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ジェームズ・ナナモと格子の迷宮  作者: まれ みまれ
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(3)消えた苗字

 ナナモは、元気に家を飛び出し、合格通知を届けてくれたアヤベに連れられて、異世界に通じる非現実な世界をしばらく歩いていたが、吐き気がしてきて急に立ち止まった。アヤベはまだ慣れていないんですねと、異世界の通路から現実の世界へ飛び出して、少し休みましょうとナナモをねぎらってくれた。

 ここはどこだろうと思う間もなく、吐き気とともに頭痛も伴ってきて、ナナモはしばらく身動きできなかった。

「何か?」

 アヤベはナナモの心を読める。だから、あんなに意気揚々としていたナナモが急に消沈した理由を何とか探しだそうとしてくれる。

 ナナモはこれからカタスクニに行く。王家の継承者になるための機関へ行く。それもアヤベに初めて会ってから二年以上の月日が経っている。それなのに、急にナナモに何かがのしかかってきた。足元を引っ張ろうとしてくる。もしかして、オンリョウ?いや、違う。

「アヤベさん、僕はカタスクニに行く前にどうしてもやらなければならないことがあるんです。だから時間を下さいませんか?」

吐き気と頭痛は消えたが、なぜかふつふつと憂いが沸き起こって来る。

「やらなければならないこと…、ですか?」

 ナナモは、アヤベはもはや知っているだろうと思っていたので、「とぼけないでください」と、躊躇なく声にしていた。アヤベはすこし驚いたのか、一瞬表情を強張らせたが、すぐにいつもの冷静さを取り戻した。

「何度も言いますが、私はカミの託宣を伝えるだけなのです。だから、たとえカミがすべてを知っていても託宣されなければわからないこともあるのです」

 ナナモはそれでもアヤベがいつもどこかでナナモを見守ってくれていることを知っている。

「ごめんなさい」

 ナナモは素直に謝った。そして、ナナモが気にしていることを話し始めた。

「実は、大学から取り寄せた入学募集要項に、現在大学に在籍している者が受験する場合は、大学から在学生受験許可書をもらって提出すること、と書いてあったんです。だから、僕はその許可書をもらいに行こうって思って、学生課に行ったんですけど、丁度忙しい時期で、相手にされなかったんです」

「相手にされなかったとしても、必要だったのでしょう」

 アヤベはナナモに言った。

 ナナモは頷いた。でも、あの時は医学部に本当に合格するとは思わなかったし、そんなに厳格なことだと深く考えなかった。その上、あいにくナオミにあったのでうやむやになってしまったのだ。でもナナモは、本当は、わずらわしさから逃げただけだったのかもしれないし、大学側に責任転換したかったのかもしれない。

「それで許可書を同封しないで受験したのですか?」

「はい。でも、あとで知ったんですが、関東西部大学の学生課では、再受験を希望する学生に対しては、一応軽く事情は聴くそうなんですが、おそらく切羽詰まったから来るのだろうからと、学生の希望や未来を出来るだけ妨がないように、ほぼ、許可書を発行してくれていたらしいんです」

「その事をいつ知ったのですか?」

「合格通知を受け取った数日前です」

 ナナモは、ナオミから偶然そのことを聞き、イチロウに確かめてもらったのだ。イチロウはそんな紙切れ、俺が作ってやったのにと、自慢げに話していた。いや、それ犯罪だからと、ナナモが言ってもお構いなしだった。イチロウはなぜか自分のことに対しては慎重すぎるほど慎重なのに、ナナモのことに対しては箍がすぐにはずれてしまう。ナナモはそういうイチロウのことがわからなくなることがある。

「だから、僕は書類不備で落とされるんだろうなあって思っていたんです。それが…」

「合格した」

 アヤベが言ったあと、ナナモが黙って頷き、しばらくアヤベの顔を見ていたので、アヤベは珍しく声のトーンを上げて、「合格したのはナナモさんの実力ですよ」と、入試に全く関与していないことを強調していた。

 本当にそうだろうかと首をひねらざるを得ない思いがないわけではなかったが、それなら共通テストでもっと良い点を取れただろうし、そもそも、電子工学部を受験していなかったかもしれない。ましてや、受験許可書を学生課はすんなり発行してくれたはずだ。

 ナナモの行く手にはすんなりといかない壁が必ず立ちふさがる。中学の時にいじめられていた時の壁がマックスだと思ってはいるが、どうやらこれからも無くなりはしないらしい。

