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ジェームズ・ナナモと格子の迷宮  作者: まれ みまれ
25/33

(25)格子の迷宮と西南の娘

「なんとおっしゃったのですか?」

 ナナモは牛車の中に入ると誘い人にすぐにそう尋ねられた。誘い人は女性だ。それも恐ろしいほどカリンに似ていた。しかし、よく見るとずいぶん若いようにも思える。なぜなら白粉などしていない張りのある頬に赤みがさしていたからだ。

「いや、別に。ところであなたは?」

「私は、西の方の所で和歌などを習っている者です」

 そうかあの女性は西の方と呼ばれていたのかと、ナナモは初めて知った。

「名は?」

花梨かりんと言います」

 えっ、本当?でもカリンってさっき言った時には反応しなかったはずだ。いや、まてよ、もしかしたらカリンを驚いて英語発音してしまったのかもしれない。それなら、確かに聞き取れなかったかもしれない。いずれにせよ、ナナモが夏期講習で出会ったあのカリンではないはずだ。それでも、好都合だ。名前を呼び間違えることはない。

 ナナモは少し安心したが、この時代、本当の名前を隠すこともある。西の方と先ほど言っていたが、それすら分からない。だから、花梨も愛称の様なもので、明らかに艶やかな衣装に身を包んでいることから、ひよっとしたらかなり高貴な方の娘さんかもしれない。

「花梨の姫と呼ばせていただきましょう」

 ナナモがそう言うと、先ほどよりも花梨の姫の頬は赤くなった。

「僕は…」

「あなたは月の君ですよね」

 ナナモはカリンだと思ったからこそ、自らを名乗っても良いと思ったのに、急に遮られるというか、断定された。ナナモははっきりと言い切った花梨の姫の言葉を遮らず、ああ、と声に出さずに頷いた。

「私は西の方から月の君をお助けするように仰せつかりました」

 ナナモは月の君ではない。それに、あの、西の方が誰かにナナモの事を頼んでいたそぶりもないし、だいたい、ナナモの本当の姿を見てテングだと思ったのか、気を失ったのだ。そんな人物に関わろうとするだろうか?和歌を習っていると言っていたがそれすら怪しい。

 それにしても花梨の姫はカリンに似ている。ナナモは、なぜか京都の駅で見たカリンの悩まし気な顔を思い出した。

「でもどうして僕が月の君だと思ったのですか?」

 ナナモは尋ねてみた。

「西の方の物語に書かれていたからです」

「もしかして、あなたはその物語を読んだことがあるのですか?」

 ナナモは思わず、えっと、言葉を漏らしたあと、慌てて、言葉を継いでいた。

「いえ、ただ、西の方が月夜になると、こんぶの君の事を思い出されて、あたかも目の前にこんぶの君がおられるかのように話しかけられていたものですから覚えてしまったのです」

「全て覚えているのですか?」

 ナナモは思わず花梨の姫に身を近づけた。まさかという驚きでまるでハグでもするような気持になっていたのかもしれない。しかし、花梨の姫は急なことだったので、驚いたのか、身をかわすように、ナナモから顔を背けた。

 ナナモはごめんなさいと、謝った。と同時に、やはり花梨の姫はカリンではないのだと、改めて身をただした。

 それでも、しばらく気まずい空気が流れる。ナナモは待つしかなかった。

「いずれの季節の時か、どこまでも透き通った夜空に白き絹衣のように揺らぐ七つの雲間から、あまたこぼれ出る月光に似た、誰からも愛されるような優し気な眼を持った美しき君が、どのような願いも叶うという文箱に今にもこぼれそうになるくらいの想いを携えて、あなたをお救いにやってこられる」

「私が今はっきりと覚えているのはここまでです」と、最後に聞こえて来た時に、ナナモは、はしたなく、また、えっと、今度ははっきりとした声を発していた。ナナモの懐に忍ばせている巻物から考えて、あまりにも短かすぎるように思えたからだ。

 ナナモは本当だろうか、もっと覚えているのではないだろうかと、花梨の姫に詰め寄りたかった。しかし、先ほどのことがある。未だに伏し目がちな花梨の姫を強引に振り向かすことなどナナモは出来なかった。

