(23)裏一条の館
ナナモはまるで宇宙空間を旅しているような気分で、コンコンと鳴りやまない無限に続く朱色の鳥居の下をくぐっていた。視覚では目まぐるしい速さで繰り出される鳥居のループではあったが、ナナモの肉体は一か所にとどまっているような体感で包まれていた。きっと、アヤベは傍らでナナモに平安貴族の講義をしてくれているからだろう。しかし、上級貴族、摂政、関白、下級貴族、荘園、受領、成功などと、言葉を並べられても、これから実際に行く異世界に対する興味の方が強くて、受験勉強の終わったナナモには是が非でも理解しなければならないという熱意がまったく湧かなかった。
ナナモは次第に興奮よりも少し微睡んだ気分になっていた。だから、急に長いトンネルから抜け出したことにすぐに気が付かなかった。
「誰か捕まえてくれ!」
ナナモをまどろみから覚醒させたのはアヤベの声ではなかった。それでも聞き覚えがない声ではない。だからナナモは折角、雅な世界へ立ち入ることが出来ると思っていたのに、すぐに踵を返して声の主から遠ざかろうとする人物の後ろ姿を追い始めていた。
ここは平安の都のはずだ。庶民だろう、確かに、簡素な着物姿の男女の姿や、重そうな荷台を押す人足や呼び込みの商人がいる。しかし、その中には烏帽子、狩衣、指貫で厳かに歩いていている貴族や、きっと十二単に身を包んだ女御が乗っているのだろうと思いをはせる牛車が数人の従者と共にゆったりと通り過ぎていく。
ナナモはもし平安の都なら縦横の格子のように通りが整備されていることを知っている。もちろん、通りの名前を暗記しているわけではないし、どこそこの通りだと立て札が掲げられているとも思わなかった。それにナナモが見渡す限りでは、同じような古風な建物や塀が連なっている様にしか見えない。だからたとえ格子の都であったとしても先回りすることなど出来なかった。
きっと、見逃したら見失うことになる。それどころか、ナナモ自体が迷子になる。そんな予感が余計ナナモの足取りを速めた。
ナナモは走りながら、「いつもこうだ。そう言えば、ロンドンでもつい最近…」と、捕まえられそうでなかなか捕まえられそうにない距離を保ちながら、右に左に、上に下に、いや、西に東に、北に南にとお互いが先ほどの往来を見事にすり抜けていっていることも不思議だと思わない感覚で駆け抜けていた。
「あれ、何か持っている」
ナナモは前方を走る人物がまるでリレー走者がバトンを握っているかのように走る姿が目に入って来た。
「きっと、あの、バトンが盗まれたものかもしれない。身体ごと押さえつけなくても、あのバトンを奪い取ればいいんだ」
ナナモはもはや人物よりもそのバトンだけを注視しながら下半身にすべての気力を最大限に集中させた。
逃亡者は両手を大きく振っている。ナナモは振り子のような腕に合わせて後方に動いた瞬間に奪い取ろうと、間合いをつめ、前後の腕の動きに視線を集中させた。そして、一、二、三と、数えながら、まるでロケットエンジンのように両足を加速させた。
その刹那、逃亡者はナナモ以上に加速させたかと思うと、まるで配送センターで無駄な動きを一切排除しながら縦横無尽に高速で動くゴンドラのように、歩を緩めたり、弧を描いたり一切しないで、ほぼ直角で通りを曲がった。
しまったと、ナナモは予期せぬ動きにブレーキを掛けられないでいる。そのタイムラグはあまりにも大きかった。それでも出来るだけ素早く反転したつもりだ。しかし、もはや逃亡者の姿は消えていた。
「ギャー」
途方に暮れるナナモにどこかしこからか叫び声が聞こえる。それもつい間近だ。
ナナモは逃亡者が再び現れたのではないかと周囲をキョロキョロする。
「化け物だ。いや、鬼だ。鬼にちがいない」
それまで閑散とした往来だったのに急に人が集まって来た。しかし、なぜかナナモから距離を置きながら取り巻いている。
ナナモは化け物の正体が自分自身だとすぐに気が付いた。そして素早く足元を見た。
運動靴にジーンズをはいている。
ナナモは思わずジーンズのポケットからスマホを取り出そうとした。
あれ、スマホじゃないな。
ナナモの独り言がきちんとした日本語だったからか、先ほどの叫び声が一瞬消えた。
これ、三角縁神獣鏡じゃないか。
ナナモはしばらく懐かしい絵柄に見入っていたが、すぐに裏返すと鏡で自分の顔を見た。
鏡に映っている姿は、都を行き来する貴族より立派な烏帽子をかぶり、狩衣で包まれている。
やはり、僕ではないのか?でもさっき自分の目で見た時は…。
ナナモは鏡をもう一度見た。するといつも見慣れているナナモの顔だったのに、ライトブラウンの瞳はめらめらと炎のように光っているし、白き肌は初雪よりも固く冷たさをより一層際立だせていた。
皇家や貴族が住む閉鎖的な都に、ハーフ男が闊歩している。もしかしたら、僕のこの顔が皆に痛みを感じさせているのではないだろうか?