「黙っているということは出来ないのですか?」

 カミに仕えるアヤベが意外なことを言った。

「できないことはないと思います。けれど、僕が関東西部大学の工学部に在籍していたことは事実だし、仮に隠そうとしても、僕は、結局電子工学の講義がまったく理解は出来なかったけどほぼ休まずに講義を受けていたから、誰かは僕の事を記憶しているはずだと思います」

 ナナモはそう答えてから、まさか、電子工学部でのナナモの記憶も周囲の人達から消えて行ってしまうのだろうかと思った。もしそうなら、ナナモはこれからこの世に存在しないことになる。いじめではないが、何かいじめと同じような悲しみがこみあげて来た。

ナナモは黙ってアヤベを見た。しかし、アヤベは何も言ってくれなかった。

「もしそのことで、医学部への合格が無効になったらどうされるのですか?」

 アヤベはナナモの思いを無視するように尋ねた。

「しかたがないですよね。僕が悪いんだから。電子工学部の学生を続けることになるとおもいます。まだ、マギーには医学部を合格したことは話していないし、大学にも退学届を提出していないんだから」

「あなたの決心はその程度だったのですか?」

 アヤベは珍しく口調を強めてナナモに言った。

「そんなことはないですよ! 僕がこの一年どんな思いで暮らしてきたのかアヤベさんにはわからないでしょう!」

 ナナモは思わず大声で叫んでしまった。しかし、アヤベは黙ってナナモの言葉を包んでくれる。

「ごめんなさい」

 ナナモはまたすぐに謝った。そして、熱くなった息を大きく吐きだしてから話を続けた。

「やっとアヤベさんが僕の前に現れてくれて、王家の継承者である道に導こうとしてくれた時には本当に夢見心地だったんです。でも、それは異世界の事であって、現実の僕は医学部に入学して、これから医学の勉強をしていかないといけない。電子工学と違って医学は僕が強く望んでいたことだけど、本当に医学の勉強をやり通すことが出来るのか、その不安も正直あったんです。でも、アヤベさんはもうやり直しませんねと、念を押された。僕も今度こそ医学部で勉強をするんだと、憂いを払拭して、その決意を高めようとしたんです。そんな時、でも、在学証明書を出さなかった僕の入試手続きが不正だったと指摘されたらと思ったんです。僕は学力では一切不正はしていません。その事ははっきりと言えます。でも、もし、入学手続きも含めて入学試験だと言われたら、僕自身は、不正ではないけれども不備のまま入学試験を受けたことになる」

「不正と不備は大きな差があるように思うのですが…」

 アヤベは珍しく口をはさんだ。

「そうかもしれません。でも、僕と同じような立場の受験生が居て、同じように在学証明書をもらいに行って、もらえなかったからといってあきらめざるを得なかった受験生がいたとしたら、僕の不備はやはり不正になるのではないかって思ったんです。それに、そんな僕が、もし、医者になっても、堂々と人を助けられないんじゃないかって…」

 ナナモはそれ以上の言葉が続けられなくなって、思わず天を仰いだ。もし続けていたら、大粒の涙がとめどなく落ちて行ってしまうような気がしたからだ。

 東京からもはや遠くに離れてしまっているのか、夜空には満天の星が輝いていた。しかし、ナナモにはその全てに紗がかかっている。自然までもナナモの記憶から遠ざかろうとしているのかと思うと、余計に辛くなって、なかなか視線を元に戻せなかった。

「僕はもし医学部に行けなくて、電子工学部に残っていても、カタスクニには行けるのですよね。王家の継承者としての資格は無くならないのですよね?」

 二人の間にはしばらく沈黙の時間が流れたが、ナナモは意を決するような口調で尋ねた。

「ハイ。ナナモさんがそれでよいのなら」

 アヤベの表情は変わらなかったが、悲し気な思いがナナモに伝わって来た。

いつもならアヤベがナナモの心を読むのに、今はアヤベの心がナナモに伝わってくる。

(ナナモさん、あなたは、電子工学部に戻っても、きっともう一度、医学部受験に挑戦する。たとえ、二度と私に会えなくなっても)

(そうかもしれない。そうでないかもしれない。王家の継承者であったとしてもそうでなくなったとしても僕は僕だ)

 ナナモはそれでもあえてそれ以上のことを考えなかった。未来のことはわからない。だからつい悩んでしまう。でも、精一杯生きているだけで、いや、今を生きられるだけで、幸せなんだと、いじめを経験して大人になったナナモは思えたからだ。

