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ジェームズ・ナナモと格子の迷宮  作者: まれ みまれ
18/33

(18)神在り月の新人戦

「ナナモ君は古文の授業をきちんと受けたことがないっていっていたけど、それでは試験の時はどうしていたのだい?」

 オオトシは時々ナナモとの英語での会話に疲れると、これは古文に関係することだからと、一息つくことがあった。

「もし、記述式だったら、僕はまったく答えられなかったと思うんですが、共通テストは選択ですから、答えが問題に書いてあるんです。だから、まぐれでももし正解を選べば答えられたことになるんです」

「で、うまくいったのかい?」

「今年の共通テストはダメでした。そううまくはいきません。それでも源氏物語からの一節だったので、少しは気が楽でした」

 ナナモは論理的に国語の問題を解く術を磨いていたが、それでも全体の文章が分からなければ無理がある。結局答えにたどり着けなかったが、それでも二択までに絞れたことははじめてだった。

「源氏物語を読んだことがあるのかい?」

 オオトシの目が一瞬輝いた。

「いいえ、本文も解説文も現代語訳も読んだことはありません」

「それじゃあ、どうして源氏物語の一節だってわかったんだい?」

 オオトシの瞳から輝きは消え、首をかしげる仕草に変わった。

「マンガです」

「マンガ?」

「叔母に言えばきっと溜息をつかれたでしょうが、国語嫌いの理科系志望者が古文に触れる最初のステップだと、僕は初めての夏期講習で教えられたんです」

 ナナモはもう一つのこととも重なってカリンの事がはっきりと脳裏に映った。

「マンガだと文法はわからないだろう」

「はい。でも、僕にはどのような話しなのかがまず大切ですし、何よりも僕はロンドンに居たので、全く日本のことが分からなかったんです。だから、源氏物語ってどういう話でどのような人物がいて、そして、なによりもこの時代にはどういうことが今と違って日常で行われていたかを知る近道でした」

「庶民の暮らしとは違うけどね」

 オオトシは苦笑いで言った。

「古文というくらいだから、本当は文字を拾って行かなければならないんですけど、日本の国語も十分理解できていない僕がいくら源氏物語に挑戦しようと思っても、最初の一行目を行ったり来たりするだけで、結局全く前には進んでいなかったんです。でも、マンガだと眼から物語が入って来ます。そうするとだいたいの流れがわかって来るし、文法が分からなくても所詮は日本語だから、何となくのワードとかからどのような場面だったかを連想することが可能になるんです」

「イメージトレーニングかい」

「まあ、そういうものかもしれません」

 オオトシは古文に対してもっと思い入れが強いだろうから、受験のためとしてもイメージトレーニングとあっさり言われたことに何らかの思いを抱いたのかもしれない。しかし、だからと言ってナナモを非難することはないということは、もしかしてオオトシは数学に対しておなじような考えを持っていたのかもしれない。

「で、漫画の源氏物語をどのように思ったのだい?」

「ロンドンから東京に戻って来た直後だったんで、まったくピンときませんでした。それにだから何かファンタジーのように思えて…」

 ナナモはマンガで描かれている現代風の美形男子に違和感を覚えざるを得なかった。なぜなら、何となく自分を見ている様に思えたからだ。そして、僕はあの時…。

「ファンタジーか?そうかもしれないな。恋愛小説っていう人もいるけど、それだけではないし複雑な人間模様に翻弄される主人公はある意味悲劇的だからね」

 オオトシはナナモの心が揺れていることに全く気付くこともなく、まるで物思いに耽っているかのように呟いた。

「和歌は?」

 二人の間に静寂が時を刻んでいたが、オオトシは思い出したように言った。ナナモはすぐにいいえ知りませんと答えようと思ったが、何かがナナモを引き留めようとする。

「メールですか?」

 ナナモはなぜそう答えたのかわからないが、和歌はメッセージだと何となく思った。

「メール?そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないな。でも、それじゃあ、ナナモ君は源氏物語の登場人物の微妙な心持ちの変化が読み取れていないんだね」

