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ジェームズ・ナナモと格子の迷宮  作者: まれ みまれ
20/33

(20)突然の出会い

 ナナモは十二月に入り、都会ではクリスマスで浮かれているのに、杵築では案外素知らぬ顔をしている街並みに癒されることなくイライラしていた。その上、横殴りの風がより強くなってきて、冷気とともに運ばれてきた灰色の空が重く暗く頭上に拡がって来るので余計に気が滅入っていた。

なぜなら大学での授業と剣道、苺院での講義、寮でのオオトシとの時間、そしてイチロウの英会話講師と、時間がいくらあっても足りなかったからだ。その上、受験勉強の時より頭をフル回転させなければならない。もちろん、そんなことは始めた時からわかっていた。しかし、あの時はその内容がこれほどより濃く深くなっていくとは思わなかったのだ。

 しかし、何もかも中途半端だ。

 大学では、後期から(医師としての心理学)という医学に関わる授業が始まったのに、実際患者さんを診ていない医学生であるナナモは十分わからないままレポートに追われていたし、夕方、道場に向かい、道具を付け竹刀を振っているのに、新人戦が終わった喪失感からなかなか回帰出来ないでいた。また、カタスクニでは、おそらく日本人なら生活しているだけで自然と身に着いたであろうしきたりを、その歴史の裏付けから講義してくれているのに、父や母との幼かった頃の記憶がほぼ欠落しているナナモには、朝の参拝がしきたりのひとつだと実感できただけで、ほとんどは素通りしていった。その上、臨時授業はあの一回きりで、ナナモがいくらカタリベに追加の授業を頼んでも知らぬ存ぜぬを貫き通されたし、ハダからせっかく与えられた装備品も、それなら自分で操作してみようと思っていたら、「しつこいのじゃよ」と、言いがかり的にカタリベに没収された。そして、寮では、もともと現代国語が苦手なナナモが、日本語なのに、まるで異国の古めかしい呪文を幾度も復唱しているだけで、現実味のない文法で綴られた世界を想像したり、その中で人々と会話したりすることがなかなかできなかったし、得意としていた英会話だったが、オオトシがたまに使う医学的な専門用語を挟まれると、せっかくの英会話なのに日本語で解説してもらわなければならなかった。

 しばらくお金は要らない。それより時間が欲しい。ナナモは朝の英会話のバイトを何とか終わらせることが出来ないかと、手紙ではなくスマホで直接イチロウにたのんでみた。

「忙しいんだったら、耳鼻科の先生の特別講義を辞めればいいんじゃないのかい?お金にならないんだろう」

 イチロウには剣道の新人戦をサポートしてもらった恩義がある。その上、大会が終わっても体育館の塵ひとつ残さないような運営と会計報告をしてくれたスタッフをイチロウが選んでくれたのだ。ナナモは何かを頼むどころかしばらく頭が上がらないはずだった。

「お金はしばらくいいんだよ。それより時間がほしいんだ」

 ナナモはそれでも声が漏れていた。

「医学の勉強ってそれほど大変なのかい?」

 イチロウはナナモのいつもとは違う声に気が付いたのかもしれない。

「そうじゃないけど、なかなかうまくいかなくて…」

「剣道の試合の事を気にしているのかい?」

 イチロウは大会が終わったあと、タカヤマには話せない試合での自分のふがいなさを愚痴っていた。

「あの時はショックだったけど、良いこともあったからね」

 ナナモはどういう理由があったにせよ、試合で始めて一本取れた事だけは大事にしていた。

「だったら何にイライラしてるんだい?」

「それは…」と、イチロウの使えるはずのない媚薬の声がナナモの箍を緩めて来る。ナナモはその声に呼応して思わずカタスクニの事を口にしそうになったが、もし、言葉にしようとしても音として発せられないだろうと、気付かれないくらいの頬のゆるみを添えて神木のタブレットが置かれている方を向いた。

 当然何も起こらない。しかし、もしかしたら、コトシロ達は寮のWiFiを気にしていたから、イチロウにカタスクニの事を話しても声が消えることはないのかもしれない。

 ナナモは背筋を嫌な汗が流れ落ちていくというよりもまるでナメクジが這いまわっているようなむず痒く、ゾクゾクする不気味さに金縛りになっていた。

「ナナモ、ナナモ…」

 イチロウの声で縄が解かれなかったら、そのままうずくまっていたかもしれない。ナナモは異世界に連れて行かれたわけでもないのにしばらく意識が飛んでいた。

「実は、今、日本について学んでいるんだ」

 ナナモの口から自然と言葉が漏れていた。イチロウが、えっ、誰から、どこでとすぐに尋ねてくれたので、ナナモはやっと今誰と話しているのか意識することが出来て、耳鼻科の先生だよ、同室にやって来た、手紙に書いたよねと、答えることが出来た。イチロウは耳鼻科の先生が日本の何を知っているんだいと、当然のこととして尋ねた。だからナナモは耳鼻科の先生は医学部に入学する前は違う大学で国文学を習っていたんだと、それも手紙に書いたはずだけどとつけ加えながら説明した。

