(31)格子の迷宮と蘇る物語
ナナモは最後の清水を手にした。
この清き水さえあればあの巻物に物語が映し出され、どのような願いも叶うという文箱を手にすることが出来る。それに、文箱を手にすることが出来れば、東風の方を、いや、花梨の姫を助けることもできる。
ナナモは今にもこの牛車から飛び降りて大路を駆け抜けたいというほど高ぶる気持ちに我を忘れそうになりながらも、揺れ動く牛車の隙間風がもう一人のナナモに擦り寄り、冷たい声で、最後の清き水だと一人合点しているだけなのではないのかと、囁いてくる声を聞き逃すことはなかった。
そもそもナナモは巻物を届けただけだ。その巻物に物語が書かれていたかどうかなどわからない。それに物語は夢物語で文箱とは全く関係ないのかもしれない。だから仮に最後の清き水だとしても、全てを物語の復活のために使い果たしてしまえば、清き水で東風の方の穢れを祓うことが出来るかもしれなかったのに、その機会を失うことになる。
ナナモは高揚感と喪失感が入り交じる遊園地のコーヒーカップのようにあちこちを回りながら牛車はどこに向かうのだろうとただ目の前の見えないハンドルを回すしかなかった。
そんなナナモの揺れ動く思いも、ごつごつと音を立てながらゆっくり進む牛車の居心地の悪さが却って癒してくれる。
ナナモは迷走していたことなど忘れて、いつの間にかウトウトと眠りに誘われた。
意識が遠のいていたのは一瞬の出来事のように思ったが、そうではなかったのは、ナナモが目覚めると、いつものように衣服が変わっていた。いや、元の服装に戻っていたといったというほうが正しいだろう。しかし、いつもように新しい衣服のように思えるのに両方の袂の中だけは薄らと濡れている。もしかして清き水がこぼれたのではないかと、とっさに腰回りを確認したが、水筒はしっかりとついていて蓋も開いていなかった。
ナナモがあたふたしていると、諭すように牛車が止まった。これまで牛車はナナモの願いをかなえてくれた。だから、物語に未練がなかったわけではなかったが、やはり花梨の姫のことが気になって仕方がなかったナナモを中将の屋敷ではなく、東風の方の屋敷に牛車は導いてくれるだろうと思っていた。ところが前方の御簾から降り立った場所は、ナナモが今まで見た事がなかった屋敷だった。
ナナモに理由を尋ねられたくなかったのか、牛車の牛は視界から完全にいなくなっていた。それでもきっと何か理由はある。ナナモは誰も出迎いの無い屋敷の前でしばらく佇みながらもどうしたら良いのか考えていた。
すると突然屋敷の門が開いた。
「月の君ではないですか?」
服装から屋敷に勤める侍女のような気がするが、ナナモはまったく見覚えのない女性に声を掛けられた。
「あなたは」
ナナモは失礼ながら尋ねるしかなかった。
「私は西の方様に仕えているものです」
ナナモはここが西の方の屋敷だと聞いて驚いた。そう言えば、あのとき夜に訪れたのだ。だから、はっきりと屋敷の外観が分からなかったのだ。しかし、それならどうしてこの侍女はナナモのことを知っているのだろう。ナナモは思わずその理由を尋ねようと思ったが、侍女は屋敷内の事を昼夜問わずほとんどの事を知っているのだと口をつぐんだ。それに聞き耳だけではないのだろう。覗き見も常習なのだ。それでも貴族たちは逢瀬を楽しんでいたのだ。ナナモは西の方とは何もなかったはずだ。だから余計にその侍女が頬を緩ませたように見えて恥ずかしかった。
「ところでどうして屋敷の門を開いたのですか?もしかして、僕がやって来ることを知っていたのですか?」
ナナモは話題を変えようと尋ねた。しかし、あながち的外れなことを尋ねたわけではない。なぜなら偶然に屋敷の門が開いたとは思えなかったからだ。
「西の方様が出かけられたまま戻ってこられないので、居てもたってもいられなくなって、つい外の様子でもと思って…」
侍女の心配そうな顔を見て、ナナモは嘘ではないと思った。
「ではどこに行かれたか分からないのですか?」
ナナモはもしかしてこんぶの君が戻って来たのではないかと思ったが、侍女に尋ねて良いのか戸惑った。
「中将様のお屋敷に行かれたのです」
侍女はナナモの杞憂に気付かずにあっさりと言った。そうであるならば心配することはないだろうにと、ナナモはやはりナナモを待っていたのではないかともう一度侍女の心配げな顔を見つめ直した。
「それが中将様の屋敷には居られないのです」
「どうしてわかったのですか?」
ナナモは当然尋ねた。すると、ナナモの問いに答えずに、侍女はここではと、ナナモを屋敷の中へと案内した。
