(22)初詣、そして平安の都へ
「あけましておめでとうございます」
ナナモは杵築の学生寮に戻っていた。結局、あれからマギーと連絡を交わせなかったのだ。だから、ナナモは今年こそというか、折角医学部に入学し直せたので、マギーとともに年末年始を過ごしたかったが、その希望は儚い夢となった。それでもマギーから何か伝言でもないかと、年越しを知らせる時報が鳴り響いてもなかなか眠りに付けなかった。
オオトシは帰省していたので、寮にはナナモ以外誰も居ないと思っていたが、志村さんが医師国家試験へのラストスパートだと帰省せずに部屋で籠って勉強していた。それにヌノさんも、寮に居た。だから、厳密に言えばナナモ一人ではなかったのだが、それでも、二人の所にナナモが遊びに行けるわけもなく、閑散としている寮はいつもより肌寒さが増していた。
ナナモは朝いつもように六時前に起きて寮の神棚に手を合わせていた。これは初詣になるのだろうかと、それなら、多少遠くてもきちんと社のある神社にお参りに行きたいと思ったが、年末にマギーと話した会話の事が頭から離れなかったのでそうしないといけないとこれまで通りのナナモのしきたりに従った。
いつもならこの時間にはヌノさんが食堂で忙しく朝食の準備をしている。しかし、正月だ。ヌノさんからは昨夜、御雑煮を作っておいたので、自分で温めてくださいと、それにお餅を置いておきますからと、言われていたので、ナナモは一人食堂で御雑煮を温めた。
御雑煮は全国でそれぞれ味付けや具材が違う。杵築では海苔をだし汁で溶かしてお餅をいれるか、甘く煮た小豆をさらりとした汁に浸してお餅を入れるかのシンプルな御雑煮だ。しかし、今ナナモが食べているのは白濁したスープの様な御雑煮だ。全国からこの寮に来ているから、ヌノさんが毎年変えていて、今年は白みそ仕立ての京都風だと言っていたよと、昨夜ナナモは志村さんから聞いていた。
ナナモはほのかに甘味のあるそれでいて、きちんと出汁しの香りがする、大根とニンジンが紅白で刻まれ、その中心にお餅が浮かぶ御雑煮を食べた。
京都風か。ナナモはちらと京都で聞いた講義の事を思い出したが、今日は元日だ。全てを忘れ禊ぎを受ける日だと、それ以上考えないようにした。
ナナモはごちそうさまと言ってから、自分で食器を洗うと部屋に戻った。年末から自由な時間が格段に増えているはずなのに、却って何もしない日々が続くと物足りなくなってくる。どうやらナナモは忙しい場所に身を置かないと集中出来ないのかもしれない。しかし、それも、正月だからと、やはり気にしないようにした。
朝食を終えたし、今までの勉強の復習をする気力も萎えたしと、まだ、午前中だったし、折角杵築に居るのだから、オオヤシロに参拝しようと思った。多くの人がやって来る。きっと、壮大でその社はもしかしたら着物姿の人々で賑わっているのではないかと、嘗て同級生に誘われたのに断ったことなど忘れて、そそくさと外出の支度をしていた。
「こんにちは、誰かいませんか?」
ナナモの部屋の中までずかずかと上がり込んできそうな勢いで声がする。ナナモは寮だからヌノさんが対応してくれるだろうと出て行かなかった。でも待てよ、ヌノさんは食堂にも居ない。もしかしたら出かけているのかもしれない。そうであるなら、あんなに大声で叫ばれたら、志村さんを起こすことになる。昨夜夜遅くまで勉強していたとしたら気の毒だ。だからナナモは慌てて寮の玄関に向かった。
もしかしたら郵便局員が年賀状を持ってきたのかもしれないと思ったが、それにしては配達時間が早すぎないだろうかと思った。それに郵便局のひとなら、いつも郵便物を寮の玄関に置かれている大きな郵便受けの中に黙って入れてくれるはずだ。
もしかして、電報?ナナモは又何かを思い出そうとしたが、元日だからと、やはりやり過ごそうと思った。
