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ジェームズ・ナナモと格子の迷宮  作者: まれ みまれ
28/33

(28)格子の迷宮と東南の光(一)

 大太鼓を連打するような豪雨の中、車を引く牛は淡々と相変わらずの速度でナナモを三筋の滝が流れる山麓のふもとまで連れて行った。

 牛車が止まるといつものように前方の御簾が開く。この雨だ。牛は飲み水を求めてはいないだろうが、当然牛はいない。もしかしたら泥水に身体をおしつけて今頃気持ちよさそうに戯れているのかもしれない。

 ナナモは牛車の中でまた知らぬ間に着替えてはいたが、湿気と蒸し暑さに辟易しながら仕方なく牛車から降りた。傘はない。だから、びしょ濡れになりながら足場の悪い坂道を登っていくのかと一瞬躊躇した。だがそんなことは気にしていられない。ナナモは開きなおって歩き始めた。すると、真っ黒で光の無い世界に浮かんでいた灰色の雲は急に姿を隠し、柔らかな陽射しが青一色に染められた布のような空を引き連れて東の地平線からゆっくり昇って来た。

 あっと、声が出るほどに泥水はみるみる吸収されて行く。ナナモは天空からの雨水で清められたあとの坂道を清々しい気持ちで眺めた。

 大雨が降っていたこともあり、早朝の坂道には誰も居なかった。その代わり、緩やかに蛇行する一本道の沿道にはアジサイが色とりどり咲いていて、さながら、出店の様な華やかさを想起させる。

 ナナモは先ほどまでのけだるさを全く感じないどころか、却って軽やかに坂道を登っていく。ここには鬼はいない。だからか、先ほどよりも強くなった陽射しだったが、ナナモは眩しいとも思わなかった。

 坂道の頂には社があると、里の方は言っていた。しかし、滝はそれよりも手前にあるのだろう。ナナモは汗ばむ額を軽く拭いながら、頂をめざさず、オートバイの爆音ではなく、まるでホルンの低音のような、一定だが、ずっと鼓膜を揺らす囁き声につられるように脇道に入って行った。

 目の前には刃物で切り取られたような絶壁の岩肌が聳え立っている。ナナモは滝が落ちる際に発する水蒸気があたり一面に充満し、太陽光に反射してダイヤモンドダストのような輝きで満たされていることを想像していた。しかし、大きな岩肌から突き出た三本の樋から落ちる水流は、滝というよりも、噴水のようなきれいな曲線を描いて流れ落ちている。そして、石床に当たって周囲に水滴を飛び散らかすことはなく、その隙間にスーッと音もなく吸い込まれて行く。

 ナナモは改めて三筋の滝を眺めた。

(確かに三筋とも同じように見える)

 ナナモは里の方の言葉を思い出した。

 確かにこの中から清き水を選ぶことは至難だ。そう思うと、ナナモは滝の前でしばらく眺めることしか出来なかった。

「誰か来ないだろうか?」

 里の方はここはタミの滝であると言っていた。だったら、雨あがりの坂道を誰かしかのタミが上り始めていてもおかしくはない。ナナモはしばらく待とうと思った。タミが欲する清き水ならタミが教えてくれるのではないかと思ったからだ。しかし、確か里の方は誰も居ない時間に行くようにナナモを促した。もしかしたらそれは一人で選ばなければ清き水は得られないからかもしれないし、タミは里の方が花梨の姫から聞いた話など知らないはずだから、この三筋の樋から流れる滝からの水はすべてを清き水だと思っているのかもしれない。

 何れにしてもナナモは試されている。そして清き水でない水を持ちかえれば、東風の方はより不幸になり、巻物の物語に掛けられた呪術も解かれない。

 どこからか山鳥の声が聞こえる。誰かが頑張れと励ましてくれているようにも思える。

 ナナモはもう一度三筋の滝に集中したが、やはり先ほどと同じように三筋の滝は同じように思える。

 でもきっと何かが違うはずだ。ナナモは右から左へ左から右へそして中央から右、左へと何度も見る順番を変えてみた。まだやっと顔を出したばかりの昇り日の光は、三筋の滝をキラキラと輝かせるには十分だったが、それでもいくら見てもその輝きの濃淡は変わらなかったし、光の屈折の違いで虹のように色付くこともなかった。