ナナモは、今すぐにでもこの場から離れなくてはならないと思った。しかし、ここがどこでどこをどう歩けば良いのかわからなかったのでただ立ち尽くすしかなかった。
そんな時、ナナモの目の前を何かが横切った。とっさの事でナナモは驚いて身構えてしまったし、思わず瞳を閉じてしまったが、鳥だったような気がする。ナナモはきっともう一度ナナモの目の前を通り過ぎるだろうと今度は身構えた。しかし、予想に反してなかなか来ない。だから、少し気分が落ち着いて来た。
そう言えば周囲から叫び声が消えている。ナナモは周りを見渡してみた。先ほどまでナナモを恐れながらも遠回しに見ていた人々は、今度は頭を抱え込んで皆地面に伏せている。そして、正しく聞きとることは出来なかったが、皆呪文の様な言葉を口の中でぼそぼそと繰り返しながら、身体を振るわせている。
ナナモは首を思い切り後ろに倒しながら空を見た。雲ひとつない青空が広がっている。それなのになぜか太陽の力が落ちている。それどころか、暗闇を連れてきたのか、墨汁を水にたらしたような不気味さを伴っていた。
「もしかして、先ほど横切って来たのは鳥ではなくヤではないか?」
ナナモが思ったのも無理はない。もはや黒点として遥か上空をゆっくりと弧を描きながら旋回する巨大な生き物は聖獣そのものに見える。だから、皆ひれ伏し、呪文のようなものを唱えているのかもしれない。
しかし、ヤは死肉を狙うはずだ。それにオンリョウになることから防いでくれる。でも、ここには死者はいないし、オンリョウに乗り移られた人が大勢いるとも思えない。
もしかしてクニツカミとして、僕はオンリョウになろうとしているのかと、ナナモはよからぬことが一瞬脳裏を横切った。しかし、いやそんなことはない。僕はまだ異世界に来たばかりだと、懸命に首を横に振り、ナナモは自分自身に言い聞かせた。
あれ、と、ナナモがその聖獣をもう一度確認しようと眼を凝らしたが、珍獣はいなくなっていた。その代わり、先ほどまで都を照らしていた太陽がまるで齧られているかの様に小さく見える。もしかして、ヤがナナモの代わりに太陽を食らったのだろうか?でもそんなことはないはずだ。太陽はままならぬものであり、カミでもある。そんなことがあってはならない。
ナナモはひとり立ち尽くしたまま無言で齧られた太陽を見ていた。
いや、これって…。日蝕だ。
ナナモはこれまで日蝕を実際経験したことはなかった。しかし、授業で当然習っている。それにここは日本だ。いや、地球だ。そうであるなら、自然現象というか宇宙の物理学から考えると別にどの時代であってもたとえ異世界であったとしてもその現象が生じていても何ら不思議ではない。
でも、皆は知らないはずだ。太陽が齧られるなんてあってはならないことだ。それに天変地異は不吉な前兆として古から言い伝えられているに違いない。いや違う。それだけではない。日蝕を見た事で穢れを感じているのだ。だから皆ひれ伏し、呪文のようなものを唱え、唯過ぎ去るのを待っているのかもしれない。
不吉な前兆でも、穢れでもないのだ。物理学なのだし、だから、我々は月を風流だと愛でることが出きるのだ。
ナナモは大声で叫びたかったが、その言葉に何も意味をなさないことを知っている。
この場所で目を背けていないただ一人のナナモは、齧られた太陽からまた何かが離れて行くのを捉えていた。もはや、ヤとは思えない。しかし、ワシやトンビではない。もっと大きく、人間に近い様に思える。実際足のような突起物さえ見える。もしかしてパラシュート?いやそんなことはない。なぜなら大きな翼がはっきりと見えるからだ。
「テング?」
ナナモは大空を遊覧する雄姿からテングを連想した。理由などない。唯一思い浮かんだのはテングは高い鼻を持っているということだ。
もしかしてナナモの事をテングだと思ったから最初皆が叫んだのかもしれない。鏡ではナナモは貴族の装束をしているが、もし、ナナモが先ほど自分の目でみた服装なら、ダウンにジーパン、運動靴にリュックの姿だ。それに、勢いよく走ってきた後だったからその熱量で顔が好調していても不思議ではない。翼こそないが、皆より高い鼻は赤鼻だったに違いない。
