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ジェームズ・ナナモと格子の迷宮  作者: まれ みまれ
29/33

(29)格子の迷宮と東南の光(二)

 桜吹雪がうららかなあけぼの道で舞っていた。

 ナナモは御簾越しに都大路を眺めながら季節の移り変わりを感じた。だからか少々肌寒いと感じたのも束の間で狩衣をいつしか重ねていても不思議だとは思わなかった。それどころかこの牛車はゆっくりと東風に委ねながら中将の屋敷へ必ず向かうはずだと相変わらず乗り心地は悪かったがナナモの決意は全く揺るがなかった。

 ナナモは懐の巻物を押さえながら、あの浮き出た文字を見たら中将はどう思うだろうと妙にワクワクする反面、本当に見せてよいのだろうかとドキドキしていた。それに、きっとそこには花梨の姫も朝顔の姫も居る。まるでニュ―トンのゆりかごのようだと、強い思いとは裏腹にかすかな身震いが止まらなかった。

 牛車はいつものように鳴き声ひとつ立てないで止まった。ナナモは御簾を上げる。先ほど見た桜吹雪で歓迎されるのかと思ったが、これまで訪れたどの屋敷よりも高い塀は春一番をも跳ね返す強固さを持っていた。

 ナナモは牛のいない牛車の前方から降りていく。その途端、扉が開かれ、華やかな女房たちが来訪をすでに知っていたかのように歓迎してくれるとナナモは思っていたが、より分厚く、より重く、それでいて、誰もが感嘆するであろう、今まで見た事のない豪勢な装飾の屋敷門は何時まで経っても硬く閉ざされたままだった。

 きっとここは中将の屋敷に違いない。しかし、ナナモがいくらそう思っても中に入らなければ分からない。いや本当は中に入ってもナナモは中将を知らないのだ。ただ唯一の手掛かりはコンタクトレンズを付けているナナモの顔が中将と似ているということだ。だからもしこの屋敷が中将の屋敷ならナナモの顔を見て何らかの反応をしてくれるはずだ。花梨の姫か朝顔の姫が屋敷から出てきてくれたらよいのだがと、いくらナナモが願っても、奇跡は起きなかった。だから、押しても引いても叩いても摩ってもびくともしないような壮大な門の前でナナモはしばし立っていた。

 大きな壁が立ちはだかる時にはと、ナナモはすでに三筋の滝で清められた後だったので、二礼、二拍し、オホナモ・ジェームズ・ナナモだと、名乗ろうとした。その瞬間、扉がギ―と、開いた。

 やはりナナモは何か目に見えないものに導かれている。

「貴様は何者だ!」

 女房達の愛くるしい出迎えを想像していたのに、出て来たのは朝臣と同じような武具をまとった武官だった。

「中将様のお屋敷ですか?」

 ナナモは微塵も動かなかった。しかし、特別すごんだわけではない。それどころか、弱弱しく声をかけたはずだ。しかし、門の奥からぞろぞろと武官が出てきてナナモは囲まれた。

 ナナモは囲まれたことを却って好都合だと思った。きっとそのうちナナモの顔に気付いてくれると思ったのだ。もし気付けばその瞬間武官たちは戸惑い、もしかしたら後悔の念を抱きながらナナモを丁寧に遇してくれるはずだ。だから、余計にかしこまるわけでもなく堂々としていた。

 曲者!と誰かの叫び声が聞こえたかと思うと、ナナモは数人の武官に前のめりで倒されて、身体を押さえつけられた。もしかしたら、中将の屋敷ではなかったのかと、一瞬脳裏を横切ったが、そんなことはないはずだと、なぜか自信だけは揺るがなかった。だとしたら、中将とは異なる顔になってしまったのだろうか?ナナモは三角縁神獣鏡を取り出したかったが、手どころか足さえも動かせなかった。

