(19)渡された装備品
「退部します。もう剣道なんかしません」
ナナモはそう言いたかったが今度は言えなかった。全国医学部剣道新人戦は盛況の中終了したが、あれから夕方まで意識を失ってベッドで寝込んでいたナナモは完全に蚊帳の外だった。
二度目なので血液検査はもちろんの事、心電図や脳のCT撮影まで行ったらしいが、何一つ異常は認めらなかった。
ナナモが目覚めた時には傍らに見知らぬ人が心配そうに顔を近づけてきたが、「ナナモさん」と優し気に呼びかけてくれたことにナナモがコクリと反応すると、安心したのかその場から離れて行った。きっと、その人はイチロウが指名したリーダー核のスタッフなのだろう。もしかしたらまだ仕事が残っているのかもしれない。それでも心配でナナモを見守ってくれていたのは、イチロウから特別な依頼があったからかもしれない。
「ナナさん、大丈夫ですか?」
フジオカがその人の代わりに病室に入って来た。ナナモは少し頭痛がしたが、それでもずいぶん自分ではしっかりしてきたのではないかと思った。
「大会は無事終わった?」
ナナモは身体を少し起こそうとしたが、フジオカに制された。
「ああ、終わりましたよ。ただし、タカヤマさんとサクラギはまだもろもろと仕事が残っているみたいなんで…」
フジオカは二人がものすごく心配していましたよと付け加えた。
「タカヤマは優勝したのかい?」
ナナモはまずなによりもそのことが知りたかった。
「残念ながら。でも、ナナさんを夏の大会で破った相手には勝ちましたよ」
フジオカはねぎらうつもりだったのだろうが、ナナモにはタカヤマは優勝出来なかったんだとそのことの方が気になった。
「サクラギは?」
フジオカはタカヤマの時とは少し間を置いてから、「二回戦どまりでした」と、ややトーンを下げた声で言った。そして、ナナモが尋ねないのに、「くじ運が悪かったのかもしれません。今回の優勝者でしたから。それでも善戦したんですけどね」と、口惜しさを隠し切れないようだった。
「優勝者って?サクラギより強い女性剣士がいたんだ。どこの大学?」
ナナモの何気ない問いかけにフジオカの顔色が目に見えて変わった。ナナモは意識が徐々にではあるがはっきりしてきたことも相まって、目の前にいるフジオカの結果を次に尋ねるべきだったが、ナナモがあの試合で感じた疑念を尋ねてみようと思った
「僕が戦った相手って女性だったのかい?」
フジオカは困った顔をして黙っている。しかし、ナナモはフジオカの答えをせかすようなことはしなかった。それにもうそのことで答えはわかっている。それでもフジオカもナナモが待っていることに絶えられなくなって、「ナナさんはやっぱり知らなかったんだ」と、重い口を開けた。
「今回の新人戦を行うにあたって、男女を分けないっていうことが、サクラギの強い提案というか要望だったんです。でも、なかなか賛同が得られなくて。最初は不参加の大学が結構出たんですけど、ナナさんのクラウドファンドのおかげで、遠征費や滞在費の一部が援助されることになったんで、それならとやっと重い腰を上げてくれたんです。それでも大学から始めた女子はやはり二の足を踏んでほとんどエントリーしてくれなかったので、サクラギは反対したんですけど、苦肉の策で女子だけはアットランダムで、一回戦から参加してもらうことになったんです」
フジオカはゆっくりとはっきりした口調でナナモに説明した。
「だから、名前も大学名も伏せて番号にしたのかい?」
「道具も実は控室で付けて頂くことにしていました」
あの人だったらそのくらいマネージメントできると、ナナモはつい先ほどまでいたリーダーのことを思った。
「でも、どうして、サクラギはそんなことにこだわったんだい?」
「サクラギはああみえてもとても心配性なんです」
「どういうこと?」
「だから女性としてですよ」
フジオカは慎重な物言いだった。
「サクラギは女性として将来きちんとやって行けるか不安なんですよ」
ナナモははじめすぐには分からなかった。だが、しばらくして以前サクラギが話していたことを思いだした。
「何か番号って味気ないですけど、確かにどこの大学を出ようが、男であろうが女性であろうが医師は医師ですから」
フジオカはサクラギの心情を代弁した。
「でも、僕は知らなかった」
「そうですね。でも、知れば、ナナさんはフェアーに戦えましたか?」
ナナモはフジオカに言われて返す言葉がなかった。しかし、他の大学の男性はその事を承諾したのだろうか?
