(26)格子の迷宮と東北の休息(一)
暑い、暑いと、ナナモは一人牛車の中で、独り言を繰り返していた。先ほどとは打って変わって、ガタンガタンと乗り心地まで悪くなる。この衣を脱ぎたいし、御簾も上げてもっと風通しを良くしたいし、牛車の速度もあげたいし、何よりも先ほどから喉がカラカラだ。しかし、御簾から垣間見える外の風景を見ても今どこをどの方角に向かって移動しているのかわからない。ナナモはまるであの夏の剣道大会の時に剣道の道具を身に纏りながら正座し、ただひたすら身動きひとつせずに出番を待っているかのように身を任せるしかなかった。
それでもここは道場ではないのだと、ナナモが噴き出る汗をこらえきれず、とにかく飛び降りてでも外に出たいとまさに身体を動かそうとした時に、牛車が急に立ち止まった。
御簾が開きどこからともなく涼風が流れ込んでくる。その瞬間、ナナモから湧き出ていた汗は引くどころか、飛ばされたようで、乾いた肌は妙に爽快で、不思議と気分以上に身体も軽くなっていた。
ナナモは何時しか薄衣に着替えていた。先ほどの爽快感は気のせいではなかった。ただし、いつの間に?とはもう思わない。もはや身を任せるしかなかったからだ。
ナナモは牛車から降りた。当然、牛の姿は見えない。それでも、バシャバシャと水を飲むような音が聞こえる。
ナナモは牛が一番休みたかったのだと、ナナモが牛車を操ることは出来ないことは重々知りながらも自分の事しか考えなかったことを悔やんだ。
「ここはどこなのだろう」
まさかと思いながら、どう見ても糺の森とは思えない。それどころか草木一本すらも生えていないいかにも手入れが隅々まで行き届いている大きな門構えの前でナナモはしばし呆然としていた。
ギギッーと、木の摩擦音がしたかと思うと、急に屋敷の門があいた。
「お待ちしておりました」
中から女房達が出てきて深々と頭を下げて敬意を示しながらナナモを中へ中へと誘ってくれた。
ナナモは本来臆病で用心深い。しかし異世界だとつい箍が外れる。ナナモは何とかなるだろうと牛と同じで身体を休めたかった。
東風の方の屋敷に劣らず立派な作り構えだ。ナナモは車宿りから中門を通り、新緑に覆われたそれでいて簡素だが涼やかな庭先を横目にしながら出居に案内された。
「ようこそおいで下さいました。さぞお暑かったでしょう。ここで心行くまでごゆっくり休まれて下さい」
ここも女性主人なのだろうか、西の方や東風の方と同年齢のようだが、客人を迎えるためであろうか単に薄手の袿を重ねていた。きっと、絹で出来ているに違いない。もはやナナモはそれだけでこの女性の高貴さを推し量ることが出来た。
「あの…」
「月の君でいらっしゃいますね」
ナナモは驚いた。なぜなら初めてここに来た。もちろんたまたまである。
でもどうしてだろう?
「花梨の姫から聞いております。もし、牛車が止まり、若き君が降り立ったなら丁重に遇していただきたいと」
「花梨の姫からですか?」
ナナモは驚いた。もしかして花梨の姫がこの場所に来るように誘導したのだろうか?それとも牛車にナナモには黙って行き先をつげていたのだろうか?
ナナモはそれにしても早すぎはしないかと勘ぐったが、確かに乗り物として牛車は遅い。駆け足でもそれなりの使者に託せば先回りすることなど容易かもしれない。
「私は花梨の姫から里の方と呼ばれているものです」
ナナモは花梨の姫とはどういうつながりがあるのだろうと思いながらも、なぜかこの里の方というおそらくずいぶんと高貴な方の落ち着いた優し気な物言いや所作に次第に心が和んでいく。
叔母の様だ。ナナモは里の方の第一印象をそう感じた。だから、さあ奥へと、里の方自らに誘われても変にかしこまった緊張感が微塵もわかなかったどころか、どのような経緯があったにせよ、ここに立ち寄れてよかったと思った。
「それにしても中将様によく似ておられる」
ナナモは恐らく今でいう応接間のような場所で座を降ろすと、改めて対面したナナモを見て里の方が呟いた。
西に方にも言われた。もし、東風の方ももっと元気なら同じことを言っていたに違いない。
「中将とはどのような?」
ナナモは尋ねてからしまったと思った。特にこの時代は男女の関係については色々な関係がある。単純に男尊女卑という関係だけではない。上流貴族の間でのいわば社交界でのつながりもあれば、政略的なつながりもある。
「私の初恋の方と言った方がよいのでしょか?でも今はお互いが齢を重ねたからでしょうか、友達と言いますか、お互いがよい相談相手となっております」
ナナモの後悔の顔色を察したのだろうか、構いませんのよと、穏やかな笑顔を見せてからナナモに言った。
「花梨の姫とは親しいのですか?」
ナナモは最初にそう尋ねるべきだったのについ寄り道したのだ。
「花梨の姫から月の君には全てお話ししても良いとお聞きしています」
ナナモは驚いたが、里の方は一息入れてから話を続けた。
「私と花梨の姫の母親である東風の方とは中将様とのお付き合いから知り合ったのです。姫も幼い時は東風の方とよく遊びにこられていたのです。しかし、月日が、お互いの距離を拡げてしまったのか、ここにはこられなくなり、相談事も私にではなく中将様だけに色々と相談されるようになられたのです。その事はご存知ですよね」
ナナモは頷いた。
「東風の方はある貴族に姫を嫁がせようと中将様にお願いしていたのです。東風の方は上流貴族出身ですが、独り身になられてからは、困っておられたので、娘の幸せはさることながら、東風の方の面倒も見て頂けるような貴族へとその出自がまだ影響として残っている間にと思われたようです。しかし、ある日姫が私の所にこられまして、私にはやりたいことが今はあるとおっしゃられ、中将様に私から頼んでもらえないかとお越しになったのです」