 御簾がまだ閉じられてはいないとはいえ、二人は牛車の中にいる。ナナモは巻物を届けるように言われたのに、結局ナナモの懐にある。それに、この巻物は今や誰かに狙われているかもしれない。しかし、ナナモは巻物を一体どこに運べば良いのか見当がつかないままでいる。

「あの…」

 先ほどまでナナモを避けようとしていた花梨の姫が急にナナモを見上げるように見つめて来た。先ほどとは異なり、幼さを完全にかき消した悩まし気な表情だ。ナナモは、あれこれ考えても仕方がなかったので、花梨の姫に優しく微笑んであげる。

「実は母を助けて頂きたいのです」

 花梨の姫は唐突にナナモに話しかけて来た。もしかして、ナナモを助けるように言われたのに、ナナモのことを物語の月光の様な優し気な瞳を持った美しき君と勘違いしているのかもしれない。

 僕はあなたが思っているような月の君ではないのですよ。だいたい瞳と言ってもコンタクトだしと、ナナモは言いたかったのだが、僕は…と、言い始めた時に花梨の姫の頬をゆっくり流れ落ちていく一筋の涙がナナモの瞳に映った。

 ナナモはまた何かしたのだろうかと思ったが、そう思うと同時に、この当時の作法として正しかったのかどうかわからないが、着物の袖でその涙を拭いてあげながら、僕で良かったらと、思わず答えていた。

「実は中将様と母は昔趣向を語り合った仲だったのです。しかし、母はその時、とても高貴な方の女御でしたので、いわば密かな関係だったのです。一見平安そうですが都では噂が絶えません。そして、その噂を利用して足の引っ張り合いが行われます。中将様が悪いわけでももはや母に愛を感じなくなった高貴な方が悪いわけでもないのですが、周りが焚きつけたのでしょうか、特に高貴な方に比べて身分の低い中将様は、この期と乗じてもはや母との関係は完全に冷え切っていた高貴な方を都から追い出すように色々と手を尽くしたのです。高貴な方は真面目な方だったので、応じる術を持たぬままその立場を失ってしまいます。高貴な方は、中将様を妬めばよかったのですが、男の自尊心が邪魔をしたのでしょうか、打って変わって母を呪います。そして、呪われた母は中将様を陥れようとしたのです。しかし、中将様は賢い方です。変事を敏感に感じとったのか、母から離れて行ったのです。残された母には何かが宿ったままです。だからか、母に近づいてくる男衆や女衆は次々に災いに苛まれます。母は決して悪くはないのですが、噂が噂を呼び、母は高貴な方の生霊と呼ばれるようになります。母は気丈な人ですが、日に日に痩せ衰えていきます。そして、ついに出家を考えますが、その時になってやっと中将様が見舞われたのです。中将様は今飛ぶ鳥を落とす勢いの都人です。都中から呪術師を集めて、母の除霊を行います。しかし、母の状態は良くなりません。だからぜひともお力添いを願いたいのです」

 カリンはロンドンから久しぶりに東京に戻って来たときに明確な目的がまだ定まっていたわけではないのに通いはじめた夏期講習でナナモの友達になってくれたばかりか不得意科目をお互い補おうと助け合ってくれた。そのカリンに似た姫が反対にいま困っている。両眼からはもはやナナモの袖では拭いきれないほどの涙が湧き出ている。ナナモは見捨てることなど出来ない。いつもながら自分に嫌気がさすのだが、急がば回れと、ナナモは次第に途切れ途切れになる花梨の姫の言葉を頷いて聞いてあげるしかないと、自らに言い聞かせた。

 中将は母君とどのようなことがあったのでしょう?もしかしてあなたは中将の娘なのでしょうか?と、ナナモは尋ねたかった。しかし、その事は二人の趣向である。姫が知るべきことではない。

 もしかしたら、中将も誰かに操られているだけなのかもしれない。だから中将を呪おうとしている花梨の母のところにわざわざ出向いてきたのかもしれない。それとも、順調に出世街道を駆け上って来た中将にも何やら暗雲が立ち込め何かにすがらなくてはならなくなったのだろうか?