フジオカはナナモの疑念に、経験者なら立ち合いで男性か女性かひと目でわかるからと説明してくれたうえで、サクラギの提案に賛同してくれたと言った。だから、未経験者にはそのことは伏せて参加してもらったし、経験者は力技以外竹刀さばきでは決して遠慮しなかったらしい。
「あの時のナナモさんの面はものすごく早くて重たかったようですよ。かなりあの後痛がっていたってサクラギがこっそり僕に教えてくれましたから」
ナナモがあのとき面越しの顔を見て一瞬身体を止めたように、相手も身体を止めたように思った。だから、ナナモは一本取ることが出来たのだ。
「でも、このことはサクラギには内緒ですよ」
フジオカはちゃめっけのある笑顔を添えて言ったが、ナナモは相手がナナモの何を見て身体が止まったのだろうか?と、その事が気になった。
名前も大学も今は知る術はなかったが、彼女はもしかしたら継承者を目指す選ばれた人だったのかもしれないと、王家の継承者にはハーフであろうがなかろうが、男であろうが女であろうが関係ないというアヤベの言葉が脳裏をかすめた。
でもそうだろうか?だから、心が乱れて、不安定になって、声が聞こえたのだろうか。
ナナモはその言葉を反芻しようとした途端、急に頭痛がした。だから、フジオカがまだ何か話していたのに全く聞こえてこなかった。
横風がまったくないのにほんのりと肌寒く、星がほとんど見えないのに月だけはまじかで大きく輝いている夜だった。それでも、クレーターの跡までは見えない。雲ではない何かが邪魔しているという不気味さで覆われていたからだ。
何事もなかったかのように体調の戻ったナナモは剣道大会も終わったあとの悔しさに縛られることもなく、一刻も早く苺院へ向かわなければならないという衝動で苛まれていた。
だからどのような月夜でも待ち遠しかった。
「いらっしゃい」
アメノがいつものようにナナモを迎え入れてくれる。しかし、着物姿ではない。エプロン姿だ。和装に慣れて来たところだったので、ナナモはもしかしてと思いながらも、神木のタブレットを起動させた。
「ナナモは特別授業の方が生き生きしておるんじゃのお」
久しぶりに会うカタリベが眩しくて思わず顔を背けてしまった。
「ハルアキ師は?」
ナナモはゆっくりとタブレットに瞳を戻すと、カタリベに尋ねた。
「今日は休講じゃ。それよりもわしに話があるのじゃろ」
まさしくそうだった。しかし、ハルアキの意見も聞きたかった。
「何じゃと、わしを差し置くというのか?」
わざとだと、ナナモは目じりをあげて怒りを表わすカタリベを見てそう思った。それに、ナナモが気にしていることももはや知っている。だから、カタスクニにはいかせないようにアメノにエプロンを着せたのだ。
「ナナモは何時から、コトシロになったのじゃ」
笑顔こそないがいつもの表情に戻ったカタリベはナナモを諭すように言った。
「お前さんのそういうところが穢れなんじゃよ」
ナナモはハッとした。
「また、オンリョウに意識をもっていかれよって、ハルアキから何を学んでおったのじゃ」
あれは剣道の相手が女性だったから心が揺れてしまったのだ。でも確かめたわけではないし、もうひとつの疑念を覚えたからだ。
「僕が戦った相手はクニツカミだったのですか?」
ナナモから言葉が漏れた。
「そんなことはわしは知らん。継承者には各々のコトシロがついているからのお」
確かにそうだが、カタリベもそうだとは聞いていない。
「でも、あの時、僕はたしかに心が揺れ動いたかもしれませんが、不誠実でも、穢れを感じたわけでもありません。だから、思い切って竹刀で打ちこむことが出来たのです」
「打ち勝つどころか、意識を失ったがのう」
カタリベの嫌味な言い方は、真剣なら真っ二つに切り裂かれていたということを暗に含んでいる。
「良いか。異世界でナナモがもし傷つけば現実の世界でも傷つくのだ。その事はもう一度胆に銘じておかなければならない。それに剣道の修行をしているが、まだまだ課題が多いし、全てを剣道に委ねてはならない。だから単純に突進することは、ナナモがあの時行ったことと同じなんじゃよ」