 ナナモはオオトシの意味することが分からなかった。

「いずれにしても文法が分からなければ誤訳してしまう。でも、文法ばかりだと確かに眠くなるね。本音で言うとナナモ君は僕が教えている文法が退屈だったのかい?」

 オオトシは和歌についてもまだ何か言いたそうだったが、ナナモの反応をみたからかもしれない。

「もし、受験生なら寝ていたかもしれませんね」

ナナモは笑いながらそれでも言葉を継いだ。

「でも、受験生ではないですから。それにきちんと源氏物語を読んでみたいですし」

 ナナモは本当にそんな日が来るのだろうかと思いながらも今はそれまでの努力を止めようとは全く思わなかったし、もし、可能ならオオトシとこの時代の言葉づかいで話せるようになったらなと夢想する余裕すらあった。

「確かに文法ばかりだったら退屈するね。でも、ここを乗り越えないといつまでたっても古文になじめないからね」

 オオトシの言い方には学校の先生の諭しと、国文学に対しての愛情が同居していた。

「でも、せっかくだし、ナナモ君も興味がありそうだから、これからは源氏物語を中心に文法の勉強をしてみようかな」

 ナナモに断る理由はなかった。

「ところで、古文とは関係ないんだけど、僕の話している英語は文法的に正しいのかな?」

「前にもお話ししましたが、僕はきちんと英語学を習ったわけではありません。だから、経験でおかしいと思った時だけ訂正しているはずですし、発音が大切ですから」

 ナナモは何かを考えているわけではない。会話は母との記憶だし、サマーアイズでの思い出に過ぎない。

「それより、オオトシ先生は僕が話していることがちゃんと聞きとれていますか?文法よりも発音よりもまず相手の言っていることがわからないと会話になりませんから」

「きっと、ナナモ君はゆっくり話してくれているからだと思うけど今のところはね」

 ナナモは出来るだけゆっくりとはっきりと話してあげていた。それはイチロウの英会話リモートで学んだ経験が大きい。それでもきっと聞き取りづらいことがあっただろう。しかし、オオトシはわざと会話を中断させようとはしなかった。その方が良いと判断している。でも、それも時と場合による。実際の会話では日本語のように単語を一文字一文字はっきり発音することはない。それに早口だ。だから確認することも必要だ。慣れ親しんだ言い回しで決まりきっていることもあるので、しばらく英語圏にいたら慣れるのだけど、自信満々で乗り込んだ人ほど一度落とし穴にはまったら抜けだしにくい。

 でも、オオトシは医師だ。その根源は医学という科学についてだ。だから、多少会話がちぐはぐになったとしてもいじめられることなどないだろう。

 僕だってと、ナナモはサマーアイズに通い始めた時のことを思い出して苦笑した。

「どうかしたのかい?」

 ナナモは、そのやんわりとした物言いに思わずルーシーがタブって見えた。

「オオトシ先生が、留学先でしばらく生活できたらもっと早く英語が自由に話せるようになるんじゃないかなと考えていたら、もし、僕が源氏物語が書かれた時代にタイムスリップ出来たら、おなじようにもっと文法に慣れ親しんで、文法が分からなくても相手の意志がわかるようになり得るのかなあとつい想像してしまったんです」

 やはりオオトシはルーシーとは似ても似使わない。

「ファンタジーの世界だね。でも、ある程度の素養が必要かもしれないけど、一日中いたら、否が応でも何となく頭の中に入ってくるかもしれないね」

 ナナモはそうかと黙って頷いた。

「でもね、日本とイギリスとの文化や生活様式が違うように、源氏物語の世界は貴族世界だよ。僕達が生活しているような庶民的な世界とは違うんだ。だからね、古文の場合はきちんと昔の歴史的背景を知らなければならないし、王宮のしきたりに通じていなければならないんだよ」

「しきたり?」

「貴族のですか?」

「皇家のしきたりもだよ」


 ナナモはカタスクニでの特別授業が始まってから急に一日が濃くなった。というよりも、学ぶべきことが多くなって、ナナモの頭の中は今にも爆発しそうな勢いで膨張し続けていた。それでもナナモが平常心を保てたのは、大学の講義も、特別授業も、古文の学習も、その全てがナナモにとって新鮮であり、向上心が潰えなかったからだ。それでも、夜中についオオトシと話しこんでしまった朝はつらい。だから、参拝を済ませ、朝食を済ますまでのギリギリの時間が何とかならないだろうかと、もし、参拝さえなかったらもう少し寝られるのにと、あれこれと思いを巡らしていた。もし、カミ様を祀ることもひとつのしきたりだとハルアキに教えられなかったら、そしてナナモより早起きして研究室に向かうオオトシの姿勢を見なかったら、自分に喝を入れることもなく、また揺れ動いていたかもしれない。

