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ジェームズ・ナナモと格子の迷宮  作者: まれ みまれ
2/33

(2)テンモンのエイコウ寮

 ナナモはハッとして目覚めた。やけに身体が重い。それにかすかに頭痛がする。ここはどこだろう。いや、どの時間に居るのだろう。そう考えると、先ほどのかすかな頭痛は、よりひどくなった。

 ナナモは、関東西部大学の電子工学部に在籍しながら、杵築医科大学の医学部を受験して合格したのだ。それは、夢でも仮想現実でも異世界でもなく、正真正銘ナナモの現実だ。しかし、その現実をしっかりと記憶にとどめておく暇もなく、すぐにナナモは、ロンドンで出会ったカミの託宣を告げるコトシロであるアヤベという謎の日本人男性に伴われて、王家の継承者となるべき学校、いや、カタスクニという機関で、すでに色々なことをレクチャーされ始めていた。と、同時に、もう一人のナナモもいて、おそらく、まだ東京に居て退学手続きや入学手続きなどと並行しながら、マギーにこれまでの事を説明し、これからの事の許しを得、そしてキリさんにしぶしぶ手伝ってもらいながらも、引っ越しなどを慌ただしく行っていた。


いや、そのはずだ。


 なぜあやふやなのだろう。なぜつい先ほどまでのはっきりした過去の映像が浮かんでこないのだろう。頭痛に気が散ってしまったせいではないと思う。ナナモは、自分の過去なのにその平衡を完全に失ってしまったかのような浮遊感を覚えていた。

「ナナモさん、あなたは同時刻に現実と異世界に存在するのです。そしてこれからその両面の記憶が残りそして消え去りながら王家の継承者としての人格が形成されていくのです」と、アヤベの声が記憶の断片としてかすかに聞こえてくる。もしそうなら、ナナモはまだそのことに慣れていないのかもしれない。

 だから、ナナモは、ここはどこだろうと、瞳を出来るだけ大きく開け、もう一度自問した。おそらくここは、カタスクニでも東京でも、ましてや中間の世界でも大学でもないはずだ。何故ならトイレ臭とは違う、きっとナメクジが通ったあとの葉っぱを誤って舐めてしまって、慌てて口を漱いだのにまだ嗚咽が止まらない、そんな気分を抑え込むような淫靡な匂いが漂っていたからだ。

 ナナモはその匂いに誘われながら記憶の畦道を少しだけ後戻りしてみた。

 そう言えば、どこかに居たはずなのに急にイナズマに誘われ、瞬間移動させられた。いや、もしかしたら、あわてて何かから逃げてきたのかもしれない。だから、疲れがひどくて、そのまましばらく寝込んでしまっていたのだ。

 いや、本当にそうなのだろうか?

 まだ、記憶のふらつきが収まらない。

「こんなところで寝ていたら風邪を引くよ」

 大の字になって横たわっているナナモに向かって誰かの声がする。誰だろうとナナモはすぐに起き上がろうとするが、やはり身体が動かない。閃光どころか蛍光灯が弱々しく揺れている。

 声の主の影がナナモにゆっくりと覆いかぶさって来た。しかし、影だけで、首を曲げなければ実態が把握できない。

「今何時ですか?」

 ここはどこですか?もしくは、あなたは誰ですか?と、まず尋ねるべきなのに、なぜナナモは時間を聞いたのかわからない。やはり、時間軸にまだ惑わされている。

「もうすぐ、深夜二時だよ」

「深夜二時?」

 ナナモはオウムのようにただ時刻を繰り返していた。

「酔っぱらって紛れ込んだのかい?キミは寮生じゃないよね。それとも、うちの誰かと一緒だったのかい?それで、喧嘩でもして部屋から追い出されたのかい?」

 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。ナナモはまだ横たわったままだ。けれども、声の主の語気はけっして荒くない。むしろ、優しさを覚える。