ナナモは急に「あの時」と言われて胸が締め付けられた。
「剣よりももっと強い力もあるのじゃ。それはとても単純なことで、穢れたくない、穢れから解放されたいと思う弱気な心を利用するだけのことなんじゃが、一度大きな唸りとなれば、全てのものをなぎ倒し、ひれ伏せさせる魔物となるのじゃよ。しかし、ままならぬものではない。だからカミではない。それなのに、カミとして敬ってしまう」
「オンリョウ!」
ナナモの呟きはある記憶に集約される。あれは確かハツセの港市場…。
ナナモはどんどん小さくなる輝ける粒を掴もうとするがその粒は不規則に動き回わる。それでもナナモは執拗に追いかける。そしてあと一歩で手が届くところではじけて消えた。
「ナナモは今王家のしきたりを習っておるんじゃろ。それはナナモ自身を守ることじゃが、穢れに自らの力で打ち勝つことでもあるのじゃよ。それは時には剣を用いることもあるかもしれないが、まず知恵を用いることじゃとわしは思うのじゃ。ナナモはある意味剣の持つ力の恐ろしさを経験したはずじゃが、あれは夏期講習だったからのお」
もうひとつの蝋燭の炎が点いたのかかすかに目の前で揺れている。
「よいか、王家は皇家の影となりタミを救うのじゃよ。それはもう何度も聞いているはずだが、全てのことが出来るわけではない。だから、継承者が多く必要になるのじゃよ。その事はもはや知っておるな」
ナナモは頷いた。
「現実であれ異世界であれ、タミは複雑な世界を創っておる。それなのに、そのうねりは単純なことがきっかけで生まれる。じゃがな、単純なことほど根が深いものなのじゃよ。ナナモよ、オンリョウに打ち勝つためにはその根を見極めることなのじゃ」
眉間に皺を寄せることはなく、珍しく物静かに淡々と諭すように話すカタリベはまるでハルアキに教えを説く最高位のマスターのようだ。
「じゃがの、いくら知恵があっても丸裸ではのう」
ナナモの思いに背中がかゆくなったのかカタリベはいつものように大げさに顔を崩しながら言った。
「特別授業は今日は休講じゃ。その代わり、臨時の授業を受けてもらう。特別の特別授業じゃ。良いか。もう一度言うぞ。剣すなわち道具に頼るのではないぞ。知恵をまず使うのじゃぞ」
最後にそう言うと、カタリベはナナモの目の前でまだなんとか踏ん張って灯っていた炎とともに消えた。
ナナモはカタリベがいなくなって、代わりに誰が現れるのだろうと真黒になったデイスプレイをしばらく見つめていた。しかし、いくら待ってもなしのつぶてだった。
ナナモは妙に緊張していたのか気が付かないうちに両手でタブレットを強く握っていたようだ。だから大きく深呼吸してからゆっくりとタブレットを机の上に置いた。
どこからかいつもと異なる香りがする。暖炉横で甘美に舞う踊り子のような香りだ。ナナモは思わず目をつぶりしばしその踊りに酔いしれる。しかし、香りの霧の中から誰かが来る。きっと幼い踊り子ではく、大人の踊子だろう。ナナモは目を見開き、人影が少しずつ大きくなってくるのをただひたすら待っていた。
アメノだ。上半身を微動だにせずにトレイを持って近づいてきた。そして無言でナナモの目の前にそのトレイを置いた。土色の陶器のカップの傍らにはおしぼりと透明なガラス容器に水が入っている。ナナモはその意味を十分に理解した。
禊ぎなのだ。
ナナモはほんのりと湿り気の残るおしぼりで両手を拭うと、ゆっくりと真水を口にした。そして、柏手を打つようにそれでもゆっくりと手を合わせ、目を閉じ一礼してからカップの中の琥珀の液体を口にした。珈琲の味がするし、色もそうだ。しかし、そんなことは関係ない。これは神水なのだ。
神水が染み拡がって行くにつれナナモの身体が少しずつ消えて行く。しかし鉛筆で珈琲色に塗りつぶされるのではない。神水で清められて透明になって行くのだ。そして、最後の一滴になった途端、急に光り輝きだしたデイスプレイの中にナナモは波紋を拡げながら入って行った。