 ナナモはヌノさんの学生のためにわざわざ栄養を考えてくれているのか色々な具の入っているお味噌汁を出来るだけ目立たないように、そして十分感謝しながらそれでも慌てて口の中に放り込むと、食べ終えた食器を返す為に台所に向かった。丁度その時、今目覚めたところなのか、それとも一時間目の講義が珍しく休講になったのかわからなかったが小岩が大きな欠伸をしながら、拳を握る片方の腕をめい一杯突き上げ、もう片方の腕の肘を曲げながら後方に引く、全く似ていないがヒーローが良くやるポーズをしていた。

 ナナモは寮生である小岩が剣道部の先輩であるので、おはようございますと声を出して挨拶したが、ポーズは辞めていたが相変わらず欠伸を繰り返す小岩から最後にあることを告げられて、午前中の講義がなかなか集中出来なかった。

 だから午前の授業が終わると、ナナモは学生食堂へ向かうタカヤマを捕まえると、どうして教えてくれなかったんだと、胸ぐらをつかむような口調で詰め寄った。

 小岩がナナモに話したことは、夏に行われた全国医学部剣道大会の新人戦だけをもう一度おこなうことになったということだった。タカヤマはあの時は慣例だからと仕方がないと従うことにしたのだが、やはり納得いかないと思い直して、地道に他の大学とメールで連絡を取り合ったり、あきらめずに中央の医学部剣道本部に掛け合ったりしていたのだ。

「だって、ナナモ忙しそうやし、この頃、俺の誘いにも載って来てくれへんから、何となく相談しにくかったんや」

 タカヤマからそう言われると、思い当たる節がないわけでもないナナモは返答に困った。

「それに、もう剣道はせえへんって言うてたからなあ」

 ナナモは確かにあの時そう叫んでいた。しかし、その気持ちはタカヤマに通じていたと思っていたし、実際退部したわけではなかった。でも夏休み明けに比べてナナモは次第に練習に集中しなくなっていたのは事実だ。

「で、開催出来るのかい?」

 僕にも非はあると、少し冷静になったナナモはタカヤマに尋ねた。

「まあ、初めての事やからな、そう簡単には行かんわ」

 タカヤマはまとわりつくナナモを尻目に学生食堂の定番メニューである唐揚げ定食をライス大盛りで注文してからナナモに答えた。

「僕が役立てることってあるかな」

 こんな時によく飯が食えるなと思いながらも、今日初めて知ったナナモとは違って、もはや日常の一部になっているタカヤマにナナモは遠慮気味に尋ねた。

 タカヤマオはうまそうにから揚げを頬張りながら、あらへんとだけ言った。

あらへんとはないということなのかと聞くと、タカヤマは口をもぐもぐさせながら大きく頷いた。そして、から揚げ定食に集中したいのかナナモが話しかけられないようなオーラを醸し出していた。

「ナナモ、悔しなかったんか?」

 最後にお茶を飲み干し背筋を伸ばしてからごちそうさまでしたと言った後にタカヤマはぎゅっと目じりに力を入れてから尋ねた。

「そりゃあ、悔しかったよ」

「そやったら、なんでもっと練習せえへんねん。俺にはわからん」

 やはりタカヤマはナナモの悔しさをわかってくれていた。しかし、その一方でナナモに苛立ちを覚えていたのかもしれない。ナナモはタカヤマの気持ちなど全く考えずにやみくもに退部するとわめいていたが、ナナモ以上にタカヤマの方が悔しかったのかもしれない。

 でも、ナナモには今、剣道よりも熱中しなければならないことが出来た。それはタカヤマには言えない。それに、その事を考えると、今、もっとも手を抜けるのは剣道かもしれないと思い始めていた。