「それではナナモさんは今から杵築医科大学に行かれるということですか?」

アヤベは自分がコトシロだとすっかり忘れている。

「はい」

「では、今からカタスクニには行かないというのですか?」

「はい。いや、まだ、行けません」

 アヤベは何かを口にしそうになったが、静かに目を閉じてしばらく黙っていた。

 ナナモは、今、アヤベはコトシロとしての役割をどう果たそうとするのか思案しているように思えた。しかし、コトシロはカミからの託宣を伝えるだけだ。コトシロの意志はない。それでもアヤベがクールな表情から眉間に皺を寄せ始めているのをみると、アヤベは何かと格闘してくれているようにナナモには思えて仕方がなかった。

 アヤベは突然大きく瞳を見開いた。今まで一度も見たことのないような炎がぎらぎらと滾っている。もしかしたら、アヤベはコトシロから決別したのか?そんな覇気がナナモにぶつかって来た。

 ナナモは後ずさりしそうになったが、その感触は一瞬の事で、すぐに今までのアヤベに戻っていた。

「しばしのお別れですね」

 アヤベは落ち着いた静かな声ではっきりとナナモに言った。

「ハイ」

 ナナモはそんなアヤベの声を聞くと、胸が詰まってそれ以上言葉を続けられなかった。

「一緒に行きましょうか?」

 アヤベはいつになく親切だ。ナナモはその言葉に思わず甘えたくなる。しかし、これからは成人として一人で出来ることは一人でやって行かなければならない。ナナモは腹に力を入れた。

「ありがとうございます。でもこれは異世界ではなく、現実の僕の問題ですから」 

ナナモは多少顔をひきつらせながらも、精一杯の作り笑いを添えて言った。

アヤベは軽く頷いた。

「でも、アヤベさん、ここがどこか僕にはわかりません。それに、今何時なんですか?もう学校は始まっているのですか?一人で行こうと大見得を張った気分で言ったのですが、恥ずかしながら、何もわからない僕はどうしようもありません。だから、よろしければ、学生課の前まで僕を導いてくれませんか?」

 ナナモは困って思わず頭の毛を軽くかくように触っていた。アヤベはその仕草に少しだけ笑いを添えてくれた。

「わかりました」

 アヤベがそう言うと、イナズマの様な光がまばゆくナナモに降り注いできた。ナナモはまた異世界に引きずり込まれたのかもしれなかったが、背中を押されたような違和感とともに、学生課と表札のかかっている扉の前に立っていた。

 ナナモは人工的ではない陽の光の中にいる。現実の自然がもたらす心地よさがナナモに勇気を与えてくれる。

 ナナモは軽く扉を叩き、失礼しますと言った。軽く叩いたことと小さい声だったこともあったのか、何度か試みたが、反応はなかった。

 ナナモはだから扉のノブを回してみた。心のどこかで閉まっていてくれたらと思ったが、案外すんなりと回った。

 失礼しますと、ナナモは、今度は声の張りを持たせてから中に入って行った。

 誰もいないと思っていたが、カウンター越しに数名が事務机の前で何やら忙しそうにしていた。

デジャブじゃないよな。ナナモは一瞬、アヤベの機転で関東西部大学の学生課に導いてくれたのかなと思った。もしそうであるなら、ナナモの杞憂は全て無くなる。つまり、きちんと在学証明書を提出して入学試験に臨めたはずだ。そして、合格通知を受けとったナナモは何一つ気に掛けることもなくいまごろカタスクニに居る。

 でも、本当にそうなったのだろうか?

 在学証明書を出したナナモは気を抜いて勉強がおろそかになっていたかもしれないし、あのコンピューターウイルスに対してイチロウの役には立たなかったかもしれない。

現在は過去から成り立っている。しかし、未来は現在から成り立っているとは言えない。

ナナモはそう思った。

「何か御用ですか?」

 ナナモはまだ学生課に入ってきてから誰かに声をかけたわけではなかったが、唐突に話しかけられた。

「あの、ここは杵築医科大学の学生課ですよね?」

 ナナモはやや緊張気味に尋ねた。

 角ばった銀縁眼鏡を掛けた背広姿の男性が、奥からナナモをしばらくじっと見ていたが、当然のように、そうですよと、優しさよりも気遣いがふくまれた物言いで答えると、ナナモの方に近寄ってきてくれた。

 ナナモはやはりデジャブではなかったんだと、現実の世界に居ることにほっとしながらも、それならそれでこれからどうなるのだろうと、不安で胸が締め付けられるようだった。

「実はご相談したいことがあるのですが?」

 ナナモは思い切ってその男性に尋ねた。まじかで見ると、少し枯れたような肌質で、きちんと整えられていると思った髪の毛も少し白髪が混じっていて端っこが微妙に跳ねていた。しかし、ナナモの高揚とは裏腹にその男性は優しい目をしていた