 ナナモはそんな三筋の滝を見ているうちに、どうしたらいいのだろうと、少しずつ心が落ち着かなくなる。

 糺の森は皇家に仕える貴族が訪れる場所だった。しかし、ここはタミがこぞって訪れる場所だ。むろん都人だけではない。だったら、糺の森で御手洗の泉に達するまでに的を得ないといけないと言っていたあのしきたりと同じように、タミのしきたりがあるのだろうか。でも、ナナモは坂道を登って来ただけで何も行く手を遮られなかったし、実際目の前に三筋の滝が流れている。その一つに手を差し出せば簡単に水を汲み取ることが出来る。しかし、簡単なものほど時として複雑なものはない。それと同じようにすぐに手に入ると思っているものはわざわざ遠回りしなければ手に入らないかもしれない。

 ナナモは頭の中で堂々巡りをしているだけで、身動きひとつ出来ないままでいた。

 ナナモはその迷いを打ち消すように大きく深呼吸してみる。すると、また山鳥のさえずりが聞こえて来る。先ほどは一羽の鳴き声だったが、何羽かが呼応しているようだ。

 随分とはっきりとした輪郭で東の空から太陽が顔を出していた。ナナモはあれこれと滝を眺めながらやはり結論が見えない世界に身を置いているだけだった。

 時は過ぎていく。

 ナナモは滝から視線を外して後方を見た。しかし、やはり誰も居ない。その気配すらない。里の方はタミが大勢やってくると言っていたが、あれは嘘なのだろうか?それとも、簡単にたどり着けたが、ここは清き水が得られる滝ではないのだろうか?

 ナナモは考えた。タミの滝を考えた。そして、しきたりを思った。

 しかし、やはり何もひらめいてこない。鳥のさえずりがまた聞こえてくるだけだ

ナナモは寂しくなってタミではなく。小鳥を探そうと空を見上げた。真っ青で雲一つなかったが、小鳥はナナモの前に姿を現してはくれなかった。

「そう言えば…」

 ナナモは空を見上げたことであることを思い出した。それは、山の頂に社があると里の方が話していたことだ。あの時、つい清き水のことが気になって滝の方向に進んで行ったが、分かれ道のもう一方を進めばきっと社に向かうはずだと、ナナモは踵を返した。

 社に参拝もしないで清き水が得られるわけもない。きっと、タミは先に参拝しているはずだ。ナナモは急に今までの陰鬱とした気持ちから飛び出せるような気になって足早に分かれ道に戻ると坂を昇って行った。

 鳥居があり、ナナモは一礼すると、ゆっくりと石造りの階段を登っていく。滝には誰も居なかったが、社になら誰かがいるだろうとナナモは思ったがやはり誰も居なかった。

 小さな手水舎で手口を清めると、小さな社の前で一礼し、柏手を打ち、手を合わせた。ナナモはどうか三筋の滝から清き水が得られる滝を見つけられますようにと願うべきなのに、無心になれたことで心が落ち着いたからかもしれないが、手を合わせた時には何も頭に浮かんでこなかった。

 あっと、声が漏れそうになる。しかし、もう一度はない。それにたとえ願ったとしてもそう簡単に選べるとは限らない。

 ナナモはもう一度一礼すると、社から離れた。

 あれっと、ナナモは思った。それほど広くないし、いたって質素だし、先ほどまで全く気が付かなかったが、小さな祠が見える。ナナモはこの祠にもお参りに行こうとしたが、急にヒトが現れて驚いた。

「おぬしには見えないのか」

怒鳴り声ではないが、ずいぶん強い声だ。しかし、シャキッとしているがよく見ると白髪で年老いて見える。

 ナナモはやはりタミが居たのだと驚いたが、今しがたまで忘れていたのに滝のことが気になってその人物に近寄りたくなった。

 ずいぶん離れていたのにナナモが一歩踏み出そうとすると、その人物はいつの間にやらナナモの目の前で立っている。やはり老人だ。皺が目立つ。それにナナモよりはずいぶん小さい。ナナモはもしかしたらどこかに行かれたと里の方は言っていたが、徳を得た修行者なのではないかと思った。

