(17)カタスクニでの特別授業
東京よりも虫の鳴き声が良く響き、東京より良く晴れた夜空は明るかった。
中秋の名月の時期はもはや過ぎ去ったが、それでも満月はより明るくより近くに見える。そして、何よりもロンドンでは全く経験がなかったが、月を愛でながら、時に酒を飲み、時に団子というお菓子を食べ、時に家族や友達と静かに語らい、そして時に一人で物思いに耽る。
ナナモはオオトシに杵築の地で古文を教わりながら同時に日本人として花鳥風月をまだなんとなくではあったが風流だと感じ始めていた。
そんなある日、ナナモはいつもより輝いて見える神木のタブレットに導かれながら、苺院へ行った。いつもの席にいつものように座ると、店主のアメノがナナモの所にやって来た。そしてまたいつもならエプロン姿なのに、その夜はなぜか和服を着ている。だから、もしかしたら、隣の武具店から、アメノ弟がやって来たのではないかと思った。ナナモは疑いのまなざしを向けたが、さして不穏な空気を感じなかったし、もしそうなら、きっと今夜はカタスクニの講義は受けられないはずだと、タブレットを起動させた。
「何か浮かぬ顔をしておるが、どうかしたのか?」
珍しくカタリベはナナモの顔色を見てから言った。
「アメノさんが今夜は和装だったんで、もしかしたら弟さんなのかなと、気が気でなかったんです」
ナナモはいつもなら派手なカタリベの姿に一端は目を背けるのに、ホットした。
「アメノじゃよ。弟ならわしらの講義を邪魔するはずじゃからな」
ナナモも夏期休暇の張り紙のことを思い出していたが、それではなぜ着物なのだろうと思った。
「今夜は特別なんじゃよ」
そう言えば妙に今夜のカタリベは喜怒哀楽が激しくない。
特別って…と、言いかけてからもしかしたらアヤベの言っていた特別授業の事ではないかとナナモは思った。
「察しが良いのう」
ナナモはあの日バスで杵築に着いてから大学の講義が始まった頃にアヤベが言っていた特別授業がすぐに始まるとばかり思っていたが、実際はなしのつぶてだった。そうこうしているうちにオオトシへの英会話や古文の授業が始まったし、ナナモがカタスクニの授業を間引きしてもカタリベから怒られなかったし、と、ナナモは何時しかその事を忘れかけていた。だから、もし、あの夜にオオトシがナナモにクニツという医師の話しをしなければ何もかも忘れて古文にのめり込んでいっていたかもしれない。
確か京都で見た夢の話しをアヤベさんにしたからですと、ナナモが声を出してカタリベに言おうとしたが、肝心の話の内容が思い出せない。
「いいんじゃよ。しかし、お前さんには現実の世界でもそうじゃが、心が揺らいでおる。きっと、それは穢れを意識しておるからじゃ」
「僕は…」
「穢れは色々なことを含む。罪もそうじゃが、不誠実もそうじゃ。お前さんは、その穢れを払拭したくて仕方がないのに、そうすることで誰かが傷つくと思っておる」
「僕が全て悪いんです」
ナナモは大声を出した。
「そうかもしれんし、そうでないかもしれん。もちろん穢れはない方が良いに決まっておる。しかし、もし穢れたらもう先を歩くことは出来ないということはない。禊ぎを受ければまた歩けるのじゃよ」
「でも僕は禊ぎを受けられない」
ナナモの声は震えていた。
「そんなことはない。禊ぎは禊ぎを受けようと思っているすべての人に与えられる。肝心なのはどれだけ時間が掛かろうが穢れを必ず追い払うと思う強い気持ちを持つことなんじゃ。だから、あの日、カタスクニに直行するはずだったのに、コトシロはそれを許した」
「しかし、僕は結局…」
「良いか、何度も言う。穢れを追い払うと思う強い気持ちが大切なのじゃ。そうでなければ、オンリョウに負けてしまう。穢れに打ち勝つことは王家の継承者たるオホナモチになる試練なのだから」
カタリベはそう言うと、タブレットから自分の姿が消えてしまうほどの光を発した。その瞬間、ナナモは夜行バスで、アヤベと交わした言葉を全て思い出した。
「クニツカミ…」と、ナナモのこぼした声は弱々しかったが、声の粒子は光の粒子を不思議に包みこんだ。
「今夜から特別授業を始める」
目を覆わなければならない程の眩しさはなかったが、まるでカミの託宣を告げる神職のように光のシルエットとともにカタリベの声だけが聞こえる。
「特別授業もリモートなのですか?」
「不服か?」
そうではないが、オオトシへの英会話の授業を受け始めてからやはり対面の方が数段良いように思えたのだ。
「そうかもしれませんね」
カタリベとは異なる声色が聞こえる。誰だろうとナナモが振り返ると、アメノが少し微笑みながら立っていた。そして、いつもならナナモの気分を察して銘柄を選んで紅茶を出してくれるのに、その夜はナナモにはわからない銘柄の日本茶を心穏やかな香りを添えてそっと傍らに置いてくれた。
「召し上がれ」