 ナナモは押さえつけられたままでどこかに連れて行かれることはなかった。しかし、辛うじて顔だけを半分だけ横にして見上げることが出来たものの、痛みでそれ以上のことは出来なかった。それでも何とかしなければならないと、ナナモは声を出そうと歯を食いしばってお腹に力を入れようとしたが、地面が少し揺れているし、不規則なゴロゴロというガ音が次第に大きくなってきたのでとどまった。

 牛車の音だ。それも一輌ではない。数輌に違いない。それに車輪の音に混ざってササッという摩擦音が加わって来る。きっと大勢の従者だ。ナナモはもしかして中将が出かけていくのではないかと思って、何とかこの状況から脱しなければともがいたが、ナナモの力では何も変わらないどころか、桜色ではなく薄茶色の粉じんが、地を這いながら次第に大きな波となってナナモにさらに覆いかぶさって来た。

 ナナモは目も口も開けられずに、一行がナナモの脇を通り過ぎるまで、結局何も出来なかった。

 折角ここまで来たのに、中将とは会えなかったのだ。ナナモは先ほどまで身体の奥からなんとか絞り出そうとしていた力が急に萎えてしまった。だからか、ナナモは眼も口も開けずに横に向けていた顔をまた地面に戻していた。

 もしかしたら、このままどこかに連れて行かれるかもしれない。急にどこからか声がする。

 無理もない。今までナナモは中将と間違えられて貴族の屋敷に難なく迎え入れられたが、本来なら、貴族でも何でもないナナモが急に見知らぬ大豪邸に誰の紹介もなく迎え入れられるわけはない。もし、中将が首相クラスの地位であったならば、顔形が似ているからと言って、容易に中将に近寄ることなど、そもそも不可能なことなのだ。

 巻物を届けに行けと言われただけだ。ナナモはまた深入りしてしまったことを少し悔やんだ。

しかし、もう踏ん張ることが出来ないという涙腺からの刺激は、もう一人のナナモを励ましてくれる。ここにいるナナモはナナモではない。王家の継承者としてオホナモチになる男なのだと。そして、皇家の影としてタミのために働くのだと。

 ナナモはもう一度顔を上げた。薄茶色の粉塵は消えていて、代わりにふんわりとした白雲が一つだけ真っ青な空に微動だにせず浮かんでいた。

「お前は誰だ」

 誰かが叫んでいる。ナナモは雲に見とれていたのか、従者がナナモを自由にしていることさえ気が付かずに、先ほどの姿勢のままでいた。

「起きろ、聞こえないのか、お前は誰だ」

 ナナモはやっと自分の置かれている状態に気が付いた。そして、ゆっくりと身体を起こした。それまで抑えられていたためか、ふんわりとして軽かった。

「いきなり押さえつけるとは失礼ではないか」

 ナナモの膨らんだ身体からでた呼気は怒りだった。

「何をいう。お前が急に立ちふさがったのだ。もし、あのままならお前は牛車に轢かれていたのだぞ」

 従者の一人が目を吊り上げながらナナモに言った。

「ここは中将様のお屋敷か?」

 ナナモはゆっくりとした速度の牛車に轢かれるはずなどないと思ったので、従者の高圧的な物言いに腹が立ってへりくだることなどなかった。

「そうだ。だったらどうなのだ」

 従者はナナモのものおじしない態度を見ても顔の表情は変えなかった。

「僕は中将様に用がある。取り次いでいただきたい」

 ナナモも一歩も引かなかった。

「だったら、名を名乗れ」

「月の君と呼ばれている」

 ナナモは自信たっぷりな大声で言った。

 一瞬の静寂があり、ナナモはやはり僕は月の君なのだとほくそ笑みそうになったが、先ほどまでの怒気を含んだ表情を一変させて頬を緩ませたのは従者の方が先だった。それも最初はあっけにとられたような笑いだったが、そのうち憐れなあざけりの笑いに代わった。