「急用ですか?」

 その男性の声を聞いて、ナナモは疲れているのだと思った。無理もない。今は学年末だ。学生課にとって一番忙しい時期に違いない。それにあのような事件があった受験のあとの新入生の準備もある。忙しいに決まっている。今日はやめておいた方がいいのかもしれない。

ナナモはその男性を間近にして、また、悪い癖が出そうだった。けれど、今度は引き下がれない。いや、引き下がってはいけないのだ。

「はい」

 ナナモは、思い切ってそう返事を返した。そして、多少の遠慮がないわけではなかったが、その職員はどう対処してくるのだろうかと、しばし見つめた。

 そういえば、二次試験が終わった受験会場で学生課の職員に、ロボットの様な態度で接しられたことを思い出す。それでも、あの時の職員はそうせざるを得なかったかもしれないし、結果としてそうされたことで、ナナモはオオヤシロの駅にたどり着けたのだ。

「何か?」

 ナナモはその職員の問いかけを無視し、知らない間にオオヤシロ駅での出来事を思い出して、ひとり笑いをしていたのかもしれない。だから、ナナモは少しうろたえてしまった

「いえ、何も…、えっと、…」

「奥に相談室というのがありますから」と、その男性はナナモの動揺を見て、ただならぬものを感じたのかもしれない。ナナモにその方向を指し示すと、「今やりかけている仕事を片付けますので、少しそこでお待ちくださいませんか」と、また丁寧な優し気な口調で告げると自分の机に戻って行った。

 ナナモは言われる通りに相談室の扉を開けた。

まるで刑事ドラマの取調室の様な小部屋だが、それでも、対面の小さな机ではなく、ソファーこそなかったが、大人が優に四人は座れる机が置かれていた。

 ナナモはどの席に座ろうかと思ったが、ナナモが犯人なら奥の席に座らされるだろう。でも、そうではないと信じたい。だから、扉近くの席にナナモは座って待った。

 先ほどの男性が十分ほどしてやって来た。きっと、その男性にとっては数分ほどの感覚だっただろうが、ナナモにとっては数十分の感覚だった。それでも無視されなかったということがナナモにとっては何よりもうれしかった。

 男性は躊躇なくナナモの前の席に座った。ナナモは、しばし、あっけにとられて身動きできなかったが、はたと気付いて立ち上がると、深々と頭を下げた。

「そう、緊張されなくてもいいですよ。どうか座ってください」

 その男性は学生課の主任で田中だと自ら名乗った。

「ところでどのようなご相談ですか?」

 田中が尋ねた。

「あの…、在学生受験許可書のことで…」

 ナナモは急に声が小さくなった。

「許可書? もしかして、提出されなかったのですか? 他に、何か悩みでもあったのですか?」

 どうして田中は知っているのだろうとナナモは思った。もはやばれている。そんな緊張感がナナモの背中に一粒の汗となって流れていく。

「ご存知だったのですか?」

 ナナモは、今度ははっきりとした声で言った。

 田中はナナモの顔をしばらく見ていたが、「私が知っていた?何をですか?」

と、尋ねて来た。

「だから黙って再受験したことをです」

 ナナモは少し語気を荒げていた。

「よくわかりませんね。在学生受験許可書は大学を再受験するときに必要だということはもちろん知っていますが、提出されなかったということは再受験されなかったんでしょう。違うのですか?」

「再受験したんです。でも、在学生受験許可書を出さなかったんです」

 田中はまだ何か引っかかるようだったが、それで、合格されたのですか?と尋ねて来た。

 ナナモはハイと答えた。

「では、その、再受験されて合格された大学から在学生受験許可書のことで何か言われたのですか?」

 ナナモはしばらく呼吸が止まった。ただ、時間が止まった様な二人の間に漂う静寂の中、心臓の鼓動だけは余計はっきりと聞こえてきた。

「失礼ですが?御名前をまだお聞きしていませんでしたね」

田中は静寂がいたたまれなくなったのか、ナナモに尋ねた。

「すいません」

 ナナモはもう一度立ち上がると、きちんとした姿勢で頭を下げ、名前を言った。

「クニツ…さん。そうかしこまって謝らなくてもいいですよ。座ってください」

 ナナモはその言葉に従った。

「あの…、もしかしてですが、クニツさんが再受験された大学というのは、本学の事ですか?」

 田中は腹からゆっくりと息を吐きだすような口調だった。その事でナナモも始めて独りよがりで突っ走っているのではないかと、その錯覚に気が付いた。だから、田中から、もしかしたら、今年の入学予定者ですか?と、より優しく尋ねられた時に、素直にハイということが出来た。

