(24)格子の迷宮と西北の屋敷
ナナモが目覚めた時、かすかな西日が最後のあえぎ声を出しながら入り込んでいた。ここは?と思ったが、身体が微妙に揺れている。ナナモは、朦朧とする意識の中で、今なおハダに促された乗り物の中に居ることが分かった。
ナナモはずいぶん時間が経ったように思ったのだが、まだ目的地に着いていないのなら、ほんの少しだけしか意識が無くなっていなかったかもしれない。
それにしてもがたがたと音がする。それもずいぶんゆっくりとした音だ。ナナモは、次第にはっきりしていく五感が、もしかして…ではなくはっきりと乗り物の正体を捉えていた。
乗り物は牛車だ。京都で行われた全国医学部剣道大会の際に意識をなくしたあとに、夢だったのか、異世界に紛れ込んだのか、それともオンリョウに引き寄せられたのか分からなかったが、ナナモは牛車に乗っていた。
でもあの時は、オンリョウのしもべと同乗していた。しかし、今は一人だ。それに、もはや西日は消え、乗り物の中は暗闇が支配していたが、ハダが話してくれたようにおそらく着物を着ている。その感触は剣道の道着より大きめで柔らかくそれでいてしゃきっとしていた。きっと、貴族の格好なのだろう。なぜならあのしもべのように烏帽子をかぶっていると思えたからだ。
ナナモはポケットからスマホを取り出そうとしたが、あっと思い直して、袂に手を入れた。鏡と勾玉、反対の懐には、かなりコンパクトになった袋が手触りで何とかなく理解できる。それ以上のものは何かないだろうかと、もう一度、袂を触ってみる。でもそれ以上のものは何もなかった。でもハダはあの時筆記用具の様な物を渡してくれたように思ったのだけどもと、またあっ、と、たいしたひらめきではなかったが、反対の袂にも手を入れた。何か入っている。でも、今までにない感触だ。手のひらよりは大きいが握れないことはない。軽いが角張っている。それに動かすとかすかに音がする。ナナモは取り出して見てみおうと思った。暗闇だが、ずいぶん瞳も慣れて来た。だから色彩はなかったが、ところどころに簡素だが装飾の施されている空間も辛うじて捉えることが出来た。利き手とは反対の手が利き手の袂からその何かを取り出そうとした時に、牛車が急に止まった。しかし、猛スピードで走っていたわけではない。だから身体が傾くことはない。
ここはどこなのだろう。そして僕は何のために牛車に乗っていたのだろうと、ナナモが思った時にナナモはハッとした。もはや袂などどうでも良い。それよりも、そう、巻物だ。どこにあるのだ。
ナナモはもう一度両方の袂へ手を入れた。先ほどまで懐にあった装備品は全く触れなかった。ただ、指先に何かが付いている。ナナモは懐から手を抜くと、目の前に近づけた。
これって、イチロウから送られてきたコンタクトレンズじゃないか?どうしてここにあるんだ。もしかして、イチロウが仕掛けた高度に構築されたⅤRの世界に知らず知らずに誘われてしまっていたのか?いや、そうではない。そんなはずがない。ナナモが以前つい話した異世界の記憶はイチロウから完全に無くなっているはずだ。
「それをつけるのじゃ」
えっ、誰、とナナモは急に寒気がしたが、逆らう術もなく恐くなって慌ててコンタクトを付けると、クンクンと今まで感じなかったが周囲の匂いを嗅いだ。かすかだが何か良い香りがする。どこからだろうかと、ナナモは執拗に何度も鼻先を動かした。しかし、はっきりしない。でも確実に香りがする。もしかして衣服からか?と、ナナモは着物の袖を持ち上げて、香りを嗅ごうと頭を下げた。あれっ、胸元にも何かがある。ナナモは持ちあげた手を胸元に入れた。先ほどとは異なり円柱だ。しっかりとは握れない。ナナモは感触を味わうことなくそれでも何とか取り出した。
巻物だ。かすかな夜光に白く重なった花びらの絵柄が反射してはっきりと目に映る。
ナナモは、やはりここは異世界だと、やっと大きく息を吐くことが出来た。
