けたくなった。文箱の中にもしかして入っているかもしれない譲りの書をぜひとも見てみたかったのだ。ナナモの手がゆっくりとその蓋を開けようとした途端、ナナモの手からまるで血液が無くなってしまったかのように何かが消えていく。ナナモはもしかしたらそう少しでも思ったことで穢れてしまったのではないだろうかと思った。痛みは感じない。しかし、手が干からびていく。穢れた手では文箱は開けられない。ナナモは文箱から手を離し、その代わり、筆記用具で格子柄の紙の裏面に花梨の姫の母子の穢れの祓いを念じた言葉を何とか書き終えると、文箱の上に載せた。まるで格子の紙は文箱の一部であったかのようにぴったりと括りついている。と同時に、ナナモの手に精気が戻って来た。きっと、文箱の中に入れなくとも文箱は願いを聞き入れてくれる。だから、ナナモはその願いとともに再び大木に文箱を戻そうとした。
「何をする!」
ナナモの背後からナナモの動きを凍らせるような大声がする。その冷たさにナナモは、文箱を持ったまま大木から離れてしまった。手ではなく頭に痛みが走り、思わず目を閉じた。
ナナモは頭痛で跪きそうになるのを懸命にこらえながら、それでも振り返ると瞳をこじ開けた。
まるで霧が張ったようなぼやけた視界の中からゆっくりとナナモに近づく人物がいる。ナナモはすでにその人物の名前も顔も知っている。
「…の朝臣、やはり君だったのだな」
ナナモはなぜか…を口にしていた。しかし、ナナモを糺の森で助けてくれた時と同じように弓矢を背中に担ぎ、長刀を腰にさしていたが、今目の前に居る朝臣の瞳からは感情が全く消えていた。ただ獲物を狙う猛獣のように冷静に、呼吸も乱さず瞬きひとつせずにナナモを睨んでいた。
「どうして花梨の姫を利用した。花梨の姫は君を慕っていたのだぞ」
ナナモも沸き起こって来る感情を抑えきれない。
「だから利用したのだ」
ナナモは花梨の姫の気持ちを察すると尋ねたくはなかったし、そう答えるだろうと予想はしていたがいざ言葉にされると辛かった。
朝臣はにやりともしない。それどころか反対に花梨の姫のことなどもはやどうでもいいだろうとナナモの手元だけを見つめている。
「君は、中将に仕える武官ではないのか?」
「中将?我々武官は臣下ではあるが、たとえ太政であっても貴族には仕えない」
朝臣の眉間が一瞬光る。
「こんぶの君も武官だったな。だったら、君はこんぶの君を知っているんだな」
「ああ」
こんぶの君はやはり実在したのだ。
「だったら、何故直接文箱の話をこんぶの君から聞かなかったのだ」
「もちろん聞いたさ」
「こんぶの君はなんと言ったのだ」
「こんぶの君はタミを救うために都から出ていった。なぜなら、争い事は穢れを産むと言って、貴族はタミを助けなかったからだ。しかし、どれほど毎日働いても問題は尽きない。それどころか、海からタミを苦しめる賊人も現れた。こんぶの君はその都度高貴な方々に報告する。しかし、何度その成果を送ってもねぎらいの言葉どころか返事の書も届かなかった。だから、こんぶの君は高貴な方々からのお言葉と言って。自分で文を作った。そしてその文を高貴な方々の代わりにたいそう荘厳な箱に入れてタミの前で開いたのだ。それが何でも願いが叶う文箱の始まりだ」
朝臣はそこで一呼吸置いた。
「しかし、文箱を使ってタミを助けていたこんぶの君はその文箱とともに忽然と姿を消したのだ」
「それは中将の差し金か?」
朝臣は何も言わなかった。
「でも中将は文箱の話を知っていたぞ」