「ごめん」

 ナナモはタカヤマに謝るしかなかった。

「俺に謝られてもナナモの悔しさは晴れへん。ナナモ自身で晴らそうと思えへんかったら無駄やからな。ナナモが剣道を始めた理由は色々あったかもしれへんけど、いずれにせよ剣道を始めたんやったら、紳士に向き合わんと」

 ナナモがごめんともう一度言おうとしているのをタカヤマは瞳で制した。

「剣道はただ強くなるということだけのことやないから。俺はナナモに強くなれとは言わんけど、もし、ナナモが将来団体戦に出たいと思っているんやったら強くならんとな。そしてそれは稽古、つまり、自分を律して日々努力するかなんや」

 学生食堂には軽やかな会話が飛び交っていたが、タカヤマの言葉だけは重くナナモの鼓膜に大太鼓をたたくように響いてきた。もしかしたらタカヤマはもっと大声でナナモを叱りつけたかったのかもしれない。

「ごめん。そうだよな。でも、実は友達に頼まれてリモートで英会話の講師をしている。少しお金が入りようなんだ」

 ナナモはロンドンに行くとタカヤマには言ったが、タカヤマは冗談だとしか受け取っていないようだった。実際帰ってきてからロンドン噺もしなかったし、叔母にもらったお土産はわざと誰にも渡さなかった。だから当然寮生たちも知らない。もし話していたら、ロンドンに叔父叔母が住んでいて、ナナモにとって単なる里帰りに過ぎないのだが、きっと誰もが里帰りではなく優雅な海外旅行だと考えるだろうし、実際、イチロウが旅費を出してくれたのだが、その説明をするのも、お金がなくて寮に入っているナナモにとって面倒だった。

 タカヤマにはナナモの家庭事情については話している。タカヤマはナナモの言葉をそのまま受け取ってくれたのか、少し表情を和らげた。

「金か…」

 タカヤマが先ほどとは異なった妙に深刻な表情で呟いたので、ナナモはつい言い過ぎたなと、嘘ではないが本当のことを全て言わなかったことに申しわけない気持ちになった。

「タカヤマが僕の財布事情を気にすることはないよ」

 ナナモは自分で言っておきながらそう言った。しかし、タカヤマはナナモの方を見ていない。どこか上の空のようで、珍しくもごもごと、「俺は英語が苦手やからな」と、ため息交じりの声を漏らしていた。

「タカヤマもお金に困っているのかい?」

 ナナモの問いにタカヤマは、新人戦の運営が予算の事で行き詰ってしまっていると、告げた。ナナモは小岩からなんとか開催までにこぎつけたと聞いていたので驚いた。

「実は、ちょとしたアイデアがあるんだけど」

 ナナモは以前イチロウから聞いたクラウドファンドの事を、ある友達のアイデアなんだけどと、タカヤマに話した。


 十月に入ると、つい今しがたまで毎日のように鳴り響いていた夜の虫達の交響曲の演奏が急に止まった。くすんだ夜空の合間を縫ってもその演奏会を開いていたのに、誰一人拍手してくれないことに指揮者は腹を立てたのかもしれない。それでも、そのくすみが薄まって清々しい夜には、忍び寄る冷気で身体が動かなくなるまではと、個人演奏に没頭する勇者もまだ残っていた。

 ナナモ達剣道部員は前期試験の再試験も無事終え、また、道場に足繁く通うようになっていた。

 ナナモは時間がいくらあっても足りないくらいだったが、それでもタカヤマに言われてから出来るだけ集中して練習するようにしていたし、タカヤマがやろうとしている新人戦の実現に向けて、イチロウと何度か連絡をとっていた。

 そんな日々がしばらく続いていたが、ある日剣道部での練習が終わったあとに、ナナモはタカヤマに誘われていつもの喫茶店へ行った。そこにはフジオカとサクラギもいた。四人だけで会うのは久しぶりだ。