「ロンドンの叔母さんって、国文学が専門だったって、だから日本の事色々学んだし、日本の大学も受けようと思えたって、ナナモ、そう言っていたよね」

 何時話したかはさておき、ナナモは確かに叔母のことをイチロウに話したような気がした。

「そうなんだけど、田植えとかお祭りだとかを、叔母さんは教科書や写真や、時には身振り手振りで教えてはくれたんだけど、ロンドンにいた僕が実際まじかで見たわけじゃないし、日本に戻ってきても東京だったし、受験でそれどころじゃなかったし、だいたい、僕は大学生なのにイチロウ以外に友達もいなかったから」

 それはナナモが再受験の準備をしていてそういう機会を自らシャットアウトしていたからだろうと、イチロウの笑い声が聞こえた。

「おばさんはパソコンを使いこなせていたのかい?」

「それなりにはね。だから、画像アプリを使ってはくれたけど、やっぱりね、イチロウだったらわかるだろう」

 イチロウはイエスもノーも言わなかった。ナナモもあえてもう一度尋ねなかった。ただ、叔母はイチロウの視覚的映像からはなかなか伝わらない日本人の感情的な部分に重点を置いてナナモに教えるというよりも語りかけてくれた。

「もし、ナナモがロンドンに居た時俺のVRの世界を体験することが出来たら、もっと身近なものになっていたかな?」

 イチロウの珍しく控えめな声が聞こえる。

 ナナモはそうかもしれないと思った。なぜならナナモが体験した、いや、今も体験しているイチロウのVRの技術なら、世界中のどの文化も文明もリアルに実感できそうだからだ。

 でも、出来そうだとしかやはり言えない。どれほど最新のVRでもVRはあくまでも仮想世界だし、一時的なものだ。田舎を旅して、なんて自然って素晴らしいんだって感動しても、そこでずっと生活していないとわからないこともある。それにイチロウには悪いがカタスクニでの講義が始まってから、やはり対面での授業の方がよほど身になるように思えたし、カタスクニに居るということだけでリモートでは感じられない、同じ空間で居ることで味わう声の強弱や微妙な間や遠近感と相まって、二人だけなのに対面の方がより鮮明に記憶にとどまるような気がしてならなかった。

「そうだったかもしれないな。でも、イチロウもわかっていると思うけど、やはり体験したことを自分のものにするまでは時間って必要だし、肌で感じる環境って大事だし、それでわかるようになることもあるだろう」

 ナナモも控えめに自分の意見を言った。

「でも、どうして日本について学びたいって思ったんだい?医者になるために必要なことなのかい?」

 イチロウに医者と言われナナモははっとした。ナナモはそれまで王家の継承者となるためにはより日本人らしくならないといけないと思ったし、しきたりを理解するためには日本の事を知らないといけないとだけ思っていた。だから、イチロウの問いは思いがけなかった。

「そんなこと考えもしなかったよ。でも、どうしてそんなことを聞いてきたんだい?もしかして僕がハーフだからかい?」

 ナナモはイチロウの問いに反発しようとしたわけではない。むしろ、自分自身に対する何気ない問いかけだった。

「ナナモ、大丈夫かい?」

 イチロウはナナモをハーフだと完全に見ている。しかし、偏見はない。だから時に日本語が話せるイギリス人として、時に英語が話せる日本人だと扱ってくれる。イチロウはその事をナナモが十分にわかってくれていると思っていたからあえて尋ねて来たナナモを心配したのだ。

「いや、ごめん、実は、ハーフって外観を気にしていたんじゃなくて、実際、日本とイギリスの両方で住んでいたってことが問題なんだよ。日本に居る時はたぶん母親が英語教育してくれたし、イギリスに居る時は叔母が日本語教育をしてくれた。でも、幼かった頃の記憶がほとんどなくなっているから」

「でもナナモ、中学までは日本に居たんだろう。だったら、学校ではそれなりの体験が…」

 イチロウはそこまで言ってから、ごめんと謝った。ナナモはイチロウにいじめられていたことを話している。だから、学校生活の事も忘れたかったから、ずいぶんロンドンでも最初は苦労したことを知っている。

「謝らなくてもいいよ。記憶がないって時には気が楽になるからな」

 ナナモはさらりと言ったが、ナナモが両親のことを気にしていることをイチロウは知っているし、そのために色々とコンピューターを駆使して探索してくれたのに成果が得られなかったことをナナモは知っている。

「ねえ、修学旅行ってあるんだってね」

 お互いの気まずい空気を代えるつもりでナナモは尋ねた。

「なぜ、そんなことを急に尋ねて来るんだい?」

「今年の夏に医学部剣道大会が京都で開催されたことは話しただろう。その時、京都に行っていなかったは僕だけだったんだ」

 ナナモはあの時の嫌な記憶が蘇りそうだったが慌てて蓋をした。

「それと修学旅行とどう関係があるんだい?」

「だって、修学旅行って特に関東からは必ず京都に行くんじゃないの?」

 ナナモは当然だと思って尋ねた。

「そうだったかな?」

「えっ、イチロウは京都に修学旅行に行かなかったの?」

「実は、俺、修学旅行に行ったことがないんだ。そう言えば、中学生の時に京都や奈良に行くって言っていたように思うけど、記憶があいまいだし、確か高校の時はもう関西には行っているからって、違うところだったような気がするな」