 ナナモはつい悪い方に悪い方に人物評価しまう癖が治りきっていない。ナナモは少し誇張して描かれていたマンガ古文で垣間見た貴族社会の事を急に思い出して頭痛がした。

「あなたはどこに住まわれているのですか」

 もしかしたら花梨の姫は西の方よりも上級貴族の娘なのかもしれない。ナナモの手伝いをするつもりだと言っていたが、改めて見ると西の方以上の艶やかなそれでいて清楚な召し物を着こなしている。

 花梨の姫は牛車には乗りなれているのだろう。だからか、「従者がおられませんね?」と、尋ねた後に、ここより南に下がりますと、花梨の姫は自分の住まいを言った。

「従者は必要ありません。でも安心してください。さあ参りましょう」

 ナナモはこの牛車がロンドンタクシーのように正確に花梨の母君の所に連れて行ってくれることを知っている。

 ナナモはゆっくりと自ら御簾を降ろした。


 ナナモが屋敷に到着した時には夜が明け、東の空から陽が昇りかけようとしていた。ナナモと花梨の姫は何時しか眠りについていたのかナナモがあれほど気を使っていたのに、姫はナナモに自然体として身体を寄せていた。だから、移動中にもう少し話しをききたかったのだが、結局何一つ追加の話は聞けなかった。

「牛車が止まりましたよ。ここが姫のお屋敷ですか」

 まだうつろ気な花梨の姫の身体をナナモはゆっくりと離してから言った。花梨の姫は眠ってしまったのが自分だけだと思っていたようで、揺り起されて、ハッとしたのか頬を一段と赤らめた。

 牛車の前方の御簾が挙げられ、二人は牛車から降りていく。従者どころか牛さえいないのに、先ほどの事で動揺している姫は全く気付いていないようだ。

「さあ、こちらへ」

 ずいぶん広い屋敷だ。しかし、陽が昇って視界がはっきりと捉えられるようになったということもあったからだろうか、屋敷の周囲に生茂る雑草が目に入る。

「姫が戻られました」

 屋敷の主が生霊と恐れられているといっても、お付きの者がいないわけではない。何と言っても花梨の姫の母はかなり裕福な方なのだろう。どこからともなく屋敷内から姫を迎えるために次々と侍女がやって来た。

「あら…」

 最初、姫の姿を見て姫を迎えることだけに気を集めていたのに、艶やかな衣装に包まれた青年貴族を伴っていたので侍女たちは呆気にとられている。もちろん姫が朝に男性を連れて帰って来るなんてあり得ない。

 ナナモはしばらく、どうしようと、どのような理由でこの状況を説明しようと思ったが、侍女たちは特にナナモを奇異な目で睨み付けているのではなく、なにか気がそぞろというような、まるで街中で偶然出会ったアイドルを見るようなまなざしでナナモを見つめていた。

 そうだ、西の方は中将と間違えたはずだ。だったらこの侍女たちもと思った。が、どう考えても年齢に差がある。中将をまさかアイドルとは思わないだろう。

「月の君です。わざわざお越しいただいて、母を診て頂こうと思ってお連れしました」

 花梨の姫は侍女たちにはっきりとした口調で言った。

 ナナモは診るって?もしかしたら診察?勘弁してほしい。巻物を届けるだけなのにと、何度心の中で叫んだろうか。それでも、ナナモは屋敷の奥へと進む花梨の姫を後追いするしかなかった。

 花梨の姫の屋敷はナナモが教科書で見た事がある寝殿造りと言われる立派な建物だ。むろん朱色一色というようなカラフルな色で彩られているわけではないが、ところどころに細かな木工細工が施されていることが夜中ではないのでよくわかる。ナナモははしたなくない程度にチラチラと周囲に目をやりながら、小舟なら何槽か浮かべられそうな池を横目に、渡り廊下を通り、屋敷の奥へ奥へと花梨の姫にしたがって歩んで行った。