「直接中将に頼めばよかったのではないのですか?」
「そうですが、そうできないご事情があったのでしょう」
ナナモはそう言えばと中将の事を尋ねた時に言葉を濁したことを思い出した。
「でも、私が中将様に頼めば角が立ちます。だから、丁寧にお断りしたのですが…」
「花梨の姫は納得されたのですか?」
「しばらくはご納得されずに、何とかとおっしゃられたのですが、結局、あきらめて頂いたのです。ただ、母親の所には帰りたくないからと、ここに居らせてほしいと、それで、しばらくお預かりしていたのですが、中将様が間に入ってくださって、結局、もう少し、嫁入りの学びをさせようと西の方の所へとお願いしたようです」
そうだったのかそれで、西の方の所に花梨の姫はいたのだ。
「姫の母はご納得されたのですか?」
「いいえ。それで私もしばらくは姫の母とさらに関係が…」
もしかして、姫の母は生霊として里の方に憑りついたのかもしれない。しかし、ナナモの前にいる里の方はやつれもしていないし、健康そうだし、なんと言って穏やかだ。
「それからしばらくしてから姫が、あの話、やはりお受けしようと思うと、私の所にふらりと来られたのです。私は本当にそう思うのですかとお尋ねしたところ、母上の御容態の事を話されて、それは自分の我儘のせいだと涙を流されました」
花梨の姫は優しい。それはカリンも同じだとナナモは幾度か花梨の姫に疑いの目を持ったことを恥じた。
「でも実は、花梨の姫が西の方の所に行かれてからしばらくして、先様からお断りの御使者がこられたのです」
「断り?」
「そうです。東風の方の噂をお聞き付けたようで。だから、あの話は無くなったのですけど、そのことが余計に東風の方の心中を重くしたようで、それからは母娘ともとてもつらい日々を送っておられたのです」
ナナモは同じではないが両親に迷惑をかけたのではないかと悩む子供の気持ちが分からないわけではない。
「花梨の姫もその後あれやこれやとあったようで、東風の方以上に心労が激しくなったのですが、ある物語を聞いてからは、何か少しお元気になられたようで」
「ある物語とは?」
「文箱のお話しです。そして、月の君が現れると」
「月の君ですか?」
そうですと、まさしく、目の前にその月の君がいることに里の方は始めて驚きの瞳を輝かた。
「姫から文箱のお話しを聞かれたのですか?」
「いいえ、けれど、月の君ならご存知だと花梨の姫はおっしゃっておられました」
ナナモは、困惑の表情をあからさまに見せたのだろう。里の方は違うのですかと、尋ねて来たので、ナナモも正直に話してよいだろうと今までの事を全て里の方に話した。
「こんぶの君が西の方にお話しされた物語でしたか」
里の方はきっと夢物語だと思ったのだろう。落胆の表情をナナモと会ってから始めて見せた。
「でも、花梨の姫以上に中将がその物語に興味を持たれているのです」
「中将様が?」
「はい。夢物語だと皆が思っておられる文箱の物語をです」
「なぜそう思われるのですか?」
「その物語が書かれた巻物から、物語が消え、西の方が愛してやまないその物語の語り主であるこんぶの君は雲隠れされているのか消息が不明なのです」
「あなた様は信じておられるですね」
「いいえ、そのような文箱はあり得ないと思っていますし、あってはならないと思います。ただ、もし、巻物に何かが憑りついていて、物語が読めなくなっているのなら、是非とも読めるようにしてあげたいのです。なぜなら西の方のこんぶの君への想いの全てですから」
ナナモは少し嘘をついた。きっと、文箱は確かに存在している。そしてその文箱の力で花梨の姫の母を助けることが出来る。そして、そうすれば花梨の姫はきっと自らが望む未来に向かってこれから歩いて行けそうな気がした。
「あの…」
ナナモは歯切れの悪い、やや失礼な切り出しだとさえ気付かずに尋ねた。
「花梨の姫には誰がお好きな人でもおられるのですか?」
ナナモの問いに里の方は少し目を丸くしたようだ。それでもすぐに先ほどの顔に戻った。
「これから月の君を奥の寝殿にお連れしようと思っております。そこでならもっとお寛ぎできるはずですから。ただ、そこには今私と一緒に住んでおられる朝顔の姫がいます。実は朝顔の姫は中将様が嘗て心をお許しになったお方の娘様なのですが、血縁関係はありません。中将様は朝顔の母君の思い出に浸りながら大切に大切に育てられたので、中将様にはまるでそのようなお気持ちはないはずなのですが、朝顔の君は中将様のことを御慕いしてしまっているのです。この気持ちが何を意味するかは分かりますよね」
ナナモは測りかねたと首を傾げた。
「月の君を見て、慌てられるかもしれません」
ナナモはやっと理解した。そう言えば、皆ナナモが中将に似ていると言っていた。
「でも私はずいぶん若いですよ」
「そうですね。しかし、同じような年頃ですからかえって姫に何かを芽生えさせるかもしれません」
「花梨の姫は、僕にはまったく興味がわかなかったですよ」
だからナナモはカリンに似てはいたが花梨の姫と色々と話が出来たのだ。
「それで、さきほどのご質問ですが、中将様の御子息様がおられて…」
里の方は。慌てて「あ、いや、母君にとても似ておられるので、月の君とは似ておられません」と、付け加えてからさらに話を継いだ。
「その御子息といつも連れ添っておられる方がおられるのですが、実はその御仁に花梨の姫は恋したようなのです」
「もしかして、体つきががっしりしていていかにも強そうなかたですか?」
ナナモはまさかと思いながらタカヤマの事を思い出した。
「いいえ、体格は小柄で細身です。但し、御子息はその御仁の身体は鋼のようだと評しておられました」