寝所ではない居間にナナモが座り込むと、奥から明らかに侍女とは異なる艶やかな服装で女性が二人近寄って来た。ナナモはその顔を見て驚いた。なぜなら、その二人とは花梨の姫と朝顔の姫だったからだ。ただし、相変わらず花梨の姫はカリンをほうふつさせたが、朝顔の姫は誰かに似ているとは思うし、元々そうだったのかもしれないが、全くルーシーの面影からかけ離れた顔立ちだった。
「どうしてここに」
二人は声を揃えたが、同じことをナナモも言いたかった。
侍女が心配したのは、中将の屋敷に行くと言っていたはずなのに、その中将の屋敷から二人がやって来たからだ。
ナナモが中将の屋敷に居た時にはその気配は全くなかった。
ナナモは頭が混乱してきた。
「どうして中将様の屋敷に居られたのですか?」
ナナモは牛車に乗ってウトウトしていたらここに来たのですとは言えなかったので、先に尋ねた。
「里の方様の屋敷に居た私と、東風の方様の屋敷に居た花梨の姫の所に中将様から使いの者がやってきて、来るように言われたのです」
「それで?」
「私たちは当然二人が呼ばれていることなど知らなかったのですが、中将様のお屋敷で一緒になって、それで、一緒に呼ばれたことがわかったのです」
朝顔の姫がナナモにゆっくりとした声で説明した。花梨の姫も顔色ひとつ変えずに、頷いていた。
「中将様はなぜお二人を呼ばれたのでしょう?」
「それが中将様はお出かけになられていてお会いできなかったのです」
「お二人をお呼びになったのにですか?」
ナナモは当然だと尋ねた。
「来客があったあと、慌ただしく出かけられたらしいのです」
「来客?」
その来客とはナナモの事ではないかと思った。確かに、二人の姫はナナモの事を知ってはいるし、中将も二人とナナモの関係は知っている。しかし、中将の従者は三人の関係まで知っているとは思えないし、わざわざ従者に説明などしなかったのだろう。
「中将様も西の方様も屋敷にはいなかったのですね」
ナナモが確かめるように言うと二人は同時に頷いた。
「それだったら、どうして西の方様の屋敷にあなた方はおられるのですか?」
ナナモは堂々巡りをしている。
「中将様は西の方様の所に向かわれたと、ある方が教えてくれたからです」
「ある方?」
もしかしてと、ナナモは思ったが、声には出せない。しかし、朝顔の姫は平然としているが、花梨の姫は顔を赤らめているように見えた。
「朝臣だ」と、ナナモはもう少しで声に出しそうになったが、その前に、朝顔の姫は意外なことを言った。
「中将様はまず西に向かわれてから一度お休みにならないと吉報を得られないはずだと、ある方が私たちにおっしゃられたのです」
朝臣ではなく、貴人だ。でも、ナナモと会った貴人は中将の屋敷から去って行ったはずだ。また戻って来たのだろうか?でもなぜ?それに中将が屋敷から去ったのにどうして貴人は中将に追随するか、屋敷を後にするかをしなかったのだろう。
ナナモはある方とは本当に貴人だったのだろうかと、貴人に言われた西の屋敷がどうして西の方の屋敷だと思ったのだろうかを二人に尋ねたかった。
しかし、朝顔の姫は、ナナモが口を開く前に、花梨の姫とナナモを交互に見ながら、二人で西の方様の屋敷に来たのに、中将様はおられない。その上、西の方様も居られないどころか、中将様の所に行かれたと聞かされて、困ってしまっていたと、早口で言った。
二人の心配そうな、だから余計にやきもきしている感情の揺れ動きが手に取るように伝わって来る。しかし、ナナモはその二人を見ていると却って冷静になって来た。だから、二人はどうして中将に呼ばれたからといってすぐに中将の所に行かねばならなかったのか。そして、中将が居なかったからと言って、どうして中将を追ってまで探さなくてはならなくなったのかその真意を尋ねたかった。
「先ほどの侍女を呼んでいただけますか?」
ナナモはゆっくりとした口調でそう言っていた。
「わたくしに用事でしょうか?」
「二、三お聞きしたいことがあるのですか?」
侍女は、はいと落ち着いている様な言い方だったが、先ほどよりも緊張しているのか、本人は気が付いていないだろうが、右頬だけが微妙に一度痙攣した。
「中将様は本当にここへはこられていないのですか?」
ナナモは以前のことがあったので、こっそり夜陰に紛れてやって来たのかもしれないと思ったのだ。それに中将の事だ。覗き見、聞き耳されていることなど十分に知っている。
「はい」
「でも、誰かに扮してやってこられたということも考えられるでしょう」
「中将様は特徴のある歩き方をされますので、どのような時間帯であろうとも、どのような衣装であろうともわかります」
侍女ははっきりした口調で言った。やはり、壁のない世界だとナナモは思った。しかし、その一方で、中将ならその事を逆手に取ることもある。
「では、中将様以外に誰かが尋ねて来られませんでしたか?」