「こんぶの君は実は西の方ではなく、花梨の姫に色々な手紙を送っていたのだ。しかし、花梨の姫は始めそのようなことは信じなかった。だから、花梨の姫は西の方に話していたのだろうし、中将はその話を西の方から聞けたのだろう。しかし、中将はその話を聞き逃さなかった。そして、なぜか必死になって文箱を探そうとした。だから、私は文箱にはこんぶの君が使っていた文箱とは異なる文箱があるのではないかと思ったのだ。中将ですら恐れる文箱があることを。その文箱を手にすると願いどころではない何か壮大な力が得られることを」
「だから、花梨の姫を陥れたのか?」
「そうだ。私は文箱を探すために東風の方に穢れをもたらし、朝顔の姫を利用して花梨の姫に近づき香料で惑わしたのだ。それからだ、花梨の姫は母を忘れ、私に好意を抱き始めたのは」
ナナモは悪ぶれた素振りさえ見せずに淡々と話す朝臣に怒りを覚えた。
「私は月の君を中将だと考え、花梨の姫を救いに月のように清き君があらわれるというお告げがこんぶの君から届いたと西の方から言わしめたのだが、本当に月のように清き君が現れた。私は驚いたが、もしかしてと、月の君をずっと追っていたのだ」
「ずっと?」
ナナモはその言葉にひっかかるものがあった。なぜなら、元糺の森だけはナナモ以外、中将でさえも行けなかったからだ。
「朝臣、いったい君は?」
ナナモがそう叫んだ時。朝臣は長刀を抜いていた。切っ先が青白く波打ちながら光っている。まるで妖気が出ている様だ。
「こんぶの君から譲り受けたのだと、御主がすべてのものを従わせられるツルギを私に下さったのだ」
御主?もしかして皇家と思ったがナナモは大きくかぶりを振る。そうでないとしたらオンリョウか。朝臣はオンリョウと手を組んだのか。ナナモの耳元でコンチキチンと鐘の音がする。と同時に頭痛がした。
「そんなツルギなどない。だいたい。ツルギで全てのものを従わせることなどできない」
「御主は能力がすべてだ。だから穢れなど恐れるなと我々に言ったのだ」
朝臣はそう言うと振りかぶった長刀をまさに降り降ろそうとした。
異世界であっても傷つけばその通りになる。ナナモはカタリベの言葉を思い出すととともに、「いのち!」と大声で叫んでいた。
文箱が鉾となって長刀を受け止めていた。そればかりか、三角縁神獣鏡よりも強い光が長刀を跳ね返していた。
朝臣のうめき声が聞こえる。もしや朝臣の身体に刺さったのでないかと思ったが、相当な衝撃が走っただけだったのだろう、飛ばされたツルギは地面に突き刺さっていた。
朝臣は相当の痛みを覚えたはずなのに、飛ばされたツルギなどに眼もくれずに背中に背負っていた弓矢を取り出して、ナナモを今すぐにでも射ようと弓に手を掛けた。しかし、その瞬間、突き刺さったツルギが地面に吸い込まれていったかと思うと、そこから、赤子が生まれてきたかのような勢いで水が湧き出してきた。
ナナモは今だと、文箱が治められていた大木に近づいた。ナナモの行動と呼応するかのようにヒイラギの葉がまるで自動ドアーのように左右に開いた。ナナモはその隙間から素早く大木に飛びつくと、片手に文箱を持っているにも関わらず、上へ上へとすばやく昇って行った。
ナナモは大木の頂点に居る。平安の都が一望できる。しかし、格子状に拡がっているのは平面上の事であって、立体的には迷宮として入り組んでいる。
ナナモは眼下を見下ろした。大木の周囲だけが沼のようになっていて渦を巻いている。そして、朝臣の姿は消えていた。
「ここはもともと沼だったのだ。お前だったら分かるだろう」
朝臣?いや、似ているが違う声だ。
「誰だ」
もしかして朝臣が言っていた御主ではないか?だったら朝臣はどこに行ったのだろう。もしかして湧き出る水に飲み込まれてしまったのだろうか?