ナナモは何時しか重苦しいが、ずいぶん広い部屋の中にいた。ほんのりと冷気が漂う中、四方は全て荒削りの石で出来ていて天上も案外低い。それでも、窓も灯りもないのに、まるで石壁から光の粒子が飛びでてくるかのように明るかった。
「ここは異世界ではない。カタスクニだ。僕はまたここに戻って来たんだ」
ナナモの直感が呟きとなってしばらく部屋中を共鳴していたが、急に石壁が吸収したのか無音になった。
その瞬間、ナナモの目の前には石壁を素通りしてきたのか誰かが現れたが、石壁から放たれる光の粒が影を作ってはっきりと姿を捉えられない。
「久しぶりですね」と、声がする。聞いたことのあるようなないようなそれでいて心が落ち着く声だ。でも、久しぶりだと言われたが、以前どこかで会ったのだろうか?ナナモは瞳を閉じ記憶の箱を探した。箱はいくつもあるが整理されていないしまだ無造作に置かれている。しかし、どこかの箱にはきっと入っているはずだ。ナナモはしばらくじっと動かず気を集中させた。
光っている箱がひとつある。ナナモは慌ててその箱を取り上げると静かに開けた。
ナナモの脳裏には走馬灯のようにある光景が浮かび上がる。雷鳴、古墳、そして会議室と、そして最後に現れた人物、確かオオタタと名乗っていたような気がする。でもはっきりとはしない。それに声は箱から漏れ出てこない。
ナナモは一切身動きせずに待った。すると、その誰かが近づいてくるにつれ光の粒は弱くなる。そしてついにナナモの目の前にその姿をはっきりとさせた時、箱の記憶とは全く異なった顔だちの男性が立っていた。
ナナモより年長の成人だ。長身で手足が長い。鼻はナナモと同じように高いし、瞳も少しくぼんでいるが、肌は浅黒く頬がこけている。
ハーフなのだろうかと一瞬脳裏を横切ったが、ここはカタスクニだ。それにナナモに授業をしようとしているマスターだ。ハーフであるわけはない。ナナモは首を横に振りながら自らそう納得しようと思ったが、そう思いながら、ハーフであるナナモ自身も今カタスクニにいて、王家の継承者になろうと講義を受けている。マスターもそうであっても不思議ではない。
ここは異世界だ。オオタタが姿を変えて現れても不思議ではない。それにナナモの視覚が全てとは限らない。現にナナモの開けた記憶の箱にはオオタタが居たのだ。
でも、オオタタは冠を被り、全体にふわりとした余裕のある布地に足先まで幾重にもギヤザーのついたワンピースを着ていて、腰に巻いた革製のベルトに細長い直刀を差していた。しかし、目の前の男性はスーツ姿だ。それも紺の生地に白のストライプが入っている。当然冠などないと思っていたら、あれ、オオタタと同じように袋状に平たい冠を付けている。それに腰にはやはり直刀が思ったが、その男性は棒状のものをスーツの内ポケットから取り出すとナナモに向けた。
もしかして、魔法の杖なのか?でも、ここは日本だ、それにカタスクニでもある。魔法の杖が存在するわけはない。日本の神様が杖で呪文を発して魔法をかけるなんて聞いたことがない。だいたい神様の声を聞いたことがない。だからコトシロがいて託宣を伝えるのだ。
ナナモはそうですよねアヤベさんと、独り言を発するために声帯を振るわせようと力んだ途端、その杖は、花束と代わって、殺風景な石の部屋に華を添えた。
「あなたは?」
ナナモはずいぶん遠回りしながらも声を出した。
「お忘れでしたか、しかし、致し方ありませんね。あの時、ナナモさんは八倍加速で私の講義を受けなければならなかったですからね。それに急な任務だったのですかね。私の所にコトシロがやって来るなんて珍しかったので、私も驚いていたのです、それに何か朦朧としていたというか、驚かれたのか心ここにあらずというようなお顔だったので、私の八倍速の講義を十分ご理解いただけたのか少し気になっていたのです。あの時の講義は役に立ちましたか?」
一方的に話してはきたが、奥まった眼は案外優しげだった。
「あの…」
ナナモはやはり思い出せなかった。しかし、なぜかそのことを言いだせないでいた。
