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ジェームズ・ナナモと格子の迷宮  作者: まれ みまれ
21/33

(21)一条の館

「ねえ、ナナモじゃなくてジェームズって呼ぶわよ」

 確かにそう呼ばれた方が気が楽だったが、反対にわざとそう言ってくれたのかもしれないと思うと気が引けた。

 ジェームズが夜行バスで今朝京都に着いたことを話すと、学生向きの手ごろな値段で食べられるところがあるのよと、表通りから外れた路地の奥にあるレトロな喫茶店にソフィアはジェームズを連れて行った。

「ジェームズ、あの時のこと気にしているの?」

 そらそうだと、ジェームズは杵築で行われた剣道の新人戦のことを思い出していた。試合で始めて一本技を決めることが出来た相手ではあるが、結局負けてしまったばかりか、意識さえ失ってしまったわけだ。男としてと言えば古くさい考えかもしれないが、それでも、情けない思いがしばらく消えなかったことは確かだ。本来なら一瞬見ただけでその相手の顔がわかるはずだし、嫌な気分になって、すぐに背も向けていただろう。しかし、あまりの変貌ぶりに、ジェームズは全く気が付かなかったばかりが、ハグされたことで少なからず動揺していた。

 でも、それも、ソフィアの作戦なのか?過去に何事もなかったかのように対面で朝食をついばむソフィアの屈託のない笑顔を上目遣いでチラと見ながら、いや、これはソフィアの優しさだとジェームズは思い直すことにした。

「そりゃね。でも、過去の事だし、うじうじしても仕方ないからね」 

 ジェームズは言ってからしまったと思った。なぜならソフィアが大きな瞳の目じりを下げていたからだ。だから、「イチロウはサプライズって言っていたから浮かれていたんだけど許せないな」と、また、余計なことを話していた。

「イチロウの言っていた通り、ジェームズって素直なのね」

 何をソフィアにイチロウは話したのだろう。ジェームズはナナモとして初めてイチロウと会った時の事をふと思い出した。

「ソフィアは京都に居るんだろう、どこでイチロウと出会ったの?」

 ジェームズは話題を変えたくてソフィアに尋ねた。

「それがね、あの時、試合の後、SNSで英語で呟いていたの」 

 やはりあの試合が関係していたのか。ジェームズは気付かれない溜息をついた。

「心配しないでね。ジェームズの事じゃないから」

「僕の事じゃないの?」

「いずれわかるから先に言っておくけど、私医学部生だけど、いわゆる医者を目指す医学生じゃなくて、健康情報科に属しているの。本来なら医者を目指す医学部生だけの大会にしようと思っていたそうだけど、女子の参加者が少なくて。それで、頼まれたの。私はあまり気が乗らなかったんだけど、医学部生には変わりないし、なんか癪に触って、それで参加したのよ。でもね、やっぱり、くどくどという人はいるから。それで、何となく呟いていたら、イチロウが励ましのダイレクトメールをくれたのよ」

 大会が終わったことで大きな背伸びをしてやれやれとくつろいでいたジェームズと違って、イチロウは自分自身への評価を続けていたのかもしれない。

「メールをやり取りしているうちに、あの試合のことになって、そうしたら、それ俺の友達だって。まあ、ジェームズのおかげね」

 イチロウにとって、パソコンを使えば、文字ならネイティブの様に翻訳するのは簡単だ。

「じゃあ、イチロウから色々、僕の事を聞いたんだ」

「それがね。案外、プライベートのことはよく知らないんだって話してくれなかったのよ。じゃあどうして友達になったのって私が聞いたら。うーんて、しばらく返信してくれなかったんだけど、ソフィアと同じかなって少し気味が悪かったんだけど、巨大な笑顔マークが添えられていたわ」

 ジェームズの過去をジェームズ自身知らないのだ。それに、あの時の出会いとあの時の状況とその後の二人は、ある意味VRの世界なのかもしれない。

「でもね、イチロウは、ジェームズのことを褒めていたわ。僕にはない何かを持っているって」

ジェームズはこそばゆい思いだった。イチロウこそジェームズの何倍もいや何百何千倍も優れている。

「ところで、僕はイチロウにも言ったんだけど、京都を観光するのは初めてなんだ。それに時間もあまりないし、一体どこに行くんだい?」

 もっとソフィアの事を聞きたかったが、もしかしたら、また剣道の話になるんじゃないかと思ってジェームズは正直心残りではあったが、分厚い玉子サンドをぺろりと平らげたタイミングでソフィアに尋ねた。

「イチロウからは京都御所に行ってほしいって頼まれたわ」

「京都御所?」

「そう、皇家の住まいがあったところよ」

 ジェームズはそのくらいのことは知っている。京都が千年の都と言われているのは、皇家がその間ずっと住まわれていたからだ。

「でもどうして京都御所に行ってほしいって思ったんだろう」

 正直、京都観光と言われて京都御所をすぐに頭に浮かべ、観光として外せないからすぐにでも行きたいと思わないと思う。しかし、確かにその原点は皇家の住まいであり、皇家の住まいがあったからこそ栄え、様々な景勝地が残っていることは否めない。

「あら、ジェームズとイチロウって一緒にロンドンのバッキンガム宮殿に行ったのよね。だからじゃないかしら」

 ソフィアはさらりと言った。

「だったらどうしてイチロウ本人が来なかったんだろう」

「さあ」

 ソフィアは明らかに何かを隠している。しかし、その事を隠そうと言う素振りは全く見せなかったが、教えてもくれなかった。まあ、いいや、これもイチロウのサプライズなのかもしれないと、ジェームズはそれでも侮れないなと思うしかなかった。