「あの…、ここは?」

「寮の玄関さ、トイレに行こうとしたらキミが居たのでびっくりしたよ」

 声の主はなぜか寝たままのナナモを起こそうともせずに話し続けてくる。

「すいません。ちょっと身体を起こしてくれませんか?」

 ナナモは思い切って頼んでみた。

 声の主は、えっと、かすかな声を漏らしたが、ここでやっとなぜ自分の力だけで起きられないんだと気が付いたのか、「大丈夫かい?」と気遣いながらも、天上を見ているナナモの両手を握り、引っ張ろうとした。

「案外重いな」

 何度か渾身の力で引き上げようと試みてくれたのだろうが、死体のように筋肉が弛緩しているのか、ハアハアと荒い呼吸しか聞こえてこなくなった。

 声の主はそれでも最後の力を振り絞ってくれるのかと思ったが、早々とナナモを起こすのをあきらめたのか、それでもこの場所だったらと、ナナモを引きづっていく。きっと畳でも板の間でもないのだろう。背中が微妙だがごつごつする。その刺激が少しずつナナモの筋肉に信号を送っている。かすかだが、反応が出て来た。力が回復するのももう少しかもしれない。

 声の主の声が次第に荒げてきた。ナナモはなすがまま数メートルは移動したはずなのに、もう少しと声には出さないが訴えていた。

 しかし、ナナモの望みは聞き入れられなかった。目的地に着いたのか、声の主は、フーという声ともに静止した。

 ナナモはまだ座ることさえできなかったが、それでも幾分力が戻ったのか、首を持ち上げることだけは出来た。

 ナナモの反応を見たのか、声の主はナナモに自ら近づいてきた。

「俺は小岩って言うんだ。今年から三回生なんだ。まだ、力が入らないのかい?」

 やけに幼顔だ。身長まではわからなかったが、五分刈りにパッチリとした瞳が輝いていたからかもしれない。

「少し入るようになってきました。もう少しだと思うんですけど…」

 ナナモがそう言うと、ああ、少し待っていて、と、小岩はナナモの前から姿を消した。そして、しばらくすると戻ってきて、飲めるかいとペットボトルを差し出した。

「自分では…」と、ナナモが言うと、そうだよなと頷きながら、口元に流し込んでくれた。

 むせることなく、ごくりと飲み込むことが出来たのは朗報だった。今まで味わったことがないようなほのかに甘味のある液体が、冷たさも相まって身体全体に急速に拡がって行った。

 御神酒?でもまさか?それでもナナモはまるで聖水を口にしたような、砂漠の真ん中にほんの一滴水を垂らしただけなのに、あらゆる方向に浸み拡がって、見る見るうちに、芽が息吹、どんどん緑色の草木が上へ上への成長していく様な精気の活力を覚えた。

「ありがとうございます」

 きっと小声だったのだろうが、ナナモははっきりとした口調と精一杯の感情を添えて、小岩に感謝を述べた。

「いいんだよ」

 小岩は満面の笑顔だった。ナナモはまるで大きな惑星に引き寄せられるかのように、自然と身体を起こし、やっとのことで座る姿勢を維持することが出来た。

「あの…」

 ナナモに少しずつ現実が戻って来る。そんな予感が、余計、身体に力を蘇らせてくれる。だから、ナナモは確かめなければならないと思ったし、その言葉が何やら記憶の文箱を開けてくれるカギになるのではないかと思えた。

「何だい?」

「ここは杵築医科大学の学生寮ですか?」

 ナナモはなぜそう思ったのか分からなかったが、自然と口にしていた。小岩は驚いたように、ああ、と答えた。きっと、今更と思ったのかもしれない。それでも、小岩は、ナナモの顔をほんのしばらく大きな瞳で包むように捉えてから、「もしかして、キミかい?ナナモ…くんって言うのは…」と、暖かい吐息を添えて尋ねて来た。

「はい。クニツ・ジェームズ・ナナモです」

「クニツ?いや、どうでもいいや。改めて聞くけど、ナナモくんは新入生だよね」

「はい」

 先ほどよりもより真ん丸な瞳がまるでスーパームーンの様に輝き、大きく膨れ上がっている。

「寮母さんから、新入生が今年は入って来るって聞いていたんだけど、なかなかやってこないんでみんなそわそわしていたんだよ」

 いつの間にやら、ナナモはどこかの不用品集積所から持ち込んできたのかと思われるような、ぼろぼろのところどころから薄汚れたウレタンスポンジがしなびた手足を伸ばしているソファーに腰を降ろしていた。