 イチロウはパソコンではなく自らの記憶を探ろうとしている。

「どうして行かなかったの?」 

 ナナモはもしかしたら今まで聞いていなかったが、イチロウにもつらい思い出があったんじゃないのかと控えめに尋ねた。

「中学の時は急に熱が出て行けなくなったんだ。格好悪かったんで、今でも風邪を引いたことにしているけど、実は風邪じゃなくて、おそらく柄にもなく興奮しちゃって、いわゆるはしゃぎ熱っていうやつだと思うんだよ。次の朝にはピンピンしてたから」

 イチロウの笑い声にナナモはほっとした。だから、高校の時は?と続けて尋ねていた。

「高校の時は交通事故に遭って行けなくなったんだ」

 えっ、とナナモが声を出すと、イチロウは冗談、冗談と二回言いながら、驚いたとまた笑いながら言葉を継いだ。

「笑うかもしれないから、あまり人には言いたくないんだけど、ナナモは友達だしナナモのつらい話しを聞いたから言うけど、俺も高校に入ってから学校になじめなくてというか、コンピューターに興味を持ちすぎて、いわばオタクになっていたんだよ」

オタクは今や英語でもOtakuになっている。

「だから、友達が出来なくて…」

「いじめられたの?」

 ナナモはすぐに尋ねた。

「いいや、最低限の友達付き合いはしていたからね。それに、友達と話すより早く家に帰ってパソコンを触ったり、コンピューターの勉強をしたりしていたから。それに、俺はパソコン上で色々なところを旅していたし、その場所の風習なんかも知ることが出来たから、ナナモには悪いけど、もし、仲間外れにされたとしてもあの時の俺だったら、妙な友達付き合いをしなくていいって思って、その方がずいぶん幸せだったかもしれないな」

 イチロウの弾んだ声は確かに楽しかったのだろうと想像させる。

「学校の先生に強く諭されたんだけど、修学旅行の積立金で新しいパソコンを買うって、だから修学旅行には行かないって、言ったんだ」

「両親は?」

「俺の両親って、けっこう俺に似て変わり者だから、好きなようにさせてくれたんだよ。でも、もちろん、旅費だけでじゃあ全然足らないから、その間、風邪を引いていたことにしてアルバイトしていたんだ。まあ、今にしたら、懐かしい思い出だけど。だから、俺もナナモと同じさ」

 初めて聞く話だ。でもイチロウにとってつらい思い出はない。だから、ナナモと同じだと言いながら、先ほどよりトーンを下げた声だった。

「でも、イチロウのVRの世界で見る光景って…」

「ほとんどが東京さ。でも、それじゃダメだって思ったから、ナナモと会ったころにはあちこちとまでは行かないけど一人旅はしていたよ。だから、京都にも行ったことはあるし、夏の蒸し暑い京都も経験済みなんだ。だから、ナナモが倒れたって知った時も無理ないなあと思えたからね」

 イチロウにどことなく惹かれたのはそういう一面があったからもしれないし、ナナモの例の話しをあの時きちんと聞いてくれたのもそういう一面があったからかもしれない。

「わかったよ。しばらく、ナナモの英会話教室はクローズすることにする」

 いきなりだったし、あまりにも軽い声だったので、ナナモは拍子抜けした。

「本当?でも、大学の研究も兼ねているんじゃなかったっけ?」

「ナナモ、覚えていたんだ。だったら、普通ことわれないけどな?」

イチロウは笑って言った。

「ごめん」

ナナモは謝った。

「いいんだよ。それに、ナナモだけにこのプロジェクトを任せているわけじゃないから」

イチロウはそう言ってくれたが、事実かどうかわからない。なぜならイチロウはシビアなところが多いが優しいからだ。

「それにいい機会だと思っているんだ。ナナモがさっき言っていたことは一理あるから」

「どういうこと?」

「僕は仮想現実をよりリアルにすることを追求してきたけど、やっぱりそうするとエンターテーメントの要素が強くなるんだ。それにロンドンでも思ったんだけど、どんなに頑張っても僕らが普段は行けない所があるし、もしその世界を僕が描いても誰も共感してくれないかもしれない。だからといって僕は自分のしていることを否定しているわけじゃないんだけど、もう少し違ったアプローチで、心の奥底で何かを共有できるものが生み出せないかなあと思っているんだ。あの英会話教室もそのひとつなんだ」

「場所って事かい?」

 イチロウの英会話教室では日本とは違う風景の中で会話を楽しむことができる。

「まあ、それも一つだけど、俺がいくらロンドンを描こうと思っても、もしかしたら、それ違うよってナナモに指摘されるかもしれないからね」

「もしかして、僕が日本を学んでいるように、イチロウもイギリスを学ぼうとしているのかい?」

「例えばの話さ、それに俺は何かを学ぶってがらじゃないし。でも、それよりさっきも言ったけど誰かが学びたいならその手助けは出来るかもしれない」

 イチロウの目が爛々と輝いている。

「そこでナナモに相談なんだけど、京都に行って来てくれないかな」

「さっき僕が言ったのは例え噺だよ。別に京都に行きたがっているっていう意味じゃないから」

「でもあの時、ゆっくり京都観光が出来なかっただろう」

 イチロウのにやけ顔が思い浮かぶ。しかし、なぜか全く腹が立たない。それよりもナナモはあの意識を失った時のことが気になる。それにコトシロやカタリベはどう思うだろう?