「さっきお父さんの仕事の関係でしばらく海外に居たって言っていただろう。イチロウは、ソフィアのこと案内人って僕には言っていたけど、京都の歴史に詳しいのかい?」

「カリンから少しは教えてもらったのよ」

 ソフィアの瞳は輝いていた。もしソフィアがメドューサならナナモは石になっていただろう。まだ、ソフィアのことはよくわからないが、少なくとも怪物でもオンリョウでもないような気がした。

 ナナモはソフィアの自信ありげな表情についのけぞりそうになったが、なら、安心だねと、頬を緩めた。

「御所っていうくらいだからさぞかし豪勢な住まいなんだろうなあ」

 京都御所と聞いて最初はあまり興味がわかなかったジェームズだったが、そう言えば京都御所とは皇家の住まいだったのだと思うと、急に両肩に重みがのしかかったかのように身体が硬くなり頭痛がした。

「ジェームズ、どうかした?」

「いいや、ふと、バッキンガム宮殿のことを思い出したんだ」

 ジェームズは異世界にはいない。それに、今は王家のことは忘れようと、その対極にいるイチロウの事を考えようとした。

「バッキンガム宮殿と違って建物の中には入れないのよ」

「本当?」

「でも、二人で京都御所を案内するんだろう」 

 もはや現実世界に戻ったジェームズは言った。

「一応聞くけど、京都御所に行ったことってジェームズあるの?」

「いやないさ」

 あるわけないだろうとは言えなかったが、そういう気分だ。

「南北に一キロ以上ある京都御苑っていう公園の中に京都御所はあるのよ。もちろん昔は公園ではなかったんだけどね」

 バッキンガム宮殿もグリーンパークやセントジェームズパークに囲まれている。だから宮殿とはそういうものだと想像はつく。しかし、バッキンガム宮殿内には、もちろん一部だが、建物の中に入ることが出来る。それも大勢の人が世界中のあらゆる国からやって来る。

「建物を外から見るだけで何か面白味でもあるのかな」

 ジェームズはついそうつぶやいていた。

「想像よ」

 ソフィアはこともなげに言った。

 ジェームズは最初ピンとは来なかったが、そう言えばアビーロードにあるあの建物も一般の人は中には入れない。けれども外から眺めているだけなのに色々な音が聞こえるし、色々な光景が見えて来る。

 まったく同じとは言わないまでも、そういうことだろうと次第にソフィアの意味することが理解出来た。もちろん、御所であるかぎり、皇家が住まわれ、日本の政治が行われていた場所だ。その建築物も日本独特の木造建築美を醸し出しているに違いない。しかし、ソフィアの言う通りどんなに本を読んでも、ネットで調べても、我々は想像するしかない。そして、もし想像するなら、より厳かでありながらも楽しいと思える方が良いに決まっている。

「建物を外から見ながら、私が一応京都に住んでいるハーフとして、初めて京都を訪れるハーフに説明しながら案内するという設定なの。それに案内人は詳しくない方が良いみたい。多分さっき言ったけど知識があれば想像力が少なくなるって、イチロウは考えているからかもしれないわね」

 とりようによっては失礼な話だが、ソフィアはジェームズとは違った視点で楽しもうとしている。

「わかったよ」

 ジェームズはソフィアの笑顔に導かれるように席を立った。


 ソフィアは京都御所には直行しなかった。まずは京都らしいところからと、三年坂から清水寺への定番のコースを案内してくれた。そして、それほど高くはないけど少しは京都らしさを感じられるからと、何百年も続く店ではなかったし、昼限定という若者にとっては少し量が少ないかもしれないが、雰囲気だからと京懐石弁当を出してくれるこぢんまりとした店で昼食をとった。薄味でしょうと、ソフィアが言葉を掛けてくれたが、きちんと出汁の味がするよと、ロンドンの叔母の話でしばらく盛り上がって、やっと、ソフィアと気兼ねなく話せるようになった。

 ジェームズはソフィアに従うようにバスに揺られながら丸太町で下車した。そして、東西に走る丸太町通りを東にしばらく歩き京都御苑の入り口である堺町御門にさしかかった。少しは気温が上がるのではないかと期待したが、太陽が雲間から顔をのぞかせてくれてはいるが、相変わらず街の底冷えが身体を走り抜けていく。むろんソフィアにとっては日常だ。だから、すでにスマホで動画撮影を始めていた。

「楽しみね」

 ジェームズは少し緊張気味で厳かな気分になっていたので、ソフィアの少しハイテンションな口調に違和感を覚えたが、きっとソフィアはイチロウの依頼に従順に従おうとわざとそうしているのだろう。だからと言って、ジェームズがソフィアに同調することはない。別にジェームズはイチロウから直接言われたわけではないが、初めてこの場所を訪れる英語を話す少し控えめなイギリスハーフの青年を演じた方が良いと思っただけだ。

 京都の街は狭く混然としている。昔ながらの街はどこもそうだ。丸太町通りも朝から結構車が行き来していて、東京と変わりない。しかし、一歩、その門をくぐると、まるでいままでの雑踏が嘘のように音のない別世界が拡がっている。

 ところどころに草木が映えてはいたが、芝生がその間に敷き詰められているわけではない。その代わり少し白みがかった砂利道がズドーンとまっすぐ続いている。

「今日は見晴らしがいいし、あの突当りに御所があるんだけど、嘗てはこの場所には皇家を支える公家たちの住まいがあったのよ」

 ソフィアは、想像して、とジェームズに語りかけながら、公家という皇家に従する貴族についてジェームズに説明してくれた。

 ジェームズは御所に向かうまっすぐな砂利道をじゃりじゃりとまっすぐに歩きながら皇家と公家たちはどんな雅な世界に居たのだろうと想像する。しかし、何も浮かんではこない。だからではないが、ソフィアに、思ったより広いでしょうとか、人が少なくて静かねえとか尋ねられると、イギリスの芝生が拡がる公園と違うし、モノトーンな様な気がするけど、だから余計に清々しく感じるし、心が洗われるような気がするよと、ジェームズはソフィアとの会話を楽しむしかなかった。