しかし、ナナモのそんな安らぎも束の間だった。向かって進行方向の御簾が開いたからだ。巻物を手にしたナナモの視線の向こう側で、月夜に照らされた屋敷の一片がひっそりと視界に映し出された。
ナナモは、ハダ、いや、カタリベから命じられたことを思い出した。確か巻物を屋敷に届けることがナナモの使命だと言っていたように思う。本当にそれだけなのだろうかと、あの時は危惧したが、一時意識を失ったとはいえ、この時代の乗りものである牛車に乗り、貴族の装束に身を包み、それにどこかに消えてしまうこともなくナナモは巻物を持っている。
牛車はものすごくゆっくりとした速度だったが確実に前に進んでいたし、その牛車が止まったということはここがその巻物を届ける屋敷なのだろう。陽も完全に落ちて真黒なのに、屋敷からはかすかな灯りが漏れ出ていてナナモを迎えようとさえしている。あとは、ナナモが牛車から降りて屋敷の主に巻物を届ければ済むことだ。しかし、ナナモはあまりにも順調だったので拍子抜けする思いだった。
でも本当にこの屋敷なのだろうか?ナナモは屋敷の主の事を知らされていないことに一抹の不安があったので、しばらく牛車から降りられなかった。
何時なのだろうと、ナナモは袂に手を入れた。先ほどは一瞬無くなっていたのに、勾玉の腕輪が容易に取り出せた。時計の役割を果たしているのは十分わかっている。ナナモは腕にはめると、その光具合で、今、午後七時であることが分かった。
まだ宵の口ではないかと、ナナモは古風な日本語を思い出してから、突然訪れても失礼に当たらないと少し元気になった。でもすぐに、東京だったら、まだまだ人通りも多いし、店先から笑い声が響いてきたりしていたが、杵築では、もはや閉まっている飲食店もあったし、電柱の少ない通りは静かで全くの暗闇の世界が点在していることもあると思い直した。
平安の都は街燈すらないのだ。ナナモは折角軽くなった身体をまた自ら重くした。しかし、怖気づいていても仕方がない。不安があっても、何もしなければ進まない。旨く行くかどうかは結果次第だし、カタスクニからの使命であるならナナモは必ず果たさなければならない。
ナナモは意を決し、傾いて降りやすくなっていた牛車から外に出た。
牛車の周りには従者は誰も居なかった。それどころか牛車なのに牛がいない。闇夜に紛れて見えないだけなのだろうか。もしかして、車だけが勝手に動いていたのだろうか。いやそんなことはない。しかし、ナナモはそのことを気に留めることなく、それよりも牛がいなかったので最初気が付かなかったが、牛車って後方から乗って前方から降りるんだと、その事の方が気になった。
どこからか風が靡いてきて、鼻先をくすぐっていく。雲隠れしていた月がまたかすかに顔をだし、忍び寄って来る香の匂いが手招きする。ナナモはいつしか誘われるように未知の世界に自ら足を運ぼうと前に進んでいた。
ナナモの目の前には質素な木戸があった。ここは表門ではない。きっと裏門だろう。ナナモはでもどのようにしてこの屋敷の中に入れば良いのか分からなかった。
呼び鈴などない。もちろん、自動ドアでも、ましてや、カメラ付きインターホンがあるわけでもない。誰か自分に気が付いて出てきてはくれないだろうか?ナナモはまた牛車の中に戻ったように身が動かなくなった。
ナナモはそうかと、あたりを見渡した。こういう時には手水舎がある。いや、なくともどこからか清水が湧き出ているはずだ。ナナモはしばらくあたりをキョロキョロと見渡した。月夜とは言え、それほど明るくはない。もしかしていつもつけていないコンタクトレンズを付けているからかと思ったが、今更外せないし外してはいけないように思ったし、コンタクトが急に光り輝いてヒーロー映画のように光線が飛び出して清水を映しだしてくれるのではないだろうかと期待した。