 田中は、一呼吸置くと、改めて、「クニツさんが、在学生受験許可書を提出せずに本学を再受験したことは知りませんでしたよ」と、言った。

 ナナモはその言葉を聞いて少し安堵したが、もはやそのことを自ら打ち明けてしまったので、田中からどう接しられるのか心配だった。

 しかし、田中はなぜか少し安心したように緊張がほぐれたような表情をしただけで、ナナモの本題にはすぐに切り込んでこなかった。

「この時期になると、本学、つまり医学部を辞めようって思っているヒトが来るんですよ。中には切羽詰まっている人もおられますから」

 ナナモは田中がなぜそのようなことを言ってきたのかわからなかったが、田中はそれ以上具体的なことは話してくれなかった。

「ところでクニツさんの事ですね」

 田中は急にきりっとした口調になった。そして、ちょっと待ってくださいと、また相談室から出て行った。

 今度はナナモの緊張が高まりこの場から逃げ出したい気持ちになっていたので、ゆっくりと時間が推移してくれたらと願ったが、田中は意外にもすぐに戻ってきて、資料を確認しますと言った。

「クニツさん?」

「そうです。今年合格したクニツです」

 田中はタブレットを持ってきた。そして、人差し指を盛んに動かしていた。

「クニツ…さんですよね。あれ、見当たりませんね?」

 ナナモは驚いた。だったらナナモは本当は合格していないことになる。そう言えば、アヤベが持ってきたものだ。もしかしたらつい先ほど受け取った合格電報は異世界の事だったのだろうか?でももし合格していないのなら、アヤベは何をしに来たのだろう。それにどうしてそんな嘘をついたのだろう。もしかしたら、このまま電子工学部にいたら大学を辞めてしまう。そうなればカタスクニに行けなくなり、ナナモは王家の継承者になれない。継承者の候補生は不足している。だから、ナナモをイチロウの様なVRの世界で医学部に居るようにして、カタスクニに何が何でも連れて行こうとしているのだろうか?

 ナナモの負の妄想は膨らんでいくばかりだった。ただ、はじめは怒りで思いっきり叫びたい気持ちだったが、そのうち悲しみの方が強くなってきた。アヤベはカミの託宣を伝えるコトシロだ。それなのにどうして?ナナモの身体から血の気が引いていった。

「あの…」

 田中が何度もナナモを揺り起す。決してどなっているわけではないのだが、確かな声だ。ナナモはその声がアヤベの声に聞こえて、ハッとした。そして、田中の方を見た。

「あの、クニツさんの下の名前は何とおっしゃられるのですか?」 

「ナナモです。ジェームズ・ナナモです」

 ナナモはその事に何の意味があるのだと思いながらも懸命な声で答えた。

「ジェームズさん?それともナナモさん?いや待ってください」

 田中は慌ただしく指先を動かしていた。

「失礼ですが、ナナモさんのご両親は?」

 ナナモは、いませんと言おうとしたが、とっさにハーフかどうかを聞いているのだと思い、「父は日本人ですが母はイギリス人です。だから、僕の名前は、ジェームズ・ナナモと、二つあるんです」と、答えた。

 田中はなぜか先ほどの困惑した顔から力が抜けていた。そして、別の困惑さが眉間の皺となって現れた。

「こちらの記録では、クニツという苗字ではなく。ナナモという苗字で登録されています。つまり、ナナモが苗字でジェームズが名前です」

「クニツという苗字ではなかったってことですか?」

 ナナモは力が抜けたように尋ねた。

「でも万が一ってことがありますが、そう言う名前の方が、受験されて合格されていたということはありませんか?」

 ナナモは苗字が登録されていないはずなどないと、自分で確かに受験願書を書いたはずだと、かすかな記憶をたどった。しかし、色々あったとしても、自分の名前を書き損じることなどないはずだと、田中の答えを聞く前にもまた妄想の風船が膨らみ始めていた。