「嫌かい?」

 黙っているナナモにイチロウは助け船を出してくれる。でもその優しさを日本人の礼儀だとロンドンでは思わなかったのに今のナナモは思ってしまう。それに京都にはカリンが居る。マギーも居る。大学に入学してからまだマギーに会えていない。

「行くよ」

 ナナモの感情の声は勢いよく飛び出していった。

「それはよかった。クリスマスを過ぎたら大学は冬休みだろう。大晦日と正月の京都は何かと忙しいから、行き帰りは夜行バスになるし二十五日になるけど一泊二日っていうのはどうだろう」

 イチロウのスマホからパソコンのキーを叩く音がする。もはや、イチロウはナナモを完全に把握しているし、計画書がもはや完成している雰囲気さえ醸し出している。

「とっても短い時間だけど、小旅行ってことでナナモが見たり聞いたりしたことを撮影してきてほしいんだ。もちろんハーフの青年だけど、日本語が話せるイギリス人としてね」

 イチロウは何かをまた始めようとしている。

「京都っていったって広いし、僕はどこに行って何をしたらいいんだい?」

「そうだよね。でも大丈夫。今回はね、一人じゃないから。ちゃんと案内人を頼んでいるから」

「案内人?」

「そうさ、ナナモはその人と一緒に旅してもらったらいいんだよ。嫌かい?」

「僕が人見知りだってわかっているよね」

「ああ、知っているさ。でも、ナナモももうちゃんと自分が行きたかった医学部の大学生なんだし、将来医者を目指しているんだろう。人見知りなんて言っていられないだろう。若くても老いていても、男性でも女性でも関係ないだろう。過去に色々あったとしても日本、いや世界を知るには人と話さないとね。俺の場合はソーシャルの付き合いが多いけど、それでもオタクからは少しは脱せられたと思っている」

 イチロウは脱しただけではない。その輪を大きくしながら必要に応じて束ねている。

「案内人とはこれから交渉するんだ。でも楽しみにしてよ。きっと、ナナモにではなくてジェームズに送る僕のすこし遅れたクリスマスプレゼントになるはずだから」 

 イチロウの弾んだ声が急に消えたことで余計に残響が大きくなった。ナナモはその音を打ち消すように、「クリスマスか」と呟いたが、急にマギーの顔を思い出して背筋がぞくっとした。


 年末年始だけは大学のカリキュラムから定められた試験や追試験は特になかった。それは家族とクリスマスを楽しむためではない。ここは日本だ。年末は神様を迎え入れるために家の隅々まできれいに掃除を行い、正月、つまり年始は、心身ともに禊ぎを受けたような真新しい年として、古風だと思われようが出来れば家族と過ごす習わしを一応考慮しているからだ。

 だから、ちょっと、用事があって、三日ほど京都に行ってくると、ナナモは十二月の最後の講義の後にタカヤマに言った。ナナモはタカヤマから、寒げいこ、すなわち寒い時期に早朝から身心を鍛えるために行う武道の修練法のひとつに誘われていたが、精神論は別にして、医学的根拠に乏しく思えていたし、今は少し剣道の練習を休みたい気がしたので、また、帰ってきたら鍛えてくれよと言って、もはや陽が落ちて薄暗くなった杵築の街中を通って駅に向かった。

 イチロウから送られてきた切符はグレードの高い夜行バスの席だったが、それでも、ベッドではないので寝られないと思っていたが、発車してしばらくすると自然と瞼が降りていた。だから、あの夏に初めて京都へ向かった時よりも移動時間はすこぶる短く感じた。

 バスは午前八時に京都駅に着いた。ナナモはいつものように六時前に目覚めていて、ぬれティシュで手と口元を拭くと、スマホに入れ込んだ神棚に一人静かに参拝していたがまだ少し眠たかった。

 京都駅はターミナル駅ではない。そして新幹線も停車する京都の駅舎は、もちろん木造建築ではない。それどころか古き良き時代の駅舎のように、待合室があり、教会のような長椅子が整然と並べられているわけでもなかった。古代様式の細工が施されている壮大な神社仏閣のような年輪を、全く感じさせない近代的なビルとしての京都駅に風情を感じないとがっかりする人もいる。確かに京都は日本の首都として千年以上の歴史があるが、鉄道が開通してから二百年もたっていないし、西洋から持ち込まれたものだ。駅舎の周りには木造の平たな家屋ではなくコンクリートで作られたデパートやホテルに囲まれていて、密閉されていない駅舎には、ビルの隙間から自由に走り回る寒風に思わず顔を背けてしまっても、仕方ないのかもしれない。