 花梨の姫の母が日常を送っている寝殿なのだろうか、御簾が降ろされていて、ナナモは花梨の姫にしばらくここで待っていてくださいと言われた。

 先ほどの侍女達が何度かナナモを振り返りながら花梨の姫について行く。ナナモはしばらく廊下でひとり待ちながら、御簾の奥でどのような会話が為されているのかとあれこれと考えて気が気でなかった。

「お入りください。東風こちの方がぜひともお会いしたいそうです」

 花梨の姫ではなく侍女が御簾を上げ、ナナモを奥へと誘った。花梨の姫の母は東風の方と言われているのだと、ナナモはやんわりとした温かみを覚えた。しかし、花梨の姫からは母は呪われ痩せ衰えていると言われたので、どのようにナナモは接していいのか少々気が重かった。

「ようこそおいで下さいました」

 ナナモを迎えてくれたのは、小袿こうちぎ姿の女性だった。ナナモは床に臥せっているのかと思ったが、深紅色を基調に、薄色の袿を重ねていて座敷にきちんとかしこまっていた。よく見ると眼窩が少しくぼんでいるように思えるし、肌に際立つ艶がなかったが、娘のためにナナモをなんとか迎えようとする母親の気位の高さは垣間見えた。

「娘はもはや嫁に行くには少々年をとっていますが、やっと、我が娘をめとりに来てくださったのですね。私は今このように少し体調を崩しております。されど、娘は健康ですし、何よりも利発です。和歌などにも通じておりますからきっと、お役にも立てると存じます」

 花梨の母は無理して重ね着をしていることもあって、頭を下げるような仕草をするだけで精一杯の様だった。

 花梨の母の傍らには花梨の姫が居る。しかし、母の言葉を全く花梨の姫は気にしていない。しかし、恥ずかしがることもなく、驚いているということもなく、冷静に母親を心配そうに見つめている。

 ナナモは最初、僕が花梨と。そんなことは考えられない。だいたい、僕にはルーシーがいる。僕は娘さんに頼まれてきただけですからと言おうと思った。しかし、花梨の姫を横目で見てそう言わない方がよいと気が付いた。

 ナナモは少し間を置くために丁寧に頭を下げてから口を開いた。

「月の君です。姫君にご招待いただきました。母君にお会いできて光栄です」

 ナナモのどこからこのような言葉が出て来たのかわからない。それでもナナモは一度も嚙むこともなく、スラスラと少し笑みを含めながら言った。

「あなた、あなた、姫を迎えに来てくださいましたよ」

 急に花梨の母は少し甲高い声で言った。

 花梨はその言葉を聴いた途端母にしっかりと抱き付いた。

「父君は今お仕事をされていてご不在ですよ」

 花梨の姫が母をなだめるように言ったつもりだったが、その言葉を聞いて花梨の母の目じりと口角がみるみる上がって行く。

「仕事?そうであるなら、ここにはおられないの?ああ、どうしてでしょう。あなた、あなた…」

 花梨の母は、より表情をこわばらせていく。

「そうだわ、あの方は西国の地に行かれたのだわ。そして、今頃仕事どころかか私を毎日呪っているに違いない。でも、どうして…、私があの方を呪いそして西国の地に追いやったの。私はあの方を心から愛していたのです。それなのに、あの方は私を遠ざけ、他の女御の所に行ってしまわれた。きっと、私が受けた辱めを毎夜毎夜あの方に語っていたからでしょうが、それは私のあの方への想いなのです。でも、その想いがいくら鮮やかで萌え出でても、艶やかさが増せば増すほど安らぎではなく激しさとしていつか散ってしまいます。そんな紅葉のひとひらをそっと懐に忍ばせて中将様は毎夜毎夜私に届けてくださっただけなのです。

 ああ、私は我が身がどのようになろうともあの方を都に戻したい。それなのに、そう願えば願うほど私に憑いた物の怪は私の中で育っていきます。高く厚く重くのしかかってくるのです。