「いいえ、ナナモ・ジェームスさんはあなたです。ほら、ここに写真がありますから」

田中はタブレットをナナモに見せた。ハーフだから、間違うはずはありませんと、言葉にしなかったが、ナナモは田中からそう聞こえてくるようだった。

「ちなみにご住所とお電話番号を教えて下さいませんか」

 ナナモは住所と電話番号を言った。

「合っていますね。でも、どうしてそんなことが起こったんでしょうかね?」

 田中はナナモを無視しているかのようにたまに人差し指を動かしながらタブレットにブツブツと小言を投げかけていた。

「あの?失礼ですが、どのようにして合格されたことを知られたのですか?」

 田中はナナモに聞いた。

「電報です。電報が届きました」

「あっ、そうでしたね。今年は色々ありましたから、電報にしたのでした」

 田中は自分たちが中心になって行ったのにもはや忘れてしまっている。

「電報は確かにナナモ、いや、クニツ、いや、ナナモ…さんの所に届いたのですか?」

 田中は苗字の事で混乱している。

「ハイ。ちゃんと届きました」

「電報には名前はどう書かれていましたか?」

「覚えていません」

 田中はそうだろうなと言う顔をした。ナナモは自分で言いながら、なぜか、そう言えば変な呼ばれ方をしたような気がして、妙な違和感がぬぐえなかった。

「わかりました。大変申し訳ありません。今年はあのようなことがありましたから、もう一度調べ直します」

 田中はナナモにそう言うと立ち上がり、深々と頭を下げた。

ナナモも慌てて立ち上がると、よろしくお願いしますと頭を下げていた。

 お互いが下げた頭を持ち上げ視線を合わせた時に、田中がもし優しく微笑み返してくれていたらナナモはそのまま黙って帰って行っただろう。しかし、田中は何か腑に落ちない表情をした。

「いや…、待ってください。あの…、僕がここに来たのは、消えた苗字の事ではないんですよ」

 ナナモは、渡された錠剤を飲み込もうとして、いや、ダメだ、吐き出せと田中から言われたかのように、慌てて言葉を発していた。

 田中も何かに気が付いたようだ。

「そうでした。在学生受験許可書の事でしたね」

 田中はそう言ってから、また、どうぞとナナモに椅子に座るように促すと自分も座った。

「在学生受験許可書を提出せずに受験したことがわかると僕の入学は取り消されるのでしょうか?」

 ナナモは改まった気持ちで正直に田中にそのことを伝えた。しかし、田中はすぐには答えてくれず、反対にどうして提出されなかったのかを聞いてきた。

 ナナモは出来るだけ正確に当時の状況を、心情を交えて伝えた。

「どうにかなると思われたのですね?」

「はい。それに、正直合格するとは思いませんでしたし、何とかなるだろうと思っていました」

「でも実際合格した。それでそのことがひっかかって途中で指摘されて退学処分を受けたら怖いと思って、入学する前にやって来たわけですね」

「はい」

 ナナモは全くその通りだと思った。

「ナナモさんは、受験前は在学生受験許可書を提出しなくてもなんとかなると思っておられたし、合格後は在学生受験許可書を提出しなかったら何とかならならなくなってしまうかもしれないと思われたのですね」

 ナナモはもう一度大きく頷いた。

「嫌なことを言うようですけれど、ナナモさんは、試験は自分の学力で合格したのだから、在学生受験許可書を提出しなくても合格は取り消されないと思って、その事を確かめるために来られたのではありませんか?」

 ナナモは、そうじゃない、と叫びたかったが、田中の言うように、ナナモ自身に甘えがあったのかもしれないと思って、ぐっと、言葉を飲み込んだ。

「何か言いたいことがあれば正直におっしゃって下さい」

 田中はナナモの気持ちを察したのかもしれない。それにどのような結果になろうとも言わずに何かを決められるのは後悔すると思って、ナナモにしては珍しく勇気を絞った。

「僕は、在学生受験許可書の事で合格が取り消されたら、それは仕方がないことだと思っています。自分なりに勉強を頑張ってやっと入学できるようになったのですが、不正があったと思われながら、医学の勉強を続けるのは、なんか後ろめたい思いがしますし、もし、入学する前だったら、それならそれで、また、未来を考え直すこともできると思ってきたのです」

 ナナモにしては精一杯の表現だった。

「ナナモさんはどちらの仮面浪人だったのですか?」

 田中にはナナモの気持ちは伝わらなかった。ただし、もう少しナナモの事情を知る必要があると思ったのでかもしれない。

「どちら…の仮面浪人?」

 感傷的になったナナモは意外な言葉に引き戻されたが、田中の言っている意味が分からなかった。

「大学に保険として籍を置くだけで講義には一切出席せずに再受験の勉強をしている学生だったのか、あくまで大学には通い講義も試験も受けながらさらに受験勉強も継続していた学生さんだったのかということです」