「ジェームズ・ナナモさんはおられますか」
郵便局員の制服とは少し違うようだが、制服を着ている。きっと宅配業者なのだろう。それなら、でも、元日から営業しているのだろうか?ナナモは帽子をかぶっていたが宅配業者の人の顔をしばらくしげしげと見つめた。でも、どうして、また、苗字ではなくて名前なのだろうと、まさか、アヤベではないだろうかと思ったが、その顔にまったく見覚えはなかった。ただ、口周りの髭剃り跡がまだ影を少し残しているのが気になった。
「僕です」
宅配業者の人はいきなり出て来た若者が急にハイと返事をしたものだから戸惑っている様だった。
「寮母さんは不在です」
ナナモはまたしても躊躇なく言った。しかし、却ってその言い方でその人は戸惑ったようだ。
「僕がジェームズ・ナナモです。いや、正確にはクニツ・ジェームズ・ナナモですが」
ナナモははっきりと言った。
「クニツ?おかしいですね、ここにはクニツとは書かれていませんが…。失礼ですが、あなたは本当にジェームズ・ナナモさんですか?」
もはや宅配業者の人は完全にナナモを疑っている。
「あの…、これは念のためなので気を悪くなさらないでほしいのですが、何か身分を証明できるものをお持ちですか?」
ナナモは正月早々十分気分を害している。しかし、業者の人はまったく気にしていない。ナナモは折角気持ちよく初詣に行こうと思っていたのに出鼻を挫かれた思いであったが、財布から学生章を取り出した。
「ジェームズ・ナナモさんですね」
「ハイ」
ナナモは自信たっぷりに写真入りの学生章を見せた。業者の人はその学生章とナナモの顔を何度も見比べている。ナナモはハーフだ。こういう時には役立つ。
「あの…」
「何ですか!」
ナナモはこれ以上何を疑うことがあるのだろうと少し腹が立ってきた。
「失礼ですが、ここにはジェームズ・ナナモとしか書かれていませんね」
それがどうしたんだ。ジェームズ・ナナモって確かめたかったのはあなたではないのですかと、言いそうになった。
「先ほどクニツっておっしゃれませんでしたか?僕はクニツ・ジェームズ・ナナモだって」
ナナモはしばらく開いた口が塞がらなかった。きっと数秒のタイムラグがあったのだろう。でも、ナナモはゆっくりと口を閉じると、そうは言っていませんよと、否定した後に、僕はオホナモチ・ジェームズ・ナナモですと、はっきりした声で言った。
しかし、業者の方は今度は聞き返さなかった。それどころか伝票に受け取りのサインをさせると、荷物とともに学生章をナナモに渡した。そして素早く踵を返すとナナモの前から立ち去った。
何だったんだろうと、正月と言えども今度は色々と考えが沸き起こる。それでも、もしかしたらこのひんやりとする案外重く案外大きな荷物の中に神木のタブレットの様なカタスクニからの装備品が入っていたらと、ナナモはやはり今日は正月なのだと、首をかしげることもなく急いで部屋に戻った。
ナナモは誰からだろうと確認することもなく、早く中身が見たくて無造作に荷物を開けた、漆黒のところどころに草花の細工が施されている、何か仰々しい四角形の容器が目に入った。その容器はやはり冷たい。もしかして玉手箱ののように開けると冷気が発せられてナナモは初詣の代わりにカミヨの世界に誘われるのではないかと期待が膨らむ。
ナナモはだからゆっくりと開けた。
冷気を伴った真っ白な霧は全くなく、その容器の中には一人では食べきれないような量のおせち料理がぎっしりと詰め込まれていた。そうか冷蔵宅配か。ナナモは傍らに置かれていた破り去った包み紙を見た。
送り主はキリさんだった。
ナナモは思わずスマホを手に取り、登録されている番号に掛けた。しかし、何度電話を掛けたがつながらない。だから、あけましておめでとう。今、おせちが付きました。ありがとうございますといつもより少しだけ丁寧な英語でメールを送った。