ナナモはもう一度鏡を取り出して自分の顔を見直そうと思ったが、その時、先ほど太陽から離れたテングが目の前を通り過ぎた。
ナナモは今度はしっかりその姿を捉えることが出来たが、ヤでもテングでもなかった。
カラスだ。それも、街中でナナモが今まで見た事のないような巨大なカラスだ。だから、太陽が齧られていたように見えたのかもしれない。
ナナモはなぜかほっとしたが、再び舞い戻って来たときに、その足にあのバトンが掴まれているのに気が付いた。いやバトンではない。あれは巻物だ。教科書でしか見た事はないが、何かが書かれているはずだ。
ナナモは軽い頭痛とともにカミヨ文字の事を思いだした。しかし、それは確か木簡に記されていたはずだ。しかし、巻物は紙で出来ている。そうであるならば、別の文字かもしれない。
ナナモはまた頭痛がした。新しい文字。あごひげを長く垂らしたそれでいてナナモと同じくらいの青年の姿が脳裏を横切ったが、大きな口を開いただけで声を出さずに消えてしまった。
もしかして、盗賊になかなか追いつけないナナモに業を煮やして奪い取ってくれたのかもしれないし、折角ナナモにすぐに渡そうと思ったのに、その前にもののけとみられたナナモを救ってくれたのかもしれない。いずれにせよ、あの巻物には何かがあるのだ。そしてそれが今回のナナモに与えられた使命の出発点になるのだ。だからナナモは、皆がまだひれ伏している間にとそのカラスを追いかけ始めた。きっと、ヤタガラスだ。ナナモは、しかし、もはやテングであれヤタガラスであれ構わなかった。きっと、ドローンとしてナナモを誘導しようとしている。そう信じるしかなかった。
ナナモは、上に、下に、西に、東にと、先ほどと同じように追いかけた。たとえ誘導してくれているのだと思ってみても、ナナモを気遣ってくれる素振りもないし、もしままならぬカラスなら気まぐれな行動を起こすかもしれない。そう言う意味からすれば逃亡者と変わらない。いずれにしても、ナナモには選択肢はないということだ。ナナモはそのことで少し足取りが重くなった。そんな時、その巨大なカラスは両足でしっかりつかんでいた巻物を離す様が目に飛び込んできた。ナナモはあっと、思わず声を発したが、カラスは素知らぬ顔で急上昇しながら太陽の方に再び向かって行った。
見上げると再び太陽が齧られているように見える。しかし、ナナモにはもはやそのことはどうでも良かった。だから、その巻物が吸い込まれていった屋敷にゆっくりと近づいて行った。その屋敷からは重い鐘のような音が地を這うよう響いていた。
予想に反して巻物が落ちた屋敷はナナモが嘗て訪れた一条の館ではないように思えた。確かにその門構えは似ているが、一条の館に比べて一回り小さいように感じたし、簡素でところどころ木板が傷んでいたからだ。しかし、ナナモは一度だけしか一条の館を訪れていない。だから、記憶が間違っているのかもしれない。いずれにしても中に入るしかなかったし、もし、一条の館ならそこにはアヤベが居てくれるはずだ。
ナナモは中に入ろうとゆっくりと門を押した。しかし、びくともしない。押しても引いても、横にずらそうともびくともしない。
そうか。ナナモは別に驚かない。しかし、その事でここが一条の館ではないことを確信してがっかりしただけだ。
先ほどまでなかったはずなのに、門構えの横に甕が置かれてある。傷んであると思った木板は模様になっていて、注連縄のように見える。
ナナモは溢れんばかりに満たされた甕の清水で身を清めてから、一礼し、柏手を打ってから、自らを名乗った。すると、その門はぎこちない音を一切立てずにゆっくりと開いた。
ナナモはもう一度一礼し、中に入る。すると、静かに門が閉じていく気配が背中越しに届いた。ナナモは屋敷に入る前にもう一度足元を見た。やはり、ジーパンとスニカーが見える。それに、リュックの感覚も残っている。
ナナモは一条の館ではないが、確かに似ているとだけ思いながら、あの時と同じように、脱いだ靴を自ら持ち、屋敷の中に静かに入って行った。