 それでも私はあの方にお会いするまで、命を長らえます。どのように世から罵られても、疎んじられても構いません」

 花梨の母はナナモが居ることなど忘れて、それだけ言うと急に大声を出して泣き始めた。

 花梨の姫も女房達も、しかし、うろたえることなく、花梨の母をなだめながら、弱弱しいからだなのに起き上がろうと力む花梨の母を懸命に制していた。

 このようなことが日常なのだ。ナナモは、西の方の所に出向いてまで和歌を習う花梨の姫の心情を察した。

 花梨の姫はナナモを見ている。ナナモを月の君だとすがっている。しかし、ナナモは月の君ではない。それどころか、ナナモは嘗て自らの命を絶とうとしたのだ。ナナモを心から愛してくれた両親のことを忘れ、どれだけ蔑まれても立ち向かおうとする強い意志を持つことなく、常に仮面をかぶりながら、もはや意識を飛ばすことで何かから解放されると、自らに憑かれてしまっていたのだ。

 ナナモはその事に耐えかねて思わず瞳を閉じた。決して逃げようとしたわけではないが、もし、花梨の姫がそのことに気が付いていたら、花梨の姫はナナモをどう思ったであろうか。

 ナナモはそっと瞳を開けてみる。花梨の姫は心配げに母親の身体をさすり続けている。

「呪術師を呼んで下され。物の怪を我が身から取り払ってくだされ。さもなくば、私に穢れし水を持ってきてくだされ。私はその水とともにヨミの国に参ります。そして、高貴な方に償います」

 花梨の母は先ほどのような荒げた声ではなく、ゆっくりとあたかも娘に子守唄を聞かせるような優し気で柔らかな物言いで話したあと、突然おーっと大声で雄叫びを挙げると急に目を閉じ、まるで意識が無くなったかのように身体から力が抜け、崩れて行った。花梨の姫は、母君、母君と何度も呼びかけながら、母を連れ出す侍女たちとともに奥へと消えて行った。

 ナナモは一人残されしばらくその場に座り込むしかなかった。

 花梨の母は生霊となっている。ナナモは先ほどの花梨の母の言動を見てやはりそうなのかと思った。しかし、その一方で、もし、生霊でオンリョウの世界に引き込まれているのなら、ナナモは別な何かを感じるはずだ。それはあの京都での医学部剣道大会や杵築での医学部剣道新人戦の時の感覚がまだはっきりと残っていたからだ。それに頭痛がしない。どうしてだろうと、もう一度母親の言葉を反芻しようとした時に、花梨の姫が戻って来た。

「母君の具合はどうですか」

「ありがとうざいます。あの後、何事もなかったかのようにすっかり寝てしまわれました」

「こういうことが続くのですか?」

「いつもではないのですが、何かをきっかけに豹変するようで、私もどうしたら良いか困ってしまいます」

 花梨の姫はナナモに申し訳なさそうに言った。ナナモは、大丈夫ですかと花梨の姫に尋ねたが、「月の君は母の事を見られてどう思われましたか?」と、花梨の姫は自分のことなどどうでもよいという風だった。

 ナナモはそう聞かれてもと、僕は確かに医学部の学生になったのだけど、まだ一年生だ。それに、オンリョウに憑りつかれているとしたら、ナナモに術はない。

 ナナモは正直に答えようと口を開きかけたが、なぜか違和感を覚えて仕方なかった。なぜなら、もしかして、花梨の母はナナモが容易に推し量ることができないどろどろとした貴族社会における軋轢に巻き込まれたことによる心的外傷の結果にすぎないだけではではないかと思い直したからだ。

「母君には今は静養が必要ですから」と言ってから、ナナモは一呼吸置くと、「もし、母君が何かに憑りつかれておられるのなら、穢れし水ではなく、清き水を授けましょう」と、慰めた。