「新入生は僕だけなのですか?」

 ナナモは尋ねた。

「ああ」

 小岩は短く答えたが、その表情から少なくとも歓迎されざる客だという印象をナナモは微塵も感じなかった。むしろ喜んでいる風に見える。

「実はね…」

 ナナモの予想通り、小岩は宝物を見つけた子供のように自然と漏れ出る笑みを隠しきれないようだ。

「今年新入生が入って来なかったら取り壊す予定だったんだ。でも助かったよ」

 ナナモを歓迎してくれた笑みではなく、寮が無くならないことに対する笑みだったことに残念な思いはしたが、それでも、これほど喜んでくれるのなら、きっといじめられることはないだろうと、ナナモはプラスに切り替えた。

「本当ですか?」

「ああ」

 小岩の笑みはまだ止まらない。

「あの、一応なんですけど、聞いてもいいですか?」

 もはや、目の前にナナモが居ることなど忘れたかのような小岩に、ナナモは尋ねた。

「いいよ」

「どうして、取り壊すことになったんですか?」

「だって…、ナナモくんも見ただろう。古い建物だからね。危ないだろう」

 小岩から突然笑顔が消えた。

「夜にやってきたし、疲れて倒れ込んでしまったようなので、どのような外観かは見ていないんです」

 ナナモは正直に言った。そして、小岩はくるくると周りを見渡してから、もう一度ナナモの方を向いた

「中を見てもわかるだろう。相当な年期もんだぜ。それに、木造だし、平屋建てなんだ。地震雷火事親爺っていうだろう」

 地震雷火事…、ナナモにはあまりピンとこない言葉だったが、なぜか親爺という言葉からマギーと暮らしていた家のことをふと思い浮かべた。あの家も奇跡だってキリさんが言っていたように思う。でも、何が奇跡なのか、住んでいながらナナモはマギーにもキリさんにも聞けなかった。

 ナナモは小岩に代わって同じ動作であたりを見渡した。ナナモはそう言えばと言おうとしたが、ログハウスのように、木々で組み合わされてはいない。壁は曲がりなりにもきれいだとは言えないが、何がしかで塗装されていて、蛍光灯でやや不気味さで後ずさりしそうな内装だが、決してそれだけで、木造だと判断することは出来なかった。

「でも、案外きれいですよね」

 ナナモはたとえマギーを師と仰いでいると言っても、キリさんの仕事ぶりを知っている。鉄筋であろうが、木造であろうが、新しかろうが、古かろうが、関係ない。

「寮母さんが居るからね」

 小岩が得意げに頬を緩めて言った。

「寮母さん?」

 ナナモはなぜか胸騒ぎを覚えたが、まさかキリさんが…と、小岩の前なのに目を強く閉じて、ノーの代わりに、首を何度か横に振った。

「明日になれば会えるよ」

 小岩はナナモのノーを見なかった。それどころか含みのある笑みでそれだけ言うと、取り壊し計画を話したかったのか、すぐに本題にもどした。

「さっき、杵築医科大学の学生寮だって答えたけど、実は、大学が運営しているんじゃないんだ」

「どういうことですか?」

「この大学がこの地に創立されることになった時の事から始めるよ」

 小岩は、少し込み入った話だけど身体の方は大丈夫?と、ナナモのハイの返事も聞かずに、詳しくはわからないんだけどと、前置きした上で言葉を続けた。

「田舎だから本来は土地が余っているはずなんだけど、ここはナナモくんも知っていると思うんだけど、歴史がある場所だからね。少し掘り起こすと遺跡なんかが出てきてなかなかいい土地が見つからなかったんだ。それにカミガミと関係があるから、そのことを無視して強引に工事を推し進めることも出来なかったんだよ。それでも医科大学だろう。当然附属病院も併設されている。学生というよりも、むしろ患者さんにとって、たとえ車社会だと言っても、ある程度利便性も考えないといけないから、その敷地選びには慎重になって、けっこう苦労したらしいんだ」