「ようやく開催日が決まったんや」

 タカヤマの声が小躍りする。

「本当?」

 ナナモは思わず呼応した。けれど、フジオカとサクラギは、うんうんと頷くだけだった。

「ナナモには言わへんかったし、二人には黙ってくれと俺から頼んでいたからなんやけど、この企画は三人で始めたんや」

 フジオカとサクラギは、ナナモからタカヤマを手伝おうと何度も誘われていたのに気のない返事ばかりしていた事を謝った。

「ナナさんは、忙しいそうだからってタカヤマさんに言われたから…。それで、つい…。でも、本当は僕もあまり手伝っていないんです。タカヤマさんとサクラギが頑張ったから…」

 タカヤマとサクラギは剣道の世界では実績があり顔がしれている。だから二人が前面に立って僕は事務的なことを補足をしていただけなんだと、フジオカは付け加えた。

「そうだったの…」

 ナナモはあの時のことを考えると返す言葉がなかったが、声を掛けてくれてもよかったのに改めて思った。

「でも、今回はナナモ君のクラウドのおかげね。もし、資金面でめどが立たなかったら、実現しなかったから」

「先輩たちのおかげだね」

 サクラギの言葉にフジオカがかぶせた。

「先輩たちも新人戦に対してのやっぱり悔しい思いがあったんやろな。何と言っても、学生にとっては一回しかないチャンスやから」

「でも、ナナさんがタカヤマさんを動かしたんですよ」

 ナナモはクラウドの事だと思い、あれは僕の友達がほとんど仕切ってくれたからだと言いそうになったが、「あの夏の大会で、いきなり経験者が出てくるのはよくないですよね」と、フジオカが先に言った。

「どういうこと?」

「だから、今回の新人戦はシード制をとったんだよ、高校で剣道をしていた経験者は一回戦には出られないようにしたんだ」

 それって、って、ナナモが言いかけたが、タカヤマが、フェアーじゃないって言うことやなと、遮った。

「ああ、それにそのことは僕がきっかけなんて、なんか釈然としないよ」

 ナナモは反発した。

「悔しいでしょう」

 そんなナナモの心に同調するようにサクラギが言った。ナナモは正直に、ああと、答えた。

「これから六年あるのよ。私は医学に忙しくて剣道がおろそかになってしまうかもしれないわ。そうしたら、一生懸命練習していたナナモ君に打ち負かされるかもしれないわ」

 サクラギはきっと練習をさぼることはないだろうとナナモは思いながらも、サクラギのねぎらいがこそばゆかった。

「俺もそう思う。それに英語のリスニング試験では、ナナモは完全に雲の上を歩いているからな」

「あれ、タカヤマさんも弱音を吐くことがあるんですね」

 フジオカが言わなければ少し嫌な空気が流れるところだった。

「ところで、新人戦はどこでいつ行うんだい?」

 いつまでもうじうじしていてもしょうがなかったし、どうせナナモだけが知らされていないのだと思ったので話題を変えるつもりで尋ねた。

「全国大会が始まる前に行うのが本当はいいんやけど、それやったら、俺たち出場できないし、まあ、最悪それでも良かったんやけど、今年はまあ試運転みたいなものやから、十一月にすることになったんや」

「場所は?」

「ここよ。だって、私たちが言い始めだし、クラウドを立ち上げたのも私たちだし、駅も空港も近くにあって、観光地で割合ホテルも建っていて、そして何よりも剣道大会が行なえる手ごろな会館が急に借りられるなんて、田舎じゃないと無理でしょう」

 サクラギはナナモがタカヤマに伝えたイチロウから聞いた情報を全て把握していた。

「神在り月に全国から医学部の新入生が集まって来るんだ。何か神秘的だとおもわないですか?」

フジオカは事務的な報告に花を添えようとしているようだったが、ナナモはピンと来なかった。

「神在り月?神無月ならわかるけど」

「ここはどこや?」

 スマホを取り出そうとしたナナモをタカヤマの声が制した。

「ここは杵築ですよ。オオヤシロに全国から神様が一年に一度集まって、神議りすることを知らないのですか?」

 ナナモは答えないことで知らないと伝えた。

「神議りのことはあとでスマホで調べてください。でも、全国から神様がこの地に集まれば杵築以外の場所ではどうなります。そう、神様がいなくなります。だから、杵築以外では神様がいなくなる月。つまり、神無月って言うんですよ」 