返信はないだろうと思っていたら、なぜかすぐにキリさんから返信が届く。きちんとした英語の文章だ。
「先生からご依頼がありましたので、おせち料理を作らせ頂きました。御口に合うかわかりませんが、お正月気分を少しは味わえるのではないかと思っています。それと、これは先生からのとても大切な言付けですが、オオヤシロへは決して初詣には行かないこと。その代わり、行くべきところにきちんと行くこと。とのことです。今年一年良い年を迎えられますように願っております」
マギーはああは言っていたのに、ひとりで正月を迎えるナナモを気遣ってくれていたんだ。ナナモはすぐにマギーにもメールを送った。しかし、しばらく待ったが返信は来なかった。
キリさんが気を利かせてくれただけだろうか?ナナモは少し落胆したが、でもそれならば伝言などないはずだ。ナナモはしばらく部屋の中を行ったり来たりを繰り返しながらも、ロンドンで叔母が作ってくれたおせち以来だと、キリさんのまさしく正月らしいきらびやかな作品をしばらく眺めていた。
「コンコン、ナナモ居るか?」
突然ノックの音がしたかと思ったら、タカヤマが入って来た。
「やっぱり」
タカヤマはナナモを全く見ていない。
「大阪に帰らなかったのかい?」
ナナモはタカヤマが頷きながらおせちを見ていることなど気にせずになぜ杵築に居るんだと驚いた。
「いや、帰ってたんやけど、今朝夜行バスでまた戻って来たんや」
やっとナナモの顔を見た。
「どうして?」
「ナナモがひとりで寮に居るって言ってたから。ナナモと一緒に初詣に行こうと思ったんや」
ナナモは少女漫画のように目をパチパチさせてタカヤマの優しさに感動しそうだったが、まさか、そんなわけはと、急に目を細めて睨み付けた。
「タカヤマは嘘が似合わないよ」
もし、本当なら嬉しかったのだが、タカヤマはぼりぼりと人差し指だけで頭を掻いていた。
それで、と、ナナモは、なぜか珍しく理由をなかなか話そうとしないタカヤマを促した。
「実は大阪に戻ってからK大学にカリンさんに会いに行ったんや。年末やし、おれへんとは思ってたけど、偶然ってあるやろ」
えっ、と思わず、ナナモは声に出しながらも身体が固まっているのさえわからないほど驚いた。それにしてもタカヤマは積極的だ。いや、こうと思ったら突き進まざるを得ない性格なのだろう。ルーシーの事でいまだにうじうじしているナナモは、自分自身が情けなく思えた。
「それで会えたのかい?」
ナナモはつい最近会ったばかりだ。しかし、もちろんそのことをタカヤマには言えない。
「いや、けど、そこである女性と会ったんや」
誰だろう、まさか、マギーではないだろうなと思いながらも、なかなかタカヤマは言わない。ナナモは、しかし今度は促さなかった。
「気い悪せんといてや」
タカヤマは珍しく遠慮気味に言った女性はソフィアだった。杵築の新人戦のことがある。だから、タカヤマは言いにくかったのだ。でもソフィアともつい最近会ったばかりだ。ナナモはその偶然に驚いて何も言わなかったのだが、タカヤマはナナモにどう説明したらよいのか考えながら、それでもまた頭を掻きながらソフィアのことを話してくれた。
「それでその、ソフィア…さんは、僕の事何か言っていた?」
ナナモはもちろん新人戦の事を聞いたわけではない。
「女って案外薄情なとこがあるやん。はきはきする性格やからか知らんけど、ナナモのことは記憶からなくなっているっていう風やったわ」
ソフィアは決して薄情なんてことはない。ただ、ナナモはそのことを言えないだけだ。
「何か彼女ひよっとしたらカリンさんのこと知っている様な気がして、俺思い切って聞いたんや。そしたらジェームズのお婆さんと一緒やって言った切り、俺から去って行ったんや」