 ナナモは嘗て医学部のない大学に通っていた。それでも最寄りに駅があった。

「それで…」

 ナナモは小岩の話に引き込まれる自分に気づいていた。それほど意識がずいぶんしっかりしてきていた。

「ある人、というか、ある会社が無償で寄付してくれたんだ」

「寄付?」

 小岩はその会社の具体的な名前を挙げた。ナナモはその名前を聞いて驚いた。大企業どころではない。次々に特殊な技術を開発して、世界的な規模で今でも発展している会社だ。

「でもどうしてですか?」

「この辺りはその会社を創業した人の先祖が初めは住まわれていたらしいんだ。太古のことかもしれないんだけど、その時、医学的なことに関わっていたらしんだ」

 その会社の本社は東京にあるし、医業とは全く異なる業種だ。

「でも、ここからも何らかの遺跡が出たんじゃないのですか?」

「それがね、不思議なことに大学建設に必要な敷地面積と丁度同じ範囲だけには、何も発掘されなかったんだよ」

 ナナモは小岩の顔を見ていたが、ゆっくりと少しうつむきかげんに視線をそらすと悟られないように頬をつねった。そして、思わず、「これって…」と、言いかけたが慌てて口を閉じた。

(これは現実だ。それに小岩さんはイチロウではない。)

 無理やりそう思い込もうとしたわけではない。ほのかな痛みがナナモを素直にさせただけだ。

「ただし、条件があったんだ」

「条件?」

「そう。それがこの建物のことだったんだよ」

 きっとここは談話室なのだろう。しかし、暖炉などないし、日本の古民家で見られる囲炉裏もない。蝋燭よりは何とかしっかりとした蛍光灯が弱々しく二人を照らしているだけだ。

「この木造の建物を敷地内に必ず残すことと、学生のために役立てることが、その条件だったんだ」

 小岩は淡々と言うとさらに言葉を続けた。

「新しく創設される医科大学だったんで、近代的なコンクリート建築で統一したかったし、防災上、なにがしかの問題が出て来るからと、国や県や大学がずいぶん交渉したらしいんだけど、ダメだったんだ」

「なぜですか?」

 もはやナナモは身体を小岩に少し寄せていた。

「なんでも、この土地を守って来た由緒正しき建物らしいんだ。木造だから火事は怖いし、確かに古い建物だけど、この辺りは昔から地震がほとんど起きたことがなかったのにどこから持ってきたかわからない程の太い柱が何本かしっかりと支えているし、エアコンなんてないのになぜか冬は暖かくて、夏は涼しいんだよ。それに、この建物が敷地内にあれば、大学は百年でも千年でも守られるって…」

 ナナモはその外観をまだ見ていない。もしかしてカミのおられた屋敷なのかもしれない。けれどそうであれば、ヒトが住んではいけないはずだ。

「確かに天門にあるからね」

 ナナモの胸の内を察したかのように小岩からぼそっと声がした。

「テンモン?」

 ナナモはすぐに反応した。

「知らないのかい?」

 小岩は今頃になってナナモの顔をしげしげと見つめた。

「ナナモくんはジェームズ・ナナモだってさっき言ったよね。もしかして、帰国子女なのかい?」

 ナナモはもはやそのワードの意味を知っている。だから、そうです。それにハーフですと、即答した。

「どこかに居たの?」

「中学からロンドンに居ました」

「ふーん。まあ、いいや」

 小岩は何かナナモのプライベートのことを聞きたかったのかもしれない。しかし、案外あっさりと話をまた学生寮のことに戻した。

「天門っていうのはね、大学の敷地からいうと、北西の方向を意味していて、この方角から光が差し込んでくるっていうまさしく天に通じる門なんだ。ただね、良いものが入って来るだけだったらいいんだけどね、悪いものも入って来るからね。それを守らないといけないんだ。ナナモくんにはピンと来ないかもしれないけど、日本にはオンリョウ文化があるからね」