アメノの言葉に促されて、ナナモは両手で茶器を持つとゆっくりと香りを確かめながら、淡緑色の液体をごくりと一口飲み込んだ。すると、再びタブレットから光の粒がまるで昇龍のごとき飛び出してくると、一瞬にしてナナモの全身を覆い包みながらそのままタブレット内に吸い込んだ。
「ここは?」
木で作られた簡素で狭い部屋だ。しかし、天井は見えないほど高く四隅の柱はまるで蛇のように動いている。
小さな窓が開いていて日が差し込んでいる。強く熱く濃く重い光の粒の集まりなのになぜか物悲しい。きっと、夕陽なのだろう。
ナナモはこの小窓しかない空間で、立っているのか座っているのかわからない浮遊感の中で漂っていた。
すると、突然視界に誰か見知りらぬ人の姿が映し出される。白い肌、艶のある黒髪、ふくらみのある顔。女性なのだろうか?
「こんばんは」
透き通るような声だ。それに高くも低くもない。
「ここは?そして失礼ですがあなたはどなたですか」
ナナモは尋ねた。
「私はハルアキです。あなたの特別授業を仰せつかりました」
アメノが和服を着ていたのでカミ様の様な、透き通る様な羽衣に身をくるんでいるのか思ったが、サラリーマンのように、スーツを着てネクタイを締めている。
「ナナモです。ジェームズ・ナナモです」
ナナモは自ら名乗った。もしかしてアヤベではないかと思ったからだ。しかし、見た目も声色も何よりも身体から発せられる雰囲気には程遠いものが感じられた。
「クニツさんですね。私はそう聞いていますよ。では、授業を始めましょう」
ハルアキはいつの間に現れた神木のタブレットと同じ素材で作られたであろう心を穏やかにさせる香りのする簡素な机と椅子にもはや座っていて、ナナモにも早く座るように促してきた。ナナモはゆっくりと椅子に腰かける。しかし、ナナモに授業を始めましょうと言いながら、一向にハルアキはナナモに何も話してくれない。それどころか何か独り言を呟きながら瞳を閉じてしまった。
「あの…、失礼ですが、ここはどこで、ハルアキさんはどのような方なのですか?」
ナナモはしびれを切らしてつい尋ねていた。
「静かに」と、叱られたような強い声がした。しかし、相変わらずハルアキは独り言を呟いているし、今度は柳のようなしなやか指を指揮者のように動かし始めた。
ナナモはもしかしたら、ハルアキは今ナナモをじっと見ながら、ナナモの心を読もうとしているのかもしれないと思った。もしそうなら、ハルアキはコトシロやカタリベとは異なるし、当然カミ様の使いではない。
ナナモは、もう一度、同じことを尋ねようと口を開きかけた。
「今夜は、クニツさんの講義が出来そうです」
ナナモは目の前に居るハルアキという人は何を言っているのだろうと思った。
「何事もまず吉凶を知ることが大切ですから」
ナナモはまた驚いた。そして、もしかしたら、黙って独り言を呟いていたのはナナモの事を考えていたのではなく、占いを行っていたのかもしれないと思った。
それにしてもややこしい。ナナモはもしかして、コトシロもカタリベもまた肝心なことを省いたのだろうかと少し憂鬱になった。
「あの…、まさかだと思うのですが、カミ様からの託宣を僕に伝えるための来られたのではないのですか?」
ナナモは控えめに尋ねた。ハルアキは、はあ、という顔をすることはなく、先ほどと同じように澄ました顔のままだった。
「クニツさんは私の事を、そして、ここがどこなのか聞いておられますよね」
ナナモは聞いていないから先ほど尋ねたのだと言いたかったが、ハルアキが何かを占っていたのなら全く聞いていなかったことになる。ナナモは仕方がないかと、もう一度先ほどと同じ質問をしようとしたが、ハルアキは、はっ、と何かに気が付いたのか、
「カタリベさんは、時々こういう悪戯をするんですよ。でも、そうされるってことはクニツさんはどうやら相当気に入られているようですね」と、さらりと言った。
涼し気な顔付きが却って冷たく感じる。しかし、ナナモが嫌な顔でその気持ちを表わそうとすると、ハルアキは急に口元と目じりを緩めて微笑んだ。それでもナナモは落ち着かない。だから、思わず、「僕は占いを習うのですか?」と自分では分からないイラつきを含めた語気で尋ねていた。
「クニツさん、少し落ち着きましょう。喉に何かがつっかえているのかもしれん。ごくんと、ゆっくり飲み込んでみてください」
ナナモは何を言っているのだろうと思った。ナナモの口の中はカラカラで一滴の唾すら残っていなかったからだ。
「特別講義だとお聞きしていたのですが、占いなのですか?」
ナナモはもう一度同じことを尋ねていた。そして、もしそうなら、もはやここがどこであれ、ハルアキが誰であれ構わなかった。
「案外、気が短いのですね。だから、京都での試合後、カッとして、あんな夢を見たのですね」
ハルアキは溜息ではなく微笑みをまた口元からそっと漏らした。