「そのお連れの君は、しかし、花梨の姫ではなく、他の姫に恋して居られる」
ナナモはそこまで言ってから、もしかして、朝顔の姫ですか?と尋ねると、里の方は黙って頷いてから、恋とはままならぬものですねと言った。
そうかもしれないとナナモはルーシーのことを思った。ままならぬものはカミになる。もし、ルーシーとの間にカミがおられるのなら毎日のように参拝するのにと少しの間別の世界に飛んでしまった自分をなかなか呼び戻せないでいた。
花梨の姫はだからここには来たくなかったのだし、反対にナナモに会わせることで、ナナモに朝顔の姫の気を移させようと思ったのかもしれない。
花梨の姫を素直に受け入れようとしていたナナモであったが、やはり、色々なことがまだまだ絡み合っているのだと、ため息が出た。
里の方はナナモに話したことで落ち着いたのか、ゆっくりではあるが奥へ進んで行った。
きっとここは寝殿ではあるがリビングの様なところなのだろう。女房たちが幾人かいるが、ひときわ目立つ着物姿の女性の後ろ姿がナナモの目についた。
きっと、あの方が、朝顔の姫なのだろう。
「里の方様、けずりひを用意させました。御一緒に…」と、振り向きざまにそこまで言うと、里の方に続いてやって来たナナモを見て、あっと叫んだ。
そして、ナナモもあっと、声を漏らしたあとに、ルーシーと叫んでいた。
いや、気のせいだとナナモは目をこすり始めたが、コンタクトが取れそうで慌てて目から手を下げた。ナナモはもしかしたらこれは妖術なのかと最初は思ったが、それにしても里の方から先ほど言われたのにとタチが悪いと、それでもいくら見直しても顔はルーシーのままだ。きっと、朝顔の姫の本当の顔はルーシーとは似ても似つかないのだと思う。だから、これはカタリベの悪戯だと、自らに何度も言い聞かせたが、なかなか動揺は収まらなかった。
「こちらは月の君です。とても重要なお役目を果たす途中に立ち寄られたのです」
里の方は何事もなかったかのように、いや、あえて、朝顔の姫の明らかな動揺の気分を押さえるように言った。
「はじめまして」
ナナモは今どのように自分は映っているのだろうと思った。中将に似ているといわれるが、ナナモは当然ながら中将を知らない。それに、コンタクトで瞳は隠せてはいても、顔の輪郭がこの当時の貴族の面持ちとはずいぶん異なっているに違いない。それにナナモは朝顔の姫の事をルーシーだと思っているが、朝顔の姫はナナモの事を中将と思っているのだ、そのギャップにナナモは少し冷静さを取り戻せた。
「中将様とは…」
「全く関係はありません。今回の役割も中将からの頼まれごとではありません」
ナナモは里の方から言われたからと言ってわざとつっけんどんな口調で言ったわけではない。ナナモは気になる女性の目の前では恥ずかしくなってうまく話せないのだ。それに本当はずっとそばに居たいのに、すぐにでも立ち去りたい気分に苛まれてしまう。きっと、ルーシーなら、ジェームズって変わらないわねと、微笑んでいるかもしれない。
「そうですか。失礼しました。でも大切なお役目がおありなのですね。でも、その前に、お暑いでしょうから、どうぞ召し上がれ」
けずりひと言っていたが何だろうと思っていたが、それは今でいうかき氷の事だとわかった。つまりけずりひとは削り氷の事で、平安の時でもこのようなものがあったのかと驚くとともに、里の方はずいぶん裕福な暮らしをしているのだと思った。もしかして、中将から手厚い庇護を受けているのかもしれない。
「この甘味は?」
ナナモがそれほど珍しくとは思わず、氷を口に運んでいるのに、氷に紛れて黄色ではなく黄金色に輝く蜜のことを知らないのかと、二人は驚いている様だった。
「あまづらですよ」
ナナモはそう言われてもと思いながら、でも、どこかで耳にしたような気がしたというくらいしか感じられなかった。それにしてもスマホで調べられないなんてと、少しイライラしながらも、その喉腰に火照った身体の中を冷やされていく余韻に浸りながら、先ほどの思いは薄れてはいないがナナモはずいぶん冷静になっていた。
ナナモはあっという間にけずりひを食べてしまった。ナナモはしまったと、恥じたが、朝顔の君は、中将様に似ておられると、里の方のそわそわした気持ちとは裏腹に、終始にこやかにナナモに見入っていた。
「ところで、どういうお役目なのですか?」
もはや、朝顔の姫はけずりひなどよりもナナモに対する興味を押さえきれなでいる。
「清き水を求めて、糺の森へ行こうと思っております」
ナナモは落ち着きを取り戻したことで、朝顔の姫につれなく出来ないというか、むしろ、色々と話したくなって、つい、正直に言った。
「ここから糺の森へまっすぐ行かれるのですか?」
朝顔の姫の表情が急に暗くなった。
「どうかしたのですか?」
「方角が悪いのですよ」
里の方の助け舟に朝顔の姫が頷いた。
「ここからだと糺の森は鬼門に当たります」
「鬼門?」
ナナモのおおぼろげな記憶になぜか小岩が現れたがすぐに姿を消した。
「そうです。都の北東の位置です。この地から災いが都にやって来ると言われています」
「でも社があるとお聞きしていますが」
「そうですが、この世とあの世の境目であるかのように、ヨミの世界に居られたカミが鬼に姿を変えて、北東の位置からままならぬものをタミにもたらすと信じられているのです」
ナナモはそれは昔の事で、だからタミは二度と黄泉の国からカミがやってこないように、社を丁重に参拝し続け、そして、社のカミに年に一度都にやって来ていただき祭りと称してタミのカミへの畏敬を視て頂こうとしたのだとあの時花梨の姫から聞いたし、其の話を何の疑いもなくそのまま受け入れた。
「その事を一番恐れているのは貴族ではないのですか?」