「どうでしたか都の様子は?」
誰かが近づいてくる。ナナモはアヤベだと思っていたが、声が違っていた。ナナモは少し緊張で身体が強張った。しかし、どこかで聞き覚えのあるようだ。だから次第に力が抜けていく。安らぎをもたらすような香りさえ漂っている。
ナナモの目の前に現れたのは、ハルアキだった。
「アヤベさんは?」
ナナモは師に対する挨拶も忘れて、思わずそう声を漏らしていた。ハルアキはそれでも穏やかな表情でナナモを迎え入れてくれている。だから、僕はカタスクニに戻って来たのですか?と尋ねようとした時に向う脛を誰かに思いっきりけりとばされたような痛みが走った。
痛いと大声で叫ぼうなら、もう一度、蹴られそうでガマンした。ハルアキの傍らには常にカタリベが居ることを思い出したからだ。
「マスター、お久しぶりです。お聞きしたいことがあるのですがよろしいですか」
ナナモは、今度は襟をただすような物言いで尋ねた。ハルアキは黙って頷く。
「ここはどこなのですか?」
ナナモは素朴に尋ねた。
「裏一条の館です」
ハルアキはさらりと答えた。
「裏一条の館?」
「そうです。以前ナナモさんが訪れた一条の館の丁度反対側、つまり御所の西側です」
「西側?」
ナナモは確かあの時一条の館に行くためのバスは御所の西側を走っていたように思ったのだが、勘違いだったのだろうか?
「いいえナナモさんは勘違いなどされていません。なぜなら平安の都が創られた時には、御所は今よりもっと西側にあったのです。ただ、その地は湿地帯で地盤が悪くなかなか御所としての機能が果たせなかったので、次第に東側に移って行ったのです。だから、一条の館は今でこそ御所の西側にありますが、平安の時代には、御所を守るかなめの位置として御所の東北の位置にあり、裏一条の館は御所を見守ろうとひっそりと御所の西北の位置に存在しているのです」
「裏一条の館にはハルアキ師が住んでおられるのですか?」
ナナモは、では一条の館には誰が住んでいるのだろう?もしかしてオンミョウジだろうか?という疑問を含めて尋ねた。しかし、一条の館のことは皇家に関わることですからと、ハルアキは口元を動かすだけでナナモを制した。
「ところでナナモさん、一条の館がなぜ御所の東側に在らなければならなかっのかわかりますか?」
ナナモはわかりませんと答えるべきなのに首を傾げた。
「しきたりですよ」
「しきたり?」
「そうです。一条の館に居られる持ち主は皇家に仕える方たちです。皇家に仕えるためには必ず陽の出る方向から御所へ向かわなければなりません」
「どうしてですか?」
「以前お聞きになっているはずです。皇家はカミに近しい方なのです。だから国譲りをされたのだと。そのカミは陽の輝くカミなのです」
だから日蝕を都の人々はあんなに恐れていたのだと、ナナモは思った。むろんハルアキはその事を十分知っているはずだ。
「王家のしきたりは全て皇家のしきたりの逆さまなのですか?」
ナナモは尋ねた。
「そうではありません。以前お話ししたように、王家のしきたりから発して皇家が受け継いだしきたりもありますし、皇家で発したしきたりであったとしてもタミのしきたりとなったものもあります」
「見分けることが難しいですね」
ナナモは素直に思った。
「これもすでにお聞きになったと思いますが、皇家はお祓いと吉凶、王家はお清めと託宣に意味があります。したがって、少し難しいですが、しきたりはそれぞれの意味するところで異なるのです」
ナナモはハルアキが話している意味がよくわからなかった。
「簡単に言えば、ナナモさんは王家なので、何もしなくても前に進むことが出来ればそれは皇家が支配する領域になります。ただし、そこではナナモさんは単なるタミにすぎません。それにタミを介してオンリョウも近寄ってくるので決して安心な場所ではありません。反対に、もし、まったく前に進むことが出来なければそこは王家に属する領域になります。タミはいませんし、王家にとっては安らぎの場所です。しかし、そのしきたりはお清めと託宣に基づくものです。だから、もし、そのしきたりを誤れば王家に属する領域に居ると思っても皇家が支配する領域でも王家に属する領域でもなく中間の世界に身を置くことになりますから、多少の痛みどころが、オンリョウの影響をもろに受けることになるのです」