ナナモはなぜ京都の事をと思いながらも、その事を尋ねる前に、ハルアキのぶれることはない微笑みに促され、ハルアキの言う通りごくんと飲み込んでみた。カラカラだと思っていたのに、何か液体がそれなりに感覚を添えて喉を通っていく。そして穏やかさというより清々しさが身体中を包むような香りとなって逆走しながら鼻から抜けていく。
「アメノさんが煎れてくれたお茶だ」
ナナモはハルアキと同じように独り言を呟いていた。
「吉報でしたか、やっと、落ち着かれましたね」
ハルアキは微笑みを消し、「ナナモさんにはきちんと説明した方が良いようですね」と、しっかりとした面持ちで言った。
落ち着いたナナモに西日が容赦なく突き刺さる。それでもナナモは顔を背けることなく、ハルアキを黙って見つめていた。
「ここはカタスクにある科学文化部の講義室です」
カタスクニにはナナモとおなじような継承者たちが居ると聞いていたのに、この講義室はあまりにも狭いとナナモは思った。しかし、すぐに、ここは中間の世界だと思い直して、そう感じているだけで実際は医学部の階段講義室以上の広さがあるのかもしれないと、考えなおした。そして、それよりもなによりも、やっとカタスクニに来られたんだと、その事の喜びの方が強くて、先ほどの香りが残っていなければ、椅子から立ち上がって、万歳、万歳と大声を出しながら踊っていたかもしれない。
「ここで私は吉凶を教えています」
ナナモの心の落ち着きを確認してから、ハルアキは言った。
「では、やはり、特別講義とは占いなのですか?」
ナナモは今度は占いでも構わないと思った。なぜなら、勝手なもので、カタスクニの講義室で行われるのなら占いでも意味があると思ったからだ。
「占い?占いではありません。吉凶です。そして、ここでの吉凶はみちしるべを意味します」
ハルアキには西日が当たらない。だから余計に白い肌が際立っている。
「でも占わなければ吉凶が分からないし、吉凶が分からなければみちしるべとはならないのではないのですか?」
ナナモは理屈を並べた。
「みちしるべは占わなくても自らが感じることで自然と導かれるものです」
「感じる?何を、ですか?」
「自然ですよ。でもそれは見たものだけではありません。聞いたり、触ったり、嗅いだり、味わったり、つまり、五感を働かせるということです」
ナナモはそう言えばと、先ほど味わったお茶の味や香りを思い出していた。
「ここは自然を読み解く力をつけるところです。そして、正しく導かれる術を学ぶところです。ブレてはまっすぐに歩けませんし、危うく倒れそうになって誰かの助けがあればすがってしまいます」
「助けを受けてはいけないのですか?」
「助けには善と悪が潜んでいます。悪の助けを借りればオンリョウの世界に引きずり込まれます。まさしくあの時のように」
ナナモは何も言えなかった。
「クニツさんは揺れておられるとお聞きしています。それは地上の世界が主なのでしょうが、異世界に居られる時も影響がないとは言えないのです。なぜなら、もはやご存知でしょうが、現実世界であれ、異世界であれ、クニツさんは同一人物だからです。だからどこに居ようが、災いから避けるみちしるべを会得する必要があるのです」
「でも、あの件は…」
ナナモがもう何度も自問自答してきたことだ。でも、それはナナモが背負わなければならない罪となった。
「そうですね。しかし、それは罪ではないとコトシロさんから聞いています。それは定めだと。だから定めならその定めを背負ったまま、導かればいいのだと」
隙間風ではなさそうだ。しかし、身体がピリッとする。きっと薬草を煎じたような奇妙な香りが混ざっていたからに違いない。それでもハルアキは穏やかなままだ。
「私はその助けをする術を会得していただくために、遣わせられました」
「ハルアキさんもカミ様に仕えられているのですか?」
ナナモはコトシロやカタリベとは異なるハルアキが誰によって遣わされたのか知りたかった。
「私はある特定のカミに仕えているわけではありませんが、ヤオヨロズのカミガミを感じることは出来ます。その理由はクニツさんならよくお判りでしょう。つまり、自然はままならないものということです」
「でもここはカタスクニですよね。カミに通じていなければ、地上の世界のヒトはここには来られないはずですよね。それとも、ハルアキさんも王家となにがしかの関わりがあるのですか?」
ナナモの喉は潤っていて話しやすくなっている。
「いいえ、私は王家のものではありません。ましてや、王家に仕えているわけでもありません。しかし、先ほども言いましたが、ヤオヨロズのカミガミを感じることは出来ます。そして、そのことによって私の魂はカタスクニに導かれることがあるのです」
カミ様に仕えてはいないと言っているハルアキになぜそんな能力があるのだろうとナナモは思った。
もしかして…、ツワノモ?