しかし、何も起こらない。清水が湧き出る情緒すら微塵も伝わってこない。ナナモは仕方なくあたりを散策しようと思ったが、知らない屋敷に来ていきなりそのようなことをしてよいものかどうかわからなかったし、もし、こちらからは見えないが屋敷の中から見られていたらもはやナナモは中に入ることが許されないのではないかととどまった。そう言えば、牛車に乗る前にハダは禊ぎは必要ないと言っていた。もしそうなら、柏手を打ち、そして、拝めば良いのではないかと、音がしないように二礼二拍して、自らを名乗ってみた。
しかし、相変わらず裏木戸はびくともしない。そんな時、「マナーじゃ」と、空耳がする。
英語!っと、ナナモはドキッとしたが、礼儀作法と言われても、ナナモはこの時代にどのようにして見知らぬ家を訪問して良いのか分からなかった。だいたい、ナナモはロンドンで見知らぬ家を自ら尋ねたことなどなかった。
ナナモは寮生活で先輩の部屋を訪れる時軽くノックしていたことを思い出して、同じようにすれば良いのだろうかと拳を握った。
でも、裏木戸だ。軽くしただけで本当に中まで聞こえるだろうか。それにこの時代の午後七時ならもしかして床に就いているかもしれない。それならばなおさら拳でドンドンと大きな音を立てることは迷惑この上ない。きっと正式なマナーではないだろう。ナナモはまた構えた拳を開くと、怖気づいて人差し指でツンツンとそしてとトントンと軽く木戸を叩くことから始めていた。
俺は一体何をやっているのだろう。こんな些細な音で気が付いてくれるわけはないだろう。ナナモは仕方なくもう一度拳を握った。そしてまさしくその拳で木戸を叩こうとした時に木戸の奥からかすかな音が聞こえてきて思いとどまった。
ナナモは拳を開いてもう一度指一本で木戸を叩いた。するとその音に呼応するようにカサカサとかすかな摩擦音が聞こえてくる。
ナナモはまた同じことをする。すると、また、同じように音がする。
ナナモはまさかと思いながらゆっくりと拡げた指でそのまま木戸を横に押し開いてみた。すると、その木戸はまるで自動ドアのようにナナモの弱しい力ですんなりとあいた。
「お邪魔します」と言うのだろうかと、また、ナナモは躊躇したが何も言わないのも変だと思い。きちんとそのままの言葉を、しかし、聞こえるか聞こえないかの声量でナナモは言ってから、裏木戸をくぐって中に入って行った。
ナナモは屋敷内にいる。しかし、かすかな物音は確かに中から聞こえて来たはずなのに、誰もナナモを迎えてはくれない。
それでもほのかな灯りが漏れている。ナナモはもしかしたらどこからか見られているのでないかと思った。無理もない。たとえ巻物を届けに来たといっても見知らぬ者が夜にやってきては誰だって警戒する。それも夜陰に紛れていると言ってもナナモはハーフであり、長身だ。あの街中で叫ばれたことはまだ新しい記憶だ。
「やっとお越しくださったのですね」
ナナモがまたもじもじとどうしようか思案していると、急に遣戸が開いて、女性が立っていた。
ナナモはハッと一瞬顔を隠したが、よもや、自分をさらけ出そうと、また、顔を晒した。しかし、目の前には先ほどの女性はいない。しかし、遣戸は空いていてかすかな灯りがまるで手招きしているかのように漏れている。ナナモは吸い込まれるように渡り廊下を登ると静かに遣戸の中に吸い込まれていった。
「何という香りだろう」
ナナモは甘美な魅惑に思わず我を忘れそうになった。このままだと意識が飛んで行ってしまう。なんとか両足で踏ん張ろうとした時に、ナナモは片手を誰かに握られ優しく引き寄せられた。マショマロのように柔らかく、ほんのりと暖かい。
「こちらへ」
先ほどの女性の声がする。ナナモはなすが儘、しずかに、ゆっくりとその女性に誘われながら、いくつかの几帳を超えて奥へ奥へと導かれて行った。
「このような月夜に来ていただくなんて。それも、なんと艶やかな衣装なのでしょう」
その女性は先ほどの香りがより際立つ小部屋で立ち止まると、ナナモの方を振り返り少し頬を赤らめながら言った。
灯台からのかすかな明るさが揺れている。