「素直に入れるか、弾き飛ばされるかなのか」
ナナモは心の中でそうつぶやいたが、そう簡単ではありません。それにそのために私がナナモさんに講義をしてきたのですという声が聞こえてくる。
ナナモは、しかしハルアキのどのしきたりがどういう意味を持っているのかを十分理解するほどの経験がまだまだ少なかった。
「お清めと託宣か」
簡単そうで難しいし、自らがしなければならないことと、自らがしてはならないことかと、ナナモは少しため息が出た。
「でもどうしてハルアキ師がここに居るのだろう」
ナナモはハルアキがもう一度しきたりの授業をするためにここに来たとも思えなかったし。カタスクニの師がナナモとともに使命を果たす為にわざわざカタスクニにからナナモと同じ異世界に来たとはどうしてもは思えなかった。
「ナナモさんが英会話をされている方法を拝借させて頂いたのです」
きっと錯覚なのだろうがハルアキはウインクした。
「カタリベから臨時の臨時授業を仰せつかったのです」
やはりとナナモは思った。
「だったら僕はまだ苺院に居て、神木のタブレットの前に居るんですか?」
ナナモはイチロウのⅤRの事を思いだした。しかし、どうしても同じような状態だとは思えなかった。
「ナナモさんがおられるのは異世界ですよ」
ただし、王家の世界です。英会話の授業よりも異次元だし、異能力の世界だし、神秘的ですよと、ハルアキの意志が伝わって来る。
「ハルアキさんはここにはいないということですか?」
ナナモの問いにさあどうでしょう、五感を働かせてみてくださいと、英会話の方法を拝借したという割には師であるはずのハルアキはとぼけていた。きっと、カタリベからの入れ知恵なのかもしれないと、それがカタスクニのしきたりなら、仕方がないし、面倒だなと、ナナモは伝わってもいいから溜息を大きくついた。
その態度に師ならナナモを怒るかもしれない。しかし、後はよろしくお願いしますと、表情を全く変えずに、屋敷の奥へと戻って行った。
「あっ、待ってください」と、ナナモは溜息を後悔し、謝ろうとしたが、代わりに現れた人物を見て驚いた。
「今度は異世界でお会いすることができましたね」
何事もなかったかのように急に目の前に現れたかと思ったら急に話しかけてきたのはハダだった。ナナモはこの状況もVRの世界なのかと思ったが、もはやどうでも良かったし、考えても仕方がないことだとあきらめた。それに何らかの使命を果たす為にナナモは来たのだ。それならばハダはナナモに異世界で使える装備品を持ってきてくれたのかもしれない。
そう言えばさっきスマホを使おうとしたら、三角縁神獣鏡が出て来はずだと、ナナモは独り言を言いながらポケットから鏡を取りだした。
「残念じゃったな」
ハダの口が全く動いていない。もしかしたら、顔はハダであるのだが、カタリベが乗り移っているのかもしれないと、ナナモは三角縁神獣鏡を握りしめたままハダを見つめていた。
「どうかされましたか」
薄ら笑いなのか、それともそういう表情をする気分にたまたまなったのか分からなかったが、以前は無表情だったのに幾分笑みを含んだハダに、「ハダ師、お久しぶりです、ジェームズ・ナナモです」と、ナナモはなぜか自らを名乗っていた。
ハダはナナモの挨拶など全く耳に入っていないようだ。
「えーっと、三角縁神獣鏡と、勾玉と、袋と、それに筆記用具の話はしましたね」
ナナモは以前三角縁神獣鏡と、勾玉についてはその由来を含めて説明された。しかし、肝心な詳細な使用法についてはもはやナナモが知らないうちに会得した使用法を簡単に復唱されただけで、色々な機能があるのだと期待だけさせといて、まるで決して届かない目の前にぶら下がったニンジンに向かって走る馬のように、それ以上の説明はしてくれなかった。
「あの、さきほど、僕のポケットの中から三角縁神獣鏡が出てきたのですが、何故ですか?」