「おぬしには見えないのか」

 老人はナナモの先ほどの印象をものともせずに、今度は重さを加えた声でナナモの下腹部をつき上あげてくる。

 ナナモは何を言っているのか分からなかった。ただ、どういうことですかと聞かなければならないのに、痛みを覚えたからか、どなたですかと、尋ねていた。

「わしは社の守り人じゃ」

「守り人?」

 ナナモはこの山の頂で修行をされていた方ではないのですかと尋ねたが、賢者は去り、愚者が残っただけだと言っただけだった。残ったとはどういうことだろうとナナモは思ったが、双子なのじゃよと、先ほどと比べ物にならないほど弱々しく守り人は呟いた

 双子は似ているという。それなのに各々が違う道を選んだのか、それとも選ばされたのかわからない。ナナモはふとアメノの事を想った。

「タミの姿が見えませんが」

 ナナモは、守り人はタミではないような気がして尋ねた。

「今日は十八とやの日なのじゃよ」

 ナナモは十八の日を知らなかったので、守り人に尋ねた。

「お前はタミではないのだな」

 ナナモは確かにタミではない。ただし、貴族でもない。しいて言えば王家の継承者になろうとしている者だが、守り人に話しても仕方がない。

 守り人は十八の日が農繁期に入る初日だと教え、だからタミは自らの田畑で神様に感謝と豊作を願う神事を行っているはずだと付け加えた。ナナモはもしかしたらそれは八十八夜の事ではないのですかと尋ねたが、この一帯ではタミがわしに気を使って八十八という数より十八を大切にしてくれるようになったのでそう呼ぶようになったのだと、今度は物悲しい声で答えた。

 八はカミヨの世界で無限を意味する。だから、八十八は意味があるのだと聞いたことがある。でも、十八とは…、ナナモはどういうことだろうと思った。

「実は十八の日にはもうひとつタミがここに来ない理由があるのじゃよ。それは、双子の兄が一年に一度だけこの十八の日にわしと再会するために現れるとタミが信じていて、その再会の喜びを邪魔してはならないと気遣ってくれているからなのじゃよ」

守り人はタミから慕われ、今では徳のある人物として見られているのかもしれない。

「ではお兄さんは、もうじき来られるのですか?」

 ナナモはお兄さんに清き水の事を尋ねられると思って思わず尋ねた。

「それが実は一度もないのじゃよ。だから、お前の姿をここから見た時には驚いたのじゃ。今目の前で見ると背丈や服装は兄と全く似ていないが、その時は遠かったし、朝日で輝いていたからな」

 もはや陽は昇りきっている。それでも、山の頂だからか、乾いた風がさわやかに頬をかすめていく。

「しかし、お前はこの場所ではなくすぐに滝へ向かった。そして、じっと滝の前で立ち尽くしていた。だから、わしは思ったのじゃよ。兄ではないと」

 守り人は一瞬間を置いてから、眉間に皺を寄せると、「お前は清き水を求めて来たのか?」と物悲しく呟いた。

 ナナモは正直に頷いた。そして何かご存知ですかと少し遠慮気味に尋ねた。

「わしは何も知らぬ。もし知っていればわしも賢者になっていたかもしれない。しかし、知らないことでわしはここの守り人として、タミを迎えることが出来たのじゃ」

 守り人はかすかに頬を緩めたように思う。しかし、それは皺という人生の年輪をナナモが勝手に解釈しただけなのかもしれない。しかし、その微笑みがもし守り人の今の気持ちであったのなら、兄ではないが、ナナモに出会って、ナナモために何かをしてあげようと思ってくれている風にナナモには伝わって来る。

「ところで、お前は先ほどどこに向かおうとしていたのじゃ」

 守り人は何かを思いついたように急にナナモに尋ねた。

「祠です。社に参拝した後、小さな祠が見えたので、そこにも参拝しようとしたのです」

「お前は あの祠が見えるのか?」

 ハイとナナモは言おうとしたが、しかし、もしかしたらその代わりに見えない何かがあるのかとそのことが気になって、守り人に尋ねた。

「茅のちのわじゃよ。タミは茅の輪をくぐって身を清めてからではないと清き水を得られないと信じておる」

 茅の輪は、ちがやという草を編み込んでヒトの身長よりも高い輪を作ったもので、本来夏越しの頃にそれまでに身に着いた災いや穢れを祓い新たに清き身心を取り戻す行いのために用いられたのだが、ここでは、清き水を求めるタミのために一年中置くようになったのだ。そして神事なので敬う心を忘れてはならないと前置きしながらも、左足で輪をまたぎ左方向へ、そして次に、右足で輪をまたぎ右方向へ、そして再び左足で輪をまたぎ左方向へ回ってから、最後に左足で輪をまたぎそのまま、社に向かい参拝してから三筋の滝へと向かう。この時に、タミはこれまでの自分の穢れを呟くと穢れは祓われる。