そう言えば、ナナモはどのような衣装で身を包まれているのか分からなかった。でも、カタリベがハダに入れ知恵している。もしそうなら、きっと派手な衣装に違いない。しかし、派手な衣装がこの時代に許されるのだろうか?それとも艶やかと受け入れてくれているくらいだから女性に会うためには必要な衣装なのだろうか?いずれにせよ、ナナモは別に巻物を届けに来ただけだったので、あれこれ考えるのをやめた。
それにしてもここは寝室の様だ。床の様な敷物が見られる。でも、何故、寝室にまでナナモを連れてきたのだろう。その女性にとってナナモは初対面のはずだ。それにナナモはハーフだ。コンタクトをつけているとはいえ少しだけだが眼窩はくぼんでいる。それなのに、なぜかナナモを見てさっきからその女性の頬のゆるみが止まらない。
「なぜ、何もおっしゃっていただけないのですか?」
ナナモはその女性が誰だが分からないから何も言えないのだ。暗闇でも光るほどきめの細かさがわかるような肌だが、目が細く、ふくよかで、ずいぶん小柄だ。ナナモは目の前にいる女性に今まで一度もあったことなどないはずだ。それなのに、どこか懐かしい。だから、妙に心が穏やかになる。
ナナモはどうしたものかと何も言わずに座り込んだ。
「中将様、今宵どのような趣向で時をお過ごされましょうか」
その女性はするするとナナモに近付いて来たかと思うと身体を寄せてきた。ナナモは急だったためかしなだれて来る女性に、びくりと電気が流れたかのようにどぎまぎして身体を固めてしまう。
「どなたです?」
その女性はナナモの反射を素早く感じとったのか、いつもとは異なる違和感に思わず身体をナナモから離した。そしてすぐに先ほどのようなとろける口調を一瞬にして凍らせ、冷たい声で尋ねて来た。
ジェー…と、ナナモは言いかけたがすぐに口を閉ざした。
「名は名乗れませんが、ある方からのお届け物をもってまいりました」
ナナモは、どぎまぎしながらもそう言ってしまっていた。
「あるかたとは、もしかしてこんぶの君ですか?」
こ、こんぶってどういうことと、ナナモはついそう言いそうになったが、おくびにも出さずに黙ったままでいた。しかし、その女性はその事でそうだと一人思い込んでしまった様だ。だから急に顔を着物で隠しながら伏せると、涙を流しているのか、かすかなむせび声がしばらく部屋の中で木霊していた。
ナナモは何か声を掛けようと思ったが、懐から巻物を取り出してこの部屋に置き、黙って出て行こうと思い直した。しかし、どこを通ってこの部屋に来たのかわからない。ナナモは結局何も言えず何も出来ないまましばらくその女性の傍らにいた。
「あなたは優しいのですね。それにあの方によく似ておられる」
その女性の声はまだ湿っていたが、ずいぶんはっきりとしていた。
ナナモはあの方に似ていると言われても当然ピンとは来なかった。それどころか、何故、艶やかな衣装をそれもこの肌触りからするときっと絹なのだろうが、どうしてそのような高価な衣装に身を包ませたのだろう。一瞬、ほくそ笑んでいるハダとカタリベの顔が脳裏をかすめたが、でも、だから、こうやってナナモは屋敷に容易に入ることが出来たのだと、複雑な思いだった。
「この屋敷の主に、この巻物を届けに参りました」
ナナモはあれこれ言わず、担当直入に使命を述べた。
「この屋敷の主は私です」
ナナモはまさかと驚いたが、よく見ると幼き顔ではない。さきほどの白肌は白粉だ。ナナモは揺れる灯火にも慣れたのか、それでもこの時代の齢上の女性がナナモと比べてどれだけ離れているのか、推し量ることすら出来なかった。
「ご主人はおられないのですか?」
この時代は裕福な貴族の女御の所に身を寄せる。つまり通い婚があったと聞いている。だから、結婚していてもこの屋敷の主がこの女性であったとしても不思議ではない。だからナナモはつい口にしたが、慌ててすみません。余計なことでしたと、謝った。