「ハダと申します」
うじうじしているナナモにハダはしっかりとした声で自己紹介した。
「ジェ、ジェームズ・ナナモです」
ナナモも慌てて名乗るとなぜかハルアキの時はしなかったのにぺこりと頭を下げてよろしくお願いしますと言った。
ハダから物凄く圧を感じたわけではなかったが、ナナモはこれまでとは違い襟元を正さなければならないと思った。その理由ははっきりしないが、唯一そう感じたのは、ハダをやはりハーフだと思ったからかもしれない。
「ここは?」
「やはりお忘れですか?だったらあの時の講義はお役に立たなかったのかもしれませんね」
ハダは困った顔をしたが、自分の鼻先を人差し指で軽く触った。すると床だと思っていた石壁が急に上がってきて、テーブルとなった。
「ここはカタスクニの装備の研究所です。私はその担当責任者をしています」
「研究所?」
ナナモは改めてハダに言われたがそれでもピンと来なかった。
「ナナモさん左手の手掌をここに置いてください」
ハダが机の真ん中を指示した。ナナモは戸惑うことなく言う通りにした。
すると、拡げたナナモの手の甲から光が漏れて来る。その光は次第に強くなった。しかし、熱くはない。それどころか何も感じない。しかし、ナナモはその不気味さに我慢できなくて、思わず今まで置いていた石製のテーブルから手を放した。すると、光は消え代わりにナナモの手掌の形の部分だけ石の表面が沈んでいく。ナナモは思わず覗きこもうとしたが、再び手掌の形で光が飛び出してきた。ナナモは眩しさを避けようと手をかざし、瞳を閉じた。
「目を開けてください」
ハダのしっかりとした声に促され、ナナモはゆっくり瞳を開けた。強烈な眩しさではないが、何かが光っている。ナナモは今度は慎重に覗きこんだ。すると手掌の形で少しへこんだ石の中にナナモの姿が浮かんでいた。
「神水?」
ナナモは手水舎なのかと思った。しかし、ハダのかすかなクスクス音が聞こえる。
「鏡ですよ」
ハダはナナモに言った。
「鏡?」
「そうですよ。まだ思い出せないのですか、三角縁神獣鏡ですよ」
ナナモはハダの声に瞬時に反応して鏡を手にした。手掌にすっぽり入る程度の大きさだが、ナナモのスマホよりよっぽど軽かった。
ナナモは鏡の裏側を見た。何やら装飾が施されている。榊の様であり、葵の様ではあるが、見たことがあるようなないような木の葉が装飾されていて微妙に動いている。だからある時は五角形で結ばれていたり、ある時は六角形で結ばれていたりする。そして、うっすらと木の葉にかかる雲間を何か動物が飛び移っていくように思えた。
「三角縁神獣鏡はその持ち主の心情に合わせて模様が変わるのです」
でもきっとその基本は変わらない。だからあの時石造の社の鍵穴に鏡が入り込んだのだし、アスカへの道しるべをウサギがしてくれたのだ。
ナナモは再び鏡を裏返した。
ハーフの青年がそこに居る。父は日本人だが母はイギリス人だ。嘗てその青年は少年だったころに、ジェームズ・ナナモから逃れたくて自ら命を絶とうとした。しかし、両親が助けてくれたのだ。いや、そう信じている。だが、二人が今どこで何をしているのかわからない。生死すらだれも知らないし、教えてくれない。そしてその青年は今こうして生きている。確実に大人として成長し、何かを掴もうともがきながらも前に進もうとしている。それは運命だったのか、はたまた使命だったのかわからない。けれど、生かされた命をもう粗末にしない。それは青年の決意だ。
鏡の中のナナモが手招きしている。ナナモが何かを触ったわけではない。それなのに、その手巻きされる方向にずんずん進んで行く。ナナモは道すがら記憶の風景が目に飛び込んできた。
そうだ。この三角縁神獣鏡が幾度も異世界にいたナナモを救ってくれたのだ。ナナモはしばし立ち止まりながら、蘇った記憶と完全に重なって沸き起こって来る感慨にしばらく浸っていた。
しかし、ナナモがしばらく歩いているとナナナモは男性にぶつかった。思わずハッとする。ついさっき会ったような気がする。
ハダ?