 ナナモは先に滝に行ったし、先に社に参拝したから見えなかったのかと、今さながら後悔した。

「お前はどこかでお祓いを受けてきたのじゃな」

 守り人はナナモの憂いを気にすることはなく、だから滝に導かれたのじゃよと、言った。

 どういうことだろうと思ったが、ナナモはそう言えば糺の森に行ったことを思い出した。御手洗の水はやはり清き水だったのだ。ナナモは足元をちらりと見た。

「お前は何者じゃ。茅の輪が見えるタミは、しかし、祠は見えないのじゃよ」

 守り人は始めて会った時のように険しい顔でナナモを見つめた。

「オホナモチ・ジェームズ・ナナモです」

 ナナモは月の君ですと確かに口を動かしたはずだったが、鼓膜に届いた声はそうではなかったようだ。

 守り人はナナモの言葉をしばらく噛みしめながら、何かを考えている様だった。

「あの祠は、兄がこの地からいなくなった時に忽然と現れたのじゃよ。わしはこれは兄からの何がしかの意志だと思って、毎日社へ行くと同時に祠にも参拝していたのじゃよ。縁が縁を産み、タミの多くが清き水を求めてこの地を訪れるようになってから数年経ったある朝、おそらく十八の日だったと思う。わしはいつものように祠で参拝していると、祠からわしを呼ぶ声が聞こえてきたのじゃ。その声は、まさしく兄の声だった。

(お祓いを受けるのだ。そして、耳を貸すのだ。そうすれば、おのずと自らが清き水に導かれることになる)

 わしはその言葉の意味を何度も何度も考えたのじゃ。そして、ついに自分なりの解釈を得たワシは一年後の十八の日に、兄と同じように清き水を得ようと滝に向かったのじゃよ。しかし、もし、兄と同じようにうまくいかなければ、この社はどうなる。タミはどうなると考えると、もはや試みることは出来なかった。わしはやはり愚者なのじゃ」

 守り人はしかし決してナナモから視線を動かさない。そして、また、ニコリと頬が緩んだように思えた。

 だからタミは大勢ここにやってくるのだ。もしかしたら滝の水よりも、守り人の言葉の方がより清く、穢れを祓ってくれるのではないかとタミは思っているのかもしれない。

ナナモも守り人から視線を外さなかった。

「清き水を欲するのか?」

 守り人はゆっくりとした口調で尋ねた。

「はい」

「月の君よ、キミは怖くはないのだな」

 守り人に言われてナナモはドキッとした。しかし、糺の森でも試された決意は揺るがなかった。ナナモは大きく頷いた。

「月の君よ。わしは先ほどの話し以外何も教えてあげることはできない。それに、先ほどの話しも大きな功となるかもしれないし、罪となるかもしれないが、わしにはわからない。結局、兄がしたことは、そしてわしがしようとしたことは、自らが考えたことだ。だから、月の君も自分で考えなくてはならない。ただ、わしと違って月の君は若い。眼もいいし、耳もいいのだろう。そして何よりも柔らかい頭を持っている。良いか、祠は兄の意志だ。兄はわしに何かを伝えようとした。たとえ離れ離れになったとしても双子の絆は強い。それだけはわしの誇りじゃ」

 話し終えた守り人はほっとしたように微笑んだ。

 ナナモは守り人を見た。すると先ほどまで全く見えなかったが、守り人の後ろに丁度先ほど言っていた茅の輪が現れた。

 ああ、見えた。ナナモがそう思ったのも束の間、守り人はその輪を無限大の記号のように三回くぐりながら回ると、最後に茅の輪の向こうに進んだ。ナナモはまだ尋ねたいことがあったのだが、守り人は茅の輪ごと姿を消した。