ナナモの問いにまた侍女は右の頬をかすかに痙攣させた。ナナモは西の方の情事を聞こうとしたわけではない。だから、質問を変えた。
「誰かが巻物を持ってこられませんでしたか?」
侍女は意外な質問に驚いている様だった。何故なら、巻物を持っている本人を知っているからだ。
「いいえ。それに巻物はいつものところには…」
侍女はそれ以上言わなかった。しかし、その事で侍女は西の方の全てを把握していることが分かった。
「では、最後の質問ですが、あなたはこんぶの君をご存知ですか?」
ナナモはこの質問を侍女にしたかったわけではない。花梨の姫に本当はしたかったのだ。だから、侍女を見ながら、横目で花梨の姫の顔色に注視した。
「はい」
侍女は全く頬を痙攣させることなく即答した。そればかりか、どれほど素晴らしい方で西の方と相思相愛だったかをむしろ頬を緩めながら話した。
花梨の姫は侍女が話している間全く表情を変えない。ナナモにはそのことがかえって不思議だった。
ナナモがそれ以上の質問を続けなかったので、侍女はナナモの前から奥に下がって行った。ナナモはこの時こそと奇をてらった質問をしてみようと思ったのだが、思いつかなかった。
「巻物はお持ちではないのですか」
それまであまり話さなかった花梨の姫に急に尋ねられてナナモは反対にどぎまぎしたのか、中将様に返しましたと、思わず口にしてしまった。
「文箱は?」
「清き水は?」
同時だが違う声が聞こえる。しかし、どちらの姫がどちらの言葉を言ったか分からない。
「物語は全て読めなかったので文箱はまだ見つけることは出来ないのですが、ある程度は読めたので清き水は手にすることが出来ました」
ナナモは二人に言った。二人はしばらくナナモからもっと色々な話を聞きたがっている様だったが黙ってナナモを見ているだけだった。先ほどのことがあるので聞きづらかったのかもしれない。
「清き水が巻物の文字を全て浮かび上がらせて物語を知らせてくれるのかもしれませんが、そうならなければ願いが叶う文箱は見つからないでしょう。そうであるなら、僕はこの清き水を花梨の姫の母君に禊ぎのために使って頂くのが良いかと思うのです。この水は清き水です。きっと穢れを祓ってくださると思います」
ナナモは清き水が物語を浮かびあがらせることが出来るとは限らないと言いながら、穢れを祓うことが出来るとなぜ言いきったのか分からない。しかし、目の前に居る花梨の姫を見ているとそう言わざるを得ないと思ってしまう。
「それでは西の方がおかわいそうです」
ナナモは朝顔の姫の方を向いたが、言ったのは花梨の姫だった。
ナナモは意外に思った。それに、生霊に本当に祟られているかわからない東風の方だが、だからこそ、この時代の万病のくすりである清き水はもっとも効果があるはずだ。それにその事で東風の方も花梨の姫もきっと吉方に導かれるに違いない。花梨の姫のためと思って今まで頑張ってきたナナモの思いもある。だから、確かに西の方には悪いが、二人に幸せになってほしいとナナモの思いは強かった。
「すべての願いが叶う文箱があれば西の方も東風の方も助けられるのではないでしょうか?」
朝顔の姫が言った。ナナモは朝顔の姫までと言いそうになったし、二つも同時に願い事が叶うことなどないとも言いたかった。
「すべての願いが叶う文箱があるかどうかはわからないし、そもそもそのような物語などなかったのかもしれません」
ナナモは思い切って言ってみた。
「御手洗の清き水が巻物に文字を浮かび上がらせたのでしょう」
朝顔の姫は、里の方から聞いたのだという顔をしていた。
「はい。しかし、それは…」
「清き水とは文箱の事かもしれませんよ。そうであるなら、清き水が文字を浮かべ、清き文字が物語を育み、清き物語が文箱を産むはずなのではないでしょうか」
どうしてそこまで朝顔の姫は文箱にこだわるのだろう。ナナモは、しかし、朝顔の姫の問いかけには答えず花梨の姫を見た。
花梨の姫は朝顔の姫よりは少し憂鬱気に見える。だから、先ほど西の方の事を気遣っていたが、本心だったのかどうかナナモの気持ちは揺らいでいた。だからと言って、花梨の姫のことを全て信じられない自分も居る。
「では、巻物を探すべきだと」
ナナモはどう言えば良いのかしばし考えようとしたはずなのに、そう口にしていた。中将でも西の方でもなく、ただ、巻物の行方だけを追えということだ。
ナナモの申し出は言葉としてはずいぶん冷たい言い方だったとナナモ自身は思っていたが、二人は特にナナモを批判することはなかった。きっと、巻物は中将と西の方が居る所にあると、二人が思っているからに違いない。
「二人はどこに居られるのでしょう」