ナナモが話しかけようとした途端、首根っこを摑まえられて、引きづりだされた。
「僕は…」
「鏡の世界に閉じ込められかけたのです。やはりこの鏡の使用法についてきちんと理解してくれていないのですね。だったらこれも」
テーブルの上にはモスグリーンの十二個の勾玉でできたブレスレッドと腰に巻きつけられるほどの大きさの真っ白な袋が置いてあった。
「時計と禊ぎ袋だ」
ナナモはすぐに声に出していた。しかし、記憶より袋はずいぶん小さい。でもきっと、少し手で拡げれば大きなリュック程度に膨らむし、小さくてもナナモの汚れた服をすべて詰め込めるだけでなく、真新しい服が詰め込まれているに違いないと確信した。
「勾玉は手首にはめられるように小さくしましたし、袋もずいぶん小さくしました。この二つの機能についてはご存知なのですね」
ナナモはハイとはすぐに言えなかった。何故なら教えてもらったのではなく、自らの経験で学習して理解しただけだったからだ。だから、もし、他の機能があれば教えてほしかった。
ナナモは心の中で念じたが言葉にしなかったからかもしれないが、ハダは黙ったままだった。その代わりボールペンほどの大きさの木の棒を上着の内ポケットから取り出した。
かちゃかちゃとまさしくボールペンのような音がする。スパイ映画ならレーザ光線が出たり、マイクやカメラになったり、時限爆弾になったりと尽きることのない役割を果たすが、ハダがペンのようにテーブルに当てて走らすと、スミのような液体で文字が浮かび上がってくる。
「ナナモ」、ただし、カミヨ文字だ。
ハダの読めますねという目の合図に、ナナモも黙って頷くことで答える。そして、それだけですかというナナモの口をわずかに動かす合図に、ハダは口をへの字に曲げるだけだった。
そう言えばこれまで文具がなくて困ったことがよくあった。奇跡的に暗記で乗り切ってきたが、やはりペンがある方が便利だ。ナナモはハダから渡された木の棒をペンを持つように掴んだ。
ずっしりと重い。しかし、すぐに重みが消えて行く。その上、身体に何かが伝わって来る。精気の様だ。
きっと、この何気ない木の棒は神木なのだ。そう言えば、少ししっとりしているが、今かんなで削ったように表面は滑らかだった。それにほんのりと森の香りがするし木漏れ日のようにかすかに光が映る。
ナナモはメモ用紙の様なものはないのだろうかと思った。しかし、ハダはナナモが何も言っていないのに、紙は高いですし、書いた文字は残りますからねと、ナナモを龍の目玉の様な瞳でじろりと睨んだ。
まあ仕方がないと、それなら三角縁神獣鏡の使用法だけでも早く聞きたかった。
ナナモの思いが誰かに伝わったのかわからないが、ハダはその誰かに肩を叩かれたかのように一度後ろを振り返りうんうんと頷くと、口を開いた。
「ナナモさんは皇家に伝わる三種の神器についてご存知ですか?」
「えーっと、確か…、鏡と、剣と、勾玉でしたよね」
「正確にはヤタノカガミ、アマノムラクモノツルギもしくはクサナギノツルギ、ヤサカ二ノマガタマと言います」
ハダは一音一音よどみなくはっきりと言ったが、声に出さずに復唱しただけなのにナナモは思わず舌をかみそうになった。
「それらは皇家に通じるカミが、国譲りのあとに皇家とカミとのつながりを示す為に皇家に授けたものです」
確かそう習ったように思うがナナモの記憶ははっきりしなかった。
「しかし、実は鏡も剣も勾玉も国譲りの前の王家にも存在していたのです。もちろん皇家の三種の神器はカミ様の持ち物なので神聖なものなのです。したがって、王家のものとは異なりまし、国譲りの時に王家が皇家に差し出したものでもありません。それに王家も皇家の三種の神器についてはじめはその存在すら知らなかったのです。ですから、王家の継承者の学びの器具として、その利便性を高め改良し、今まで受け継がれてきたのです」