「ここが建礼門よ」

 御所は四方を数メートルの高さの築地塀で囲まれている。その南向きの正門につくと、ソフィアが教えてくれた。もちろん、閉ざされている。皇家や特別な貴賓しか通れない。

「神社の社みたいだね」

 かわら屋根が多い中、ひのきの樹皮を用いた檜皮葺ひわだぶきの屋根を持った切妻きりづま屋根だが、力強さではなく厳かな風格が感じられる。ジェームズとソフィアはしばらく何も言わずにその門の前で佇むしかなかったが、こっちよと、ソフィアが声を掛けてくれた。

 西の塀の砂利道をしばらく北へ向かって歩くと、ソフィアが、ここからよと、今度は瓦屋根で作られた清所せいしょ門というところで立ち止まった。

 門わきには守衛所があり、制服姿の職員がいたが、もちろんライフルを構えているわけでもなく、それに一人だった。

「京都御所に入りましょう」

 建物内には入れないとはいえ、門をくぐると手荷物検査をされる。しかし、今どこを歩いているのかさえ分からないほど厳重にテントで密閉され、空港の搭乗口のように金属探知機を身体に当てられたバッキンガム宮殿とは全く異なる簡素な対応だった。

「ねえ、ソフィア、チケットをチェックされなかったけど、イチロウが事前予約でもしてくれていたのかい」

 ジェームズの問いにはじめソフィアは全く反応してくれなかったが、困惑顔から、何かを思いついたのか急に頬を緩めた。

「もしかして」

「そうよ。ここはフリーよ」

 イギリスの博物館や美術館などの公共施設は原則拝観料をとらない(むろんその代わり寄付の精神がある)。それはイギリス国民だけではない。世界中の観光客に対しても同じだ。しかし、日本の場合、きちんと拝観料を取ることが多い。特に歴史的建造物はなおさらだ。

 それなのに、京都御所は入所料を取られない。もちろん建物内部に入ることは出来ないという差はあるが、それでも、日本の皇家の住まいを垣間見ることは出来る。その上、撮影自由だ。日本の宮中は閉鎖的だがここだけは特別らしい。それなのに、あまり見学者がいない。年中開かれているからかもしれないし、正月を迎える行事が目白押しの京都では年末は忙しいし、カウントダウンを騒ぐという催しもない京都御所を観光しようなんて外国からの観光客は誰も思わないからかもしれない。いずれにしても、ソフィアと観光するのにあまり人が多くない方がよい。きっとそれもイチロウの計算に違いない。

 手荷物検査所を過ぎると、休憩所兼売店があり、希望があればボランティアによる解説付きのツアーに参加することが出来る。しかし、そこには何らかの装備をつけた職員が多人数で見張っているわけではない。それでも技術大国の日本だ。おそらく監視カメラが備え付けられていてあらゆるところから見張られているに違いないし、もし、何がしかの不審な行動をとればいち早くドローンが迫ってくるのかもしれない。しかし、おそらく暗黙のルールというか、日本独特の礼儀正しさや太刀振る舞いを誰に強制されるわけでもなく、ここに足を踏み入れた観光客は皆、その事をわきまえながら、観覧順路を示す立て札に沿ってゆっくりと歩を進めていた。

「ここは」

 ジェームズは目の前に急に現れた、まるで間近で見た富士の山容のように、遥かなに聳える大きな建物に圧倒される。

 紫宸殿ししんでん

 歴代の皇家が即位の礼を行った場所よと、ソフィアの声が聞こえるが、ジェームズはしばらく息を止めて見入ってしまった。なぜなら、礼服に身を包んだ数多の公家たちが、皇家に向かって皆が跪き頭を垂れているからだ。きっと、実際はそのような光景ではなかったのだろうが、想像は、事実以上の映像を時にもたらす。

「紫宸殿の内部には皇家の即位の儀に用いられる御座という調度品があるの。昔は八という数字が永遠を示していたから、御座はね、八本の円柱で支えられている八角形の天蓋で出来ているの」

 ジェームズはふと、土俵を思い出した。土俵は方屋と言われる屋根が今は吊るされているが、昔は四本の柱で囲まれていた。なぜなら土俵は神域だからだ。カミに近しい皇家の居られる御座も同じだとは言えないが、神域なのかもしれない。

「先に行きましょう」

 ソフィアはいいタイミングでジェームズを誘ってくれた。

「紫宸殿の後ろ側には清涼殿せいりょうでんがあるの、ここで平安期の皇家の人々は日常生活を送られていたのよ」

 紫宸殿に比べて質素だ。それに豪華絢爛な絵画や装飾品で覆い尽くされているということはない。木目が歴史を刻んでいるだけだ。

「あれは?」

 暗がりでよく見えないが、少しかさのある畳の上に薄っぺらい座布団のようなものがある。

「あそこに歴代の皇家が日常座られていたのよ」

「本当かい?」

 ジェームズは信じられなかった。今は住んでおられないと言っても、千年の都の中心だ。その中心に歴然とおられた皇家の面々があの座布団に座っておられたなんて信じられなかった。