その事を確かめるように今度は巻物のことは省いた。しかし、それ以上の事を知っていそうなのに、やはり、二人は先ほどと同じような面持ちでナナモを見ている。
「この屋敷に立ち寄っていないということは、中将様は屋敷から直接内裏に向かったのではないでしょうか」
中将がもし吉方を無視して、直接内裏に向かったということはかなり急な出来事が起こったに違いない。そうであるならば、その出来事には西の方が大いに関わっている。だから西の方も急ぎ中将の元に向かったのかもしれない。
こんぶの君が帰って来たのだ。
ナナモは、もう少しで二人の前で口に出しそうになったが、辛うじてとどまった。そして、もし、こんぶの君が帰ってきていたら、中将は巻物など放り投げてこんぶの君から直接物語を聞き、文箱を探し出すに違いない。もし、その通りなら、文箱を手に入れた中将は二人を生かしてはおかないだろう。自らは手を下さないだろうが、必ず策を講じるはずだ。ナナモは中将が言っていた、「月を自由に操ることはできないが、人なら命すら自由に操ることが出来る」と言った中将の不気味笑いを思い出していた。
「中将様の所に行きましょう」
ナナモは二人にまるで宣言でもするように言った。
二人は頷きこそしないが拒まない。それどころかナナモがそう言ってくれるのを待っていたかのように誘導していたのにもはやすっかり忘れている。
「しかし、この清き水は花梨の姫にお渡しします。どうか、母君である東風の方に飲ませてあげてください。きっと東風の方様に宿った生霊を祓ってくれると僕は信じています」
ナナモは清き水の入った水筒を腰から外すと花梨の姫に渡した。花梨の姫は突然のナナモの申し出に戸惑っているというか、身体が固まってしまっている。それでも、物語はどうなるのですか?と、花梨の姫の呟きが聞こえてくる。
「まずは巻物を取り戻すことです。そうでなければ、清き水があっても物語の文字は浮かびあがってきません。それに、清き水なら僕がまた汲みに行けば良いのです。だから、気にされることはないです」
ナナモは最初の思いをもう一度二人に伝えただけだったが、最初とは異なる三者三様の思いが巡っている。また、三という数字かと、ナナモはつい頬を緩ませたが、二人の姫はナナモから不気味さでも感じたのか、文箱のことはもう口にしなかった。その代わり、まるでお互いが何かを囁き合っているかのようにしばらくそれとなく視線を交えていた。
「わかりました。ありがとうございます」
花梨の姫の面持ちは始めてこの屋敷で会った時のナナモの思いに近かった。花梨の姫はやっと戻ってくれたのだと、ナナモはあえてそう思うとしたが、傍らの朝顔の姫が邪魔をする。
「中将様の所には僕一人ではいけません。朝顔の姫、どうか一緒に来ていただけないでしょうか?」
そんな朝顔の姫にナナモはきっぱりとした口調で言った。
朝顔の姫は花梨の姫と一緒に居ようとしていたのだろうが、ナナモに突然言われて戸惑っている。しかし、断る理由がない。それどころか、巻物をいや、物語を、いや、文箱をあきらめていない。
ナナモはもはやその理由を尋ねようとは思わなかった。それよりも、花梨の姫が気になった。
「わかりました。それでは参りましょう」
朝顔の姫はそんなナナモの思いを立ち切るように立ち上がると、花梨の姫の耳元で何かささやいた後、侍女たちに出立の準備をテキパキと命じていた。ナナモはもう一度花梨の姫に視線を向けたが、花梨の姫は両手で持った水筒をじっと見つめたままでナナモの方を向いてはくれなかった。
西の方が中将と一緒かどうかは分からないが、中将は内裏の中に必ずいる。ナナモはなぜかわからないが確信に満ちていた。しかし、朝顔の姫とは同じ牛車に乗ることを許されなかったナナモが自分の牛車に乗り込もうとしたが、牛車を引く牛は舞い戻っていなかった。
牛は内裏に行くことを嫌がっているのだと、ナナモは最初思ったが、いや、内裏にナナモは行けないのだと思い直して、朝顔の姫にそう告げた。朝顔の姫はナナモから誘っておいて急に行けないと言われので、驚いていたが、ナナモが内裏の近くに居るので連れてきてくださいと、頼むと、「中将様を連れだすことなど出来ません」と、朝顔の姫の険しい顔が返って来た。ナナモは始めて見た朝顔の姫の怒気を含んだ言葉に少したじろぎかけたが、「月の君が、最後の清き水を手に入れましたので巻物とともにお会したい」と、伝えてくださいと、より口調を強めて行った。
「でも、清き水は…」と、朝顔の姫は先ほどとは異なり、弱弱しく声を漏らしたが、「いいのです。巻物を手にすることが大切なのです」と、ナナモの相変わらず毅然とした言い方にそれ以上のことを言わなかった。
朝顔の姫といえどもそう簡単に内裏に自由に行き来できるわけではないだろう。しかし、きっと朝顔の姫はその役目を果たすだろうし、中将はどんなに忙しい職務に付いていたとしても必ず巻物とともにナナモの前にやって来るだろう。