その女性は口元を扇子で押さえながら、先ほどの悲しみから打って変わって、微笑みの声を漏らした。
「あなたは、ずいぶんお若いのね」
その女性はナナモを扇子の端から見定めするように一瞬見つめた。その瞳から漏れでる妖艶さは、若いというのはナナモの身体や年齢の事ではなく、ナナモの感情や経験の事だと言いたげだった。
「あの、僕はどう見えますか」
ナナモはもはや隠し立てできないと、自分の顔の事を思い切って尋ねた。
「あの方とよく似ておられます。ただし、よく見るとずいぶんお若いようなので、より輝いている様に私には見えますよ」
その女性の目元がぽっと一瞬赤らいだよう見えた。きっとうたかなの時を中将というきっと高貴な方と過ごそうと思っていたのかもしれない。
ナナモはドキッとしたが、わざと視線を外した。そして、おもむろに懐から巻物を取り出してその女性に渡した。
その女性は身を正し、扇子をひざ元に置くとその巻物をナナモから受け取った。巻物は紐でしっかりと結ばれている風に見えたが、その女性はいとも簡単に解いた。そして、ナナモに背を向け文台で巻物を拡げかけると、丁度メモ用紙程度の細長い一枚の紙片がひらひらと舞い落ちてきた。その女性はあわててその紙片を拾って見つめた。
巻物に関する何かが書かれているのだ。予想だにしなかったことに、ナナモは何が書かれてあるのだろうと思ったが、覗くことなどできないし、もし、平安のかな文字なら、カミヨ文字よりも数段読みづらいだろうと思った。
いや、待てよ。ナナモはふと三角縁神獣鏡の事を思いだした。スマホと同じならもしかして、カメラの様な機能でその文字をかざすとナナモが読みやすい現在の楷書文字として映し出されるのではないか。
ナナモは袂に手を突っ込んでみる。先ほどはなかったように思えたが、確かに三角縁神獣鏡の手ごたえはある。
ナナモが三角縁神獣鏡のことで気がそぞろになっていた間に、その女性は巻物をさらに拡げようともせずに巻き直してしっかりと紐で結んでいた。なぜだろうとナナモは思ったが、其のことを尋ねることが出来なかった。何故ならその女性の形相には先ほどの優しさや、妖艶さや、包容性などは微塵も感じられなかったからだ。ただ、怒りとしか思えないようなひきつった目じりが、炎のなかでつりあがっていた。
ナナモは急変するその女性を見て思わずのけぞっていた。そして、巻物を渡したのだからこのまま帰ろうと、立ち上がろうとする。
「どこに行かれるのですか?それより私と今宵は趣向を凝らしましょう」
あの恐ろしかった面もちが急に消え、その女性はまた中将という方と間違えてナナモを見た時と同じように悩まし気な面持ちでまたナナモに身体を摺り寄せて来る。
先ほどとは異なった香りがしてきた。ナナモはその香りに身動きが取れない。
ナナモはつい目をつぶるが、その女性に手を握られた。
これは貴族の雅な世界と思えばいいのだろうか?しかし、ナナモの使命とはかけ離れている。それに、巻物は渡したのだ。それなのに、なぜと、なぜかナナモがあれこれ考えれば考えるほど身体が浮き上がってくる。もはや、普段のナナモではない。しかし、構わない。もしかしてこの齢上の女性と、現実の世界でも異世界でも経験したことがないようなことが今宵は…。
パンと大きな音がした。そして、大きな風船が割れたような風がナナモの頬を通り過ぎる。と同時にその風圧が部屋中を満たしていた香りを蹴散らしたようだ。その上、その女性はナナモから離れて、文台の前で何かをしている。
ナナモは下半身に力を入れてみた。どうやら立てそうだ。
ナナモは黙って立ち去ろうと腰を浮かしかけたが、思いとどまって巻物を渡したこの屋敷の主であるこの女性のことが気になった。
「あの…」
「何ですか」
ナナモの呼びかけに、その女性は振り向いた。その瞳にはこれまでにナナモが感じた魅惑さも妖艶さも、はたまた、不気味さもすさまじさもすっかり消えていて、無表情だが優しさで包んでくれるような穏やかさだけが伝わってくる。