「カタスクニにいる間は考えない方が良いのかもしれません」
ハルアキはナナモの心を読んでいるのではない。きっと、ナナモから何かを感じるのだ。しかし、ハルアキに制せられてもその声色からナナモは嫌な気が全くしなかった。それどころか、「あの、講義を受ける前に聞きたいことがあるのですが」と、自然と言葉が漏れていた。
「クニツさんは何を聞きたいのですか」
ハルアキは先ほどまでの微笑みを消し、決して睨みつけるような面もちではなかったが、きちんと話を聞こうとより整然とした姿勢を見せた。
「クニツカミのことです」
きっと、ナナモから何かを感じているはずだ。ハルアキの口元がかすかに動いている。まるで呪文を唱えている様だ。しかし、吉凶を測りかねているのかもしれない。もしそうなら、導かれないことになる。そして、答えられないことになる。
「王家はクニツカミなのですか?クニツカミはオンリョウとして、守るべき皇家に災いをもたらそうと思っているのですか?それとも、クニツカミはアマツカミに復讐しようと考えているのですか?」
ナナモは構わず言葉を継いだ。
「クニツさんはどうしてそのように思われたのですか?」
ハルアキは後ずさろうとはしなかった。
「きっと、ハルアキさんはご存知のはずです。僕が京都で見た夢の事を。そして、その夢が実は異世界で起こったことであることも。だから、僕は夢だと思っていたのであまり気にしていなかったのですが、アヤベさん…、いや、コトシロが急に現れたり、カタリベさんが特別講義を受けろと言ってきたり、確かに僕は現実の世界の中で心が揺れていましたが、もしかしたら二人も異世界で揺れている様な気がしてしょうがなかったのです」
ナナモは一息ついてから言葉を継いだ。
「僕はあの夢のことを全て覚えているわけでありません。いや、ほとんど覚えていません。しかし、国譲りを終え皇家がアマツカミと呼ばれることになってから、国譲りを行った王家も、クニツカミと呼ばれることになったということはおぼろげながら理解しています。そして、クニツカミ、クニツカミと繰り返しているうちに、僕はアヤベさんの言葉を思い出したのです。つまり、王家は皇家に国譲りをした時にその事に従わなかったカミも居たっていうことをです。そして、王家の継承者はオホナモチで、オホクニと関係があると言われていますが、国譲りに最後まで抗ったカミは名前どころか存在さえ消されています。
なぜなのでしょう。そして、どこに居るのでしょう。
国譲りに抗したカミももともとは王家と関わりがあったはずです。なぜなら、それまで皇家はなかったのですから。だから、名もなきカミもクニツカミと呼ばれても良いはずなのですが、そう呼ばれていません。オンリョウと呼ばれています」
ナナモは言葉を止めて、ハルアキを見た。しかし、ハルアキは微笑むことも、眉間に皺を寄せることもなく、ナナモをじっと見つめながら声なき呪文を唱えているかのように口元だけをしきりに動かしていた。
ナナモはごくりとあの香りをもう一度飲み込もうとしたが、今度は何も喉を通って行かなかった。それどころか反対に潤いを持ち去ってしまったのか、空咳が止まらなかった。
「クニツカミのことはともかく、王家は皇家に地上の世界を譲ったことは事実なのです。ですから、その時点で王家は穢れを背負っているのです」
「穢れ?」
「そうです。穢れとは不誠実なことも含まれるのです」
「王家は誰かに不誠実だったということですか?」
ナナモに再び潤いが戻っていた。
「地上の世界はもはやヒトが中心ではなくタミが中心の世界になろうとしていたのに、王家はそのタミを見限り、見捨てた。それも、戦わずにです」
「でも、それはヤオヨロズのカミガミの元、皇家とともにタミを助けようとしたからではないのですか」
ハルアキはナナモの問いにゆっくりと頷いた。しかし、その頷きは悲しげだった。
「どのような理由があったとしても、タミはその事を知らされてはいないですし、王家も自ら知らせなかったのです。クニツさんならその意味はわかりますよね、だから、揺らぐ心なんですよ」