 花梨の姫は、折角来ていただいたのに申し訳ないと幾度も謝っていた。そして。花梨の姫をいたわりながらナナモは花梨の姫とともに居間からまた御簾をくぐり、廊下に出た。

 先ほどは緊張のあまり気が付かなかったが、池の周りには鮮やかに色付いた草木が微妙に葉の重なりをずらしながら、適度な間隔で萌えていた。庭園なのだろうが、そう思わせないような自然さがあまりにも色とりどりな原色を伴って気分を高揚させるどころか心を落ち着かせてくれる。澄んだ青空の広がりの中でまるで美術館で絵画を見ている様な錯覚を覚えたからかもしれない。渡り廊下からは艶やかに何層にも重ねられた、それでいてそのひと葉ひと葉がきちんと主張しているような鮮やかに色付いた草木が屋敷を取り囲んでいる。

 確か、西の方の所では冬の寒さが屋敷をやんわりと固めてしまっていたように思うのだが、南へ下がっただけで、秋に季節が移っている。まるで時計が反対方向に動いているかのようだ。

ナナモはそうか、ここは異世界なのだ。ならばやはり花梨の母、つまり、東風の方はやはりオンリョウに憑かれ生霊とされたのだろうか?そうであるなら、オンリョウから救える方法とは何だろう。

 ナナモはカタリベの言葉を思い出す。確か、「お清めと託宣」。

 ナナモは花梨の母が「穢れし水」と言ったことに難げなく反応して自らが言った「清き水」のことを思い切って花梨の姫に尋ねてみようと思った。

 花梨の姫がいない。ナナモは今しがたまでつい傍にいた花梨の姫を探した。気配はすぐ近くにある。それなのにと思っていたら、花梨の姫は紅葉の背景に同化していた。

 まるで透明人間の様だ。でもなんと美しいのだ。

 ナナモは先ほどの事をきちんと聞こうともう一度口を開きかけたが、薫物の絶妙に甘美な香りが漂ってきて、しばし、花梨の姫の気配に釘付けにならざるをなかった。

「既に日高く聳え立つ祭りの時、誘いのないまま、馬上の君に逢いたくて逢いたくて、朝早くから長髪を御櫛で整え、白肌をより化粧し、袿を幾重にも重ね、女房、従者を従え、牛車で大路を訪れし。されど、時すでに遅し。願い叶わず。失意の中帰途に就く。清き水の流れる川べりに牛車を止め、物思いに耽っていると、遥かかなたに聳える山々から吹きつける風の悪戯でしょうか、すーっと御簾が開く。目の前にかの君に劣らずほど美しい君が馬上でこちらを見つめておられる。それまでそのような浮ついた思いなど一度もなかったのですが、身体が急に火照り、その気恥ずかしさで思わず扇で顔を隠してしまう。何がしかの気を感じたのでしょうか。扇を外すと、いつまにか、月の、と自らを名乗りし君が傍らに座しながら、文箱を開けお手紙ですと、差し出してくる。中には三通の文あり。しばしの思案もなく全て取り出すと、月の君は文箱ともどもどこかに消えてしまう。いまどきの事はなんだったのでしょうと、夢か幻しかと、心離れが甚だしかったのですが、ふっと我に戻り手元を見ると、一通の手紙をしっかりと握りしめていたのです。嬉しさと恐ろしさで半々の気持ちだったのですが、なんと、その手紙は馬上の君からのお誘いだったのです」

 花梨の姫からではなく紅葉の庭園からのたわごとなのだろうか。ナナモはまるで薫物の魔力を操る呪術師からのお告げのようにただ黙って聞き入ってしまっていた。

「ナナモ、ナナモ」と、カリンの声がする。ナナモは思わずその声で目覚めた。しかし、目に前には「月の君大丈夫ですか?」と、反対にナナモを気遣う花梨の姫の優し気な声がする。