ナナモは西の方の事が気がかりだったが、もはや西の方の事を一言も発しなくなった朝顔の姫の人形のような面持ちから、もしこんぶの君が戻ってきて再会していたとしても、物語を元に戻すことが出来なかったのではないかと、あれこれと訝ることより今はこうするしかないのだと自分に言い聞かせるしかなかった。
ナナモは結局朝顔の姫の牛車に伴する従者の面々とともに久しぶりに大路を歩いた。行き交う人々はナナモ達を気にすることなく各々の目的地を目指している。ナナモは久しぶりに都のありふれた日常に触れることが出来てほっとした。弱々しかったが陽が昇っていて天気が良く、高い建物がないことも相まって、頭上に拡がる一面の青空は大きく息を吸ったように拡がり、周囲の山から流れ込んでくる少し湿った風が薄手の羽衣と戯れている。歩いているからかもしれないが暑くも寒くもない程よい心地よさにナナモは不謹慎だと言われてももう少しで立ち止まり大きく背伸びをするところだった。
陽の位置は一行が北へ向かってから東に方向を変えたことを教えてくれる。きっと、吉凶のためであろうとナナモは想像し得たが、そうであればここは西一条だと、ナナモは先ほどまでの高揚した気分がずいぶん落ち着いてきていることで、余計にそう思えた。
牛車が止まり、ナナモは少しだけ開いた御簾越しに、ここでしばらくお待ちくださいと、ある屋敷の前で朝顔の姫から言われた。その屋敷は本当に中将を迎え入れるのだろうかと思わせるような、これまでナナモが訪れたどの屋敷よりも質素で古ぼけた外観だった。
しかし、そんなナナモの思いを気に掛けることなく、朝顔の姫はそれだけ言うと、御簾を下ろし、また、一行を連れて牛車を進ませた。ナナモには誰も従者は付いてはくれなかった。だから誰か侍女が屋敷から出てきてくれるのかと屋敷の前でしばらく待っていたが、一向にその気配がなかったので、門を開け一人で屋敷内へと入って行った。その一連の流れはまるで穏やかな春風の様であったので、ナナモはもしかしたらここは裏一条の館ではないのかと思ったが、まさか、中将がナナモと同じ王家だとは思えないと、すぐに首を振った。
ナナモは履物を脱ぎ、居間に進んだ。丁度、剣道の道場ほどの広さの真ん中には畳が置かれ、その中央には二対の茵が敷かれてあった。ナナモは上座下座を考えたが、おそらく、東座西座に茵は置かれているに違いないと、屋敷の構造を何となく理解し出していたナナモは迷わず西座に座った。
それにしても何か懐かしい香りがする。ナナモはもう一度周囲を嗅いでみた。
木の香りだ。それも精気に溢れた新しい木の香りがする。
ナナモは瞳を開けて居間の細部を見た。射しこむ陽が弱かったからか外観と同じように色褪せたように見えたが、柱や床板は全て新しい木材で出来ている。まるで周囲の白木から今にも赤ちゃんの泣き声が聞こえてきそうな初々しさだ。やはりここは神域なのではないかと、ナナモは紙垂がないか周囲に目をやったが、もちろん何も見えなかった。
西日が完全に沈んでいる。
暗闇の中、一時も微睡むことがなかったナナモは一人座しながら、過ぎ去りし時を恨むことなく、西の方の屋敷を訪れてからの一連の出来事を何度も何度も頭に刻み付けるように思い出していた。
僕はどうしてここにやって来たのだろう。
ナナモが最後にそう思った時、急に目の前が明るくなった。ナナモは思わずぎゅっと拳を握るかのように瞳を閉じた。
「お待たせしました」
ずいぶん重くなった声が聞こえてくる。ナナモはその声に押しつぶされるのかと思ったが、反対に瞼は軽くなった。だから少し瞳を開けようとする。眩しさはあったが痛みはない。
ナナモの瞳にはまだ紗がかかっていた。それでもまるで巨人が座っているかのようなオーラが灯台の炎以上にその人物を浮かび上がらせる。
「中将様ですね」
ナナモは声に出していた。中将の大きな頷きがはっきりと見える。ナナモは始めてあった時の興奮も憐みも尊敬も蔑みも不思議とわかなかった。しかし、だからと言って無感情ではない。もちろん平静でもない。ナナモは、年齢も経験もずいぶん異なるのに同じ道を歩もうとしている同胞の様な親しみが、お互い身構えながら対峙しているのに、二人の架け橋を通してこれから行き来するのではないかと、おぼろげに思い描いていた。
「この屋敷は天門の館と言われていて、この地に都が出来る遥か昔に、ある御仁が住むために建てられたものらしい。今はないが敷地内に小さな社があって、その御仁はこの地の守り神として大切に祀っていたと聞いている」
「もしかして・・・」