「何がおかしいのだ」

 ナナモはわけが分からなかったが、笑いは周りの従者にも広がって行ったのでそう言わざるを得なかった。

「月の君?お前がか」

 ナナモはそうだともう一度言った。

「月の君とは今中将様がそう呼ばれているのだ。月の君が月の君に逢いに来るなんてありえない。誰だか知らないが、月の君を名乗る以上、ここから先へ通すわけには行かぬ。そのようなたわけたことを言うのなら帰られるが良い」

 ナナモの出で立ちを改めて見たからか、従者は、力ずくで追い返すことは出来ないとは思ったのだろう。少し言葉に丁寧さを加えた。

 ナナモは、はいそのようにしますとは言えなかった。しかし、先ほど牛車で出かけて行ったのが中将なら仕方がない。ナナモはそのことだけは確かめたかった。

「先ほど行かれたのは東風の方ですか?」

 ナナモはあえてそう尋ねた。従者は東風の方の名前が出て来たことに少し動揺している。だから、続けて、それとも、里の方ですかと尋ねた。

「梅の方様だ」

 ナナモは始めて聞く名前だ。しかし、きっと、中将の正妻に違いないと思った。

「では中将様もご一緒に」

 いや、中将様は…と、従者が答え始めるや否や、ナナモは一気に屋敷に向かって走り出した。走りなら自信がないわけではない。それに屋敷内に入れば何とかなるとナナモは思った。しかし、今まで訪れた屋敷とは比べ物にならない程大きい。だからか思ったより時間がかかる。それでも砂利の敷かれた不慣れな足元だったが、転倒だけはするまいと踏ん張った。

 もう少しで、屋敷の中に入れると思った途端、一本の矢じりがナナモの横を通りすぎる。

「屋敷内で矢じりを放つとは何事じゃ。お前達は穢れを何と心得る」

 ナナモは一瞬これまでかと思ったが、威風堂々とした男性が雲海のように拡がる声で叫んだ。幾人かの従者とともに立っている。ナナモは、きっとこの男こそ中将だと、ここぞとばかりに加速し屋敷内に入った。

「中将様、これを」

 ナナモは息を整える暇もなく両肩を激しく動かしながら、懐に手を入れた。すると、中将の後ろにいた武官らしき従者が、すぐさま刀の柄に手を掛けながら中将を守るように前に飛び出た。

 ナナモはひるむことなく、懐から巻物を取り出した。

「ほお、これをどこで」

 まるで目の前に居るかのような声がする。

「西の方様からお預かりしました。中将様でおられますか」

ナナモは正直に言った。

「まさしく麻呂は中将じゃ。中に入られよ」

 中将の真横にいた従者たちは何やらお互いが耳打ちしているようだったが、中将は構わぬと言ったきりで、客間にナナモを導くと二人きりで対座した。

 中将に似ているとナナモを見てこれまでの女御たちは言っていたが、ナナモは目の前にいる中将を見て、自分に似ているとは全く思わなかった。なぜなら、色白の肌に刻まれたこれまでの苦労皺と、薄紫の直衣に身を包み、大鷲のように佇む容姿が辛うじて中将としての威厳を保っていたが、目は一重の切れ長で、顔もまるく、ずいぶん小柄だったからだ。

ではどうして?

 ナナモはもしかしてと、中将の若き姿を自分の記憶の中で探ろうとしたが、そうすればするほど中将はますますナナモから遠ざかっていく。

「所で、貴殿は?」

 中将の言葉でナナモははっと我に返った。案外冷静だったナナモは、先ほどの従者のことが脳裏に浮かんでどう名乗るべきか一瞬迷ったが、先ほどと同じように、「月の君と呼ばれています」と、答えた。