「おしとね(御茵)とよぶのよ。あのような座布団には、平安期、皇家か位の高い公家しか座れなかったのよ」

 確かになんらかの装飾が見られるが、金銀や宝石が散りばめられているとは思えない。

「日本って、豪華絢爛な文化より、出来るだけ清々しい穢れを産まない文化を好んだのかもしれないな」

ジェームズは穢れという言葉を自然と使っていた。

「そうかもしれないし、まだ、貧しかったのかもしれないわね」

 ソフィアは先ほどまでの陽気なハイテンションな声で話さなくなった。それでも、出来るだけはっきりとはきはきと、歴史的建造物で日本人にとって特別な思いのまだ残っている皇家の住まいを外国人の目線で、それもジェームズという少し内気で同じような王室の伝統を知ったイギリス人にわかりやすいように解説してくれた。それでいて観光書には載っていないような感想を添えて、興味を引きだすように、時には甘え、時には甘えさせるように促しながらデートとしての会話を楽しもうとしていた。

 もし、イチロウからの依頼だから頑張りましょうねと、ソフィアに言われなかったら、ソフィアのあまりにも自然な語り口調に思わず心がときめいていたかもしれない。

「まあ、きれい」

 ジェームズの声が聞こえたのではない。ソフィアは清涼殿と反対の御所の東側に位置する御池庭に見入っていたのだ。

 池を中心とした回遊式庭園だ。前面は州浜で池の向こうには欅橋があり、その周囲には木々が絶妙な強弱で配されている。絵画の様であるが、その奥行きと立体感はまじかで見ないと分からない。その絶妙さは色とりどりの草花がこの季節だからか一本も見えないのに、どこからみても美しいという良い意味でのため息さえ出てこない。

「イギリスとは対照的なんじゃない?」

 ソフィアはロンドンに来たことがあるのだろうかと思ったが、まさしくその通りだ。しかし、だからどうだとは言えない。それぞれの国にはそれぞれの美意識がある。

「ねえ、ちょっとジェームズ。サッカーの起源っていつ?」

 いつの間に振り返ったのか、ソフィアが小御所と御学問所との間の数メートルのこぢんまりとした白砂が一面に敷かれた広場の立て札を指して言った。

「蹴鞠の庭」

 そう書かれている。

「イギリス人としてはやはり気になるでしょう」

 ソフィアは蹴鞠について説明しながらジェームズにサッカーについてしきりに尋ねて来る。しかし、ジェームズは上の空だ。それどころかある光景が次々に浮かんでくる。

「コッツウオルズ」

 ルーシーとなぜかそこにあるサッカー競技場に出かけたのだ。

 ジェームズは、これは想像の世界か?と、何度も自問する。しかし、意識とは別にジェームズの脳裏にははっきりとした光景が次から次に描写される。

これは想像ではない。

 だったら、最後にはと、声を上げた。

「ダメだ。過ちを犯せばいつまでも背負って生きて行かなければならない」

 ジェームズは激しい頭痛とともに意識が失せて行った。

「大丈夫?」

 ソフィアの声が聞こえる。

「ここは?」

「入り口の詰め所よ」

「僕はどうしたんだい?」

「急に倒れて、たまたまお医者さんがいて、意識がなかったから救急車を呼ぶところだったんだけど、それからうわごとのようにダメだ、止めろって、ずっと叫んでいたから、しばらくここで様子を見ていたら、急にジェームズが静かになったからびっくりしたら、目を覚ましたのよ。そしたら、もう大丈夫って、その先生も居なくなって。ねえ、本当に大丈夫なの。あの時もそうだったでしょう。私何かジェームズにしたのかしら」

 先ほどまであれほど明るかったのにソフィアは血の気が引いたような寂し気な表情でジェームズを見つめていた。ジェームズは、ソフィアは何も悪くないよ、悪いのは僕なんだ。僕の責任なんだと、言いたかったが、その先の事を考えると言葉を飲み込むしかなかった。

「ごめん、心配させちゃって、大丈夫だよ。きっと、夜行バスで来たからだし、ソフィアに会って緊張のあまりどぎまぎしてしまったのかもしれないな」

 ジェームズは自分ではそのようなことを話していたつもりだが、まだ表情がすぐれないソフィアを垣間見ると、そう滑舌が良かったわけでも機転が利いたわけでもなさそうだった。

 それでもジェームズは立ち上がると今出来る精一杯の笑顔だけは見せた。その瞬間、ソフィアが泣きながらジェームズに抱きついてきてしばらく離れなかった。ただ、マーガレット先生に知らせなくてもいいのとソフィアに言われた時には困惑したが、その原因をジェームズはわかっていたので、黙っていてくれるかなと、優しく頬を流れる涙を拭いながら ソフィアと楽しい時を過ごしていたジェームズとして出来るだけ丁寧な英語で頼んだ。


 朝ホテルで目覚めると、一人になったジェームズはまたナナモに回帰した。

 昨夜また意識を失ったことをあれこれと考えると一睡もできないのかと思ったがベッドに横になるとあっという間に眠りについていた。ただ、折角京都に来たのだし、ソフィアと京料理を楽しもうというもくろみは、あの涙とともに泡と消えたことは残念だった。今頃ソフィアはと、スマホに手が届きそうだったが、昨日のこともあって、お互いこういうところだけ日本人的なのだが(勝手な思い込みだがソフィアは意外だった)、気まずい思いもあったので、代わりにイチロウに謝りの電話を入れていた。イチロウにまた倒れた事だけ正直に話すと、なんとかなりそうだからとソフィアから送られてきたデータを確認したのかわからないが、最後にお大事にと、ねぎらわれると、それ以上のことは言わずに自由な時間をくれた。