「そうだ。その御仁とは元人の事なのだ。だから、麻呂はこの屋敷をどうしても手に入れたかった。この屋敷から旅立てば日沈む森にたどり着けるのではないかと思ったのだ。」
中将は、日沈む森、つまり、元糺の森の清き水を何らかの理由で以前から求めていたのだ。
「しかし、麻呂が内裏で働きながらもやっと日沈む森へこの屋敷から旅立とうと思い立った日に、大雨となって屋敷は水浸しになってしまった。麻呂はだから、外観はそのままにして内装だけを真新しくしたのだが、また旅立とうとすると、大雨となって屋敷は水浸しになってしまう。麻呂はあきらめなかったが、何度同じように新しくしても決まって旅立とうとする日には大雨となって屋敷は水浸しになってしまったのだ。
誰もが麻呂の言うことにしたがっていたのに、この時麻呂は貴人に従った。
貴人は麻呂に言ったのだ。身代わりを出せと。しかし、麻呂の身代わりは確かにこの屋敷から旅立つことは出来たが、ことごとく帰ってこなかった。そんな時に西の方から巻物を預かったのだ。麻呂はいてもたってもいられなくなって、自らが旅立とうと再び屋敷に向かったのだが、やはり大雨で水浸しになったのだ。それでも、もう一度と、屋敷を新しく作り直した時、貴殿がやって来たのだ」
中将はぎゅっとまるで仁王像のように両方の眼に力を込めてナナモを睨み付けた。
「貴殿は日沈む地の森へたどりつけたのか」
中将は強がっている。だからナナモは、「はい」と、出来るだけ無感情な返事をした。
「そこには社があったのか?」
ナナモは三柱の鳥居がありましたと答えようと思ったが、きっとナナモが口にしても声にはならないだろうと思った。だからナナモは清き水は手に入りませんでしたと、投げかけてみた。
「貴殿はまだお若い様だ。もっと、風情を楽しもうとは思わないのか」
中将はまだ遠回りしたいようだ。しかし、ナナモはナナモを睨み付けて来たその眼の奥にあるふてぶてしさに付き合う気持ちを完全に遮られていた。
「何故嘘をついた」
中将はまたナナモを睨みつけてくる。
「あなたも嘘をついているからです」
ナナモも目力を落とさなかった。中将はそんなナナモを見て、頬を緩ませている。もちろん、対等になろうとしてくれているのではない。より高い所から見下ろしている。
「麻呂は嘘をつかない」
中将はそういうと急にナナモの前に巻物をさしだした。
ナナモは素早く受けとると巻物を解こうとする。
「これが入用なのではないのか?」
中将のほくそ笑みすら気が付かないほどナナモは動揺していた。何故ならナナモの目の前には花梨の姫に渡した最後の清き水が入っている水筒が転がって来たからだ。
なぜだと、ナナモの独り言が溜息をついている。
「貴殿に以前言ったことがあるはずだ。麻呂も月の君と呼ばれていると」
「花梨の姫になんと言ったのだ。もしかして朝臣のことか…」
すぐさまナナモは中将に向かって、荒げた声を投げかけた。
「良いか、誤解しないでほしい。麻呂は花梨の姫に直接何かを言った覚えはない。そもそも、麻呂と花梨の姫とは身分が違うのだ。ただ、聞き耳を立てていたものが居なかったとは限らない」
「朝顔の姫…」
ナナモから先ほどの怒りが声を潜めていく。
「誰でも良いではないか。きっと心優しいものなのだから」
ナナモは朝顔の姫の事より花梨の姫が母よりも朝臣を選んだことの方が悲しかった。
「花梨の姫は、穢れを持ったまま、それでも前に進もうとしたのだ」
中将の言葉でナナモはハッとする。
「花梨の姫は麻呂の所に清き水を持ってきてくれた。しかし、貴殿なら分かるだろう。清き水は清き心を持つものがもたらすものだ。そうであるなら、この清き水はもはや清き水ではなくなってしまったのだ。つまり、東風の方も救えないし、物語の文字も浮かび上がらせることなど出来ないのだ」
中将はなぜか全く後悔した様子はなかった。むしろ、そうなることを望んでいるかのような面持ちだった。
「西の方様は?」
ナナモは今まで高ぶっていた気持ちが一気に身体から抜け出していくのを辛うじて声を出すことによって阻止しようと思った。
「西の方は誰かに妖術を掛けられたのだと思う。だから今貴人に頼んで祓いのけてもらっている。心配することはない」
「ではこんぶの君は?」
「こんぶの君など知らぬ。前にも言ったはずだ。ただ物語は以前からあった。なぜなら物語とは人生そのもので、美しくも儚い、もののあわれなのだから」
中将は何かを吹っ切ったのではない。また、何かを背負いこんだかのようにナナモは感じた。
中将と同じではないが、花梨の姫にもナナモは何かを背負わせてしまったのかもしれない。ナナモはふとマギーと一緒にいたカリンの悩まし気な横顔を思い出した。