「いえ、御所に住まわれている方も信じておられます。だから内裏では色々な祭祀が行われていますし、どこに行くにも、皆方角を気にされています」
朝顔の姫は、そうですよねと、里の方に無言で同意を求めていた。
「では、私はその場所に行けないのですか?」
ナナモはそういう場所だからかえって清き水があると思ったので、余計にその方角に向かって行きたくなった。
「そうではありません。しかし、もし、その方角に進みたければ、まずお祓いを受け、さらに向かう日時は吉凶に従わなければなりません」
「なぜですか?」
「しきたりだからです」
朝顔の姫も里の方もいたって真剣な顔付きだった。
ナナモは教科書にはほとんど書かれていないが、平安の世の祭祀や占いは唯一の科学だったのかもしれないと感じざるを得なかった。だから、ナナモは否定することなどできない。それにしきたりについてはナナモはこれまで講義を受けたし、実際その事で弾き飛ばされかけたことがある。
ナナモは、でもそれはタミのしきたりではなく、まだ皇家のもしくは皇家を周りの限られた貴族のしきたりではないのかと思った。そうであるならば、ナナモが、鬼門だと恐れることはないし、却ってお祓いを受け、吉凶に従えば災いが起こる。しかし、ナナモは折角迎えてくれたこの屋敷でその事を言えなかった。
「お祓い以外に方法はないのですか?」
ナナモの問いに二人とも怪訝な顔をしていた。
「一度、方角を変えてから、その場所に向かえばよいのですが、ずいぶん遠回りになりますし、それでも旅立ちの日はやはり良き日を選ばねばなりません」
ナナモはそうですかと、一様納得したように大きく頷きながらも、そんな時間はないし、お祓いの儀式がナナモにどのような変化をもたらすのかと不安を覚えた。
いっそ、糺の森などには行かずに、ここで里の方と朝顔の姫と三人で過ごせたらどんなに楽しいだろうと、どこからという曖昧さではなく、ナナモの心根からという確実性のある囁きが聞こえてくる。
ナナモはその囁きに何度も従おうと頷き掛けるが、その度に、これは試練だと、縦方向の首の動きを横方向の首の動きに強引に変えた。
「どうかされましたか?」
ナナモはきっと首降り人形のような不思議な動作をしていたのではなかっただろうが、二人には滑稽というよりは物静かだが時として不気味に思えるこけし人形のようにナナモは見えたのかもしれない。
「鬼門というのですから、鬼が出るのですか?」
「はい。うしみつの時と言われています」
「うしみつ?」
「はい、夜中ですが、占いの時刻なのでよくわかりません」
ナナモは何となくその時刻を聞いたような気がしたが、ナナモも何時かは分からなかったし、たとえ知っていて、それは夜中の何時ですねと言っても、この時代の人なら普通誰も「はい、そうですね」と答えられないだろうと思った。
「巻物のお祓いをされるために糺の森に行かれるのなら、なおさらお祓いをされ、吉凶を選んだ方がよいと思いますよ」
似ても似つかないはずなのに優しく寄り添うように語りかける朝顔の姫はやはりルーシーそのものだった。だから、あれほど抵抗していたのにナナモは今度こそ大きく頷いた首を上げることが出来なかった。
あれほどの熱意はどこに行ったのだろう。ナナモは一刻も早く糺の森へ行かなければならないということを忘れるほど、叔母に似ている里の方とルーシーに似ている朝顔の姫と三人でいることに心地良さを感じていた。
ナナモはもちろん現代からやって来た。だからこの時代の風習は知らない。いや、漫画や古文などで垣間見た知識はある。しかし、実践が伴っていない。まるで、初めてロンドンを訪れた時と同じだ。ただし、あの時はまだ失意の中から完全に抜けだしてはいなかったし、中学生で未熟だった。しかし、今はそんなことはない。ナナモはあの時のルーシーや叔母からの優しさに報いられなかった自分を取り戻すように話しに興じていた。
しかし、いつものナナモならこれは罠かもしれないとか、これは現実ではないのだとか、疑心暗鬼になりながらも、最終的には使命を果たさねばと動き出すのに、次第に日が傾き始め強烈は夕陽がナナモの顔を黄金色に染めだしても、ナナモらしくない饒舌は衰えなかった。だから夕餉の時間ですと、女房達が御膳を運んできても、ナナモは、折角夢の世界で陶酔していたのにと、思わず女房達を睨みつけてしまいたくなる心持ちだった。
平安貴族の食事はそれほど豪勢ではなかった。むろん寮の食事よりは高そうな食材を使っている。しかし、それとて現代と比べているだけで、アワビの蒸し物にしても当時はふんだんにあった安価な食べ物だったのかもしれない。
しかし、味付けはヌノさんとは比べ物にならない。というか、素材をただ単に蒸したり、焼いたり、煮たりしているだけだ。ナナモはそれでも知ったかぶりで食事を始めたが、御飯の膳の四隅に塩、酢、酒、醤が小鉢に入れられ乗っていて、自分で味付けするのだと、二人を見ながら何となく理解するまで冷汗ものだった。
この時代、皆でワイワイと話しながら食事をするという風習はまだなかったようだ。ナナモは折角の食事なのに早く終わらないかと気もそぞろだった。それでも最後にほうとうというまくわ瓜のデザートが出てきた時にはその緊張が途切れ、三人とも食べながらもその時を境に一気に話し始めた。
何時饗宴が終わったのだろう。ナナモはいつしか眠りについていた。きっとこれからもっと楽しい夢が続きそうだ。ナナモはきっとはしたなくも独り言でにやけている寝顔を寝ながら想像していた。