 ナナモは唐突に小岩からオンリョウと言われて驚いた。わかります。確かにカミとオンリョウはある意味表と裏の関係ですからと、ナナモは言おうと思ったがあえて口にしなかった。

「そうだよね。いまどきじゃないよね。でもね、この土地にしばらく住んでみてわかったんだけど、地元の人は誰一人としてそのことを信じない人はいなかったんだ。やはり、ここは杵築だからね」

 ナナモはあえて無表情で答えなかったから、小岩は否定されたと思ったのかもしれない。

「鬼門とは違うのですか?」

 ナナモはそのことを否定しようと尋ねた。

「鬼門は北東だろう。確かに方角的には大切な場所だし、そこには鬼がいて災いをもたらすと言われている。でもね、あくまで僕の考えだけど、鬼ってあの角がある赤ら顔の鬼の事ではなくて、飢饉や災害や疫病の事じゃないかなあって思っているんだ。でもね、それなら、まだ、人は何とか立ち向かえるんだけど、オンリョウが入ってくるとね。なかなかね…」

 小岩はそれ以上言わなかった。それは、ナナモがハーフだからなのか、新入生だからなのか、それとも自らの考えを披瀝するのをためらったのか、ナナモにはわからならなかった。

「それじゃあ、この場所を神社仏閣にすれば良かったんじゃないのですか?」

 ナナモは尋ねた。

「そうだよね。普通そう思うよね。でもね、大学だよ。医学部だから敷地内に慰霊碑は建てられているし、この大きさだろう。やっぱりね…」

 小岩は大学創立時のメンバーにでもなったつもりで、話していた。しかし、ナナモは話しの腰を折ることはしなかった。

「だから、天門だとか、カミやオンリョウなどの話は、一応は、検討されたみたいなんだけど、すぐに立ち消えてしまって、結局、食堂にするという案や娯楽施設にするという案が出たんだけど、田舎だろう。大学の周辺にアパートやもちろん学生用のマンションなんかもまだ建っていなかったんで、学生寮にしようっていうことになったんだ。学生寮は、昔、各大学に必ずあったし、相部屋だけど、食事つきだし、なんてったって寮費はべらぼうに安いから、はじめは人気があって、なかなか入寮するのは難しかったんだ。入学試験より狭き門だって、笑い話になったほどだったんだよ」

 小岩は頬をかすかに緩めた。きっと冗談のつもりだったんだろう。しかし、ナナモは微風に全く靡かなかった。

「でも、やはりね。寮だろう。色々な問題がでてね?」

 小岩は、今度は含み笑いを浮かべた。

「色々な問題?」

 ナナモは尋ねた。

「だから天門だよ」

 小岩の含み笑いは消えなかった。ただ、頬は緩まず、かえってぴくぴくと痙攣していた。だからか、それ以上の具体的なことはナナモに話さなかった。

 小岩はしばらく間を置くように黙った。そしてまた話し出した。

「杵築はもともと全国から参拝のために人々が集う場所だったけど、この辺りは素通りで閑散としていたんだ。それが、大学設立を機会に観光課が色々な企画を打ち出したことと、附属病院も軌道に乗ってきたことで、ヒトの往来が増えてきたんだ。それで、周囲には気軽に食事できるお店やスーパーや娯楽施設なんかも増え始めたし、大学周囲にアパートだけではなくて学生用のマンションなんかも建てられてきたんで、世代的に団体生活が敬遠されるようになったこともあって、だんだんと入寮希望者が少なくなってきたんだよ」

「まさか事件があったとか・・・」

 ナナモは何気なく聞いたが、小岩は、「事件?」としばらく考え込んでから、「殺人以外なら何でも起こったんじゃないかな」と、特に感情のない言葉で言った。ナナモは却って薄気味が悪かったが、もしここが小岩の言うように天門なら、カミとオンリョウが出会う場所なのだから色々なことが起きても致し方ないのかもしれないと頷くしかなかった。