「よろしければ、お名前をお聞かせいただきませんか?」
ナナモはふと尋ねていた。
「名など聞いてどうされるのですか?私はある方をお待ちしているだけの女性ですよ」
女性はまたきちんとナナモの前に身を正して対座した。
「中将というお方ですか?」
その女性は恋い焦がれている人を慕うようなはにかむ顔を今度はしなかった。
「私は、心卑しい女です」
ナナモは急にそう言われて戸惑った。
「こんぶの君というのは私の主人です。中将様の命令で遠方に赴くことになったのですが、私はどうしても離れたくなかったので従いたいと何度も願ったのです。しかし、それは叶わぬことでした。それでも主人ははじめ赴任地から文を書いてくれたのです。主人は決して雅な方ではなかったのですが、その文には心がこもっていました。私は他の方に比べて物を書く才に優れていたのですが、どうしても良くしようと格好つけてしまう所があるのです。主人の文は私のそんな生意気さを戒めてくれたのです」
その女性は再び着物の袖で顔を隠すような、こみ上げる涙をぬぐうようなそぶりをしたあと、話を継いだ。
「それが、次第に文が少なくなり、其のうち届かなくなったのです。だから、中将様にお尋ねしようとしたのです」
「教えてくれたのですか?」
「中将様は内裏に出入りできるお方です。主人と暮らしていた時はお会いすることもあったのですが、私とはずいぶん身分が違います。それにもはや中将様のお目に留まるような年恰好はとうに過ぎています。それでもいろいろと手を尽くしたのですが、そう簡単にはいきません。それでもあきらめきれなかったので。私は私の持てる才として、私が書いた文章を主人に届けていただけるように文を添えて中将様に託してみようと思ったのです」
「文章?もしかしてそれはゲンジ物語ですか?」
ナナモはつい口から言葉が出た。しかし、その女性は分からないというような控えめな否定の表情をナナモに見せただけだった。
「それで、その文章は中将様に届いたのですか?」
ナナモは話しの筋を戻した。
「届いたのだと思います」
「なぜわかるのですか?」
「歌が届いたからです」
「歌?どの様な」
「私の願いを月に例えた歌です」
ナナモはもしかしたら古文を勉強していた時に覚えた歌ではないかと期待したが、女性はあまりうまくはなかったわと、具体的には答えてくれなかった。
「それでも私にとっては一筋の光明だったのです。だから、それからもしかして主人からの文を携えてお忍びで来て頂けるのではないかと。いくつか歌だけはお送りくださったので、毎夜待っているうちに、不思議と待ち焦がれるようになってしまって…」
その女性は顔をナナモから背けた。
「でも、あなたとお会いしてわかりました。あの歌にはきっと、特別な妖術が掛けられていたのかもしれません」
「妖術?」
「そうです。主人のことを忘れさせようとする妖術です」
「なぜ中将がそのようなことを?」
ナナモはその意図が測り兼ねた。
あっと叫ぶと、その女性の瞳が潤いでぼやけていく。
「主人の身に何か…」
「そんなことはないでしょう。それだったら、わざわざ妖術など掛ける必要などないはずです」
「だったら、主人は私を見限ったのでしょうか?」
ナナモは離縁ならあり得るかもしれないと思った。つまりこんぶの君が中将に妻との離縁を頼んだのだ。しかし、たとえ上司といっても内裏に出入りできる上級貴族が妖術まで使ってそのようなことをするだろうか。それに、そもそも中将はこの女御に興味を持っているとは思えない。
「先ほど巻物を見てすぐに閉じられましたがあれはどうしてですか?」
ナナモはふと気になったので尋ねた。
「あのような豪勢な装飾を施されていますが、中身は私が中将様に託した文章だったからです」
先ほど怒りを見せたのは、こんぶの君には届かなかったことに憤りを覚えたからなのか知れない。
「それに…」
「それに何なんですか?」