 フジオカの説明を黙って聞いていたタカヤマは蒸し暑い京都の事もそうだが、常識だという顔をしていた。

「でも、確か、神無月は十月だったよね」

 ナナモは自信なげに言った。

「そうですよ。確かに神無月は十月ですけれど、旧暦と新暦との違いがありますから、今年は杵築では神議りは十一月に行われるんです」

 ナナモはそう言えば旧暦のことをどこかで聞いたことがあるような気がしたが、かすかな頭痛に遮られた。

「まあ、細かいことはええやん。けど、あと一か月くらいしたら、大会は開かれるちゅうことや」

タカヤマはきっと忙しくなるだろうと思いながらも嬉しそうだった。サクラギもあからさまな感情を出さなかったが、瞳だけは輝いていた。

 他の三人はもうすでに各大学には正式な案内状を送っているのだろう。だから、他の三人からはもう十分ナナモには応援してもらったから、今度は名誉挽回とは言わないけど頑張ってほしいと、剣道の練習に励むように促された。しかし、そんな気遣いよりも、ナナモも輪の中に入りたかった。きっと、こういう大会はこれからの細かな詰めが大事だ。きっと事務的なことでまだまだ苦労が絶えないだろう。

 ナナモは何故忙しい時は余計に忙しくなるのだろうと思いながらも、大学で同級生と同じ目標に向かって汗を流していることと、四人目としての役割を果たせていることにタカヤマ以上のワクワク感で一杯になっていた。

 確かに今度こそという気持ちがないわけではない。しかし、ナナモだけが大会の運営から外れ、剣道の練習に打ち込んでばかりいるということは出来ないような気がした。それに、イチロウは、いつものように魔法のSNSを使って、ボランティアを集めてくれていた。だからイチロウはすでに第五番目の仲間だ。しかし、だからと言って皆に合わせようとは思わない。イチロウには悪いがナナモの影武者として働いてもらう。きっと、イチロウは嫌な顔ひとつしないだろう。

またひとつやるべきことが増える。しかし、ナナモは溜息ではなく拳をつきあげるような高揚感で包まれていた。


 西からの突風が吹き付け、分厚い雲が雨こそ降らさないまでも見上げる空間を狭めている。色づく木々もないすっかり稲穂が刈り取られた殺風景な田園に建てられたまるで真っ白なお椀をさかさまに置いたようなドーム状の小さな体育館の中で、全国医学部剣道新人戦が開催された。

 新人戦を行いたいと学生たちのパワーが大きなうねりを産んだのか、それともイチロウの企画したクラウドが思いのほか運営費を集められたのか分からないが、一回生だけだったが、全国の医学部から思いほか多くの学生が杵築に集まっていた。

 タカヤマとサクラギが万雷の拍手で迎えられながら壇上に立っている。ナナモは遠目で見つめながら、開催不可能と言われたライブコンサートの成功を喜ぶスタッフの様に興奮で身体が小刻みに震えていた。そして、二人が高らかに開催を宣言すると、会場は一気に熱気に包まれた。

 ナナモは本来なら裏方として動き回らなければならない。しかし、ナナモも出場者の一人だ。試合に出なくてはならないし、出場するからには手を抜きたくない。いや、勝ちたいと思っている。だから、自分なりに頑張って来た。

 そんなナナモの揺れ動く気分を押さえるように、イチロウは声をかけただけだというのにボランティアのスタッフは統制がとれていた。きっと、イチロウが指名したリーダー核の人物がタカヤマやサクラギと連携しながら、スタッフを仕切っているに違いない。ナナモにはその人物が誰だか分からなかったし、分からなかったことに感謝した。

 ナナモは第一組の第一試合だとタカヤマから言われていたので、面を含めた道具を付け試合が始まるまで呼吸を整えながら正座をして待っていた。

 一回戦の相手は決まっている。ナナモと同じように面をつけ、正座をしたまま待っている。ナナモと違って小柄だ。しかし、小岩のようにがっしりとした体格ではなかった。きっと経験者ではないからだろう。それに、名前も大学名もなぜかわからないが伏せられていた。その代わりまるで囚人のように番号が割り振られている。もしかして、大学間の対抗戦ではなく、医学部の新入生だけの大会であるということをより強く意識させたいとタカヤマとサクラギが考えていたのかもしれない。