そんなナナモを誰かが揺り起そうとしてくる。ナナモは里の方なのか。朝顔の姫なのか?もし、朝顔の姫なら、夜中にナナモを起こしてどうしようとするのか。しかし、待てよ。ここは平安の都で貴族の世だ。西の方の時のこともある。ナナモはこみあげて来る喜びを殺して、目を開けずに鼻をひくひくさせてみる。あの時の様な妖艶な香りは漂ってはいない。そうであるならば、やはり朝顔の姫なのか。しかし、朝顔の姫からは妖艶ではもちろんないが少し甘美な香りがしたはずだが香りは全くしなかったし、そもそもルーシーが夜一人でナナモを誘ってくることもない。
やはり夢なのだ。ナナモは嬉しさをこらえきれなくなって頬が緩みながら、夢なら構わないと腹をくくり、思い切って瞳を開けた。
ナナモは一人、四隅を仕切られた寝所のような所で寝ていた。慌てて半身を起こしてあたりを見渡すが誰も居ない。ナナモはまだうとうととしていたのか、朦朧としていたが、それでも何かが振るえていることだけはわかった。
まさかスマホと、着物の袖に手を入れようとした時に、その手首が動いているのに気が付いた。
ナナモはもしかしてと、少しずつはっきりしてきた頭を何とか再起動させながら、手首を両眼に近づけた。
勾玉の腕輪がかすかに光ながら振動している。そうか、ナナモは目覚まし時計に起こされたのだ。ナナモがそうはっきりと認識しながら立ちあがった時、腕輪の振動は収まった。
辺りは真黒だが、まさか日の当たらない密室に閉じ込めたわけではないはずだ。ナナモは思わず、胸元に手をいれた。そして、ゆっくりと引き出した。巻物は確かにある。ナナモは安心した。と同時にまだ何も書かれていないままなのだと、やっと使命を託されたナナモに戻った。
ナナモはまだかすかに光を発している腕輪を見た。午後十一時前だ。ナナモはあまりにもはしゃぎ過ぎてうたた寝をしていただけなのだ。ナナモは目がぱちりと覚醒していたが、もう一度横になろうと、身体から力を抜きかけた。その途端、また、ナナモの腕輪が振動し始めた。
ナナモはまたハッとして姿勢をしっかりさせた。するとまた振動が止まる。
もしかして…、ナナモは腕輪の嵌っていないもう一方の手を袖の中に入れた。
三角縁神獣鏡。
ナナモは躊躇なく取り出した。鏡の裏側に装飾されていたウサギが今にも動き出そうともぞもぞしている。
「どのような困難が待ち受けようとも、ここからは鬼門にあたる糺の森へうしみつの時に訪れてこそ、清き水が得られるのだ」
ナナモは夢見心地ではないはっきりとした意識で自分を鼓舞するかのように独り言を発していた。
ナナモは三角縁神獣鏡にしたがって、真っ黒な寝所を抜け出した。
音のない世界を音を出さずにまるで透明人間のように移動しながら、途中で導かれた大甕から汲んだ真水で自らを清めると、良き日、良き時、良き方角のことなども気にせず、何よりも離れがたき二人の面影を振りきるように、ナナモは牛車のところに足早に向かった。
きっと、うしみつの時刻には糺の森に着くはずだ。ナナモは牛車に乗り込むと、ナナモの気持ちをまったく察することもない速度で歩き出した牛に向かってまた独り言をこぼしていた。
どれほどの時間が経ったのだろう。牛車が急に止まった。ナナモは思わず勾玉の腕輪に視線をやる。思った通り、午前二時を示している。
ナナモは牛車の御簾を挙げた。真黒な世界を想像していたが、月がかすかに明るさをもたらしてくれる。先ほど三人で過ごしていた時間とは比べ物にならないほど牛車の中一人無言でいる時間は長く感じられたが、勾玉の腕輪にせかされた弱い意志に、このまま牛車がまた屋敷に戻ってくれたらと 心が揺さぶられることは一度もなかった。ナナモの使命感を芽生えさせた強い決意が蘇って来たのだろうと、ナナモは雲隠れしそうな夜月に自ら語りかけるしかなかった。
厳かな門や厳粛な鳥居があるわけではない。しかし、誰が見ても急に両側から生茂る草木の間に通ずる小道を見れば、誰もがこの場所が糺の森の入り口であることがわかる。
虫の鳴き声や鳥の鳴き声は全く聞こえないし、押しつけられた夏の夜風は草木を揺らす力もなかった。
無の世界。ナナモから五感さえ消えていた。
それでも御手洗の水を求めなければと、ナナモの決意の声がかすかに聴覚だけでも揺り起こさなかったら、ナナモはこの場でいつまでも立ちすくんでいただけだったろう。
ナナモは森の中に足を踏み入れようとあたりに注視しながら、ゆっくりと歩を進めた。その足取りは重い。まるで誰かがナナモを羽交い締めにしているかのようだ。
ナナモは足を止めた。やはり、里の方や朝顔の姫が教えてくれた吉凶に従わなかったからなのかと、今更ながら悔やみかけたが、その一方で、王家のしきたりとして、真水で清めてきたナナモは難なく糺の森を通り抜け、御手洗の水にたどり着けるだろうという自負もあった。
ナナモは改まって姿勢を正すと、糺の森の遥か奥深くに鎮座されている社に向かって 二礼し、二拍し、自らの名を名乗った。むろん社からは何も聞こえてこない。それでもナナモは力がスーッと抜けるような穏やかな気持ちに戻ることが出来た。
ナナモは再び糺の森に向かって歩き出した。先ほどよりも足取りは軽い。やはり間違ってはいなかったのだ。ナナモはもはや何も杞憂を抱かなかった。
ナナモは最後の一歩を踏み入れようと足を挙げる。その瞬間おぼろげながらも月あかりがかすかな視覚を与えてくれていたのに、暗雲が立ち込め、鋭いイナズマが光って、ナナモの足元にまるで鋭い矢が飛んで来たかのように、地面に突き刺さった。と同時に、ナナモは物凄い力で弾き飛ばされていた。
ナナモはすぐに立ちあがろうとしたが、足が痛い。よく見ると血がうっすらと滲んでいる。これはどういうことだ。イナズマではないのかと、ナナモは思った。
ナナモの頭上から声が聞こえる。でも何を言っているか分からない。それに今まで人の気配など全くなかったのだ。だからナナモは思わず見上げた。暗闇でよく見えなかったが、人影がまるで空中に浮かんでいるかのようにナナモを睨みつけている。