「結構、今は学生が裕福になってきていますけど、それでも経済的に困っている学生は居るんじゃないですか?」

 ナナモはもしかしてここは神話の世界なのではないかと、もう一度頬をつねって、その痛みを確認してから話題を戻す為に尋ねた。

「それはそうだけど」

 小岩は力なくつぶやいた。

「それに寮母さんがおられて食事を作って下さるんでしょう。ある意味では魅力的だと思いますけど」

 ナナモは東京に居た。だから二十四時間どこかしこに店があったし学生のためだといって安くて量がある食堂もあった。しかし、店が増えたと小岩は話してくれたが、受験の時のおぼろげな記憶ではあったが、ナナモがすぐにお腹一杯になるような若者向けの店が何軒もあるとは到底思えなかった。

「さっきも言ったけどここは大学が直接運営しているわけじゃないから」

 小岩はまた同じことを言った。

「大学の敷地内なのに?」

「まあ、グレーな世界さ。ここの運営は土地を寄付してくれたあの会社からの資金で運営されていたんだ。ところが十年前かな、急にその会社からの資金が届かなくなったんだよ」

「あの大企業が?どうしてですか?」

 ナナモは声には出さなかったが企業名を反芻した。

「理由はわからないんだ」

「だったら、なぜその時に寮が閉鎖されなかったんですか?」

 ナナモは当然という顔で尋ねた。

 天門だからと、小岩は当然という顔で答えるのかなあと思ったのだが、そうではなかった。

「長年、学生が無茶してきたから、つぎはぎだらけなんだけど、さすがに建物の本体は立派だから、やはり惜しいという声があって、それで…約束の事もあったんで記念館として残そうって話もあったんだけど、でも、結局、何か大学の看板になる研究施設を作ったほうがいいんじゃないかって、大学も腹をくくったんだ。つまり、取り壊すって。でも…」

「でも?」

「そんな時に、寄付がまた始まったんだ」

なんだ、大企業の気まぐれだったのかと、ナナモは思った。

「でもその企業からじゃあなかったんだ。この寮に住んでいた卒業生からなんだ」

 まさかと、ナナモは思ったが、よく考えみればなくもない話だ。それに医者ならありうる話だとも思えた。

「国立の大学でそんなグレーなことが許されたんですね」

「まあ、今は大学経営も一応独立採算ということになっているからね。いわばふるさと納税みたいな制度だよ」

 ナナモは、年末にテレビのコマーシャルで何度か芸能人がその言葉を連呼しているのを見たくらいでふるさと納税自体よくわからなかった。納税者でないナナモには探究心が微塵もわかなかったからだと思う。それでもおそらく欧米での寄付による税制の優遇処置と同じなのだろうとおぼろげながら思った。

「でもね、企業に比べたら金額がね…。だから、無条件に寮生をすべて受け入れられなくなったんで選抜することにしたんだよ」

 それでも申し込む人はいるはずだ。

「それに、選抜は秘密裏に行われていたらしくて、だから、この寮があることすら、大学も公にしなくなって…」

 確かにナナモが入試前に得た大学の案内書には、寮のことは書かれていなかった。

「それに、もしかして、寮への寄付なのに大学がなんかそのお金を操作しているじゃないかって噂があって」

「噂?」

「そう、寄付をしてくれる卒業生には、希望者が居なくなったからもう寄付はいらないと説明し、何らかの情報から寮の存在を希望する学生には希望寄付がなくなったからと説明し、そうやって、寮生をゼロにして寮を取り壊そうと大学が考えているっていう、そういう噂だよ」

「そんな子供じみた噂、すぐにばれるんじゃないですか?」

「ナナモくんもそう思っただろう。でもね、その噂は、ここに居る寮生もつかみきれていないんだ。それどころか、寮は大学の敷地内にあるはずなのに、いつしか、敷地外の扱いにされているって…」

 ナナモはそれも噂なんですよねと、言いたかったが、小岩は不釣り合いなほど眉間に皺をよせていた。

「でも、寮の自治権ってあるんじゃないんですか?」

 ナナモはひらめいたという風にどこかで読んだことのある昔懐かしの旧制高校の寮での生活を書いた小説のことを思い出して言った。

「それも複雑でね。だいたいここには寮の規則がないんだ。でも、今までの慣習が規則みたいに残っていて、それを皆が守っているんだ。規則がきちんと定まっていて、文面化されていれば、寮生も対応しやすんだけど。なかなかね」