 ナナモはその言葉にはっとして我に戻った。

「平安の都の中でもっとも清らかな水はどこにあるのでしょうか?」

 ナナモには先ほどの言葉が残響している。だから、それもまた西の方からお聞きした物語の一部ですかと聞かねばならなかったのにそう尋ねていた。

「都にですか?」

 花梨の姫はナナモに突然言われたので少し戸惑った。

「いえ、平安の都は穢れています。だからきっと清らかな水は都の外になくてはなりません」

 花梨の姫はナナモから言われて何かを思いついたのか急に明るい表情になった。

御手洗みたらいの水がただすの森深くにある社の脇から湧き出てくるとお聞きしたことがあります」

 花梨の姫はゆっくりとした口調だったが、はっきりと言った。

「社?」

「ハイ、都から出て北へ向かったところです」

「その社は有名なのですか?」

 ナナモはある神社のことが頭に浮かんだがあえて尋ねた。

「はい、昔、飢饉が続いたころ、その社のカミ様がお怒りになったからではないかと祭礼が行われたところ、飢饉が収まったとお聞しています。もしかして、その御手洗の水が、祟りを洗い流してくれたのかもしれません」

「カミ様がタミを苦しめたのですか?」

 ナナモはふとクニツカミの事を考えたがそのことは口にしなかった。

「まだ都が出来る前の事ですから、詳しくはわかりません。しかし、都を作るにあたって、二度とタミを苦しめないようにと、その後も祭礼は続き、今では祭りとして、貴族たちのかけがえのない誉と興になっています」

「その祭は何時行われるのですか?」

「五月の頃だとお聞きしています」

 ナナモはそうか、それは天文学だと、祟りではないのだと思った。旧暦では梅雨入り前だ。だからその時期に祭礼が行われたので飢餓を救えたのだと科学的に今なら言える。しかし、最新の衛星や物理学を用いても、天気予報が百パーセント当たることはない。そう言う意味からしても天気はままならぬものだ。ままならぬものはカミになる。それも太古からならクニツカミだったとしてもおかしくはない。しかし、天気がタミを苦しめるからと言ってオンリョウになったとはナナモにはどうしても思えなかった。

 ナナモは祭りと言えば祇園祭を思い浮かべていた。無病息災を願って鉾が練り歩く。その事をナナモはあの夏の剣道大会の時に異世界で体験した。そしてその祭りはタミが主役だったようであり、かすかにツワノモの姿が垣間見えたような気がした。しかし、その一方で、オンリョウがはっきりとナナモの目に映る。

「でもそれほど有名な御手洗の水なら、既に中将様が母上に献上されておれるのではないのですか?」

「そうされたかもしれませんし、そうされなかったかもしれません」

 ナナモは驚いた。何故なら先ほど花梨の姫から中将が都中から呪術師を集めて、母の除霊を行ったと聞いたばかりだったからだ。

「なぜそのように…」

「中将様ですから…」

 花梨の姫は歯にものが挟まったかのようにそれ以上言わなかった。

「だから、月の君におすがりしているのです」

 今しがたの笑顔は消え、瞳には涙がたまり始めている。ナナモはどうしたものかと思いながら、先ほどの言葉を思い出した。

 確か、祭りの時は逢えなかったはずだ。だったら、御手洗の水ではないのではないだろうか。

 ナナモは目の前で涙ぐむ花梨の姫を見つめた。だから、訝し気に思いながらも今はそれ以上のことを尋ねられなかった。そして、その涙こそ清い水ではないのかと一瞬その儚さからもし小瓶でもあれば集めたいような気分になった。しかし、急にどこからか風が吹き、先ほどまでキャンバスに華やかに描かれた紅葉が緑色の精気を次から次へと取り戻していく。と同時に、今まで透明人間だった花梨の姫の姿がはっきりとその存在を主張する。

 やはり先ほどのあの言葉は花梨の姫から発せられたに違いない。ナナモはまだ袖で顔を覆う花梨の姫に向かって、「糺の森へ行って清き水を運んできます」と、叫んでいた。

 もしかしたら、ナナモを狙う罠なのかもしれない。それは、中将なのか、はたまたオンリョウなのか?まさか、花梨の姫…?

 なぜ最後の言葉を思い浮かべたのかわからなかったが、ナナモは大きくかぶりを振っていた。

「お願いします。私はここで母を気遣いながらあなた様をお待ち申しています」

 ナナモの決意に鼓舞されたのかそれとも花梨の姫からは涙が消えていた。ナナモはそのうつろさにカリンの面影を重ねてしまっていたのか、花梨の姫が何かを告げようとして動かした口元に全く気が付かなかった。

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