「誰かがあなたを狙っているのです。先に行かせないように」
何がしかの武具を付けた御仁が馬上で叫んでいる。ナナモの視覚は闇の中でもその姿を捉えることが出来るようになっていた。
「僕を狙っている?」
ナナモがその御仁にその理由を聞くか聞かないかの間にもまたイナズマが光り、ナナモの近くに突き刺さった。
「早く私の後ろに乗ってください」
ナナモはどうしようという迷いを打ち消すほどの気迫に飲み込まれ、引き上げられた腕力になすすべもなく、馬上に引き上げられた。
御仁はやっと声を張り上げたかと思うと、糺の森から遠ざかった。ナナモは最初そのことにすぐ気が付かなかったが、あっと叫んで、思わず掴んでいた御仁の衣服から手を放した。
「糺の森にどうしても行かなくてはならないんだ」
ナナモは渾身の力を込めて叫んだ。
「まず、まっすぐに南へ下ってから、再び、まっすぐ北へ上がらなくてはならないのです。だから、しっかりつかまってください」
ナナモよりも力みのない声ではあったが、はっきりとナナモに届いた。
その途端、馬の前足が跳ね上がり、御仁はうまく反転させると、先ほどよりも速度を上げて再び糺の森に向かって馬を走らせた。
イナズマだと思っていたが轟音もなく、閃光もなかった。ナナモはまだ動揺が収まってはいなかったが、それでも矢じりが地面に突き刺さっていることが分かった。
切っ先が闇夜でも光ったのだ。
御仁は左右に馬を操ることなく、放たれた矢の速度よりも少しでも前に馬を進めようと、何度も嗾けながら、先ほどの言葉通り一直線に糺の森へと馬を走らせた。
ナナモがひとりでその入り口に差し掛かった時には、誰かに引っ張られ拒まれたのに、御仁と共であったからなのか、それとも北西ではなく北へまっすぐに進んだためなのか、御仁が操っている馬は速度を落とすこともなく、まるで競走馬のような力強さで鼻先をやや下げながら、糺の森へ二人を誘ってくれた。
糺の森の中に入ると何事もなかったかのようにイナズマのような矢の襲来は無くなった。湯気が身体中を覆っていた馬はその事がわかったのか次第に速度を緩めゆっくりと止まった。些細な物音も吸い取ってしまうように小道の両側には綿菓子のように膨れ上がった草木の葉が生い茂っていた。そして、先ほどまでの暗幕はすっかり巻き取られ、木漏れ日というにはあまりにも弱々しい月光が、辛うじて周囲の凹凸を映し出していた。
「どうして姫の言うことを聞かなかったのだ」
激しい鼓動だけが伝わってくる馬上から、ナナモとともに降りた御仁は、まるで殴りかかるような声でナナモを諫めた。
ナナモは馬上での威圧感から巨人かと思ったが、背丈はナナモより低い。明らかに叱られているのにナナモは御仁を見下ろしていた。だからと言って、ナナモの立場が変わるわけではない。御仁の目じりは上がったままだ。
「姫とは朝顔の姫のことですよね。ところで…」
ナナモが尋ねると、御仁は急に身なりをパタパタと正した。
「…の朝臣と皆にはそう呼ばれています」
ナナモは…が聞こえなかったというか、耳慣れない言葉で聞き取れなかったのだ。しかし、この状況で聞き直すことなど出来ない。ただ、物言いと振る舞いから、いくらか齢を重ねた御仁を想像したが、少し日焼けしたような顔肌であったが、ナナモと同じような年齢なのではないかと思った。そして何よりもナナモが直視してはならない気品が備わっていた。
動きやすいように繕われた狩り衣には、貴族とは異なり大刀を帯び、弓矢と矢の入ったやなぐいを肩越しと脇に付けている。
朝臣は武官なのだ。ナナモは花梨の姫がなぜ西の方の所に居たのかおぼろげながら理解した。
「僕は…」
「月の君ですよね」
ナナモはまた自らの名前を言うきっかけを失った。そして、どうして、名前を知っているのだろうかと尋ねはしなかった。なぜなら、たまたま、いや、おそらく意を決し夜中に忍び込もうとやって来た朝臣にいきなり朝顔の姫がナナモの事を話したのだと想像出来たからだ。
朝顔の姫と…と、急に朝臣は先ほどの形相を緩めた。ナナモはすかさず、花梨の姫をご存知ですかと尋ねた。朝臣は急に話題を変えられて驚いているようだったが、はいと頷いた。
「花梨の姫に頼まれて御手洗の水を汲みにやって来たのです。里の方の所に立ち寄ったのは、花梨の姫のきっと計らいだったのでしょう。きっと僕が鬼門に直接行くのを諫めるためだったのだと思いますし、朝顔の姫にもあれだけ助言されたのですが、時間がなかったので、この場所に直接来てしまったのです。やはり、都からでは良くない方角なのですね」
ナナモはすぐに謝った。朝臣は正直に頭を下げるナナモにこれ以上の言葉を掛けられないでいる。
「糺の森には鬼が居るのですか?」
ナナモはオンリョウと言いたかったがぐっとこらえて尋ねた。
「そうですね。そう考えられています。けれども鬼が必ず災いをもたらすものだとは言い切れないのです」
「どうしてですか?」
「鬼は恐ろしく強いので、都に睨みをきかせることで、悪霊を追い払ってくれることがあるからです」
「なぜそう思われるのですか?」
「災いだけをもたらす鬼が住む森に、カミが住まわれる社があり、清き水が湧き出てくるでしょうか」
朝臣はいつの間にかきりっとした顔に戻っていた。
「そう言えば、夕立ちのような矢じりは全く来なくなりましたね」
夕立ですか?と、朝臣は始めて不可思議な笑みをこぼした。
「だからと言って、この森がいつも守られているわけではありませんし、清き水だと言われている御手洗の水を簡単に汲み取ることは出来ないのです」
御手洗の泉は社の傍にはっきりと見ることは出来ても掬うことが出来ないという意味ですよと。付け加えられて驚いた。
でもどうしてだろう?