ナナモはまず関係性が薄いことから尋ねてみた。ハダは遠回りが嫌いなはずだ。だからもし装備品の機能だけについてさっさと話したいのなら、先ほどと同じようにナナモの質問など耳に届いていないだろう。
「ナナモさん、聞いていませんでしたか?異世界にいるからですよ」
ハダが折角ナナモに寄り添おうとしてくれたのにナナモはハダの言っている意味が分からなかった。
「でも、今、僕はスマホを握っていましたし、京の街を歩いている時も僕の視覚では僕は普段着のままだったんですよ」
ナナモはしかし、鏡には別な姿で映っていたことを思い出した。
「ナナモさんにカタリベは話して居なかったのですか?異世界に居る時はナナモさんの身なりはその世界に合うようになるのです」
「でも、僕の視覚とは異なるので僕自身は戸惑いませんか?」
「だから、鏡があるのです」
「でも、今まではそのようなことはなかったような気がします」
ナナモは頭痛をかいくぐって、なんとかアスカの地にいた自分の姿を探し出した。あの時は、確かに自分が見ても当時の服装をまとっていたはずだ。
「今まではナナモさんはまだカタスクニで授業を全く受けていませんでしたよね。だからです」
ハダはこともなげに言った。
「そうであるなら、今僕はどのような身なりをしているのですか?教えて頂けませんか?」
ハダは眉間に皺を寄せている。
「ナナモさんは、この前カタスクニで出会った身なりのままですよ。お若いのに服をお持ちではないのですか?ロンドンから来られたのでしょう。もっとファッションに興味をお持ちかと思いました」
確かにナナモはあまりファッションに興味がない。いや、ハーフのナナモはいじめられていたこともあって目立つことから遠ざかろうとしていたからかもしれない。それにしても、なぜハダは余計なことを言うのだろう。もしかしたら、またカタリベかと、溜息を吐く代わりに、「お金がないんです。それに派手な服装だけがファッションだということではありませんし、紳士の国ではきちんと洗濯されてアイロンがけしていれば、たしなみとして認めてもらえます」と、少しだけ毒ついた。
「確かにそうですね。でも、そのジーンズはいただけませんね」
ナナモ出来るだけ清潔な洗い立ての服を常に身に着けるようにしていた。だから、寮の洗濯機を一番よく使っているのはナナモだった。それは、あの最初の異世界への旅で身に着けた参拝と同じような今思えば王家のしきたりなのかもしれない。
「すいません」
でも、ジーンズって、アイロンがけしない方がいいんだけどなと、ナナモはつぶやきたかった。
「まあいいでしょう。異世界での服装はこちらが何とかします。ナナモさんはこちらが選んだ服装にしたがって下さい」
ハダはまた事務的口調に戻った。
「でも、ここは異世界なのでしょう。だったら、どうして都人の服装をしていないのですか。もしかして、ハダ師もリモートで僕と話しているのですか」
ナナモは、きっと、答えてはくれないだろうと思ったし、ナナモの服装を決めるハダがジーンズ姿を気に入らないのなら、なぜ平安の都人の服装にしてくれないのかわからなかった。
「ハルアキ師の話を聞かなかったのですか?それにここはどこですか?」
「裏一条の館です」
「そうですよ。王家の館です。ナナモさんはたとえ中間の世界に居ても王家に関わるところでは、ナナモさんはまだナナモさんのままなのです」
ナナモは初めて聞く話だった。しかし、そう言えば、オオヤシロノエキに行った時もナナモは受験終わりのままの姿でアヤベと話していた。
「それではここから僕は使命を果たす為に旅立つのですね。今回は平安の都に行くことはわかりましたし、きっと教えてはくれないのでしょうが、そこで何かがまた僕に試練が課せられるんですよね」
ナナモはゆっくりと、しかし、師に対する物言いよりは少し強い口調で言葉を投げかけた。しかし、ハダはしばらくナナモを見つめたまま無言だった。ナナモはハダからの言葉を待ったが、口を動かすどころか、直立不動のまま動かない。まるで、リモートがフリーズした様だ。
「この巻物をあるところに運ぶのじゃよ」