 ナナモの目の前には祠だけがある。ナナモはゆっくりとまた茅の輪が現れないかと思いながら歩を進めたが、やはり気配すら感じられない

 祠はナナモの背よりも低く積まれた石の台座の上にあった。ナナモは身をかがめ一礼したあと、柏手を打ってから、両手を合わせ参拝した。

 ナナモはゆっくりと立ち上がりながら、守り人が話してくれた言葉を思い出した。

(お祓いを受ける。耳を貸す。そうすればおのずと清き水に導かれる)

 これは託宣なのか?ナナモは祠の前でまるで守り人の兄に語りかけるように三度同じことを言った。

 祠の前に何かが白い布きれのように揺れている。ナナモは先ほどまではなかったので何だろうと取り上げた。布だと思っていたがそれは紙きれのように思えた。こんなところにゴミがとナナモはその紙切れを取り上げ丸めて捨てようとした。しかしその瞬間手に熱いものを感じる。ナナモは思わず手を拡げた。何もなかったかのように紙切れがある。しかし、よく見ると人型をしている。

 何か意味があるのかもしれない。しかし、よくわからない。

(お祓いを受ける)

 ナナモは守り人の言葉を思い出す。しかし、ナナモは茅の輪をくぐり抜けることが出来なかった。ならば、この人型の紙がナナモの祓いをしてくれるのか?

 ナナモはハルアキの授業のことを思い出した。そう言えば、身代わり祓いという神事のことを教えられた様に思う。

 ナナモは人型の紙を左肩、右肩の順で自分の身体にこすりつけると、また、祠の前に置いて合掌した。きっと、これで身を清めることが出来る。ナナモは安堵したが、突然突風が吹きつけて折角祠に納めた人形の紙は飛ばされて行った。

 ナナモはすぐに気が付き、右手を伸ばす。しかし、あと数ミリの所で掴み損ねた。

 山の頂は上昇気流で満たされている。紙の人形はまるで紙飛行機のように優雅に空を漂って、ナナモはしばらくその行く手を目で追っていたが、なかなか降りてこなかった。

 鳥の声が聞こえる。ナナモはもしかして、鳥が銜えてどこかに持って行くのではないかと、気が気でなかった。

 ナナモの憂いを気にすることなく、優雅にそしてこの辺りを楽しんでいるかのように人型の紙は何度も旋回しながら遊覧している。ナナモはその飛行を見ているうちに次第に心が落ち着いてきた。もしかしたら、あの人型の紙は守り人の兄なのではないかと、兄がナナモから穢れを持ち去って清めてくれたのではないかと思えてきた。

 そうであるなら、どこに行くのだろう。ナナモはしばし時間を止めた。

 すると、ナナモの気持ちを察したかのように、人型の紙はゆっくりと下降し始めた。ナナモは行き先をしっかりと見定めようとした矢先、その人型の紙は三筋の滝が流れだす岩肌に吸い込まれるように消えて行った。

 山の頂だと思っていたのに、祠を超えたところから三筋の滝がはっきり見える。ナナモは始めて三筋の滝の全貌を把握することが出来た。

 先ほどまじかで見た時は三筋の滝は同じように見えた。しかし、ここから見ると、全ての滝は同じようには見えない。何か微妙に違いがあるように思う。  

 ナナモは消えた人型の紙のことなど忘れて、この一問で試験の合否が決まるという難問に取り組んでいるかのように、頭を最大限に働かせた。

 あれ、もしかして。ナナモは慎重に何度も確かめるように三筋の滝を見てから、目の前で見た時は全く気が付かなかったが、滝の流れが時々微妙に途切れて一定ではないことに気付いた。ナナモはやっと三筋の滝の違いに気が付いて思わず小躍りした。しかし、すぐにだからどうなんだと気持ちが塞ぐ。

(耳を貸す)

 また、守り人の言葉が思い出される。

 でも、これだけ離れているのだ。滝の音など聞こえない。そもそも、先ほど訪れた時に感じたのだが、力強さがなく、瞬く間に石畳に吸収されていて、静かだった。何せ滝が流れ落ちる音より小鳥のさえずりの方がよく聞こえたのだから。