「だったらどうして剣がないのですか?」
ナナモは尋ねた。
「ツルギは争い事を引き起こします。国譲りはもはや争い事をしないというカミの意志ですから皇家と王家はツルギをお互い封印したのです」
でも、僕は確かあの時…。ナナモは声にはださなかったし頭痛もしなかったが、大きなツルギを手にしていた記憶は確かだった。
「それに、ツルギだけは特別なのです。ナナモさんはコジキの話しを聞かれたことがあるでしょう。ツルギはもともとどこにあったのかご存知ですよね」
ハダはナナモを気にせず尋ねた。ナナモは知らないと眼で合図した。
「ヤマタノオロチを退治した時に出て来た神剣なのです。そしてその神剣は地上の世界を統治するものに与えられたのです」
ツワノモが持っていたんだと、ナナモの声は心の中で大きく響いた。でもだったら、どうしてツワモノが持ち続けられなかったんだろうと、ナナモは首を傾げた。
「ウケイを行ったのです」
「ウケイ?」
ナナモは声を出していた。
「カミの意志を尋ねようとする占いです。しかし、コジキではその結果は示されていません。だから、クサナギノツルギは、三種の神器のひとつとして皇家に伝承されていますが、ウケイによっては現れたり消えたりするのです」
ウケイがカミの意志なら、それはオンリョウと関係があるのだろうか?確かにオンリョウはカミではないが、カミと深いかかわりがある。だからあの時僕の手にツルギが急に現れたのだろうか?
「ナナモさん。王家は皇家をタミから守る使命があるのです。しかし、皇家は陽で王家は陰です。それにまだ継承者でもない学びの途中であるナナモさんが武器でもあるツルギにあまり深入りしない方が良いのかもしれません」
ナナモの声がどうして聞こえたのかわからない。もしかしたらまた誰かに肩を叩かかれたのかもしれない。
ナナモは納得できなかったが、ハダの目力でそれ以上は尋ねられなかった。
三角縁神獣鏡のことですけど…、と、ナナモは何とか本題に戻そうと両手両足を使って目力を押し返した。
「ああ、そうでしたね。ずいぶん本題から外れてしまいましたね」
ハダは急に肩の力を抜いて話を続けた。
「簡単にいうと、スマホのようなものです。だから、その主な機能は通信です」
「誰かと話せるのですか」
「ハイ、カタスクニに連絡することもできます」
「どうやって」
「鏡に、相手を念じるだけです」
でも、ナナモは何度かそうしたが何も起こらなかった。
「ただし、学びの途中ですからナナモさんの思いが通じない時もあります」
そうか、そういうことかと、先ほどから入れ知恵する人物がはっきりとハダの後ろに見えるような気がして来た。でも、そう思っていることも読まれている。しかし、ナナモは気にしなかった。
「僕の鏡がスマホなら遠隔操作されることもあるのですか?」
だからナナモはたぶんそうだろうと思いながら尋ねた。でも、それだけでも安心だ。なぜならナナモは守られていることになる。
ハダは、さあと、最初はとぼけて見せたが、今度はあからさまに相談するように後ろを向いてコソコソと口を動かした後に、探索機能は付いていますと、言葉を濁しながら言った。
「しかし、通信障害が起こることはあり得ます」
ハダははっきりとした口調で言った。それには厳格さがあった。もしかしたらオンリョウが妨害するのかもしれないという意味なのかもしれない。
ナナモは異世界で行ったことであってもナナモが傷つけば現実のナナモも傷つくというコトシロとカタリベの言葉を思い出した。