 ナナモは厚手のダウンにジーンズ、それにリュックと、ロンドンに居る時とさほど変わらない服装で、多くの人が行き来する京都駅の正面で待っていた。

 ナナモは相手の顔を知らない。しかし、相手はナナモの事をイチロウから聞いて知っている。フェアーじゃないなと、こんな時に限ってロンドン風の考えが頭をよぎるが、もはやどうしようもないし、もし、誰も来なかったらどうしようと、杵築も風は強く寒かったが、また違う四方八方から締め付けられるような窮屈な寒風で、ナナモは先ほどから小刻みに動く身体の震えを自分では止められなかった。

「あれ…、カリン?」

 背を丸めながら柱の陰で立っていたナナモの前をゆっくりと歩いている女性がいる。いや、絶対カリンだ。でも、ナナモのように寒そうではない。もしかして人違いなのか。しかし、その女性は急に立ち止まるとキョロキョロとあたりを見渡している。ナナモはもう一度じっくり見つめた。

「カリン!」

 今度は大きな声で叫びながら手を振ってみた。

 カリンはナナモに気付いたようだ。少なからず笑みがこぼれているように見える。そうか、イチロウはカリンを案内人に指名していたのだ。だから、サプライズだと言ったのだ。でも、タカヤマには話したが、カリンの事をどうしてイチロウが知っているのだろう。カリンと出会ったのはイチロウと出会うずっと前だ。それに夏期講習の時の一瞬だった。いくらイチロウがパソコンでリサーチしてもデータとして検索されたとは思えない。

 しかし、イチロウの事だし、やはり侮れないと、しかし、本当にカリンなら、夏の剣道大会で意識を失ったナナモの事を覚えている。ナナモは思い切ってもう一度声を上げてカリンの方に走り寄ったらいいのに、立ち止まってしまった。

 そんなナナモの臆病さをあざ笑うかのごとくカリンはナナモの方へ近づいてくる。

僕がカリンを迎え入れたのではない、カリンが僕を迎え入れようとしているのだ。ナナモはもはや映画のワンシーンのように大きく両手を上げ、思いっきりハグしてみよう、いや、出来るはずだと思った。

 ナナモは大きく息を吸い、大きく息を吐いたあとに黙って両手を上げようとした。しかし、その瞬間、カリンがナナモに向かって突き進む軌道から少しずつ外れて行くのが目に映る。だいたい、よく見るとカリンの瞳はナナモに向けられていない。ナナモは明らかに離れて行くカリンを目で追って行くしかなかった。

 カリンは右手を軽く上げながら控えめに左右に振っている。きっとカリンの待ち合わせの人に合図を送っているのだろう。そう言えばカリンは剣道大会で誰かの応援に来ているのかい?と尋ねたナナモに赤面していた。もしかしたらやはり剣道部に恋人がいるのかもしれない。だったら、デートなんだ。ナナモはルーシーの事をふと思いだしながら、タカヤマのためだと、責任転嫁して、その恋人を見定ようとした。ナナモは少し気が重かったが、自ら場所を移動し、観察できるように二人が重なる軌道から外れながら見つからないようにこっそりとカリンのあとを追った。

 冷気を伴う疾風がカリンの髪を舞い上げ、芳香を伴いながらナナモの脇を通り過ぎた。ナナモはその香りに誘われるどころか、思わず目がくらくらと回り、そのまま倒れそうになった。

「マギー?」

 ナナモは声を出していた。嬉しくて思わずカリンに掛けた時よりも沈んだ小さな音量の声だったのに、なぜかごった返している駅舎を行き交う多くの人々の間をすり抜けながら反響している。