 ナナモは其の瞬間境内を飛び出そうとしていた。辛うじて鳥居をくぐる前に振り返り一礼することが出来たが、もはや、あの坂道を駆け下りていた。このような身なりでよくもこけなかったものだと、ナナモは少し上がった息を整えると、三筋の滝の真近くではなく、少し離れた場所で身と心を落ち着かせた。

 暫くすると先ほどと同じように小鳥のさえずりが聞こえてくる。ナナモはその鳴き声に導かれるように三筋の滝に近づいて行った。ナナモが真ん中の滝に近づくと鳥のさえずりは一羽となった。続いて、左の滝に近づく。すると先ほどとは異なる鳴き声で鳥のさえずりが聞こえる。そして、最後に右の滝に近づく。すると思った通り、また異なる鳴き声で鳥のさえずりが聞こえる。

三筋の滝は異なる鳴き声を出すのだ。

 ナナモはしばらく三筋の滝をそれぞれ行ったり来たりしながら、それぞれの滝が奏でる鳴き声を聞いた。先ほどはこころ穏やかになったのに今はどの鳴き声を聞いてもそうは思えない。ナナモは出来るだけ冷静になろうとした。しかし、そう思えば思うほど焦るが出る。それにナナモは鳥の鳴き声に詳しくはない。辛うじてホトトギスの鳴き声だけは知ってはいたが、それとて言葉として知っているだけで実際の鳴き声を聞いたわけではなかった。

 ナナモは三角縁神獣鏡をと、懐に手を入れかけた。しかし、もし使えば、守り人の話しを無駄にすることになる。ナナモは穢れを祓おうと、滝の雫が少しでも着物に憑かないように注意しながら左、中央、そして右と茅の輪をくぐるように、三度回った。

(耳を貸す)

 ナナモにまたあの言葉が聞こえてくる。しかし、今度は何も起こらない。何も思いつかなかった。だから、また、滝から離れて三筋に滝を眺めてみた。

 合わさった鳥のさえずりは先ほどより聞きやすかった。ナナモはそうだろう。もともと同じところから湧き出た水が分かれて三筋の滝になったのだ。だから、本来ならすべてが清き水のはずなのだ。耳を貸すとはそう言うことかと、ナナモは懐の袋から水筒を取り出そうとした。ぞれぞれの滝の水を全て同じ量で集めれば清く水になるからだ。

 しかし、全く同じ量の水を同時に集めることは不可能だ。そもそも、手は二つしかない。ナナモは良い思い付きなのだと思ったが、気落ちした。

 でも何かがある。ナナモはまた三筋の滝を眺めてみた。

(お祓いを受ける。耳を貸す。そうすればおのずと清き水に導かれる)

 お祓いを済ませたはずなのにまた最初の声が聞こえてくる。やはり三角縁神獣鏡を使おうとしたことで、ナナモの心は穢れたのだろうか。ナナモはもう一度、山の頂に登り、祠に参拝に戻らなくてはならないのかと、ため息が出かかったが、どんなことがあっても何度同じことを繰り返しても清き水を持ち帰らなければならない。ナナモは守り人に伝えた決意を思い出して自らを振るい立たせた。

 ナナモが踵を返そうとすると、(お祓いを受ける)と、声がする。しかし、声ではない。鳥のさえずりのような音色だ。ナナモはもう一度三筋の滝を見た。そしてハッとした。

 もし三筋の滝が平安の都なら、向かって右側は左で、向かって左側は右だ。ナナモは先ほど、守り人に言われた通り左から滝の周りをまわったが、実はそれは右だったのかもしれない。ナナモはもう一度三筋の滝に近づくと右から三度滝を回った。

 しかし、先ほどとは何も変わらない。耳をそばだてたが、それぞれの滝が奏でるさえずりも変わらなかった。

 やはり、思い付きだったのか。ナナモはやはりもう一度祠に戻ろうと、滝から離れた。三筋の滝が全て見渡せる先ほどの位置に来たときに、ナナモは思わず振り返っていた。

先ほどとは比べ物にならない穏やかな鳴き声が三方から合奏として聞こえてきた。ナナモは何もかも忘れしばし耳だけにすべてを集中させた。するとその美しい調べは、ナナモの身体から魂だけを抜け出させ輝かせた。

 心が洗われる。まさにそのような感覚がナナモを無にしていく。

(何もない心で、何かを考える)