 ナナモの垂れにかぶせられた白地の袋には一と漢字で番号が書かれ、相手の袋には二と書かれてあった。

「始め!」

 審判の短いがしっかりと響く声がした。しかし、お互い緊張しているのか、掛け声を出せないでいる。しかし、あの時と違って、相手はやる気がなさそうに構えるのではなく、気合十分で竹刀の切っ先を微妙に動かしながらナナモとの間合いを探りながら中段で構えていた。

 ナナモは微妙に間合いを詰めたかと思うと、すぐに離れた。一度打ち込めば緊張がほどけるのに、もし、反対にかわされて一本取られたらと思うとどうしても打ち込めなかったからだ。ナナモは吹っ切れたと思っていたのに、あの時の記憶がまだナナモの身体を執拗に縛りつけていた。 

揺れる心から脱するには勇気が必要だと、誰かの声がする。ナナモはその声に反応するかのように思い切って面を打ち込んでみた。ナナモの最初の打ち込みで一本とれるようなタイミングではなかったが、それでも相手の竹刀と交わることは出来るだろうと、ナナモは思ったが、丁度打ちおろそうとしたタイミングで身体を避けられた。ナナモは、出鼻をくじかれすぐに身体を反転させたが、その瞬間に相手がナナモに向かって竹刀を振り下ろそうとしていた。

 以前のナナモなら簡単に面を打ちこまれていたであろう。しかし、すんでのところで、竹刀ではなく頭を横にずらした。

 案外ずっしりと重い竹刀が首筋に当たる。もし、真剣ならきっとナナモは首の血管を切られ、大量出血で死んでしまっていたかもしれない。

 小柄で身軽だ。それにすぐに目の前から消えたということは俊敏性がある。本当に、初心者なのだろうかと、ナナモは構え直すと、素早く小手を打ち込んでみた。相手は竹刀で難なくいなす。しかし、ナナモは試合で初めて竹刀を組みかわすことが出来た。

 きっと、面越しだし、ある程度の間合いがあったのでわからなかっただろうが、相手はその瞬間から矢継ぎ早に打ち込んできた。いずれも浅く力もない。それでも、その俊敏性にナナモは防戦一方になった。ナナモは剣道のうまさで相手の竹刀をさばいているのではない。ナナモの天性の運動神経で辛うじてかわすことが出来ているだけだ。タイミングさえ合えば一本取られる。ナナモは、体格差を生かして、つばぜり合いで相手のリズムを崩そうと、打ち込んで来るタイミングを計りながら、一か八かで相手に近づいていった。

 あれ?相手は身体を押し付けてくるがナナモは力強さを感じなかった。それどころか簡単に押し返すことができるとさえ思えた。

 女性?ナナモの顔を覆う剣道の面には葉の葉脈のように左右対称に金属棒が拡がっている。しかし、フェンシングのように密ではない。おおよそ竹刀が入り込まない程度の間隔だ。だから、ナナモは大きな瞳をきりっと釣り上げながらナナモを睨んでいる相手の顔を面越しにしばらく見つめる余裕さえあった。

 ナナモはそれでもまさかと思った。全国医学部剣道大会ではすべての試合は男女別々に行われていたからだ。確かに女子部員が少なく団体戦にエントリー出来ない大学もあったが、それでも、男女が混合で戦う大会など体力のこともあってあり得ない。しかし、うっすらと汗がにじんでいる化粧っ気のない素顔からは絹の様なきめ細かさを感じる。

 ハルアキ?ナナモはカタスクニで特別講義をしてもらっているハルアキのことを思い出した。ハルアキは柔らかな物腰で中性的な印象がある。だから、揺れ動く心を正す為にハルアキが姿を変えてやって来てもおかしくはない。

「一本!」

 でもここは地上の世界…と、ナナモが一瞬気を抜いた時、ナモの頭に軽い衝撃が走った。

相手はナナモから離れ際に面を打ち込んだのだ。ナナモは三本上がった旗を見てやっと正気に戻った。

 そうだ、僕は今現実の世界で剣道の試合をしている。竹刀をかわしている相手が誰でも構わないはずだ。駆け引きや高度な技を繰り出すなんてことはナナモにはまだできない。ナナモの魂とこれまで自分が培ってきた練習で得た成果を竹刀にこめて思い切って打ち下ろすだけだ。