「ナナモかい?こんなとこで何してるんだい?」

 カリンを呼ぶ声は全く届かなかったのに、ナナモの呟きは誰かの拡声器を通して鮮明にマギーの耳に届いたようだ。

「マギーこそここで何をしてるんだい?」

 夢ではない。現実だ。でも、もしかしたら異世界に急に連れて行かれたのかもしれない。ナナモはそのことを確かめたかったのか英語で話しかけていた。

「何してるって、私は京都に今住んでいるんだよ。だから京都駅にいても不思議じゃないだろう」

 ナナモは嫌な予感がした。

「マギーが案内人なのかい?」

 ナナモは念のために聞いてみた。

「案内人?何だいそれ。それに、誰を案内しなければならないんだい」

 僕だよとナナモは言いかけたが、すぐに素早く飲み込んだ。

「いいんだ。それより、元気だったの?」

「お前がわしの心配なんて…、それよりあのことは解決したのかい?」

 ナナモはいいやと目で合図した。本当は大学の事や寮の事やもろもろの事を話したかったが、久しぶりにマギーの顔を見た事で吹っ飛んでしまった。

「医学の勉強は大変だけど楽しいよ」

 ナナモはまだ専門科目が始まってはいないのに、あの一件でナナモが苦しみ続けてはいないことをマギーにわかってもらいたくて精一杯の気持ちを込めて言った。

「そうかい、楽しいのかい。そりゃよかったじゃないか。いいかい、ナナモ、あの時も言ったけど、悔いのないように生きなきゃ、人生もったいないよ」

 マギーはちゃんとナナモの気持ちを理解してくれたようだ。その事が嬉しかった。

「ところで、カリンとはロンドンから東京まではるばる受けに来た夏期講習で一緒だったらしいね」

 マギーの横にはまさしくカリンが立っていた。ナナモはもはや見間違えるわけがなかった。しかし、ナナモに会って笑顔を振りまいてハグとまでは行かないまでも、握手ぐらいしてくれないかとナナモは手を差し出したが、ぺこりと頭を下げると、黙ってしまっていた。

 夏期講習の時に出会った活発で陽気な印象から妙にかしこまっているカリンの変貌にナナモは思わずどうしたんだいと言いそうになったが、カリンの目が何かを訴えている様だったので、ナナモもぺこりと頭を下げるだけにした。

「この娘が話してくれたんだよ」

マギーはカリンに同意を求めるように話しかけたが、カリンは瞳でイエスと頷くだけだった。

「カリンとはどういう関係なの?」

 ナナモは、カリンが何を話したのかわからなくて不安だったし、何より相撲部屋への見学のことがあったので、夏期講習の事を根掘り葉掘りほじくられるのが嫌だったし、カリンはマギーを確かマーガレット先生と呼んでいたようなことを思い出して、自らが話しの舵を切った。

「この娘が私と一緒に勉強したいって言ってきたのさ」

「一緒に?何を?」

 ナナモは反射的に尋ねていた。

「民俗学だよ」

「民俗学?」

 そう言えばカリンはそんなことを夏期講習の時に言っていた。

「でもね、私はイギリス人だから、日本の事なんかわかんないよ。だからね、その目線で色々考えていることじゃないと話せないっていってやったんだけどね。それでいいって言うものだから、しばらくついておいでって、こうやって時々京都の街を歩いているんだ」

 マギーはカリンが居るためか、わざとよそよそしい言葉使いでナナモに言った。ただし、その目は相変わらず笑っていないし、ナナモに圧を掛けて来る。

 ナナモはなぜマギーが圧を掛けて来たのかわかっていた。マギーは日本の事などわからないとは言っているがそんなことはない。日本学の研究者であり、そのためにイギリスから日本にわざわざ来てそのまま住みついている。きっとカリンはリサーチしてマギーに会いに行ったのだろう。何れにしても今は師弟関係だ。マギーが決してフレンドリーな師弟関係を否定しないことは知りつつも、マギーの性格からナナモと同じように、言いたくても言えないような日本式の一歩下がりながら師に教えを乞うというしきたりを案外楽しんでいるのかもしれない。

 そうなのかいカリン?

 ナナモは目で合図する。カリンはそのことを理解したのかどうかわかわないが、かすかに笑みをこぼした。

「ところでナナモ、杵築からわざわざ私を探しに来たのかい?それともカリンに頼んで私から何か学びたくて来たのかい?」

 マギーから不気味な笑みがこぼれる。イチロウには何とでもいいわけが出来るから、もし、カリンに偶然会えて、これから京都の街を散策できるのならそれはそれでいいと思ったが、マギーが一緒なら針のむしろの上で座っている方がまだましだと思えた。

「いや、ちょっと、友達から頼まれたんだ。京都の街を撮影してきてくれないかって」

 ナナモはそう言ってからしまったと思った。ナナモは京都の街をほとんど知らない。

 マギーもカリンも、同時に口を開きかけたが、また同時に口を閉ざした。そして、黙って二人でナナモを見ている。マギーもカリンも女性だ。女性の感は鋭い。しかし、それぞれ同じことを考えているとは限らない。ナナモはついコトシロと、心の中で助けを求めた。しかし、もちろん反応はない。それどころか二人の瞳から発せられる寒風がよりナナモを縮み上がらせ、小刻みに身体を振わせる。背中から噴き出る汗が辛うじてナナモの身体が完全に凍らされることから抗ってくれていたが、それとて長続きしそうになかった。

「ジェームズ!」

 春一番かと思わせるような、弾むような、少しキーの高い、陽気な声でナナモは再起した。もちろんコトシロではなかったが、そんなことはもはやどうでもよく、ナナモはすがる気持ちで声の主に視線を向けた。

 その声に誘われたのはナナモだけではない。マギーもカリンもまるで灰色の空を塗り替えるような勢いで近づいてきた声の主を見つめていた。

「あら、カリンじゃないの、こんなところで。どこかに行くの?」

 声の主も女性だった。しかし、その言葉は英語だ。だから余計にジェームズと呼ばれたナナモは反応したのかもしれない。ただし、ナナモは全く見覚えがなかった。もしかして、思わず反応したが、先ほどと同じように人違いかもしれない。現にナナモに話しかけないで、カリンにまず話しかけている。