 ナナモは、「京のおばんざい」という朝食を一人ホテルで摂りながら、これからどうしようと考えた。イチロウからの与えられた仕事だから京都に来たのだ。だから何も観光の予習はしていなかった。

 自由とは不便なものだと独り言を呟きながらも、あれこれと次から次へと課せられた授業をこなしていた日々に戻りたくもあったし、戻りたくもなかった。

 今朝も六時前にきちんと目が覚め、もう、歯磨きと同じような習慣になっている参拝をすませようとスマホを開けかけたが、折角の京都だし、神社仏閣が多いと聞いていたので、寮の神棚の写真に参拝するのではなくて、どこかの神社にお参りにでも行こうと、ホテルを出た。

 ホテルは烏丸通りに面している。朝から人通りも多い。でもどこに行けばいいんだろうと、スマホで京都の有名な神社十選を開こうとした時に、雑踏の中にいたのに、はっきりとした音として、メールの着信が伝わってきた。

 もしかしてソフィア、いや、ソフィアからナナモの事を聞いたカリンが心配してメールを送ってくれたんだ。

 ナナモはウキウキしながらそのメッセージを開いた。

「イチジョウノヤカタへイケ」

 ナナモはそのカタカナ文字をゆっくりと黙読した。そして、同時にかすかに頭痛がしたが、それよりも何かしら身体がポカポカと暖かくなった。そして、心臓が高鳴り、今にも走り出したくなるような気分に包まれた。

 もしかして、カタスクニからの使命?ナナモは逸る気持ちを抑えきれないでいたが、もしそうなら、きっと送信元が示されていないのだろうと画面を見つめた。

(マーガレット)

 残念な送信元がはっきりと文字として瞳に飛び込んでくる。それにメールではない。その証拠にきちんとした呼び出し音が続いている。先ほどのメールの着信音は何だったんだろう。それにメッセージも消えている。ナナモはスマホの(マーガレット)という、画面をしばらく見つめないといけない程身体が強張った。

「遅いんじゃ!」

 まだ受信していないのにどこからか声がして、ナナモは思わずスイッチを押した。

「まさか、寝てたんじゃないだろうね。私は言ったよね、きちんと朝、カミサマに参拝するんだって」

 甲高い怒り声が鼓膜を強烈なばちで何度も大きく叩いてくる。ナナモはホテルに隠しカメラがあるのではないかと思ったが、六時前にはきちんと起きていたし、一応スマホを開けようとしていたことも事実だったので、ああ、したよと、きっとマギーにはばれているだろうなと思いながらも、あえて平静を装って言った。マギーは、珍しく、そうかい、だったらいいんだよと、なぜか素直だった。もしかしたら、昨日の事をソフィアから聞いたのかもしれないと思ったので、「心配しなくて大丈夫だよ、僕は元気だから」と、先手を打った。

「なんの心配なんじゃ。もしかして、昨日、あのお嬢さんに変なことしたんじゃあないだろうね。いや、お前さんの事だからかっこつけてあのお嬢さんを守ろうなんてして反対にやり返されたんじゃないだろうね。お前さんは臆病なくせに見境なく突拍子もないことをするからね」

何時ものマギーだ。ナナモの嫌なところをついてくる。それに、昨日の事をソフィアから聞いていないらしい。それだったらいいんだ。しかし、先手を打ったのに。なぜかマギーとは馬が合わない。

 ナナモはソフィアに京都案内してもらったことや、京都御所に行ったこと、もちろんソフィアには丁寧に接したことをかいつまんで早口で言った。

「ほーお、一度も嚙まなかったね。そう、スラスラ言えるって、怪しいね。まさかあのお嬢さんを泣かした事を繕っているんじゃないよね」 

 ナナモは間髪入れずにそんなことがあるわけないだろうと言いたかったが、最後にはむせてしまってしばらく何も言えなかった。きっと、ナナモの心を揺さぶろうとわざとマギーは試してきているのに、まんまと乗ってしまったナナモもナナモだが、ああとは決して言えなかったが、泣かせたことは事実だ。

「なんか隠しているのかい。白状した方が身のためだよ」

 マギーの後ろにカリンの姿まで見え隠れする。しかし、ここは踏ん張りどころだ。ナナモはカラカラのはずなのに何とか集めた唾液で喉のイガイガを飲み込んだ。

「今日は一人なんだ。マギー今どこに居るの?」

 ナナモは尋ねた。

「わたしを案内人にしようと思っているならお門違いだよ。お前の相手をしている暇なんてないんだよ。それに、まさかだと思うけど、カリンもダメだからね」

 マギーの答えは予想通りだったので、驚かなかった。それに、そう言われたことで、却ってマギーに会わなくて良いと思ったのか緊張が解けて行く。

「じゃあ、僕に何の用なの?」

「誰に言っとるんじゃ。偉そうに」

油断したナナモの鼓膜を今度はイナズマが突き破ってきた。だから、思わずナナモはすいませんと謝った。

「いいかい、私はいつもお前を見てるんだよ」 

 不気味は声でマギーは言う。ナナモは思わず、わかっていますと、答えた。

「京都御所に行ったって言ったよね。だったら、今日、関係する講演があるから聞きに行きな」

「せっかく京都に来たからこれから京都で有名な神社に参拝に行こうと思っていたんだ。参拝は大切だってマギー言ってただろう」

「参拝は一日一回でいいんだよ。それともさっきナナモが私に言ったことは嘘だったのかい?」

 ナナモはまた言葉に詰まりかけたが、辛うじて転ばぬように片手で支えた。

「いや、行きます。その講演に」

「行きます?聴きますだろう」

 マギーはやはり侮れない。

「すいません。ところで僕はどこに行けば良いのですか?」

 ナナモはものすごく丁寧に尋ねた。

「何を寝ぼけた事を言っているんじゃ。さっき、知らせただろう」

 ナナモはえっと、思わす声を漏らす。

「いいかい、必ず行くんだぞ。それに参拝をわすれんことじゃ」

 マギーの声が突然消えた。

 ナナモはもしもしマギー、もしもしマギー、と何度か叫んでいたが、交信が途絶え、電子音だけが無情にも響いてくるだけだ。確か…、でも、その前に、寮の神棚の写真を映し出して、少し奥まったところで人目を避けるようにスマホを立てかけると柏手を打ち、手を合わせた。