「スマホと同じように色々な機能を用いるためには三角縁神獣鏡にアプリを入れなければなりません。先ほども言いましたがナナモさんはまだ学びの徒ですから、多くのアプリが入っているわけではありません。しかし、きっと役立つはずですし、今後少しずつ増えて行くことになるでしょう。私は今からその機能について説明します。それが私に課せられた臨時の授業なのですから。でも、あまり時間がありませんし、多くのことを学んでいただかなければなりません。ですから、今日も八倍速で話しますよ。落ち着いてよく耳をそばだてて聞いてください」
ハダは初めて大きな瞳を閉じるように目じりを下げて微笑んだ。そして地図アプリとして行き先案内の機能についてまず説明し始めたナナモはすでに知っていたが、どのように機能をスタートさせてよいのかわからなかったが、その事を聞くと、また、念ずるのですとしか答えてくれなかった。ナナモは地図アプリなら、今どこに居て、どのルートをたどれば、どのくらいの時間で目的地に着くのかを示してくれないのですかと尋ねたが、異世界ですからと、一蹴された。
あまり、参考にならないなと思っていると、ハダは次にあの筆記用具を鏡になぞることで鏡に文字が記憶されることを話し始めた。ナナモにとって初めて聞く機能だ。鏡ならお金は要らないし、紙ではないので残らない。ナナモはカミヨ文字ですかと念のために尋ねると、もちろんですと、もしナナモが聞かなかったら教えてくれなかったんだとゾーっとした。でも、それなら、声を録音する機能の方がよほど簡単なのにと思いながらも、カミヨ文字に意味があるのですとハダは目で訴えかけてきたし、筆記用具自体にそれ以外の機能もあるんだと言いたげだった。
「でも。文字に出来るということはそれから色々なことができますよね、例えば検索とか、翻訳とか」
ナナモが尋ねた瞬間、滑舌よく説明を続けているハダから声だけが急に消えた。ナナモは最初ハダに聞こえませんと、えーっと、かすかな声で反応したが、そのうち耳に手をかざして、相手に聞こえていないことをアピールしてから、最後には大きく手を振ったり、身体を触って揺らそうとしたりした。しかし、ハダは全く気付かない。ナナモの大声も聞こえない。だからか、先ほどの微笑みは消えていたが、それ以上に真剣なまなざしで一生懸命自分に課せられた責務を果たそうとしていた。
ナナモとハダの間には透明な仕切りで隔たれている。もしかしたら、装備の研究所の担当責任者ですら教えられていない神域にナナモの心だけが離脱しているのかもしれない。
ナナモはなぜ一度説明を受けたと言われていたのに鏡と勾玉と袋についての記憶がなくなっているのか考えた。あの時、初めてナナモと会ったハダは八倍の倍速で説明などしていなかったのだ。普通の速度ではっきりと丁寧に話してくれたのだ。しかし、誰かが今とおなじく音を消したに違いない。まだあの時のナナモが時期早々と考えたのかもしれない。しかし、コトシロやカタリベがナナモの邪魔をするわけがない。
では誰が邪魔したのだろう。ナナモは離脱した神域でしばし考えた。
そうかここはカタスクニだ。ナナモは学ばなくてはならない。そして、ここにはコトシロやカタリベ以外にもナナモを、王家の継承者であるオホナモチに育てようと厳しい目で睨んでいる誰かがいる。ナナモは先ほどからずいぶん開け放された記憶の箱をもう一度探してみた。そしてその一つにようやくたどりつき、覗こうとした時に物凄い頭痛が襲ってきた。ナナモは思わず目を閉じた。それでも何か霧の中で巨大になったヒト影がたちはだかるような殺気は感じる。ナナモは何とか目を開けようとしたが、やはり無駄だ。まるで荒れ狂った巨大台風が立ちはだかってくるようだ。ナナモは鏡を持っている。だから何とか角度を調整しながら鏡越しに影を捉えようとした。
「ツワモノ!」
ナナモの甲高い声は、台風がハダを連れ去ったあとの静寂の中で、虎の叫び声のようにしばらく石室の中で重く共鳴していた。