「もしかして、それは、あの巻物か?」

 中将は先ほどとは異なり含み笑いなど一切浮かべなかった。ナナモはやっと整えた息を制して、「はい」と、はっきり答えた。

 中将はしばらく何も言わずにナナモを見ている。もしかしたらナナモとは異なり、中将は自分に似ていると思っているのかもしれない。

「麻呂も月の君と呼ばれているのを知っておられるか?」

 中将は一切顔の事に触れずに唐突に言った。ナナモはさきほど従者の方からお聞きしましたと答えた。

「なぜだかわかるのか?」

 ナナモは、「いいえ」と、答えた。

「麻呂が月さえも自由に操れると思われているからじゃよ」

 ナナモは、はっとして言葉を飲み込んだ。なぜなら中将が大きく翼を広げたように見えたからだ。もしかして月の君とは中将のことではないか。そして、文箱とは中将の事ではないか。しかし、もしそうならどうして妖術を掛けなければならない。

「なぜこの巻物を西の方のもとに返されたのですか」

「貴殿が月の君と名乗っているのなら、西の方から聞いたのであろう。願いをかなえるという文箱の物語の事を」

 ナナモはどのように返答するか一瞬戸惑ったが、全てを見透かされている様で頷くしかなかった。

「文箱の物語など、そもそもないのだ。だから貴殿が今、後生大事に懐から取り出したこの巻物はタダの紙切れにすぎない。貴殿は西の方のたわごとに惑わさているだけなのだ」

 中将はこともなげに言った。

「しかし、こんぶの君が?」

「こんぶの君?こんぶの君など麻呂は知らない」

「知らない?西の方は中将様に仕えておられたとおっしゃっておられました」

「麻呂に仕えておるものなど数多いる。それとおなじように西の方を訪れた男も数多いる」

 中将はにやりとしたが、ナナモは言葉として聞きたくなかった。そして、あの時漂っていた香りを思い出して吐き気がした。しかし、ナナモはいくら中将に言われてもこんぶの君は実際いるように思うし、西の方は、こんぶの君だけに思いを寄せていると信じたかった。

 でももしそうなら、西の方はなぜあのようなことをナナモに話したのだろう。

「貴殿は花梨の姫から巻物を渡され、このような話を聞かなかったか?」

 中将は急に花梨の姫を持ちだした。そして、ナナモが花梨の姫から聞いた御手洗の水の話しと、花梨が里の方に話したと言っていた三筋の清き水の話しを語りだした。

 ナナモは驚いた。ほぼ、ナナモが聴いた話しと同じだったからだ。しかし、本当に中将が一人で自ら糺の森へ行き三つの的を撃ちながら御手洗の水を汲んできたり、三筋の滝に住む守り人と会って清き水を選んだりしたとは到底思えなかった。それに、もしそうなら、巻物がただの紙切れだったとは言えないはずだ。文字は消えてしまったし読めなかったが、御手洗の水では一度文字が浮かびあがったし、三筋の清き水では浮かび上がった文字は消えなかったからだ。

「そして、清き水を手にした麻呂は巻物に掛けてみたのじゃ。しかし、いくら待っても物語どころか一文字すら巻物から浮かびあってはこなかったのじゃよ」

 中将はまた頬を緩めた。そして、言葉を継いだ。

「きっと花梨の姫が欲深い麻呂に仕掛けた余興だったのかもしれない。月を自由に操ることなど出来ないのだと麻呂を戒めたかったのかもしれない。しかし、麻呂は花梨の姫を恨んではいない。楽しませてもらったと反対に喜んでいる。だから、巻物を返したのじゃよ」

 中将は急に高笑いした。ナナモは中将の屋敷門で弓矢に追われながらも、必死の思いで中将に巻物を見てもらい、物語の糸口を探ろうとしていたことを蔑まれているように思えて悔しかった。

「もしかして、貴殿も清き水を求めたのか?」

 ナナモは何も言わなかった。しかし、花梨の姫の話が余興ではなかったことを示す為に、中将の目の前に置かれている巻物を自ら紐解いた。物語のすべてではないが、三筋の滝の清き水で祓われた文字がそこには浮かび上がっているはずだ。