「巻物から紙片が落ちたのはご存知でしょう」
ナナモはあの時なぜかととても気になったがそのことは言わずに、はいとだけ答えた。
「それは、私が最後に主人から受け取った手紙の中に挟まれていたものです」
「見せて頂きますか?」
女性は着物の袂から紙片を取り出した。そこには縦横に線が引かれた格子模様が描かれていた。
「これは?」
「さあ?」
「でも、もしかしてとても大切なものだと思って、中に忍び込ませていたのです」
その女性はきっとお守りのように思ったのかもしれない。
「あの…、その文章とは物語ですか?」
「はい。どのような願いも叶うという文箱の物語です」
「どのような願いも叶うのですか?」
「もちろん夢物語です。ただし、この物語は主人から聞いたものです。私は文章を書く才はあるのですが、物語を発想する才はありませんから。主人は武官をしていたものですから色々な場所に赴くことがあったので、その土地その土地の伝承を私に夜な夜な話してくれたのです。だから、私はただまとめて物語としただけなのです。きっと、主人が読めば私の事を思い出してくれるはずですから」
その女性はまた瞳を潤わせたが、今度は光輝いていた。
「中将はその物語を読んだのでしょうか?」
「さあ。私の中将様宛の文には物語のあらすじを少し書いておきましたが、夢物語なぞ高貴な方には絵空事ですから。それよりも、中将様は宮中での出来事に興味が大そうおありだと思います」
ナナモはゲンジ物語の事を思い出した。確かに、平安の文章には夢物語よりも現実の世をもののあわれと感じることが雅だと古文が苦手なナナモは漫然とオオトシとの授業から感じていた。
「でも、その物語はご主人には届けなかったのに、あなたに妖術を掛けて来た。なぜでしょう?」
ナナモはその女性に問いかけたのだが返事はなかった。
「もしかして、中将はその文箱の物語に興味を持ったのではないでしょうか?上級貴族と言っても一寸先は闇です。どのような苦難が待ち受けているかわかりません。文箱は手紙を入れて置くだけではないですよね。きっと、勅旨や命令書なども入れて置くのでしょうから。もし、その内容が自分に都合がよいようになれば大きな力となるでしょう」
ナナモは、何となく平安の込み入った貴族関係についてアヤベから聞いた講義のことを思い出していた。平安と言うくらいだから血を血で争うような殺伐
とした修羅場はなかったとしても、人間関係はドロドロとしていて裏切りやだましあいなどは日常茶飯事だったと聞いている。
「でもそれなら物語について主人に直接訊ねればよかったのに、なぜ主人の元に届けられずに、また私の所に戻って来たのでしょう」
「ご主人が語りかけたということを知らなかったのではないですか?」
その女性は確かに文にはそのようなことは書かなかったと言った。そして、そうであるならば、こんぶの君は無事だと思うと、ナナモはその女性に言った。
「すいませんがその物語を私に聞かせていただきませんか?」
ナナモはもはや巻物を届けるだけの使命を忘れて、巻物そのものの謎に首を突っ込もうとしていた。
その女性はハイとはっきりと頷きながら、思いだそうとしばらくあらぬ方角を見ていたが、眉間に皺を寄せながらその表情には苦悶が滲み出ていた。
ご気分でも…と、ナナモが尋ねたが、その女性はうわの空の様で、それどころかますます眉間の皺が深くなっていた。
「思い出せないのです。あれほど主人から何度も聞かされ、自分で筆を動かしたのに、全く思いだせないのです」
その女性は悲しみの瞳でナナモに言った。
「妖術に縛られているのかもしれませんね。それだったら、申し訳ないのですがその物語を私に見せていただけないでしょうか?」
読ませていただけないでしょうかと尋ねるべきなのに、おかしな疑問文だ。しかし、その女性はそんなナナモの憂慮など全く気にすることなく、先ほどと同じように、難なく紐をほどき始めた。