「十分だったかどうかはわかりませんが、ほぼ大学には通い講義も試験も受けました」

ナナモはさらっといい切った。

「何学部におられたのですか?」

「工学部です。電子工学を専攻していました」

「電子工学は面白くなかったのですか?」

 田中はナナモに尋ねた。

「面白くなかった?さあどうだったんでしょう」

 ナナモは、改めて聞かれてつい考えてしまった。なぜなら、面白いも面白くないもナナモはまだなにもわかっていなかったからだ。それは、基礎理論だけしかまだ講義を受けていなかったからかもしれないし、イチロウに出会ったこともあって、なぜかパソコンを余計遠ざけていた節があったからかもしれない。

「では、もし、本学、つまり医学部の合格が取り消されたら、また、今在学している大学で電子工学を続けられますか?」

 田中はナナモが聞かれたくない部分についに切り込んできた。

「合格もしていなくて、退学もしていないのなら、電子工学部に居続けることになると思います」

「でも、また、再受験の勉強は再開していたと思います」

 ナナモは、それでも正直に答えたが、慌てて言葉を足した。

「医学部に合格するまでですか?」

「はい・・・、いや、どこかであきらめるかもしれません。でも、だからと言って電子工学部を卒業するとは思えません」

「なぜですか?」

「なぜなら、電子工学基礎理論という講義あって、電子工学の基礎中の基礎なのですが、僕は恐らくその単位は取れないような気がするからです。恥ずかしいことですが、僕は電子工学基礎理論だけが全く理解できなかったんです」

 ナナモはつらい一年の事を思い出した。

「では電子工学には未練はないと・・・」

 田中は優し気に尋ねて来た。

「はい。それに、僕には友達がいて、僕より優秀で、コンピューターにものすごく精通している友達がいて、彼が僕の分もその分野できっと活躍してくれるんじゃないかって思っているんです」

 ナナモは田中に言っても仕方がないとは思いながらも、イチロウのことを思い浮かべて話さざるを得なかった。

「わかりました」と、田中は答えた。しかし、それは肯定ではなく、可能な限りの範囲でナナモの心情を聞く事ができたという満足感からだ。

 ナナモはまるで刑事の取り調べが一区切りついたかのようにほっとしたが、田中がまだ気を緩めていなかったので、すぐに身構えた。

「合格電報を受け取っただけで、大学からの正式な合格通知書と入学手続きの書類はまだ手にしていませんね」

田中はナナモに尋ねた。

「はい」

 返事はしたが、ナナモは田中がなぜそのようなことを聞いてきたのかわからなかった。

「入学手続きの書類にはナナモさんのこれまでの履歴を書いていただかなければなりません。もちろん、高校を卒業してからの履歴です」

「僕はロンドンの高校を卒業して、大学入学資格検定に合格しました」

「では資格検定の合格書も必要です。それに、工学部に入学してから退学するまでの記載も必要です。そして、その書類とともに入学金と学費を払っていただきます」

 田中は淡々と説明した。

「退学?」

「そうです。退学しないと入学出来ません」

 田中は当然だという顔で言った。

「在学生受験許可書については…」

 ナナモはふりだしに戻った様で気がかりだった。

「まことに申し訳ありませんし、折角正直に話していただいたのですが、お聞きした以上、手続きとは別に審議にかけなければなりません。それに、ナナモさんの言う通り、後でわかるようになれば、お互いが不幸になりますから」

「では、今通っている大学を退学後に、審議で僕の入学が取り消されることになる可能性もあるのですか?」

「はい。その通りです。審議は大学の教授会で決められますが、ナナモさんのためだけに臨時で招集できませんから」

ナナモは、「だったら…」と、言おうとしたが、田中の目は全てをものがたっていて、ナナモはそれ以上の言葉が出なかった。

 ナナモは全てが無くなるかもしれないのだと、半ば放心状態になっていた。 

 正直に話したとしても過去に行ったことが全て許されることはない。それはわかっている。それでもと思ってこの場所にやってきたナナモの思いはナナモの甘えに過ぎなかった。

ナナモには医学の勉強がしたいという希望とは別に、王家の継承者としてのオホナムチになるための使命がある。だから後でわかればお互いが不幸になることは承知で、その不幸を背負ってでも、あくまでも黙ったまま入学し、学生生活を始めた方が良かったのかもしれない。

ナナモは、また壁が…と、心の中でつぶやくしかなかった。

「どのような審議の結果になろうとも入学するための学力試験に不正があったわけではないのですから、ナナモさんが本学を受験し、合格したことは嘘偽りのない事実です。どうか自信をもってください」