ソフィアはなぜそのことだけはタカヤマに言ったのだろう。もしかしたら、だからナナモとは年末年始を過ごせないと伝言してくれると思ったのだろうか?ナナモはあの時にも思ったのだがカリンのことが気になった。
「おい、聞いてるんか?」
タカヤマが何か言っている。ナナモはふと我に返った。
「ナナモって、ジェームズ・ナナモやったんやな」
何を今さらとナナモは思った。もしかして、その事に気が付かなかったのかと、タカヤマに尋ねた。
「恥ずかしいんやけど、カリンさんに会えへんかったショックが大きくて、大阪に戻るまで気が付かへんかったんや。でも、あっ、て、気が付いたらもういてもたってもいられへんようになって夜行バスに乗りこんでいたんや。そして、寄り道せずにまっすぐにここへ来た。ノックしたらナナモはおるし、おせちがあるやん。俺はまだ見放されてへんと神様に感謝したんやで」
タカヤマはおせちを二人が持ってきてくれたのではないだろうかと思ったのだろう、だから興奮気味に一気に話した。しかし、ナナモは神様ではない。今からその事をタカヤマに説明しなければならない。
ナナモは次第に表情を曇らせていくタカヤマにかいつまんで東京のキリさんの話をした。そして、マギーに連絡が付かないことも付け加えた。タカヤマは本当か?と何度も尋ねてきたが、ナナモはそのたびに頷くしかなかった。
「そしたら初詣へ行かへんか。縁結びが必要やろ」
タカヤマはまだあきらめきれないのかナナモを誘ってきたが、ナナモはもちろんハイとは言えない。
「タカヤマらしくないな。そう言う時は潔くした方が良いと思う。それより、寒げいこをやらないかい。運気を高めるためには道場で鍛錬した方が良いんじゃないかな」
ナナモは、本当はあまり乗り気ではなかったが、オオヤシロへの初詣は何とか回避しなければならない。
京都の底冷えを経験したとは言え、さすがに板敷きから素足への伝導は冷たかった。しかし、それも束の間の事で、カリンの事を全て忘れようとする思いも相まって、道場に来て急にスイッチが入ったタカヤマからいつもよりコテンパンに稽古をつけられたナナモの体はすぐに火照っていた。ナナモはもはや逃げまどいたい気持ちだったが、ソフィアの事を思いだして辛うじて踏ん張ることが出来た。きっと、それほど長い時間ではなかったはずなのに、ナナモはゼイゼイと息を切らしてしまって、ギブアップだと最後には英語で言った。
タカヤマは道場内で英語を使うことを嫌がっていたが、別段不機嫌そうではなく、自分だけで打ち込みを続けると言って、ナナモはしばらく傍観しながら付き合うしかなかった。
練習が終わったあとナナモはタカヤマの誘いもあっておせちを持ってタカヤマのマンションへ行った。
たわいもない話しをしていただけだったが、おせちを食べながら学生なのに、結構銘柄が並んでいるタカヤマの部屋でお酒を飲んでいると、すっかり陽が落ちてしまっていた。ナナモは久しぶりの稽古で疲れたことも相まって、瞼が何度も落ちそうになったが、タカヤマは明日再び大阪に戻るからと、何とかひとりで寮に戻った。
志村さんやヌノさんが居るはずなのに、寮の窓からはどこからも灯りは漏れていなかった。
ナナモは自分の部屋に戻るとすぐにベッドに横になった。しかし、このままではと、眠い気持ちを我慢して何とかベッドから起き上がると風呂場に向かった。正月だし身を清めてから眠りにつきたいと思ったのだ。だから、眠気と闘いながらも湯船にお湯を張った。身体ごと浸かったためかアルコールが抜け、風呂からあがって自分の部屋に戻った頃には眠気はどこかに吹っ飛んでいた。
(オオヤシロへは決して初詣には行かないこと。その代わり、行くべきところにきちんと行くこと)
ナナモは急にマギーからの伝言を思い出した。スラスラと言えたことが不思議だったが、確かそういう内容だったと思う。でも、行くべきところってどこだろう。ナナモはしばらく考えた。