ナナモは今コンタクトレンズのようなものをはめている。それに三角縁神獣鏡も持っている。だから、たとえ不思議がられても、与えられた装備をフルに使えば、ミミズの這ったようなカナ文字であっとしても何とか読めるのではないかと思った。
「あれ、どうしたのでしょう?」
その女性は今までで一番高い声を発しながら、ナナモにその巻物を見せた。
巻物には何も文字は刻まれていなかった。巻物すべてを見たがやはり文字も何がしかの挿絵さえもなかった。
「確かに先ほどは文字が書かれていたように思ったのですが、あれは私の見間違いだったのでしょうか?それとも妖術?」
その女性の顔からは明らかに血の気が引いていた。
「だから中将はこの物語をそのまま送り返してきたのではないでしょうか?」
ナナモとその女性はしばらくその女性の寝所で物音ひとつ立てないで、雅なひとときを過ごすわけでもないのにしばらく高灯台の炎に揺られていた。
ナナモが何かを思い出してその女性に言いかけようとした時に、ササッとかすかに音がした。
ナナモは寝所の周りに誰かが先ほどからずっと聞き耳を立てていたのだと思った。
ナナモはその女性に自ら近づいて行った。そして、最初は驚いて身を固く縮ませていたが、その耳元でできるだけかすか声で鼓膜を揺らし始めた。
「もはや今宵の話しは中将以外にも遅かれ早かれ伝わってしまうでしょう。もし、あなたの物語が本当だと信じるものがいたら、その文箱を探す為に血眼になるかもしれません。そのためにはこの物語に掛けられている妖術を何とか説く方法を考えなくてはなりませんし、その物語を解読して文箱を見つけなければなりません。そうしないと、いつかこんぶの君に魔の手が追って来るでしょう」
「主人は関係ありませんし、夢物語です」
嗚咽の様な忍び声が漏れて来る。
「もはやそのようなことは言ってはいられないのですよ」
ナナモは感情を無理に押し込んだ。
「私はどうしたら良いのでしょう?」
「僕にその巻物をゆだねていただけませんか?」
「あなたに?」
「そうです。もし、その文箱が偽物なら、騒ぎを起こした罪であなたたちは罰せられるでしょうし、もし、本当なら口封じをするでしょう。しかし、私が盗んだとしたらその罪は私が全て負うことになります」
「でもなぜ?」
「私が巻物を持ってこなければこのようなことにならなかったからです」
「でもどうやって?」
「先ほどの格子模様の図柄を戴けませんか、きっとその図柄が私を導いてくれると思います」
ナナモはあてずっぽうで言ったわけではなかった。あの時、かすかだが、あの紙が光輝いたように思えたからだ。
「あなたはどなたです」
「僕はいずれ王家の継承者となろうと今学び中のジェームズ・ナナモという者です」
ナナモはそう言う代わりに両方の瞳から素早くコンタクトをはずした。その女性は、もののけ!と声には出さずに口を動かすと、そのまま意識を失ったのか倒れてしまった。ナナモはまたコンタクトをはめると、その女性の元へ駆け寄った。しっかりと息をしている。ナナモは優しく寝具に横たえると、巻物を懐に忍ばせた。
ナナモは一刻も早くこの屋敷から出たかったが、どこをどのように通って外に出ればよいのか分からなかったので、ただあたふたと首を左右に振るしかなかった。
そうだ、三角縁神獣鏡。
ナナモが懐に手を入れかけた時、誰かが高灯台の炎を吹き消したのか急にあたりが暗くなった。
「さあ、こちらへ」
先ほどの女性よりも少し甲高い声が静かに響く。ナナモはその声に引き寄せられるように寝所を後にした。どこをどのように通ったかは分からない。しかし、いつの間にかナナモは屋敷の外に出ていて、あの木戸をくぐると牛車の前に立っていた。
「さあ、早く」
牛車の後方で中から誰かが御簾を上げてナナモを誘おうとしている。ナナモは急いで乗り込もうとした。その時、丁度雲間に隠れていた月が顔を出してその誘い人をくっきりと照らした。
「カリンじゃないか?」
ナナモは思わずそう叫んでいた。