 ナナモは一瞬目を閉じそして目を開く。すると、今まで映っていた神棚からまるでおみくじが舞い降りて来たかのようにナナモの前を真っ白な紙が漂ってくる。ナナモは思わず手に取る。するとそこには先ほどと同じ文字が書かれていた。

「イチジョウノヤカタへイケ」

 ナナモは、今度ははっきりとその文字が脳裏に刻まれた。 

「でも、イチジョウって」

 ナナモがそうつぶやいた時に、その白い紙はナナモの手から完全に消えていて、その代わり、ナナモはしっかりとスマホを握りしめていた。

 烏丸通の歩道を一人ぽつんと立つナナモを誰も見向きさえせず人々は忙しく往来している。もうじき新年を迎えるという京の街はおそらく今の時代であっても古から続く伝統行事やしきたりで、冬なのに湯気が出そうなくらい揺れている場所なのかもしれない。

 しかし、ナナモは其の揺れに身を任せてはいけない。たとえ気分が悪くなっても、揺れと闘わなければ目的地には着かない。

 ナナモはゆっくりと歩く優しそうな老婦人に狙いを絞った。

「あの、イチジョウって、どう行けば良いのですか?」

 ナナモははっきりとした日本語で言ったのに、豆鉄砲を食らったように、その老婦人は動きを止めると、英語は話されへんのよと、ナナモに向かって少し笑みを添えて言った。

 そうか、老婦人にはハーフであるナナモは外国の人のように思われたのかもしれない。それでも京都には世界中から観光客が来る。だから、そう言いつつも逃げ去るような素振りは見せない。だから、ナナモはもう一度ゆっくりと先ほどと同じ質問を先ほどより声を高く、そしてゆっくりとした口調で尋ねた。

「一条って、京都観光ですか?それにしては上手な日本語どすなあ。まあよろしい。教えてあげましょう」

 その老婦人は碁盤の目のような縦横の通りで構成されている京都の街について丁寧に説明し出した。ナナモは、あっ、それは知っていると思ったが、あとの祭だったし、一条っていっても、その通りが案外長いことを理解した。

「おわかりどすな」

 老婦人は満足げな表情だった。

「イチジョウが一条通りであることはわかりましたが、ずいぶん広いですね。あの、お忙しいとは存じますが、その一条通に有名な館がありますか?」

「ヤカタ(館)?すいません。私もずいぶん昔からこの街に住んでますけど、館なんてハイカラな建物のことはよう知りませんわ。ただ、ご存知やと思いますけど、京都御所がありますさかい、その事を言っておられるんと違うんですか?」

 御所は一条に作られていたのかと、いや、御所があるから一条なんだと、ナナモは改めて思ったが、マギーが再び御所へ行けと言ったようには思えなかった。

「お尋ねにそうかどうかはわかりませんが、そう言えば、そこへ寄ってから目的地に行くと必ず良いことが起こるって言われている神社がありましてな。その神社のほんそばに、昔、物凄いお偉いお方が住んでおられたって聞いたことやったらあります。古い古い建物やさかい、若い方は知らんのかもしれませんけど、狐が出るって、よう言われてました。そやけど、もう取り壊されたかもしれませんし、西洋の館とは程遠い和風の建物どすし」

 ナナモはきっとその場所だと確信した。だから、「どう行けば良いのですか?」と、口調を変えずに尋ねた。

「あんさんの目の前にありますやん。そこからバスに乗ったらええだけどす」

 老婦人はゆっくりと杖を突いていない手でバス停を指さすと、今度こそ役目を果たせたと満足げにナナモの前から去って行った。

 バス停。ナナモはまたかすかな頭痛がしたが、すぐに消えてほっとした。それでも、二階建てでも真っ赤な派手な色彩でもなかったが、京都はロンドンと同じようにバスがひっきりなしに行き先を変えて走っている。だから、どのバスに乗っていいのかわからなかった。

 ナナモは老婦人がいなくなったのでまた誰かに尋ねようとした。しかし、その時に誰かがナナモの服を引っ張っているように思えてハッとした。ナナモは思わず視線を落とすが誰も居ない。だから再び視線を上げると一人の少年がまさに今来たバスに乗ろうとしている。ナナモはなぜか急に背中を押されたかのように慌ててそのバスに乗り込んだ。ICカードをかざしピッという音が鳴ったと思ったら、扉が閉まりバスは発車した。

 ナナモは立ったままあの少年を探したが、どこを探しても少年はいなかった。もしかしたら…と思ったが、今度はしばらく頭痛が収まらなかったので、席に座ってそれでも聞き耳だけは立てていた。