そう言えばいつから苺院へ行っていないのだろうと、パジャマ姿だったナナモは窓を開け、外を見た。外気は予想以上の冷風とともに入ってきた。ナナモは風呂上がりだったということも相まって、雲に隠れることなく輝いた月につい見入ってしまった。
ハクションとナナモが漫画のようなくしゃみをしなかったら、しばらく冷風に晒されていたかもしれない。ナナモはパジャマを脱ぐと正月用にと新しく買っておいた下着で身を包み直し、最後に厚手のダウンですっかり防寒したあと、苺院へ行こうと神木にタブレットをリックに入れてから寮を出た。そして、大学の敷地から完全に離れた事を確認すると、神木のタブレットを取り出し、月に向かってネコマネキのアプリを作動させた。
「あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします」
苺院に入るとアメノがいらっしゃいませと言ったあと新年の挨拶をナナモにした。
「あけましておめでとうございます」
ナナモも間髪入れずに深々と頭を下げながら言った。
ナナモはアメノに誘われた席に着くと神木のタブレットを作動させた。いつもならあまりすぐに会いたくないのだが今日に限ってはカタリベにすぐにでも会いたい気分だった。
しかし、いくら、ナナモが願っても反応はない。ナナモは今日は正月だ。新年の幸を祈願して多くの日本人が神社に参拝する。カタリベはカミに仕える。だから忙しいのかもしれない。
ナナモは仕方がないかと、でも、しばらくここで待とうと思った。いつもなら気にすることはないのに、店内には雅楽が流れていた。
しばらくするとアメノがやっていた。お正月だから、お酒を出してくれるのかと思ったが、目の前に置かれたのは珈琲でも紅茶でもなく、取っ手のない陶器の湯呑に注がれたお茶だった。
「おおぶくちゃと、言いまして、お正月のめでたいお茶ですよ」
ナナモは程よい湯気とともに、ほのかな酸味と潮の香りを感じた。
「お気づきになられたとは驚きましたね」
ナナモはもしかしてアメノも心が読めるのかと思わずをアメノの顔を見た。しかし、アメノは表情ひとつ変えず。見ればお分かりですよねと言った。
「小さな梅干しと小さく結ばれた、これは…」
「昆布です」
ナナモはそうか、だからかすかだが潮の香りがしたのだと合点した。
「梅干しはしわくちゃですから、しわくちゃになるまで健康で長生きしようという願いと、昆布はよろこぶと言って子孫繁栄の願いと、その昆布を結ぶことによって家族の絆の願いが込められているんですよ」
アメノは、正月だからか、いつもより饒舌だった。そして、だからおめでたい祝いの飲み物なのですと、さらに付け加えてからナナモに冷めないうちにとそのお茶を勧めた。
ナナモは口にする前にもう一度香りを楽しもうと湯呑を鼻に近づけた。先ほどは心地良さを感じた香りだったが、なぜか頭痛がして気が散ってしまう。それでもめでたい正月の飲み物だからと、今度は茶碗を口につけようとしたところ、今まで何も反応しなかった神木のタブレットが輝いた。ナナモは思わず目を細め、湯呑から顔を背けた。丁度、アメノが居る。しかし、明らかに先ほどとは異なる険しい顔をしている。
ナナモは持っていた湯呑からお正月のめでたいお茶がこぼれないように手元に置くと同時に、あっ、と叫んだ。なぜなら、今までナナモの傍らに立っていたアメノが急に奥から伸びて来た腕に掴まれ奥の方に引きづり込まれて行ったからだ。
ナナモは立ちあがって、アメノを追いかけようとした。
「どこにいくんじゃ~」
最大限のボリュームにした拡声器で首根っこを掴まれたような圧でナナモは一歩も前に動けなくなった。
「あっ、カタリベ、…さん」
ナナモは神木のタブレットから今にも顔をだそうという勢いでナナモの前に現れたカタリベを思わず呼び捨てしようとするくらい驚いた。
「落ち着けナナモ!」