「じゃあ、ここは誰が管理しているんですか?」

 ナナモは尋ねた。小岩はすぐに返事をしなかった。それどころか今までないようなほどしばらく押し黙って上目使いで何やら思案していた。

「我々が観たこともない。いや観ることができない殿上人のような方かもしれないな」

 小岩は確かにそう言った。いや、ナナモにはそう聞こえた。けれども、それが事実かどうかはわからない。そんな空白の空間が二人の間を遮っていた。

「ナナモくんはどうしてこの寮に入ることになったんだい?」

 小岩の言葉が空言であったのかどうかはわからないが、今度ははっきりとした空間を伴った言葉が聞こえて来た。

「ええっと…」

 ナナモはすぐには答えられなかった。おそらく、マギーが決めたことなのだろう。きっと、その事に対してナナモは抗することなどしていなかっただろし、医学部に再進学することを許してくれた上に東京から離れて下宿までさせてもらったのだ、感謝以外口にしていなかったに違いない。

 でも、本当にきちんと正座をしてマギーに頭を下げていたのだろうか?

 ナナモにはその現実の会話の記憶がまだなかった。小岩との会話で、身体も心もずいぶんスッキリしてきたように思ったのだが、まだ記憶のふらつきが戻っていなかったからだ。

「もしかしてナナモくんもわからないのかい?実は僕も同じなんだよ」

 ナナモが絹の細糸で何とか記憶をたどり寄せようとしていた時に、小岩は妙なことを言った。だから、急にその糸が切れたナナモはぽかんと小岩を見つめるしかなかった。

「大学から通知が来たからって、親に言われたんだ。でも、それって本当だと思う?それに親だったら寮がどんなところか気になるよね。一応、親世代では寮に偏見を持っている人もいるし、噂なんかも聞こえて来ただろうから。それなのに、なぜか、両親とも、選ばれたからって、その一点張りなんだ。だいたい、僕は団体生活が苦手だったんだ。だから、本当は寮なんかに入りたくなかったんだよ。両親もそのことを知っているはずだけど…」

 小岩の何かにスイッチが入ったのかもしれないとナナモは思った。しかし、あえてそのスイッチを探すつもりはなかった。

「この寮は一度入ったら卒業するまで出られないのですか?」

 ナナモは控えめに呟いた。

 その呟きが案外功を奏したのかもしれない。

「そんなことはないよ。僕達は囚人じゃないんだから」

 小岩は先ほどまでの小岩に戻っていた。そして、何も言わず小岩を見つめるナナモを見てから言った。

「なんだかね。居心地がいいっていうんじゃないんだ。だけども出て行こうと思わなくなったんだよね。いや、出て行こうと何度も思ったんだよ。でもね、そうこうしているうちに、迷路のように戻ってしまって、また、居座ってしまうんだよね」

 小岩に別のスイッチが入った様だ。しかし、今度のスイッチの方がナナモには安全なように思えた。

「でも先ほど団体生活が嫌だって、言われませんでした?」

 ナナモは今の小岩なら尋ねてもよさそうな気がした。

「個室だったんだ」

「個室?」

 どういうことだろうとナナモは思った。

「実は昔は四人部屋だったんだけど、さっきも言ったけど、団体生活するような世代じゃなくなってきたし、みんなこんなぼろい寮に入りたくないって、選抜制度はさておいてもやはり希望する学生が少なくなってきたんだ。だから、四人部屋だったのに、三人、二人と減って行って。それでも寮なんだから二人部屋は確保しようってことになったんだけど、誰かが、学年が違うと色々授業や実習ですれ違いが出るからって言いだして。それに、個室にしたとしても、部屋が足りないってことはなかったんで、知らず知らずのうちに、個室の方がいいんじゃないかってことになったんだよ。でもね、二段ベッドが二つ備え付けられていて、勉強机も四つあるんだ」

「どうしてですか?」

「また寮生が増えるんじゃないかって、うるさいOBが居て。それに寄付があるだろう。僕達も文句が言える立場じゃないから、本当は部屋が狭くて邪魔なんだけど、我慢しているんだ」