もし、ナナモが西の方の屋敷に巻き物を届けなければ、花梨の姫は穢れることはなかったのだ。このままなら穢れたまま生霊として過ごさなくてはならない。もしそうなら東風の方と同じように、花梨の姫の恋は成就しない。それどころか朝臣はそもそも花梨の姫を何とも思っていないのだ。そうであるなら、朝顔の姫が朝臣から頼まれてわざと花梨の姫に中将の呟きを耳打ちしたのだろうか。いや、朝顔の姫まで穢れてはいないはずだ。
花梨の姫を助けたい。
ナナモはおもむろに二人の間に巻物を広げた。中将が手にした最後の清き水に浸したのかどうかは分からないが、やはり何も書かれていなかった。
ナナモは最後の清き水が入っている水筒を腰に結わえた。そして、袂がまだ濡れているのを確認すると、色々と格子の紙に書き殴っていた筆記用具を取り出した。
ナナモは中将が目の前に居ることや、元人が住んでいた屋敷に居ることも気にすることなく、中将がやってくるまでの間に何度も何度も時間を忘れるほど繰り返してきた清き水を求めてさまよった物語をもう一度思い出していた。
そして大きく深呼吸すると、前かがみになって、利き手をゆっくりと巻物に伸ばした。すると、其の筆記用具はまるで最後の清き水で精気を得たカミの託宣を伝えるフィギュアスケーターのようにスラスラと白きカミの上を滑りながら舞い始めた。
いずれの季節の時か…から始まった文章を筆記用具は途切れ途切れだったナナモが聴き得た言葉を元に一連の物語を紡いでいく。しかし、ナナモには読めない。何故なら、連なる文字はあのミミズ文字だったからだ。
筆記用具がひとりでに止まった。疲れも達成感も何もなかったが、ナナモは長き物語を一気に書き上げていた。ナナモが静かに筆記用具を傍らに置いたが、それを見た中将はひったくるように取り上げ、当たり前の文字として食い入るように読み始めた。
「貴殿はこんぶの君なのか」
中将の弱々しい声が聞こえてくる。
「いえ、僕は月の君です」
ナナモは声には出さなかったが、そう答えていた。
「なんと書いてあるのだ」
最後まで読み終えたのだろう。中将は強張った顔で巻物を床に置くと素早くナナモの方にひっくり返し最後の部分をコンコンと指さした。ナナモはその箇所を見た。ナナモは自分で書きながらも、記憶になかった文章に驚きながら中将のためではなく自分の記憶に刻み足すために声に出していた。
ナナモが最後に書き記した文字はカミヨ文字だった。
「清き心を持つ君こそが我が創りし格子の迷宮の中で文箱を見つけることが出来る」
ナナモが最後の文を読み上げるとみるみる中将の顔が青白くなる。いや、小刻みに震えてさえいる。
「中将様は何を恐れておられるのですか?もしかして願いの叶う文箱を手に入れ皇家に代わって内裏を牛耳ろうとしておられたのですか?」
なぜぞう尋ねたのか分からない。しかし、皇家の綸旨が治められた文箱が中将の思いのままになれば、この世は中将のものとなる。
「確かに、公家たちは皇家から渡された文箱を開ける。そして皇家からの勅旨として皆に読み聞かす。しかし、その文箱が公家たちに渡る前に一人だけその文箱を開けることが出来る人物がいる。つまり公家の頂点に立つこの麻呂だ。だから文箱がなくとも 書き換えられることなどたやすいことなのだ。しかし、麻呂の願いが全てのタミの願いとなるだろうか?むろん、誰もが幸せになるような願いがあれば良いのだろうが、タミにはヤオヨロズの願いがあり、それぞれの願いは、ヤオヨロズのカミのようにままならぬものなのだ」
中将の青白い顔の瞳の奥に炎が見える。気迫ではないが、ナナモは相槌すら打てずに話しの続きを聞いた。
「良いか、麻呂は皇家をつぶそうなどとはまったく思ってはいない。むしろ恐れ多いことだと思っている。なぜなら穢れを禊ぎ清めてくださるのは清き水ではなく皇家だからだ。麻呂たちはその事を利用し朝廷という体系を作った。それでも万全ではない。むろん皇家はカミに近しい方だがカミではない。しかし、もし、皇家にとって代わろうとしたら、麻呂たちは穢れを被ることになる。そして、穢れた麻呂たちが頂に立てば、誰も穢れから逃げ出せなくなる。さすればこの世は無くなる。決してそのようなことはさせない」
「なぜ、僕にそのようなことをお話しされるのですか?」
中将から力が抜けていくのが目に見える。ナナモはやっと口を開いた。
「文箱を見つけて封印してほしいのじゃ」
「では文箱は在るのですか」
「ああ、多分な」
中将の目力は嘘ではない。だから執拗に文箱を探していたのだと、訴えて来る。ナナモは思わずはいと素直に頷きそうになる。しかし、まだ半信半疑だ。それに、中将はシステムを作ったとは言うが、自ら万全ではないと言っていた。それにシステムは常に更新されて行くし、時には崩壊し刷新されることを余儀なくされることもある。
それは穢れなのだろうか?