「でも、アメノさんが…、蛇みたいに伸びて来た腕に…」
ナナモはまだ心の整理がついていない。
「いいんじゃよ。連れて行かれたのは、アメノじゃなくて、アメノ弟じゃよ」
ナナモは、えっと、カタリベを見つめた。
「本当ですか。でも、お正月のおめでたいお茶だって、おおぶくちゃを煎れてくれたんですよ」
カタリベからため息が漏れている。
「おおぶくちゃは正月の縁起物のお茶なんじゃが、主に京都で飲まれているのじゃよ」
「飲んではいけなかったのですか?まさか中に何か入っていたのですか?だから僕が飲もうとした時に止めてくれたんですか?」
ナナモは矢継ぎ早に質問していた。
「中に何か入っていたって、もしかして、毒って思っているのじゃあるまいな」
そう言えばナナモは結局口にはしなかったが、その香りを嗅いだ時に頭痛がしたことを思い出した。もしかして、あのまま飲んでいたらと、ナナモは背筋がぞっとした。
「そんなことあるわけないじゃろ」
カタリベはこともなげに言った。
「えっ」と、ナナモは狐につままれたようにカタリベを見た。
「お前はなにを習っていたんだ」
「何をって」
カタリベからまたため息が出た。
「なぜわしがわざわざお前をカタスクニまでつれて行きハルアキの特別授業を受けさせたと思っているのじゃ」
「王家のしきたりを学ぶためです」
「ほう、知っておったんじゃな」
ナナモは当たり前だという顔をしようとしたが、何かを察してすんでのところでとどまった。
「おおぶくちゃを正月に飲むというのは、皇家のしきたりなんじゃよ」
「皇家の」
「そうじゃ。しかし、お前は皇家ではないじゃろ。王家じゃろ。だから、王家のしきたりを踏んでからでないと何かとうまくいかないし、どこか身体の具合が悪くなるんじゃ」
「でもカタリベさん。僕は今朝白みその御雑煮を食べましたよ。でも何もおこらなかったですよ」
「神棚にお参りしただろう」
あっと、ナナモは自然と声を漏らしていた。
「そう言うことじゃ」
カタリベはしたり顔でもあきれ顔でもなく、真面目な顔で言葉を継いだ。
「良いか、この世のしきたりのほとんどは皇家のしきたりをタミが少しずつ変化させながら継承してきたものなのじゃよ。もちろん、王家のしきたりが残っていたり、タミが自ら作り出したりもしたのじゃが、やはり、その中心には皇家がいるのじゃよ。しかし、そのしきたりの中には王家にとってよからぬものもあるのじゃ」
「おおぶくちゃがよからぬものなのですか?」
「王家にとって多少はな。しかし、あれはアメノ弟の悪戯じゃよ。もはやタミのものとなっているものじゃからの」
「でも、だったらどうして正月早々そのような悪戯を僕にしてきたのですか?」
「良いか、皇家の本当の正月は今日ではないのだ。神在りの月の事を聞いたことがあるじゃろ。旧暦ではまだ正月ではないのじゃ。それなのに正月気分でいるお前に少し悪戯したくなったのではないか」
ナナモは杵築での新人戦の事を思い出した。しかし、今のタミにとっては今日が正月だ。タミにとって皇家も王家もない。タミの正月だ。ナナモはそう思った。
「ずいぶん大人になったのう」
カタリベが珍しく目じりを下げて言った。しかし、ナナモははにかむこともなく。カタリベをじっと見つめ返した。
「もしかして、僕に何か使命がでたのですか?」
ナナモは直感で言った。
ほおーっ、よく気が付いたのじゃなと、カタリベは声に出して言ってはくれなかった。それでも、ナナモにはそう聞こえる。
「あの、穢れは禊ぎで解決するのですか?」
ナナモはイチジョウノヤカタで聞いた講義のことを思い出した。しかし、カタリベはナナモの問いに答えなかったし、気配も見せなかった。
「皇家にはお祓いと吉凶を占う従者に守られている」
「王家は?」
ナナモは答えてはくれないだろうと思いながらも尋ねた。
「王家はお清めと託宣じゃあよ」