 ナナモは最初自信たっぷりだったが、そのうち血の気が引いてきた。きっと、もう少しで嘔吐するところだった。

 全てを拡げた巻物には全く何も書かれていなかった。ナナモは思わず巻物を取り上げ出来るだけ目に近づけて凝視した。そして、息を何度も吹きかけたり、指でこすったり、もはや中将が居ることなど忘れてしばらく没頭していた。

「もうよいのではないか」

 中将はナナモに優し気な口調で労りの声を掛けた。しかし、ナナモはそうされたことで余計に悔しさが噴き出て来た。

「良いか、麻呂ですら月を自由に操ることなど出来ないじゃよ。それなのに、願いが叶う文箱がたやすく現れたら、この世はどうなるのじゃ」

 中将の言葉には確かに重みがある。しかし、ナナモをその文箱に中将の仕事をさせようとは思っていない。花梨の姫の母から生霊を祓い、花梨の姫に幸せになってほしいと願っただけだ。

「ささいなほころびもすぐに直さなければ大きなほころびとなりもはや直せなくなる。それと同じで、ささいな欲がいずれ大きな欲となるのじゃよ」

 中将はさらに重しをかぶせて来る。ナナモは、その言葉に思わずたじろいだ。しかし、もはや誰も逆らうものなどいないし、意のままにまつりを操る中将が余興と言いながらも清き水を巻物に掛けたと先ほど言っていた。もしかしたら、中将こそ月を自由に操りたいと思っているのではないだろうか。ささいな欲がおおきな欲を産むという連鎖反応に憑りつかれた中将の自らへの戒めのためにナナモにそう言ったのではないだろうか。

 ナナモはまだ全く欲を捨てていない中将が恐ろしく思えたし、その欲に潰されようになっても逃げられない中将が憐れに思えた。

 しかし、ナナモの思いを知っているか知らないのかわからないが、中将は先ほどからほとんど表情を変えていなかった。それどころか、ナナモと会っていることも余興のひとつだと楽しんでいる風だった。

「もう巻物など良いではないか。それよりの折角の機会じゃ。妻は先ほど野の宮に出向いたところで、私も気が緩んでいる。私はこれから内裏に向かわなければならないが、まあ良い。清き水の話しをしながら一献交わらないか?」

 中将は、そう言うとナナモの返事も待たずに、誰か、誰か、酒を持って来いと叫んでいた。しかし、ナナモはなぜか中将の正妻である梅の方が向かったあの一行の中に花梨の姫や朝顔の姫がいるような気がしてならなかった。

「野々宮とはここからは遠いのですか?」

 ナナモは静かな声で尋ねた。

「嵯峨野の草を奥深く分け入ったところにある」

 嵯峨野?聞いたことがある。ナナモは都から離れた西方にあるあの有名な景観地だと確信すると、静かに自ら拡げた巻物を手元に寄せて、もう一度巻始めながら、ゆっくりと先ほどよりも静かな声で、中将に献上するようではなく、威風堂々と月の君が月の君へ話しかけるように口を開いた。

「春は夕暮れ、日沈む地の森。春霖の中、馬上の君、誘われし姫と会う。姫は牛車。なかなか御簾を挙げず、声を出さず。馬上の君、和歌を詠む。誘われしこと喜ぶ歌なり。姫から返歌なし。馬上の君、不作法ながら牛車へ向かう。なたねづゆ痛し。祈りの言葉で身を守り、かろうして牛車に着く。三つ織りの御簾開かず。奥にて姫泣くばかり。馬上の君、なぜ我を誘いながら声出さぬと問う。さると、美しき君に願いを語らば、美しき君の文箱から馬上の君からの誘いの文ありと、姫の啜り声あり。馬上の君、姫は清し、罪なし、文箱に穢れありと慰めるが、笑み浮かべ何やらひとりごちしばし止まらず。しこうして、月の…と、姫に言い残し、馬上の君、日出る地へ向かう」