きっと錯覚なのだろうがパチパチと音を立てながらかすかに実像を揺らしているハダから声だけが聞こえる。しかし、声色が同じだがハダの声ではない。なぜなら明らかに口調が異なったからだ。
「カタリベさんですよね」
ナナモはナナモの服装の事よりも装備についてもっと聞きたかったのにまた横やりを入れて来たのかと、少し眉を狭めた。いつもなら、何じゃその態度はと、ナナモは怒鳴られるはずなのに、ハダになりきっているカタリベはそんなナナモの誘いには簡単にひっかからない。
「この巻物をあるところに運んでください」
カタリベだろうハダは急に丁寧な物言い変わった。そして、今まで手ぶらだったのにどこから持ちこんだのか分からないが、ナナモは昔の映画か博物館でしか見た事がない、おそらく何らかの文字が刻まれているであろう長い和紙を丸めて筒状になっている巻物を、全く動かないはずのハダからいつの間にか渡されていた。
「もしかして、御所内に持って行くのですか?」
「いいえ、そうではありません。ある屋敷に届けて頂ければ良いのです」
「屋敷?そこは皇家と関わりがあるのでしょうか?」
ナナモの問いにしばらく声が聞こえてこない。
「でも、僕はどこそこに行ってくださいと言われても、格子状の作りで都が創られているということはわかっていますが、まだ、よくわからないのです。先ほどの僕の行動を見て頂けばお判りでしょう」
ナナモはしびれを切らして言ったのだが、今度はわざと丁寧に言った。何じゃ、意気地なし、だからナナモは命を…と、ナナモは怒鳴られるはずなのに、またしても、言い返してはこない。
あくまでもカタリベはまるで腹話術師のようにフリーズしているハダになりきっている。
「行先には私が用意した乗り物に乗っていただくので安心してください」
「それが僕の使命なのですか?」
折角、平安の都に来たのに、郵便配達や宅配業の様な仕事をするのかと、ナナモは気落ちした。しかし、きっとそれだけではないだろうし、そう簡単ではないのだろうと思って、ハダではなくカタリベに心を読みとってほしいと、しばらくブツブツと口ごもりながら相変わらずフリーズしているハダを見つめた。
「はい。そうです。もし、それだけの役目で不十分なら、ゆっくりと京の街を見学されたらいい。先ほども言いましたが、服装は用意していますから、簡単に都人として溶け込めるはずですよ」
ナナモの心を完全に読み取っているはずなのに、声だけははっきりと聞こえてくるが、やはりフリーズしているハダの表情からは何も読み取れなかった。
「あのー、ここは裏一条の館だそうですが、もはや都の一部ですよね。だから、まさかその乗り物は列車ではありませんよね」
ナナモは乗り物も装備品の一部だとひらめいて、何とかハダを解凍したかったが、「はい」と、やはり感情の全くないもっとも簡単な返事の言葉しか返ってこなかった。しかし、なぜか鐘の音のようにナナモの心を反対に揺らしてくる。そしてその振動はまるでモールス信号のように、ナナモにはカタリベではなく、ハダの意志として、「以前乗られたことがあります」と、聞こえてきたようにナナモは思った。
「カタリベさん、また、錠剤を飲むとか注射をするとかあるのですか?」
ナナモは注射が嫌いだ。その事を知っているカタリベに聞こえるように、わざとハダに言った。
「いいえ今回は何もありません」
ハダは相変わらずそっけない言い方だったが、「医学部生になったのじゃろう」と、続けて聞こえて来た様だった。
錯覚ではないはずだ。ナナモはやっと落ち着けたような気がした。
「これに乗ってください。むろん切符など要りません。それに禊ぎも要りません」
ナナモの目の前には、鉄製の扉や木戸ではなく、御簾が下げられていた。ナナモはどこかで見た事があるような気がしたが、その御簾には鮮やかな色彩と細かな装飾が施されていた。ナナモはハダが現れた以上、この奥に今まで見た事ないような乗り物が横たわっているのであろうとその御簾を持ち上げたが、「もしかして…」と思った途端、急に物凄い頭痛がしたと思ったら、倒れ込むように意識を失った。