カタリベは予想に反してはいたが、ゆっくりと丁寧にそれでいて重みをもたせて言った。
従者は?と、ナナモは続けて声に出そうとしたが、その呼気は誰かに遮られた。
「良いか、ナナモ。これから、苺院の奥から、武具店を通り抜け、一目散に走って、あの神社に行くのじゃ。アメノがアメノ弟を今必死で摑まえてくれているはずじゃ。良いか、どのようなことが起ころうと、どのような声が聞こえようと、決して耳を貸さず、振り返ることもせずに、駆け抜けるのじゃぞ。良いか、そこでナナモを待っている者がいる。わかるな?」
ナナモはハイと今度は誰に邪魔されても良いくらいの力で声を出し、大きく頷いた。
ナナモはカタリベがいなくなった神木のタブレットを閉じた。そして、いつのまにか置かれていたおしぼりで両手を拭き、ガラスに入った水ですこし口元を清めるように潤わせてから、おおぶくちゃを飲んだ。今度は頭痛はしなかった、それどころか全身から力がみなぎりような清々しさを覚えた。
ナナモはリックを背負い。誰も居なくなった苺院の奥を目指しゆっくりと歩き出した。身体は軽い。これならカタリベの言う通り走って行けそうだ。
店中に流れていた雅楽はすっかり止んでいる。静寂が余計にピーンと張っている。
ナナモは緊張していたが、わざと身体を強張らせると、まるで大きく振り被った竹刀を振りおろしながら面を打とうとするような素早さで走りだした。
ナナモはカタリベに言われたように、振り向かずにまっすぐに走って行った。その道すがら、大声で言い争っている声が聞こえたし、何やらガチャンと音がしたが、その音源が何なのか具体的なことは全く理解できなかった。
まるでワープ走行していた宇宙船のようだったが、最後に武具店の扉を勢いよく開けると、目の前に現れた鳥居の前で急ブレーキを掛けて立ち止まった。
ナナモは頭を垂れて一礼してから中に入った。不思議なことに全く呼吸の乱れはなかった。
確か、手水舎の代わりに湧き出る甕が置いてあったような気がしたが、と、ナナモはウロウロと見渡した。
「ここですよ」
「アヤベさん」
予想通りだとしてもナナモはほっとした。いつものようにスーツをきちんと着こなしているアヤベだ。珍しく真っ白な生地だったが、月夜に反射して暗闇なのに余計白さが際立っている。
ナナモは一気に緊張が解けていった。早くアヤベと話がしたかったが、甕でゆっくりと手口を清めた。
「ナナモさん、また、京都に行っておられたんですね」
ナナモが落ち着いたのを見計らってアヤベが声を掛けた。
「でもまた意識がなくなりました」
アヤベは知っているという風な顔をしている。
「もしかして、ソフィアが話してくれた医者ってアヤベさんだったのですか?」
ナナモはだから尋ねた。
「私は医者だなんて言っていませんよ。それにナナモさんが直ぐに意識を取り戻すことはわかっていました。ただ、あの時ナナモさんがオンリョウにまた心を奪われたのではないかと調べていたのです」
「それで?御所にもやはりオンリョウが居たのですか?」
ナナモはせかすように尋ねた。
「結論から言いますと、ナナモさんはオンリョウに心を奪われたのではありません」
「だったら、どうして僕は意識を失ったのですか?」
ナナモの問いにアヤベはしばらく間を置いた。そして、珍しく息を整えるような仕草を見せた。
「ナナモさんにはつらいことになるのかもしれませんが、御所は穢れを拒もうとしたのかもしれません」
「穢れ?」
「そうです。ナナモさんは蹴鞠の庭でナナモさんしか身に覚えのない穢れを感じたのではないのですか?」
ナナモは、夢なのか、現実なのか、VRなのか異世界なのか分からなかったが、コッツウェルズで行われた国際サッカー試合の最中に目の当たりにした事件の事をあの時思い出したのだ。そして、それは消えない穢れとして一生かけて清めて行かなければならならない運命だと聞かされたのだ。