「なぜ貴殿が知っているじゃ」

 中将はナナモの目の前で初めて狼狽した。明らかに顔がゆがんで苦虫を噛みしめたような顔だ。

「僕は自ら清き水を手にしたからです」

 ナナモはきっぱりと言った。

「誰も近づくな!」

 屋敷中に拡がる声がまるで鐘の音の中心にいるように大きく振動した。きっと、食事の支度をしていた女房や、内裏に向かう手筈を整えていた従者たちは。まるで液体窒素をかけられた様にいま凍え固まっているに違いない。ただ、中将とナナモとの間には、まるでサウナの中に居るように熱風が吹き荒れている。

「三筋の滝の清き水に浸かったときに浮かびあがって来たのです。そして、馬上の君とは、あなたの事だ」と、中将に追い打ちをかけるように、ナナモは言った。

 その瞬間、中将からカオスが消えた。そして、まるで昔を懐かしむことしかできない老人のような無気力さで、「月の君よ。麻呂は確かに月を自由に操ることはできない。しかし、人なら自由に操ることが出来る。わかるな」と、呟いた。

 ナナモは老人の呟きなのに身体を強く縛られたようで身動きできない。それどころか鉄条網の鋭さが痛みを産む。

「それで、貴殿は日沈む森に行かれたのか?」 

 ナナモはいいえ、だから、中将様の所に参ったのですと答えると。中将は大きく息を吐き、ゆっくりと周りの精気を吸い込むと、まるで満月になったかのように老人の殻を脱ぎ捨てて元に戻った。と同時に、ナナモから痛みと束縛が消えた。ただし、中将はほっとしたような柔和な顔ではない。ナナモを敵視するような鋭い眼光を持った顔だった。

「その話しは花梨の姫が何気なく妻にささやいた話なのじゃよ」

 花梨の姫が中将の正妻である梅の方に?なぜだろうと、ナナモは花梨の姫がまたわからなくなった。

「そこにも清き水があるからだ」

「もしかして、梅の方様が向かわれた場所ですか?」

 ナナモはすぐに尋ねた。

「嵯峨野か。麻呂も最初はそう思った。野の宮は穢れを祓い清める場所であるからな。しかし、あの場所には三つ折りの御簾はなかったのじゃ。それに、麻呂は西へ西へと名だたる検非違使をこれまで何度か行かせたが、誰一人帰っては来なかった。ならば、麻呂ならと思ったこともある。しかし、そこへ行くと、麻呂はより穢れ二度と内裏には参上できなくなるのではないかと怖かったのだ。もしかしたら、内裏に勤める貴族が決して立ち入れないどころかその存在すらも分からない所なのかもしれないし、糺の森のように鬼が、いやオンリョウが住む場所なのかもしれない」

 中将の瞳はしかし悟りを開いたようではなく、まだ悩みもがいていように見える。

「もしかして、貴殿は、日沈む地の森へ行こうとしているのか?」

「はい」

「文箱の物語がそんなに欲しいのか?」

 中将は先ほどとは裏腹にやはり文箱にまだ憑りつかれている。

「清き水が見つかったとしても文箱の物語が浮かび上がるとは限らないでしょう。ただ、中将様ですら見つけられなかった清き水ならば、東風の方に掛けられた穢れはきっと祓い清められるでしょう。そうすれば花梨の姫を助けることが出来ます。僕はそのために、清き水を探したいだけなのです」

 ナナモは中将にきっぱりと言ったものの、本当は自分の穢れを祓い清めてくれるのではないかと、その欲に縛られていた。ナナモは心のどこかにまだあのことが引っかかっていた。それは文箱に執着する中将と同じなのかもしれない。そう思うと先ほどの見栄はまったく意味のないものになる。