「朝臣!」
ナナモはもう一度大声で叫んでいた。そして、朝臣の策略だったかもしれないが、糺の森で朝臣に助けられたことを思い出す。
ナナモは急に不安になった。
「朝臣を助けたいのか?さすればその文箱を使うが良い。そうすれば朝臣は助かる」
ナナモは心が動かされかけたが、すぐに、朝臣は生きていると、叫んでいた。
「そう思うなら構わぬ。ならばその文箱をどうしようというのだ」
御主の薄ら笑いが聞こえる。
「また、大木に返すんだ」
ナナモはすでにそう決めていた。
「一度取り出した文箱は返すことが出来ないのだ。それぐらいのことは知っているだろう」
ナナモはまるで目の前にいるような近さだがその姿を捉えられない御主の言葉に惑わされないようにと思いながら、「文箱を見つけて封印してほしいのじゃ」と言った中将の言葉を思い出した。
これは願いが叶う箱ではない。やはり譲りの箱だ。だから、開けたものは表舞台から去らなければならない。だから封印しなくてはならないのだ。
大木に返すことが出来なくても何か方法があるはずだ。ナナモはあの時中将の話を途中で切り捨てた事を後悔した。
「我によこさぬか」
御主はナナモの心を読んでいたかのように囁いてくる。しかし、御主が文箱を封印するとは思えない。
「お前に渡せば、この文箱を内裏に持って行くだろう。そうすると都は穢れた貴族が、いや、武官が支配することになる。僕はそんなことはさせない」
「ではこのままで良いというのか?タミがこのままで良いと本当に思っているのか?ナナモよ、タミが今この都から遠く離れた土地でなにをしているかわかるか?いじめではないぞ。殺しあいだぞ」
「タミはそんなことはしない」
「お前はあの時の光景を見ただろう。都の外で荒れ果てた土地でたむろするタミ達を。我が知らなかったと思っているのか?平安の都というが、都人は穢れを祓うことのみに縛られて直接タミを守らなくなった。だから、都人を直接守ろうとしいていたタミは仕方なく都から出て行ったのだ。都では祓いは行われるが都以外では祓いは行われない。だから、能力が全てだと、禊ぎなど信じないと、私利私欲が渦巻く閉鎖的な世界だとも知らずに理想郷を求めてタミは彷徨わざるを得なくなったのだ」
御主は囁きを止めなかった。
「穢れは消えることはない。この都が今後千年以上栄えても穢れだけは消えることなどない。そうであるならばと、タミは新しいしきたりを産み、そのしきたりで新しい秩序を創りだせばと考え始めている。それは穢れに縛られない新しい世界だ」
新しい世界?ナナモは、穢れたままでも気にせずに前に進める世界ということかと、心の中で反芻する。
「その通りだ。我はタミにその力を与えたいと思っているだけだ」
「皇家はどうなる」
御主の呟きが突然消えた。と同時に暗闇があたり一面に広がって行く。
「ナナモよ、クニツカミの末裔よ。我によこせとはもう言わぬ。その代わり、自らその文箱を開けよ。そして中の書を手にとり、代わりにお前の願いを文箱に入れるのじゃ。さすれば、お前に掛けられた穢れは全て祓われ、清き人となれる。そしてお前は、晴れてこの世の覇者になれるのじゃ」
「覇者?」
「そうだ。その文箱が元は誰のものであったかはもはやわかっているはずだ。ならばお前が開けてもお前がこの世から去る必要はないのだ。そして、その事を知ったすべてのクニツカミはお前に従う。もはやタミなぞ案ずることはない。新しいタミが生まれ、お前に従うのだ。さあ、ナナモよ、文箱を開けよ!」
覇者などになりたくはない。いやなってはならないのだとナナモは自らを諫めながらも、その一方で、自らの穢れが祓われるという言葉にだけは心が揺れる。覇者でなくともよい。穢れなき人としてこれからは学びたい。
ナナモはあれほど拒んでいたのに、文箱に括りつけられた格子の紙に勝手に手指が伸びて行く。
「穢れを祓いたまえ、そして覇者を迎えたまえ」
御主の声がする。
ナナモはその言葉に操れそうになりながらも、懸命に御主の姿を捉えようと瞳を細めた。僕は身も知らぬ御主に操られている。もう、操られるのは嫌だ。
ナナモはコンタクトレンズを瞳から外し投げつけていた。
「僕は王家の継承者ではまだない。僕はクニツ・ジェームズ・ナナモというハーフでどこにでもいるタミだ。それに僕は昔自ら命を絶とうした弱い穢れたタミだ。僕は二度と弱い人間になりたくはないと思っていた。それなのにまた僕は穢れてしまった。そしてその穢れからまた弱いタミになろうとしている。でも、穢れは穢れを認識したものだけに宿る。だから尊いし、清き道を進もうとするのだ。それに僕は何れオホナモチ・ジェームズ・ナナモになる男だ。だからヤオヨロズの穢れを全て背負っても前に進まなければならない。それが僕に命を与えてくれた両親へ報いることなのだから」
ナナモは御主ではなくまるでヤオヨロズのカミガミに向かって叫んでいるかのように大声を張りながら、何もかもを振り切るように大木の頂から文箱を天空に向かって突き上げた。すると、その途端、大きな閃光があたり一面の暗雲を蹴散らすように拡がると、全てをかき消すような轟音とともに、イナズマが文箱を持ち去った。
ナナモは、その事を確認すると大木から渦巻く水面に向かって落ちて行った。ナナモは、花梨の姫の穢れを僕に!と、何度も叫ぶと、格子の迷宮である平安の都に吸い込まれるように水生の地から忽然と消えた。