 どこからか鳥のさえずりに乗って守り人の声が聞こえる。いや、きっとこの声は守り人の兄の声に違いない。しかし、何もない心でどのように考えれば良いのだと、魂はより透明さをましながらそれでもかすかな色だけは残したいと、ナナモは意識の一滴で抗った。

 僕はナナモだ。何もない心ではあるが何もない心ではないはずだ。

 ナナモの声が最後の一滴からも色を奪って行った時、もう一度声が聞こえて来た。

(清き心に清き水はおのずと導かれる)

 きっと、双子の守り人の口重ねの声だろう。否、もう一人、いや、ヒトではないのかもしれない。もしかして…。

 ナナモははっとして瞳を開けた。三筋の滝のうちの一筋に、先ほど山の切肌に吸い込まれた人型の紙がゆっくり揺らいでいる。ナナモは流されないように助け出そうと思って近づこうとした。しかし、人型の紙は落ちて来ないどころか、むしろ流れに逆らって上へ移動しようとしている。

 ナナモは人型の紙を目で追った。すると、岩肌から突き出た三本の樋は消え、三筋の滝は一筋の滝となり、どこからか分からないが、絶え間なく流れ降りてきていた。

 これが清き水なのだとナナモの何もない心は悟った。その瞬間先ほどの人型の紙はまるで登り龍の如く滝の落ちる水流に逆らって上へ上へと昇って行き、最後には天空に吸い込まれるように大きく光り輝きながら消えて行った。

 ナナモの身体に魂が戻って来たときにはナナモは三筋の滝の前で倒れていた。確か眩しさに思わず顔を伏せたはずだが、それ以降の記憶は消えていた。

 目覚めたナナモはゆっくりと身体を起こそうとする。やけに身体が重い。もしかして幻だったのかと思いつつも、傍らの水筒が目についた。ナナモは思わず腰に手をやったが、御手洗の清き水の入った水筒はぶら下がっていた。

 この水筒の中にもきっと清き水が入っている。

 ナナモはその水筒を拾い上げようとまた身体を動かした。やはり身体が重い。それでも水筒が同じように重いことを確認したときに、やっと着ていた衣服が全て濡れていることに気が付いた。

 ナナモは思わず傍らの手を懐に入れた。巻物はあったが同じように濡れている。ナナモは新たな水筒を腰に巻き付けると、巻物を取り出して拡げてみた。

 御手洗の泉に付けた時と同じように、文字が見える。あの時と同じようにミミズがはったような文字だ。やはり同じかとナナモはあきらめかけたが、周囲には誰も居ないし、魔物が襲ってくる気配も感じなかったので、もうすこし巻物を広げてみようと思った。しばらくの空白が続いたが、見慣れた文字が目についた。これなら読めそうだ。それにもしかしたら、参考書のように先ほどのミミズ文字を解説してくれているのではないかと、ナナモは声に出しながら読み始めていた。

「春は夕暮れ、日沈む地の森。春霖の中、馬上の君、誘われし姫と会う。姫は牛車。なかなか御簾を挙げず、声を出さず。馬上の君、和歌を詠む。誘われしこと喜ぶ歌なり。姫から返歌なし。馬上の君、不作法ながら牛車へ向かう。なたねづゆ痛し。祈りの言葉で身を守り、かろうして牛車に着く。三つ織りの御簾開かず。奥にて姫泣くばかり。馬上の君、なぜ我を誘いながら声出さぬと問う。さると、美しき君に願いを語らば、美しき君の文箱から馬上の君からの誘いの文ありと、姫の啜り声あり。馬上の君、姫は清し、罪なし、文箱に穢れありと慰めるが、笑み浮かべ何やらひとりごちしばし止まらず。しこうして、月の…と、姫に言い残し、馬上の君、日出る地へ向かう」

 ナナモは今度こそ清き水が巻物の穢れを祓い清めてくれたのだと思いながら、姫はどうなったのだろう、文箱に穢れとはどういう意味だろうと、何も文字が浮かび上がらなかった空白の部分も相まってやはりまだかせは消えなかった。

 馬上の君が中将なのかどうかはわからない。そして、美しき君が誰なのかわからない。

 中将の所に行かなければならないと、山おろし。その頂から守り人が手を合わせていたが、ナナモは振り返ることなく急いで牛車に乗り込んだ。

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