ナナモは自分と王家は同じとは思えなかったが、ハルアキの言いたいことは十分に感じることが出来た。
「クニツさん、オンリョウは穢れを利用します。そして、穢れは不誠実を含むと先ほど言いましたが、怒りや妬みなどはもっと強い穢れとなりうるのです」
「それではオホナモチも穢れているのですか?」
ナナモはハルアキから思わず目をそらしていた。
「すべてのクニツカミは一度穢れたのです。しかし、穢れを追い払おうと強い意志で立ち向かったクニツカミはオンリョウとはならなかったのです。ただ、穢れを追い払うことは並大抵ではありません。だから、何らかの手段が必要だったのです」
「武器と言う意味ですか?」
ナナモの声は高ぶっていた。
「さあどうでしょう。手段には色々な意味がありますから。ただし、クニツさんも今自分は不誠実だと自分を責めておられる。その事によって心がまだ揺らいでいます。私はそのことが継承者になるために必要な試練だとは思いませんが、コトシロさんやカタリベさんは非常に心配されています。その理由はわかりません」
ナナモは自分がハーフだからかとふと思ったが、そのあと二人の物悲しい顔が浮かんで、後悔した。
「私の役割は知識と能力をクニツさんに授けることです。知識がないと能力は発揮されませんし、能力がないと知識は蓄積していきません。己を守る。ぶれずにまっすぐ導かれる。簡単そうですが案外難しいのですよ」
ハルアキの戻った穏やかな笑顔から芳ばしいお茶の香りをナナモは感じた。
「自然を感じる力。つまり先ほど五感と言いましたが、それは五つの頂で囲まれた空間です。そしてその頂きに出来るだけ立たないようにしなければなりません」
「なぜですか?」
「頂に立てば誰しも揺らいでしまうからです。そして、揺らいでしまった時にはオンリョウの誘いに乗ってしまいがちになるのです」
「それはオンリョウがクニツカミであったからですか?」とは、もうナナモは尋ねなかった。なぜなら、もはや答えに意味を持たなかったからだ。そして、ナナモは王家の継承者たるオホナモチになることばかり考えていたが、自らがオンリョウの誘いに乗ってしまう可能性もあるのだと身震いした。
そう言えば、確か、つい最近、オンリョウと対峙したような…。ナナモはしかし頭痛がしてそれ以上考えられなかった。この頭痛も試練なのだろうか?それとも穢れなのだろうか…。
ナナモの額に何かかが触れている。ナナモはどこかに飛んで行ってしまっていたのか、その感触で呼び戻された。ナナモから頭痛が消え心が穏やかになっていた。
ナナモの額に触れていたのはハルアキの指だった。そして、また、何かを呟いている。でも、聞こえない。いや、聞こえないからこそ清々しさが伝わって来る。
「五つの頂で囲まれた空間に居る限りみちしるべは正しい方向に導かれ、何れしきたりとなってクニツさん、いや、ジェームズ・ナナモさんを王家の継承者に導いてくれるでしょう。」
「しきたり?」
「そうです。王家のしきたりです。もはやジェームズ・ナナモさんは知らず知らずのうちに始められていますがね」
ハルアキはまるで何事もなかったかのように机の上に両手を乗せ、はっきりと言葉を発した。
ナナモは、はて?と首をかしげることもなく、初めてここがカタスクニだと知ったときの高揚感が少し蘇って来たように思えた。
「先生、特別講義はまたリモートに戻るのですか?僕はカタスクニで先生から直接から教えを乞いたいです」
「もちろんですよ。でも先生と呼ばれると恥ずかしいですね。私は特別講義を受け持っているだけですから。ジェームズ・ナナモさんなら、ハルアキと呼び捨てにしていただいた方が親しみを持てるのですが、それではしきたりから外れます。だから、ハルアキ師と呼んでいただければよいです。マスターという意味ですよ」
「さあ、特別講義を始めましょう」と、ハルアキがウインクしたようにナナモには思えた。