「イチジョウ…」

 確かに一条とアナウンスされたようだ。しかし、語尾が聞こえない。ナナモは、しかし、きっとここだと降車を知らせるバス内のブザーを押した。

 ナナモはバスから降りるとバス停の名前を確認しようとしたが、その瞬間目の前にまたあの少年が歩き出していることに驚いて、振り返ることなく、急いで少年を追い始めた。バス停はずいぶん交通量の多い二車線の大通りで、行き交う車のエンジンとタイヤ音で騒々しかったが、少し通りから離れると誰かが吸収したのか急に静かになった。そして、土や石道ではなくアスファルトだが、ずいぶん狭くなっていて車一台しか通れないような路地にはゴミひとつ落ちていなかった。

 あれ、橋がある。小さいが、木製の太鼓橋だ。

 少年はナナモが一瞬立ち止まって見入っていたのにお構いなしに進んでいく。そして太鼓橋の頂から降りていくと少年の背が低いからなのか姿が見えなくなった。

 ナナモは慌てて追随する。しかし、同じように橋の頂に立った時、そこから見下ろしてももはやその少年は見当たらなかった。

 ナナモは仕方がないかと橋を降りた。すると、目の前にみすぼらしい開き戸の門があった。

「イチジョウのヤカタ」とは書かれていない。ただし、ナナモはこの門から中に入ると、きっと「一条の館」が存在するはずだと思った。

 ナナモはゆっくりと開き戸を開け中へ入った。目の前には御所でみた清涼殿に似た外観の建物が見える。ただし、今には圧倒されそうな迫力は感じない。その大きさも、十分の一ほどの規模だ。そして、建物の前には白砂が敷き詰められているわけではなく、小さな池と低い草木がそれでも趣のある世界をやんわりと醸し出す程度だった、

 ナナモはこんにちはと言いながら木の階段を登ろうと足を挙げた。

「痛い」

 どこからか何かが飛んできてナナモの足にぶつかった。

 そうか、靴を脱がなければならないんだ。

 ナナモは靴を脱いでから再び足を挙げた。今度は何も当たらなかった。だからナナモは靴を持ったまま、もう一度、今度は、お邪魔しますと、付け加えて中に入って行った。

 薄暗い板敷きの廊下をきしませながらナナモが進んで行くと、突然大広間にたどり着く。今まで誰も居ないような雰囲気が漂っていたのに、二~三十人の聴講生が、剣道の道場の様な板敷きの上に敷かれた簡素な座布団に座ってまだ始まらない講義を今か今かと待ちわびている様だった。

 ナナモは一番最後にこの場所に来たようだ。だから、一番後ろしか席が空いていなかった。座布団の上に置かれていた紙袋に靴をしまい、傍らに置くと、腰を降ろした。ナナモの前に座っている他の聴講生は後ろ姿しか見えない。しかし、そのほとんどが外国人だとすぐに分かった。

そうか、だから、マギーは行けと言ったのだ。専門的なことを話されてもと、思っていたナナモは少し安堵した。

「これから平安の不思議と題して講義を行いたと思います」

 どこからか屋敷中に拡がるような声量でアナウンスが流れた。すると、それまでざわざわと何かしら身体のどこかを動かしていた聴講生は、氷が張ったように一瞬でピーンとする。と同時に、一段高くなっていて遠くからでもその姿が捉えられそうな場所に講師の先生だろう人物が現れた。

 あれ、確か、あの人は、ハルアキ師。でもどうして?

 ここはカタスクニではないはずだ。それなのになぜ?もしかしてやはり異世界にまた引き込まれてしまったんだろうか?ナナモは其の人物の顔をしばらく見つめていた。

「アヤベです。よろしくお願いします」

えっ、アヤベ…さん。ナナモは混乱した。でも、目に映る姿はナナモが知っているアヤベではない。まさしくカタスクニで講義を受けていたハルアキ師そのものだ。

「あの方はアヤベという名前なのですか?」

 ナナモは誰に尋ねるのではなく呟いた。それでも思ったより大きな声だったのか、斜め前に座っている女性が振り向いた。

「そうですよ。あの有名なK大学の教授ですよ。学生以外なかなか聴講出来ないのですから静かにしてくださいね」

 ナナモにそう言ってきたのは、日本人で、それも老婦人だった。

 あれ、あの人?…、さらにナナモは混乱したが、ナナモの迷走を遮るようにアヤベ先生の講義が始まった。

「以前の講義では皇家がどのようにこの国のタミをまとめていったのかを中心にアスカの地で起こったお話しをしましたね」

 いつ聴いた講義の続きなんだとは、ナナモはもはや思わなかった。と同時に、穏やかな口ぶりを耳にしながら、目の前にいる講師はアヤベでもハルアキでもなく、カタリベだと確信した。外観や名称で決めつけてはいけないと、振り返りはしなかったが、先ほどの老婦人の声が聞こえてきたように思った。

「皇家はアスカの地で日本のタミに合った秩序を創り、タミが集う都を創ることでタミを治め、皇家の教えをタミに無理やり強要するのではなく、学問の府を設けて、これからの皇家を支えるタミを育てて行こうとしたのです。しかし、それでも皇家はアスカにとどまることは出来ませんでした。それはタミが皇家ではなくヤオヨロズのカミガミに回帰したわけでありません。ままならないものの衣を借りたオンリョウたちが地上の国に現れて、タミを、豪族を、そして、皇家までも惑わし続けたからです。

 そこで皇家はオンリョウが容易には立ち入れないような平安な都を作ることが必要だと考えたのです。そして、そのためには何が必要かと考えたのです。その結果、カミに近しい皇家は、西からの新しい教えをもっと強く取り入れ、しきたりとして古から続く祭祀をもっと頻繁に行い、そして、ままならないものを出来るだけ産みださないように天文や占いの技術をもっと高めることにしたのです。それでも、すぐに整ったわけではありません。準備万端に時間をかけて、様々な地に選び、ついに平安の都として、京の都は生まれたのです。