「今日はマーガレット先生と京都散策しながら色々と教わる日なのよ。前に一度、ソフィアに話したことあったよね」

 ソフィアというのか。ナナモはもはや自分が呼ばれたのかどうでも良かった。ただし、多分に東洋系の香りが強く残っていたが、もしかしたら、ハーフなのかもしれないという雰囲気が名前は別にしてもその顔貌に見え隠れしながら漂っていた。

「こんにちは、先生。私も一度先生のお伴をしたいと思っていたんですけど、すいません、私、あまり民族学には興味がないので」

 カリンはせっかくマギーに紹介したのに、ソフィーははっきりとそう言っていた。

「カリンのお友達かい?」

 カリンは慌てて、ハイとはっきりとした返事をしてから、クラブで知り合ったんです、と説明した。蚊帳の外に置かれたナナモは何気なく聞いていたが、えっ、だったら?と、厚着でわかりにくかったが、カリンよりも少しだけ背の低いソフィアを失礼ながら頭から足まで思わず見てしまった。

「私、彼に今日は用事があったの」

 いきなり蚊帳の中に引き込まれたナナモはびっくりした。それどころか、ジェームズよね、イチロウから頼まれたのと、言うなり、ナナモにハグしてきた。

 ナナモがハグをこれまで一回も受けたことがないということはない。しかし、サマーアイズではそれほどハグ文化は浸透していなかったし、いわんや日本に戻ってきてからは、一度もなかったし、東京でも昼間によく見る光景でもなかった。その上、マギーとカリンがいる。ナナモは立てかけられた冷凍マグロのように身動きできなかった。

「ジェームズはそういうことに慣れていないのよ」

 カリンが慌てて分け入って来た。きっと、顔だけは真っ赤に湯であがっていたのに違いない。それに、マギーのやれやれというため息まで聞こえてくる。

「もしかして、ソフィア…さん、ナナモ、いや、ジェームズの案内人なのかい?」

 マギーが何も言えなくなっているナナモの代わりに尋ねてくれた。

「私が、その…、案内人かどうかわかりませんが、今日一日、ジェームズとデートするように頼まれたんです」

「デート?誰にだい?」

「イチロウっていう人からです」

 マギーはイチロウの事を知らない。だから、誰だいっていう顔をナナモに向けて来る。ナナモは大学では友達はいないと言っていた。それにあの時のイチロウは大学生ではない。それにVRがきっかけだ。だからと言ってその事を全てマギーに話すのは面倒だし、ましてやカリンに話すのはもっと面倒だ。

「まあ、イチロウの詳しいことはあとでソフィアから聞いてくれないかな?それより、僕達は今からどこで仕事をすればいいんだい?」

 ナナモは二人から目をそらすようにソフィアの方を向きながらわざと「ビジネス」という言葉を使った。

「二人はどこに行くの?」

 ソフィアはそんなナナモの些細な抵抗をまったく気にもかけていない。それどころかフランクにカリンに尋ねた。

「私たち?」

 カリンは明らかに動揺している様に思える。そして、カリンはわざとマギーと目を合わせようとしていない。明らかに怪しい。でも、そのことに気が付いているのはナナモだけだ。いや、もう一人いる。

「ナナモ、いいかい、折角京都に来たんだ。それに、デートって言ってくださっているんだい。仕事だなんて無粋なことをお嬢さんの前で言うんじゃないよ」 

 私、ソフィアですと、割合大きな声が漏れている。しかし、マギーはお構いなしだった。

「しばらく京都に居るんだろう。この仕事、いや、デートが終わったら、また、京都に戻って来るよ。今年の正月はマギーと過ごしたいからね」

 ナナモはこの機会を逃せば言えないだろうからと、はっきりと言った。

「こんな老いぼれと一緒に居たって仕様がないだろう。それに、もうクリスマスは終わったんだよ。そう言えばクリスマスプレゼントが届かなかったね」

「それは…」

 ナナモは叔母から預かったが、どこに送れば良いのか分からなかったのだ。

「まあ、いいさ。ナナモには悪いけど、年末年始ものんびりできないのさ。だから、ナナモの相手はしてやれないよ」

「もしかしてカリンと一緒に過ごすんじゃないだろうね」

 ナナモは子供扱いされたことなど気にせず、マギーの方ではなく、カリンに向けて言った。カリンはうつむいていて答えてくれなかった。

「いいじゃないか、年末年始は寮で過ごしな。それが一番いいよ」

「でも寮には誰も居ないから」

「一人には慣れているだろう。それに身体が休まるし、溜まっている勉強も出来るだろう」

 マギーはやはりナナモをどこからか監視しているのかもしれない。

「ソフィアさん。誰かに頼まれたかはわかりませんが、この子は私の孫だから、私と同じで少しひねくれもんですけど、よろしくお願いしますよ。それに京都に居られるのでしたらいつでも私とまた会えますし、今度は三人でお茶でもしましょう」