「ご存知ですよね」
朝臣が当然のように尋ねてきたが、ナナモが、答えられないでいると、やはりと、溜息交じりのかすかな声が大きく響いた。
「朝顔の姫は、あなたを守り、そして、糺の森の掟をあなたに知らせるために私を遣わせたのです」
朝臣は何かを疑うような目つきになった。
ナナモは、朝臣の気持ちを察する余裕などなく、糺の森の掟について素直に尋ねた。
「ご存知のように糺の森の一番奥には社があり御手洗の泉から清き水が湧き出ています。しかし、先ほども言いましたが、ここは都からは鬼門です。そしてこの森には恐ろしくて強い鬼もいます。なぜならその清き水は鬼が守っているからです。昔は鬼を倒して清き水を得たのでしょうが、今はそのようなことを社の前で行うことはできません。その代わり、鬼に勝るとも劣らない強い決意を示すことが必要なのです」
「強い決意?」
「そうです。その決意とは森に掲げられた的に矢を打ち込むことです。的は三つありますが、いつどこからどのような姿で現れるかわかりません。もし、一つでも外せば、森の外に投げ出されます。すなわち、あの夕立に出くわすのです」
的に矢を打ち込むのかと、ナナモからため息があからさまに漏れて来た。そして、剣道部ではなく、弓道部に入っていればとまた小岩の顔が浮かんできた。
「的に矢を打ち込むということは鬼に矢を打ち込むことです。だから、素早く的から走り去らねばなりません。だから通常は馬上から矢は打ち込まなければならないのです。すなわち全速力で馬を御手洗の泉に向かって走らせながらどこからともなく現れる的に矢を打ち込まなければならないということです」
それが決意なのか?ナナモは決意とは心の持ちようだと思っている。だから他に方法はないのだろうかと思った。
「他に方法はないのですか?」
ナナモは思わず朝臣にそう言葉を漏らしていた。
朝臣は最初驚いたような面もちでナナモを見ていたが、やはりそうなのかと落胆のため息に変わった。
ナナモはうつむかざるを得ない。ただ、御手洗の水を何とか汲みとって帰りたいという決意は人一倍強いと思っている。ただし、それは剣道の新人戦での一回戦の時と同じだ。決意だけでは試合には勝てない。ナナモはそのことをあの時十分に思い知らされた。
でも、待てよ。ここは異世界だ。それに、ナナモは走ることだけは自信がある。だったら、的に矢を射りながら進むより早く走れば、鬼に捕まることもないのではないだろうか?
しかし、異世界でいるといっても、本当に馬より早く走れるだろうか?それに先ほどの矢で足が傷ついている。現実でも異世界でもおなじように傷付いてしまうというアヤベの言葉を思い出す。
ナナモはしばし考え込んでいた。
「月の君よ。今、あなたは、一人で御手洗の泉に行こうと考えているのではないですか?」
ナナモは朝臣から言われて、ハッとした。まさしくその通りだ。ナナモが一人で決意を示さなければ、御手洗の清き水をくむことなど出来ないのだと思っていた。
「良いですか、なんでも一人で解決しようと思わないでください。人には得て不得手があるのですから」
生茂る森の新緑が初めてさざ波のように動いた。
ナナモはそうかもしれないと思った。なぜなら、かすかな記憶が、嘗てナナモが異世界で窮地に陥った時にナナモを一生懸命助けてくれた仲間がいたことをおぼろげだが思い出させてくれたからだ。
「ありがとうございます。正直に言って全速力で走る馬にまたがりながら的を矢で打ち抜くことなど私にはできません。もし、力添えしていただけるのなら、お願いしたいです」
ナナモは丁寧に頭を下げた。
「わかりました。では、振り落とされないように私にしっかりつかまっていてください。それと、あなたの決意を込めて私は矢を射るのですから、どのようなことがあっても決して目をつぶらないでください」
鬼が来るのだ。ナナモは朝臣の言葉を聞いてそう思った。しかし、鬼はオンリョウではない。意識を失うことはないはずだ。ナナモは大きく頷くとわかりましたと答えた。
朝臣はナナモと同じように力強く頷くと、さっそうと馬に飛び乗り、ナナモを引き上げた。
「これから我々は糺の森を駆けぬけ、社に向かい御手洗の泉にたどり着く。そのためにどのような糺の森の試練も必ず克服する。そのゆるぎない行動は、我々の決意だ」
朝臣の声は闇夜で静まり返っている糺の森に染み入るような力強い声だった。
その言葉を聞いたからなのか月光も二人を手助けしてくれる。小道だと思っていたが都の大路のように広い。
朝臣は馬に気合を入れ、呼応するように馬は全速力で走りだした。
赤鬼、青鬼、そして、最後には両面鬼が二人の間に現れ行く手を遮ろうとした。ぬるぬるとした体液を発する大蛙や、燃え滾る炎を冠にした一つ目の大木、そして、鼻がもぎ取れそうなくらいの悪臭を放つ大昆虫などが妖怪として鬼に従いナナモの傍まで不思議な冷気とともに近づいてきたが、朝臣との約束があるナナモは決して目を背けることはなかった。鬼は的である。朝臣も同じように視覚として鬼や妖怪をそう捉えているのか分からなかったが、朝臣が放つ矢は馬上の不安定な姿勢にも関わらず、見事に三つの的を撃ちぬいて行った。
朝臣が楽々と的を撃ちぬいたということではないことを、身体からの熱気の放散と、大太鼓の連打の様な胸の鼓動でナナモは知ることが出来た。
「ここから先が社です。私はこの場所までしかあなたをお連れすることが出来ません。何故なら御手洗の清き水は清き願いを持つものしか汲み取ることが出来ないからです。もはやここには鬼はいません。何故なら神域だからです」
馬も興奮し疲れていたに違いない。それでも、そんな素振りさえ見せず、静かに止まり、ナナモが馬から降りるのを優しく手助けしてくれた。馬も仲間なのだ。ナナモは軽く馬尻に手をやった。
「本当にありがとうございました」