 皇家がやっと落ち着いてタミのために政を始めたこの平安の時期は私たちの歴史区分から言うと一番長い期間です。皆さんは平安の世というと、きらびやかで豪華な十二単に身を包み、四季や恋を雅な和歌でたしなむ貴族世界をまず思い浮かべるでしょうが、この時代にはやっとカナ文字としての我が国の文字が完成され、その記録が物語として残っているにも関わらず、その間にどのような政が行われていたか、謎の部分が多いのも確かです。そして何よりも皇家がこの都から動かなかったことから、まるでタミから見れば異世界だと思えるような理想郷が創られて行ったのです」

本当に理想郷だったのだろうか?いや、そうではなかったはずだ。それにどれほど強固な砦であったとしても完璧など存在しない。どこかにほころびは存在するし、抜け穴だってある。オンリョウがそれらを見逃すわけはない。

「そうです。その通りです」

 講師はナナモだけを見ている。

「でも、それだったら、またタミは皇家を見限り、ヤオヨロズのカミガミにすがって行くのではないのですか?」

「平安の都は、先ほども言いましたが、その根本としてあらゆる策で守られていますし、皇家はその策が破られないように日々のしきたりをより厳密に行っていたのは事実なのです。その結果、豪族たちはもはや皇家になり変わろうとしなくなります。その代わり自らを公家と称して、皇家に直接使える貴族として特別視させるようにしたのです。しかし、それは皇家を信頼していたからではありません。朝廷という組織を作り、皇家を利用して自らが皇家に代わってタミを意のままに動かそうと思ったからです」

「タミは黙っていたのだろうか?」

 ナナモからふと言葉が漏れた。

「この時はまだタミは穏やかでしたし、そのほとんどが農耕者で、自分で開拓した田畑を自分のものにすることが出来るようになってある意味活気に満ちていてそれどころではなかったのです」

公地公民の制度が崩れてしまったのだ。講師はこのことで余計にタミが皇家から離れて行き、離れて行くことで、京の都の御所という聖域に住んでいる皇家を敬う心がより強くなったのではないかと補足した。

「そしてこの時期公家たちは皇家を敬う心をより高めるためのシステムを創り上げたのです」

「そのシステムってまさかオンリョウが関わっているのですか?」

ナナモはついそう尋ねていた。

「確かにそのシステムには少なからずオンリョウが関わっていたのかもしれません。なぜなら公家たちは穢れという考えを利用しようとしたからです」

「穢れ?」

「はいそうです。ご存知のように穢れには色々な要素が含まれます。もちろんその最たるものは罪ですが、欲などもそうなのです。穢れはカミがもっとも嫌います。しかし、皇家はあることを成し遂げるために穢れを犯してしまう。いや、犯したと言われています。もし、そうであるならばカミに近しい皇家にとって耐え難い行為であったはずです。だから皇家や皇家の従者はカミではなく二度と穢れを犯さないようにと西の教えに救いを求めたのです。その結果、オンリョウに幾度かは心揺さぶられることはあったのですが、時間とともに皇家の穢れは薄れていったのです。

 しかし、西の教えはまだタミにまでは十分伝わっていません。では穢れたタミはどうすれば良いのでしょう。穢れから解放されるのは禊ぎです。だから禊ぎを与えられることがもっとも大切だと考えるようになったのです。しかし、それは本来己を律することであり、その継続が自ら穢れから打ち勝つことになるのに、その事が出来ないばかりか気が付かないタミは穢れから逃れるようと、ヤオヨロズのカミにまずすがります。けれども、カミは形としては何もしてくれませんし、本来カミは穢れを嫌います。だから、公家たちはカミに近しい皇家に頼んでタミに御札おふだを与えることにしたのです。最初は今で言うおみくじの様なものであったのでしょうが、次第に皇家の権力が高まるにつれ、御札はカミの託宣であり、それに従うことで穢れから清められると考えられていったのです。そしてそれは何時しか権威という形に代わって行ったのです。つまり公家たちは穢れを権威で葬り去ろうとするシステムを完成させたのです。しかし、もともと穢れは生き物ではありません。葬ることなど出来ないはずです。それなのに権威だけは独り歩きするようになったのです。

 皇家だけが穢れを葬り去ることが出来る権威を造りだせる。だから穢れを恐れるタミにとってもはや皇家はなくてはならない存在になり、権威を産みだす皇家は公家たちにとってなくてはならない存在になったのです」

 講師は一息ついた。

「いずれにせよこの時代の世界は雅だったことは確かです。しかし、その世界には本来のタミはいません。貴族ばかりです。しかし、その権威に翻弄された貴族は自ら禊ぎを払うシステムを作り出しておきながら、穢れを産みだしてもいたのです。そして、穢れはオンリョウを導きます。だから、王家はタミのために皇家を助ける役目なのですが、貴族の生活や考えを知ることは大切なのです。平安の都とは陰と陽がある不思議な世界なのですから」

講師はやっと視線をナナモから外した。

「皆さんご存知のように、皇家はその後千年以上この地にとどまります。そして、タミから見れば超然とした皇家の世界が創られます。しかし、穢れが、そして皇家というよりももはや御所というシステムが与えた禊ぎが、新たにタミとの軋轢や乖離を産みだすことになります。しかし、その事についてはまた機会があればお話しさせていただくこととして、平安の不思議についてこれからもっと具体的にお話しさせていただきたいと思います。タミにとって関係ないと思っているうちにそのシステムにタミは支配吸収されて行きます。しかし、そのシステムには平等はありません。一方通行なのです。では、皆さんその事を踏まえてこれからの講義を聞いてください」
















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