 マギーは急に丁寧な日本語でソフィアに話しかけた。いきなりだったので、あれほど明るくはきはきしてソフィアも思わず頷くだけで精一杯の様だった。

「ナナモ、寮ではちゃんと参拝は続けているんだろうね」

 また、マギーは英語でぶっきらぼうにナナモに言った。

 当然と、古風な英語で答えると、珍しくマギーは微笑んだ。

「きっと、ナナモは、またここにそのうち戻って来るよ。さあ、行きな」

 マギーからはまた微笑みは消えた。ナナモは後ろ髪を引かれる思いだったが、ソフィアが、それじゃまたねと、カリンに告げると、ナナモの腕に自分の腕をからませるように、引っ張った。ナナモはカリンとまた黙って別れなければならなかったことも気になったが、マギーがまたナナモもが京都に戻って来ると言ったことのほうがもっと気になった。

 ナナモはソフィアに引っ張られながらもなんとか首だけを後ろに曲げながら二人を追ったが、すぐに雑踏に遮られた。確か、相撲部屋で見たカリンはもっと元気が良かったし、化粧気なくふっくらしていた。しかし、久しぶりに剣道大会で会った時よりも今日のカリンは寂し気で元気がないように思えた。

 マギーとどこへ行くんだろう?カリンは何かに悩んでいるんだろうか?

 ナナモはそう言えばソフィアがカリンと友達だったことを思い出した。だから、ねえ、ソフィア、カリンの事なんだけど…と、口を開きかけたその瞬間に、「ねえ、ナナモってハーフなの?」とソフィアに出鼻をくじかれた。

 ナナモはいきなり唐突の質問だったし、カリンの事を考えていたところだったので少し戸惑いながらも、イエスと短く答えた。

「そうよね。じゃあ、私のことはどう思ったの?」

 やれやれ勘弁してほしいなあと、ナナモは先ほどまでの杞憂が嘘だったかのように、いつの間にかソフィアとの現実に舞い戻ってしまっていた。

「英語がうまいし、名前からはハーフっぽい気もするけど、なんか違うような気もするし、僕はよくわからないよ」

 ナナモは正直に答えた。

「なにそれ?私そんなこと聞いていないわよ。確かに私は祖母がイタリア人だったからクオーターだし、父の仕事の関係でしばらく海外に居たから英語が話せるし、それでカリンとも知り合えたんだけど、そんなことはどうでもいいのよ」

 ナナモは、えっ?だってハーフ?って尋ねて来たのはソフィアだろう。だったらどう思ったって、ソフィアは何を求めて僕にハーフって尋ねて来たんだろう。

 二人は思わず立ち止まっていた。そして、ナナモはソフィアを見つめていたし、ソフィアも無言でナナモを見つめた。

「私の事覚えていないの?」

 笑いのないにらめっこほど奇怪なものはない。それでも笑い声ではないが我慢できなくなったソフィアの明らかに少し怒気の含んだ声が聞こえてくる。

 ナナモは覚えていないのって言われたので、フル回転でソフィアという顔写真を記憶の倉庫から探し出そうとした。しかし、ナナモの記憶は今品物で溢れかえっている。それに異世界の記憶も下塗りされている。

 あのカタスクニへ行くための夏期講習の参加メンバーの中に居たのだろうか?でもそうであるならば今現実の世界でその事をナナモに話してくるわけもない。そうかカリンのクラブ仲間だとしたら相撲部だ。もしかして、日本で行われた国際相撲大会に出ていたのかもしれない。しかし、あの時はルーシーに夢中でそれ以外のことは全く目に入らなかったし、現実のはずなのに脳にはっきりと刻まれていない。

「国際相撲大会のことは覚えていないんだ」

ナナモはきっとそうだろうと腹を決めて言った。しかし、ソフィアは明らかに怪訝な顔をしている。

「カリンとは同じ相撲部なんだろう」

 ナナモは確かめるように言った。

「私は相撲部じゃないわよ」

「だって…、カリンはクラブで知り合ったって言っていたから…」

 ソフィアはナナモにそれ以上何も言わせないかのように、手のひらを大きく開いてナナモの前に無言で差し出した。ナナモは先ほどハグされたこともあったのに、また、びっくりして思わず目を閉じてしまっていた。しかし、二度目だと、今度は毅然としなければと、ゆっくりと息を吸い、そして息を吐くタイミングで目を開けた。雲が太陽を隠しているのか薄暗かったし、まだ、ソフィアの手は開いたままだったが、その手はなぜか真鍮のように輝いていてその隙間からソフィアの顔がまるで抜けたジグソーパズルのようだったが、眉間に皺を寄せながら獲物を狙う猛獣のように鋭い眼光でナナモを見つめていた。

「ソフィア、まさか、あの時の…」

 ナナモがそう言った瞬間、ソフィアはナナモの目の前から掲げた手のひらを降ろした。しかし、ナナモは、まるで別人であるかのように、ジェームズ!と、弾む声と屈託のない笑顔でハグしてきた時に戻ったソフィアを、しばらく口をあんぐりと開けて見つめるしかなかった。

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