 ナナモがよほど憔悴しきったような青白い顔つきだったのか、田中は、ナナモとこれまで話していた中で、一番の優しさで微笑んでくれた。もしかして、その微笑みは最悪の結果になった時にナナモが切羽詰まった状態になるのを阻止するような微笑みなのかもしれない。

(僕はもう死のうと思いませんから)

 ナナモは口には出さなかったが、なぜか心の中で自然と言葉が漏れていた。だから少し顔色に紅がさしたのかもしれない。

「ただし、反対に審議で許されたとしても、ナナモさんは、ある種の罪を背負ったことになるのですから、その事だけは忘れないでください。そして、一生懸命勉強して立派な医師になってください」 

 田中から微笑みは消えていたが、心の奥底からナナモを鼓舞しているのは明らかだった。

「特に今年の入試ではあのようなことがありましたから、慎重にならざるを得なくなります」

 田中は学生課の職員としてナナモを応援したいのはやまやまだが、それとは別に職責を全うしなければならないという狭間で揺れ動いていた。

 もし、許されなかったら、全てを失った中学の時とおなじようにロンドンに戻ってもいいし、今度は浪人生として、大学生になったイチロウと、イチロウの通っている大学で会ってもいい。

 なぜかナナモは晴れ晴れとした気持ちだった。

 でもそう思ったのは一瞬だけで、やはり、そうならないことをナナモはすぐに強く願っていた。

王家の継承者になる。決してあきらめない。使命なのだ。

 だから、僕の場合は、医学部の大学生にならなければならない

 ナナモはきっと、それは救われた命の重みと同じで、両親の願いであるに違いないと思った。

「いつわかるのですか?」

 ナナモは自分の未来を信じるしかなかった。

「4月7日に入学式が行われます。それまでには何らかの結論が出せると思いますが…」

 田中は断定してくれなかった。ナナモは少しそのことが気になった。なぜなら、審議が終わり許され入学が正式に決まるまでカタスクニには行けないからだ。

 アヤベはこれまでの会話をどこかで聞いていたのだろうか?

 ナナモはまるで遊園地で迷子になったかのように思わず周囲をキョロキョロと見渡した。しかし、当然、アヤベが居るわけはなかった。

 もしやと、だから、ナナモは田中をじっと見つめた。田中の身を借りていたアヤベが我慢できなくなって姿を変えて現れるのではないかと期待した。

 しかし、やはり、ここは異世界ではなかった。

 ナナモは二次試験が終わり、コンピューターウイルスに共通テストが感染したことを聞いた時と同じように、折角掴みかけた未来が、過去になってしまうのではないかという失意の中ひとりで学生課を後にした。

 ふらふらとあてもなく歩いていると、大学の正門に着いた。きっと、オオヤシロノエキには誘われない。これから僕はどこに行けばいいんだろうと、考えながら、まさに正門を通り抜けた瞬間にナナモは急に体が軽くなった。まるで遊覧している様な気分だ。また、吐き気と頭痛がする。

 アヤベさん、と、暗闇の中、ナナモが辛うじて声を漏らしたその時に、ぱっと視界が拡がった。

 ナナモは東京の家に戻っていた。つい先ほどアヤベと話していた食卓でナナモは一人座っていた。陽が燦燦と室内に入り込んで、部屋の隅々まで清めていた。あれからどれくらいの日時が経っていたのかわからない。もしかして、数秒の出来事だったのかもしれないが、もはやナナモが知る由もなかった。

 ナナモは思わず出そうになった溜息をぐっと飲みこむと、視線を食卓の上に向けた。視線の先には合格電報ではなく分厚い封筒が置かれていた。ナナモはすぐにこれが大学入学に必要な書類だということが分かった。ナナモは慌てて封筒を手に取ると、不思議なことに開封されていたのですぐに中身を確認した。田中の言った通り履歴書が入っていた。

 すべてを失ってしまうかもしれない。それは、自分自信のことだけではない。両親への想いも絶たれることになるのだ。

 ナナモはすでに結論を出したはずなのに、まるでその用紙に呪文が掛けられているか、虜になったようで見つめたまましばらく手から離せずにいた。

 もともとあの時すべてを失ったのだ。

 ナナモにどこからか声が聞こえて来た。きっとカミからの託宣ではなく。ナナモからの託宣だ。そうナナモは信じようとした。

ナナモはついに立ちあがった。目の前には希望の光が…、いや、うん?

「マギー?」

 ナナモは漏れ出たつぶやき声を確かめることなく、何度も目をこすっていた。

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