 時間はまだある。しかし、相手は一本とったことでもはやナナモが誘う接近戦に乗ってこなかった。それでも先ほどより左右に前後に素早く動きながら、何度も竹刀を振り降ろしてくる。

「カモン、ゲテインゼェ、ジェームズ」

 誰かがナナモを鼓舞してくれる。無心で打ち込めと、サッカーが不得手だったナナモがサマーアイズでよく友達に励まされたフレーズだ。

 ナナモはその声で気が引き締まったのか、それまで相手の打ち込みに防戦一方で竹刀を交わらせていたが、思い切って竹刀を上段に構えて静止した。

 相手はナナモの変化に思わず身体が止まった。その瞬間ナナモは思い切って踏み込んで面を打った。

「一本!」

 確かに審判の声がする。しかし、相手も打ち込んできたし、闘牛のように少し項を垂れながら走りを止めて振り返った時に見た三本旗の色を見るまでナナモはどちらが一本取ったのかわからなかった。

「グッ、ジョブ」

 タカヤマの声だ。少し違和感を覚えたがはっきりと聞こえる。ナナモは、思わずその方向に向かって竹刀を振り上げそうになる。しかし、それは絶対に出来ない。相手に対して礼を失する。

 ナナモは初めて試合で竹刀を交え、それどころか一本取れたことを素直に喜んでいた。だから、ぐっと腹に力を入れて、もう一本と気合を入れ直した。

 ナナモは審判に促されて定位置で構えた。目の前には先ほどの相手が居る。

少し様子がおかしい。竹刀が御刻みに揺れているが、それは間合いを測ろうとしているわけでも、いつ打ち込もうかと探りを入れているのでもない。竹刀に力が入らないのかもしれない。

 ナナモは呼吸を整えながら、面越しの相手の表情を見て取ろうとした。先ほどのように白く透き通ってはいない。明らかに頬を赤らめ、眉間に皺を寄せている。だからと言ってはあはあと呼吸が乱れているわけではない。

 相手は明らかに苦しんでいる。しかし、疲れからではない。

 今打ち込めば一本取れる。ナナモの直感がそう命じて来る。しかし、ナナモの身体は動かない。それどころか、周りの景色が消えて行き、暗闇の中で相手の姿だけが浮かびあっている。

 ナナモの身体を急に冷気が通り抜けた。その瞬間相手の姿も消え、どこからか声がする。

「お前は我々の仲間に切りつけたのだ。脳天が割れ、のたうち回りたいほどの痛みに耐えている。お前は刃をかざさないと言ったのは嘘だったのか?それまでして仲間を排除したいのか?」

「仲間?」

「そうだ。我々はクニツカミだ。お前はその事をもはや知っている。だから、この時期にわざわざこの地に集まって来たのだ」

「僕はクニツカミには刃を向けない。それに、僕が今闘っている対戦相手はクニツカミではない。ヒトだ」

「どうしてわかる」

「僕もヒトだからだ」

「お前はヒトではないだろう。お前はオホナモチだ。だから我々の仲間のはずだ」

「何度も言う。僕はヒトだ。オホナモチでもクニツカミでもない。そして、ここは地上の世界だ。異世界ではない」

 ナナモは頭を少しだけ、深々と礼する代わりに竹刀を下げた。そして、もう一度、今度はまるで大きく柏手を打つような勢いで竹刀を振りかざし、上段に構えた。た。

「オンリョウなら刃を向ける」

 ナナモは全てを断ち切ろうと、先ほどと同じように無心で相手に打ち込もうと飛び込んで竹刀を振り降ろそうとした途端に、ナナモの前をかまいたちが走った。

 真っ二つに胴を割られ、その衝撃で後方に転倒したナナモはまた意識が遠のいていくのを感じた。しかし、完全ではない。何故なら幻だったのかもしれないが、腰あたりまで伸びた汗ばむ黒髪が、隙間風に少しずつ精気を取り戻されながら、心配そうにナナモの身体をさすってくれていたからだ。

「お母さん」

 思わずそうつぶやいたあと、ナナモは完全に意識を失ってしまった。

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