 ナナモはそんな寮って本当にあるのだろうかと思ったし、だから大学側は早く取り壊したいと思っているのかもしれないとも思った。

「ナナモくんが入寮したということは、あと六年は安泰だな」

 ナナモがこの寮に六年間住み続けるともはや決めつけている小岩は、この寮が気に入らなかったとは到底思えないほどの上機嫌で言った。

 ナナモは六年と言われて、ロンドンで暮らしていた日々を少しだけ懐かしんだ。

 あの六年があったからナナモは変われたのだ。ここに来たのももう一度変わるためかもしれない。

 ナナモの身体に稲妻のような妙な精気が走った。

 ナナモの過去はまだあやふやで現実の平衡感覚を失っていたが、身体はもはや凛としていてどこにでも行けそうな気さえした。

「ナナモくん、もうすこし色々と話してあげたんだけど、色々あって、今夜は徹夜で生化学の勉強をしなければならないんだ。キミの部屋はたぶん一○七号室だと思う。日当たりは良くないけど、仕方ないよね。そこしか今は空いていないから。ただ、鍵がかかっていると思うから、今夜はここで休んでくれない?」

 ナナモの思いとは裏腹に小岩は力の抜けた声で言った。

「あ、すいません。ありがとうございます」

 ナナモはそう言いながらも、四人部屋でベッドが余っているなら小岩の部屋に入れてくれないのだろうかと思ったが、ここまでナナモに付き合ってくれたし、徹夜で勉強をすると言っているのに邪魔は出来ないだろうと、なぜかソファーには毛布とクッションがあったので、ハイわかりましたと頷いた。

「きっと、明日、寮母さんから色々と言われると思うけど」

「寮母さん?学生が管理しているんじゃないんですか?」

「うん…、まあ…、そのうちわかるよ…。じゃあ、お休み」

 小岩はもういいだろうと欠伸をした。そして、部屋に戻ろうと踵を返しかけた。

「あの…」

 ナナモはここにきて何かを思い出したのか急に声を掛けた。

「まだなにかあるのかい?」

 短めの毛なのにまるでぼさぼさのパーマのかかった長髪をさわっているような仕草で小岩は振り向いた。

「ここは寮ですよね。だったら名前があるんじゃないんですか?」

 ナナモはどうして今頃になってそんなことを小岩に尋ねなくてはいけなかったんだろうと思いながらも自然と声が漏れていた。

「えっ、知らないの?」

 小岩は驚いたのか余計眼を丸くさせていた。そして、試験勉強のことなど忘れたかのようにこの部屋の隅に少し隠れていたホワイトボートを引きづってきて、「栄光寮」と、書いた。

 ナナモはその文字をしばらく眺めながら、エイコウリョウですよねと、ぽつりと言った。そして、それから、GLORYと発音した。

 小岩は意外にもナナモの発音にすぐさま反応して、EXACTLYと、答えてから、言葉を継いた。

「でもね、栄光寮なんだけど、昔からテンモンのエイコウ寮って呼ばれているんだ」

 小岩はもう一度ホワイトボードを引き寄せて、「天門の影光寮」と、記した。

 光は英語でLightだ。しかし、日本人の発音ではRightにも聞こえる。しかし、その意味は権利である。だから、ライトも悪くはない。でも、影はシャドウだ。でもシエイドかもしれない。シエイドなら少々厄介かもしれない。

 小岩は、今度は、あーあと、声を漏らしながら大きな欠伸をすると、もういいよねと言いたそうなほど、大きく手を振って、ナナモの前から消えてしまった。  

 ナナモは案外だだっ広い、ミーティングルームだと教えられた場所でソファーに座ることなくしばらく小岩が書いたホワイトボードの文字を見つめていた。そして、自分ではおそらく気付いていないし、誰にも指摘されなかったからかもしれないが、ナナモはまるで呪術師にでもなったように、天門、影、光、寮、大学と、それらの言葉がまるでつながっているかの様に、一人で何度も反芻していた。


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