 中将はナナモの心根を黙って覗こうとしている。あの物語には文箱を探す鍵がある。だから、物語を読みたいと思わないのかと尋ねてくる。

 ナナモは静かに中将に自分の心根を開放する。どう思われようがどうしたいのか分からないが、とにかく駆け引きは無駄だと思った。

「では巻物をここに置いていきなさい。もともとその巻物は麻呂が西の方から預かったものだ」

「しかし、清き水かどうかは巻物がなければ分かりません」

「馬上の君は牛車の中に姫がいるのに三つ織りの御簾を開けられなかったのじゃ。だから、三つ織りの御簾を開けられたら、必ず姫に会えるのだろう」

 中将はだから巻物に頼らなくてもよいのだと言いたげだった。

 ナナモはその通りかもしれないと頷きかけたが、中将がもし、ナナモが出かけた間に巻物を消し去ったらどうしようと一瞬ひるんだ。しかし、中将の瞳から炎が見える。そうか、中将は文箱をあきらめていない。だから西の方の所に戻したのだ。もしかしてナナモのような月の君が現れるまで何度も巻物を西の方、いや、花梨の姫の所に戻したのかもしれない。

「月の君よ、もう一度言う。麻呂は月を自由に操ることはできないが、人なら命すら自由に操ることが出来る」

 ナナモは急に身体が熱くなった。そして、そんなことはない。操ることが出来る命などないと、ナナモは大声で叫んでいた。

 ナナモの怒りが届いたはずなのに中将は表情一つ変えない冷淡な顔付きで瞬きもせずに遠くを眺めていた。が、ほんの一瞬だけ頬を緩めると、より硬くより冷たい氷の世界からナナモを蔑むように見下ろしてきた。

「月の君よ。文箱の中身が知りたいのなら教えてやろう」

 中将は憐みの言葉を投げかけてきた。ナナモは施しなど要らないともう一度叫ぼうとしたが、吐息はすぐに中将に凍らせられて瞬時に粉々に打ち砕かれしまった。何をたくらみそして何を楽しんでいるのかと、ナナモはその不気味さに先ほどの憤りさえも凍らされ身震いした。

 中将の額にまるで封書に張られた切手の様にどこからか桜の花びらが舞い降りてきてピタリとくっついた。ひとひらの花びらなのに甘い香りが漂ってくる。ナナモは耳を両手で塞ぎ何とか中将の声に抗おうとしたが、瞳は見開いて中将の口元に吸い寄せられる。


「きみ(キミ)おも(思)うつき(月)にかがや(輝)くはた(秦)のいと(糸)か(掛)かるもとい(元衣)ばじょう(馬上)とど(届)かず」


「たみ(タミ)し(知)らぬつき(月)のもり(森)にてみ(三)つのいか(衣架)こい(恋)しきおりひめ(織姫)ひとりたたず(佇)む」


 ナナモには和歌など分からない。いや、和歌なのかすら分からない。それに、ナナモは口元だけを見ていただけだ。それなのに、声に出していた。中将はナナモが読み取った言葉と同じ言葉を発していたかどうかわからない。しかし、清き水はこの言葉の導きの先にきっとある。なぜなら、美しき君の和歌だけはなかったからだ。もし、日沈む地の森にたどり着き、清き水に出くわすことが出来れば、その清き水が、美しき君の和歌を、否、もしかして物語をナナモに示してくれるに違いない。そしてその先にはきっと文箱が…と、ナナモが口元から視野を広げた時には中将はナナモの目の前から消えていた。

「中将!」

 ナナモの叫び声は壮大で厳粛で豪華な寝殿の中を響き渡っていた。しかし、先ほどのひとひらの花びらが仲間を連れて来たのか、「月の君にはふさわしい衣装なこと」と、ナナモの声は数多の女房達の含み笑いにかき消された。

 中将は今頃検非違使に何かを命じているはずだ。そして、もし、文箱があれば、俺の仕事は要らないはずだと、高笑いしながら、それでも山のように積まれた仕事をこなす為に内裏へ向かっているに違いない。

「僕も急がねば。でも、道を外れることだけはしたくない」

 ナナモは芳香漂う桜雲を辛うじてかいくぐりながら、屋敷から外に出た。

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