ナナモの迷いを中将は我慢強く待っている。はいとナナモの声ではなく決意を聞きたがっている。
「巻物を届けるように僕に命じたのは中将様ですか?」
ナナモはもしそうであるなら、「はい」と返事をしてこの場から去ろうと思ったが、中将は「そうだ」とは言ってくれない。それどころかタミのための中将ではない、宮中のための中将だ。と、瞳から漏れ出て来る。
「わかりました。でもその前に僕はその文箱で花梨の穢れを祓いたいと思います」
ナナモは悲しかったし、悔しかった。だから、もう一度中将に初めて会った時と同じように叫んでいた。
「文箱を手にした途端貴殿の気が変わるかもしれない」
僕はもうこれ以上穢れたくはないのだと、言いたかったが、文箱を得てもそんなことはしないと、ナナモは大声で叫んでいた。
中将はナナモの瞳をしばらく見つめていた。ナナモはきっと今の中将ならナナモの気持ちを分かってくれると思った。
「賭けなどできないのだ。残念だが貴殿をここにとどめて置く。一生だ」
「そんなことなど出来るわけはない」。
「麻呂は月を自由に操ることはできないが、人なら命すら自由に操ることが出来ると貴殿に言ったはずだ。麻呂はその事でどれだけ穢れようと構わない。麻呂はそれでも前に進む覚悟だけは持っている」
中将はそう言うとナナモの前から消えた。その途端煌煌と輝いていた灯台の火も消えて、急に暗闇に包まれた。
中将を追いかけようともナナモの瞳はしばらく身動きできなかった。
それでもナナモは全く不安にはならなかった。むしろ久しぶりにロンドンの叔父叔母の所に戻ったような心地よさに包まれていた。
暖かいベッドさえあれば一生閉じ込められても構わない。しかし、暗闇に慣れてきたナナモの瞳にはベッドは映らなかった。
ここは天門の館だと中将は言っていた。だからナナモは、まだあるであろう社を探した。そしてこの閉鎖された居間こそにその社があると思った。
ナナモは柏手を四回打つと、元人よ私に力を貸してくださいと、カミではなく元人に向かって告げた。
するとナナモの袖から光が漏れて来る。ナナモは思わず袖に手を入れた。そしてゆっくりと取り出した。手には光り輝く三角縁神獣鏡が居間全体を照らし出す。
やはり神木だ。三角縁神獣鏡の光が反射して余計に四方に張られた板木は真っ白に輝いていた。
社が見える。白光で満たされていないと見逃してしまいそうな小さな小さな、古の年月を感じさせるような色褪せた社だ。ナナモはゆっくりと近づいて行く。そしてカミに向かって、もう一度二礼四拍してから手を合わせた。その瞬間三角縁神獣鏡から放たれ、居間に拡がっていた白光は社へと集約し、いつのまにかナナモは社の中へと誘われていた。
ナナモは屋敷の外に出ていた。また、暗闇の中に戻されたのに不思議と瞳は活発に動き回ることができた。
牛車が待っていた。あれだけ嫌がっていた牛車の牛も前足のひづめで地面の土をほじくりながら、申し訳なさそうに口をもぐもぐさせている。
ナナモは後方から牛車に素早く乗り、御簾を下げようと思った。その途端今まで暗闇だった周囲にほんのりと光が拡がってきた。ナナモの手には三角縁神獣鏡はない。袂も光っていない。しかし、その光は徐々に大きく強くなっていく。
ナナモは空を見上げた。鋭利な刃物のような月が膨らんでいく。そうか月食なのだ。今まで陽と月は重なっていたのだ。
僕は月の君だ。これから両者は別れて行く。いや別れなければならないのかもしれない。
ナナモは御簾を下ろし中将から取り返した巻物を牛車の中で拡げた。満月で輝く光が御簾を通して入って来る。
ナナモが書いた文字は消えてはいなかったが、やはり読めなかった。しかし、ナナモはそれまでの全ての物語を覚えている。きっと、同じことが書かれているに違いない。そして、最後の文章を読もうとした。確か、カミヨ文字だったのに、ミミズ文字、いや、カナ文字に代わっていた。
ナナモはその言葉をもう一度思い出す。そして、物語の最初から声に出して読み始めていた。
「清き心を持つ君こそが我が創りし格子の迷宮の中で文箱を見つけることが出来る」
ナナモは最後まで読み終えるとまるで恋人との会話を楽しんだあとのような気分でそっとその最後の文章を指先でなぞった。その瞬間イナズマが身体中を走った。しかし、ナナモはびっくりしない。それどころかもぞもぞとした気持ちに苛まれた。ナナモは恥ずかしさが急に募り、思わず袂の奥に手を突っ込むと、もう一度、もう一度最後の文章を心に刻むように口ずさんだ。