「ナナモさんにとって受験許可書を出さずに医学部に進学したことは相当罪深いことだと思われていたのですね」
アヤベはなぜあの時一緒にカタスクニに行かずにひとり離れて大学にナナモが行ったのかを改めて理解しようとしている。
「僕はダメな人間です。折角、カタスクニに連れて行ってくださろうとしていたアヤベさんを振りきってまで受験許可書の件を入学前までに解決しようとしたのに、結局何も出来なかったのですから」
アヤベは何も答えない。
「僕は、でも今度は自分の罪に向き合おうと思います」
ナナモはアヤベから何かを言われたわけでもアヤベの心が読めたわけでもなかったが、全てを知っているであろうアヤベにこれだけは言っておきたいと思った。
アヤベはまた何も言わなかった。けれども、アヤベさんはきっと僕を見守り続けてくれている。そう思えてナナモはアヤベのねぎらいの言葉が嬉しかった。
「ところでアヤベさん、カタリベさんからははっきりとは言われなかったのですが、何か僕に使命があるのですか?」
気を引き締め直したナナモはこれまでアヤベから直接聞いたことがなかったのでまさかと思いながら尋ねた。
「ご存知だと思いますが、私は託宣しかナナモさんにお伝えすることは出来ません」
ナナモはもはやアヤベが託宣以外の事も伝えてくれていることを知っている。しかし、ナナモはあえてハイと引き締めた声とともに頷いた。
「ナナモさん、まずは参拝しませんか?」
そう言えば、神社に来ていたのに、アヤベに会ったことでまず参拝しないと行けないのにすっかり忘れていた。
ナナモは初めてだったがアヤベと並んで参拝した。お互いの間に得もしれぬ穏やかな空気が漂っている。
「今神様から少しだけカタリベの力を戴きました」
声に出すかわりに少し頬を緩めたが、すぐにいつもの冷静な面持ちに戻ったアヤベはゆっくりと今度は声を伴って話し出した。
「ナナモさんにはもう一度京都に行っていただきます」
ナナモは初めて場所を特定されたことに驚いた。
「しかし、僕はカミに近しい皇家が居られた場所には受け入れてもらえないのではないのですか?」
「ナナモさんはご存知でしょう。京の都に居られたのは皇家だけではありません。公家も貴族も姫君たちもおられたのですよ。彼らが皆穢れのない者だったとは言えないのです」
ナナモはそう言えばそうかもしれないと思った。
「彼らが皇家の傍に居られたのは、お祓いと吉凶で、一時的にカミから穢れを隠していたからです」
ナナモはカタリベの言葉を思い出した。そしてそれがしきたりに繋がっていることも学んだ。
お清めと託宣。ナナモは学び始めてはいたが、まだ、はっきりとしたことはつかみきれないでいた。
「では、僕もあの時どこかでお清めしてから御所に行けばよかったのですか?」
「そうですね。そうすればあの蹴鞠の庭の前に立っても、拒まれなかったかもしれませんね」
アヤベははっきりとは言わなかった。御所にはきっとそれだけではない魔物がいくつも住み着いているからなのだろう。
「今回の使命は学習です。皇家を知り、皇家の周りの人々を知り、なぜ朝廷という組織が出来上がったのかを知っていただくことです。したがって、そこにはタミはいません。もちろん、何かしらの試練はあるでしょうし、オンリョウも見え隠れするでしょう。しかし、その試練に自ら立ち向かおうとはしないでください。良いですか。カミとオンリョウは光と影、陽と陰、白と黒です」
アヤベは諭すように物腰の柔らかな言葉で言った。ナナモは軽く頷いた。
「ナナモさん、これからまずどこに行くかもうご存知ですね」
アヤベはいつも全てをいわない。しかし、ナナモは全てを知っているかのように「はい」と声を出していた。
何時しか開かれていた社に、ナナモはアヤベとともに吸い寄せられるように入って行った。