ナナモは素直に頭をさげながら、ふとオンリョウのことが脳裏に浮かんで不安になった。
「私は糺の森の入り口に戻ります」
しかし、朝臣はそんなナナモの憂いなど気にせずに踵を返そうとする。ナナモはどうしてと思った。なぜなら先ほど朝臣は何事も一人ですることはないでしょうと言ってくれたではないか。それなら、ここで見守ってくれていてもいいはずだと思ったからだ。
「帰りは鬼門に向かうわけではありませから、的を狙うわけではありませんし、もし、月の君が清き水を手にすることが出来れば、鬼たちは近づいてきません。ただし、ヒトは違います。だから、私は戻らなければならないのです」
朝臣は不気味な笑いを浮かべ、すぐに馬の方向を変えると、ナナモの前から走り去って行った。
もしかしたら、今からあの矢を打ち込んできた誰かを蹴散らしに行ってくれるのかもしれない。しかし、それはナナモの想像だ。それよりも清き水だと不安が消えなかったわけではないが社へ向かおうとナナモは腹をくくった。
艶やかな朱色に染められた大鳥居の前で一礼してからナナモは中に入った。立派な手水舎もあり、ナナモは身を清めた。
ここには本来平安の都を守る大きな社がある。しかし、ナナモが向かうのは小さな社でありその脇から湧き出る泉である。
ナナモは先に大きな社に参拝するべきか迷ったが、もはや、鬼門に向かっているナナモであったし、清き水を欲するという気持ちだけで訪れたということを信じて、御手洗の社に向かった。
ナナモは小さな社に参拝し、清き水を得ようとした。しかし、社の目の前にはくぼみがあったが、水は一滴もそこにはなかった。
やはり、自らの力でここに来なかったからなのだろうかと、ナナモは一瞬その事を悔やみかけたが、いや、朝臣が居たからここまで来られたのだと思い直した。そして朝臣のためにも、ここは自らの決意を示すべきだと思った。
でもどうしたら?
真夜中の社には誰もいない。いや、社にはカミがおられるはずだ。だから、ナナモは社に向かってもう一度柏手を打った。
「花梨の姫の母親から生霊を追い出したい。そのためには清き水が要るのです」
ナナモは大声で叫んだ。しかし、水は湧いては来なかった。
どうすればと、ナナモが自問した時に、ふと、懐に忍ばせている三角縁神獣鏡の事を思いだした。ナナモは思い切って取り出す。そして、その鏡で自分を映し出した。ナナモはそこにはジェームズ・ナナモが居ると思ったが、まるで知らない君がいる。
月の君?そうか朝臣の言葉を思い出す。
清き願い。
ナナモは三角縁神獣鏡を傍らにおくと袂から巻物を取り出した。
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「本当はこの巻物のためにここへ来たのです。けれども、花梨の姫の母親を助けるということは嘘ではありません。この巻物に書かれてある物語は文箱を探す手掛かりになるからです。そして、その文箱があれば花梨の姫の母親は助かるのです」
ナナモの声は周囲に反響することなく暗闇に静かに溶けていった。
しかし、やはり先ほどと同じように何も起こらない。ナナモはそれでもと清き思いを示す為に、懐から巻物を取り出すと、乾ききったくぼみの底に置いた。
もうすぐ夜が明けるのかもしれない。月光が弱くなっていく。ナナモはそう言えばと先ほど傍らに置いた三角縁神獣鏡を探した。
闇夜なのに輝いている。もしかして月光を吸収したのだろうか。
ナナモは取りに行くために近づいた。その瞬間、三角縁神獣鏡から強烈は光が放たれて、ナナモを照らした。一瞬の事だったので、目を閉じ顔を背ける程度の事だったが、拾い上げて鏡を見た時にハッとした。その鏡にはジェームズ・ナナモが映っていたからだ。
「月の君…」
ナナモが呟いた時に何もなかったくぼみから少しずつ水が湧き出て来た。
「あっ」とナナモが叫んだのは、次第に増してきた御手洗の泉の中で、巻物の紐が解け拡がっていたからだ。ナナモはすばやく御手洗の泉へ入って、巻物を取り出した。
何かが書いてある。やはり、御手洗の水は清き水なのだ。ナナモはしばらく立ち尽くしながら、広がった巻物を眺めていた。しかし、おそらく平安の文字なのだろう。ナナモには細いミミズが這っているようにしか見えない。
三角縁神獣鏡なら何とかなるとナナモは三角縁神獣鏡に何かアプリの様な機能が作用しないか願ったが何も起こらない。しまいにはスキャン装置のように巻物にこすりつけようとしたが、そうする前に文字が薄れていく。
あっと、最後にナナモが叫んだ時には、何も書かれていない巻物に戻っていた。
「流されるぞ。カミは都に災いをもたらすものを忌み嫌う。だから、その場を早く去るのだ」
朝臣の声のような気がした。
ナナモは周囲を見渡した。しかし、だれも居ない。それでも確かに、湧き水は知らぬうちに大きな波となり鬼の形相でナナモに襲い掛かろうとしている。
やはりオンリョウがいたのか?ナナモに先程抱いた不安にまたさいなまされそうになったが、これは単なる幻覚だ。ここは社でカミの聖域だ。オンリョウが出てくるはずはないと、懸命に自らを律した。
ナナモはここまで来たのにと思いながらも、慌てて巻物をまき直し、小袋から取り出した水筒に、すばやく御手洗の水を汲みいれた。
でもどうやってここから都に戻ればいいのだろう。
「朝臣!朝臣!」と、先ほどのことがあったので叫んでみた。しかし、誰もこない。もちろん馬のひづめの音さえしない。
もはや走るしかないのか?でも、先ほどの傷が…。
あれ、痛くない。治っている。そうか、やはり清き水なのだ。
ナナモは、間一髪で大波のように変化した湧き水に覆いかぶされそうになったが、巨大な葵が傘のように拡がってさらわれることから守ってくれている間に全速力でまた糺の森を駆け抜けて行った。




