(16)やって来た相部屋の住人
英語のリスニング試験には十分間にあったし、試験開始までの間にタカヤマにもう一度簡単なリスニングのコツを伝授したのに、試験が終わると、ナナモの首根っこを掴み上げるような勢いでタカヤマに怒られた。大会前に剣道を指導してくれたら、リスニングの特訓をしてやると言っていたらしい。でも、結局ナナモはあの様な負け方をした。だからナナモはすっかり忘れてしまっていたのだ。それでも、俺に頼られても試験は自分でなんとかするものだろうと思いながらも、昨年受けたフランス語の試験の事を思い出して、ごめんと謝るしかなかったし、しばらくタカヤマの居酒屋訪問に付き合うどころか、おごらされることになった。
残暑が続き、雨模様とならない夜空には月が煌煌と輝いていて、ナナモはあれから苦も無く苺院に行くことが出来た。あればはがしてやろうと気負っていたが、夏季休業の張り紙はなく、マスターのアメノは久しぶりなことも相まってナナモを優しく迎え入れてくれたのに、神木のタブレットを起動させた瞬間に、まるで火山爆発を起こしかのような勢いでタブレットから出て来たカタリベにナナモはタカヤマ以上にこっぴどく怒られた。
「前期の授業が終わっとらん。それなのにロンドンなどに行きやがって、お前さんは本当に何を考えておるのじゃ」
恐らく、アヤベからそれなりにナナモの事情を聞いているはずなのに、お構いなしで、「十倍速じゃ」と、タカヤマ以上の勢いでナナモの睡眠時間を削っていった。
タカヤマのリスニング試験の合格発表からは少しタイムラグはあったが、十倍速の授業に耐えたナナモは何とか苺院での前期試験を受けることが出来た上に、「すれすれじゃったがのう」と、もし、不合格ならどうなるかなど教えてもらえなかったし、どのような合格基準が設けられていたのかわからないし、気合とこれまでの復習程度の問題だったために白紙で提出することはなかったからか、めずらしくカタリベはモニター越しに合格じゃと、叫んでくれた。きっと、寮に戻ってからどのような体調の時でも朝の神棚への参拝を忘れなかったからに違いないと、いつも以上に両手を合わせていると、知らぬ存ぜぬで食堂で朝食の準備に追われているはずの寮母であるヌノさんに珍しく声をかけられた。
「明日、ナナモさんの部屋に同居人が来られますから、今日大学から戻られたら部屋をきれいにしておいてくださいね」
ヌノさんはナナモの顔もよく見ずにそれだけ言うと、また食堂に戻って行った。
ナナモは急なことだったので驚いた。それにもうナナモが入寮してから半年になる。ヌノさんからは確かにナナモの部屋だけ同居人が来るとは聞いていたが、何かの手違いで結局来なくなったのではないかと、勝手に思い込んでしまっていた。
こんな時期に途中入学なのだろうか?それとも学生ではないのだろうか?「どういう人なんですか?」
ナナモは慌てて食堂に駆け込むと大声で叫んでいた。朝食をとっている寮生が一斉にナナモの方を向いた。それに呼応するかのように、ヌノさんは黙って頷き、「後でまた。それより、朝食を摂りなさい」と、ゆっくりうながすようにナナモをいなしてくる。
だろうな。ナナモは、おそらく寮生は全員知っている。知らないのはナナモだけだとせっかく苦行が終わったのにと、溜息は一杯出て行くのに身体は一向に軽くならないもどかしさであまり食欲がわかなかった。
ナナモは入寮してからも部屋はそれなりにきれいにしていたし、同居人のことを考えて、残りのスペースには自分の荷物は置かないようにしていた。だから、ヌノさんに言われたからと言って特別何かをするわけではなかったが、それでも清々しい方が良いだろうとキリさんが用意してくれた雑巾で机やベッド周りを拭いた。
ヌノさんは確か明日くるとあの時言っていたのに、もはや数日経っていたし、ヌノさんはあれから何も言ってこないし、でも他の寮生には聞けないし、聞いても答えてくれないし、それでいてヌノさんも寮生も絶対同居人が来るとは思っているしと、ナナモは我慢できなくなって、もう剣道部は辞めると以前あれほど大見得を張っていたのに、道場に行って大声を出しながら竹刀をがむしゃらに振り続けていた。
そんなある日、ナナモは大学で朝から夕方まで授業を受け、その後道場でタカヤマに稽古を目一杯付けてもらったあと寮で夕食を済ませ、軽くシャワーを浴び、神木のタブレットを持って苺院へ行った。カタリベは前期試験が終わったというのに、相変わらず前期と同じような授業を繰り返していた。それでも、ナナモが生あくびをしようものなら、「聞いとるのか?」と十倍速以上の早口でそのあと継承者としての心構えについて長々と説教してくる。それでも、その日は、「今夜はこの辺りで終わりにするか」と、珍しくいつもより早く講義を終えると、普通の速度以下のゆっくりさで、「もうすぐ特別授業が始まるからのお」と、ナナモを舌なめずりするような不気味さで呟いた。
ナナモは久しぶりにハードな一日を過ごしたのに、カタリベの最後の言葉が気になって、真黒な田舎の夜道の中、眼だけは昼間の様な明るさを灯すかのようにらんらんとしていた。だからか、いつもなら鍵を開けてから部屋に入るのに、ドアノブを自然に回していた。
「あれ、灯りが付いている」
ナナモは独り言を呟きながら確か消してから出てきたはずだと、そう言えば鍵も掛けていないと思いながら、自分の机に神木のタブレットが入っているリュックを降ろした。
「遅かったのですね」
ナナモは突然声を掛けられて思わず身体が凍り付いた。あまりにも驚きが優った場合声すら出ないという絵に描いた反応をした。
横並びになっている机のナナモと最も離れた机に見知らぬ人が座っている。
「あの…」と、きっとナナモを襲いかかってはこないだろうと、うっすらとしかまだ視覚に入ってこなかったがその第一印象がナナモに冷静さをもたらす。
「部屋を間違われたのですか、それとも、まさかですが僕に用事なのでしょうか?」
ナナモがそう丁寧な言葉づかいで尋ねたのは無理もない。服装こそカジュアルだったが、どう見ても学生とは思えない立派な社会人のような落ち着きが伝わって来たからだ。年齢も少し上の様で、顔に皺こそないが、頭髪には白いものが混じっている。
それにしても、パソコンを開いてはいるが、いかにもくつろいでいる。
「ヌノさんから聞いていなかったのですか」
その男性はそう前置きすると、急に立ち上がって、「オオトシと言います。よろしく」と、丁寧に少し頭を下げながら挨拶した。
ナナモは、思わず直立不動の姿勢になって、
「クニツ・ジェームズ・ナナモです。今年入学したばかりの一回生で、剣道部に所属しています」
と、まるで入学試験の面接で試験教官から質問されたようにガチガチな口調で答えた。
「クニツ?ナナモ…さんだとヌノさんからお聞きしていましたが」
ナナモはオオトシというきっと相部屋になる寮生のことが知りたかったが、どうみても人生の先輩だし、もし、同部屋の住人なら説明しておいた方が良いと思って、当然、言いたくないことや言えないことは省いて、今まで同じ質問をよくされたので練られた小噺のようにスラスラといきさつを説明した。
「そうだったんだ」
「だから、寮内では誰も僕をクニツとは呼ばないばかりか、学校でも僕の仲間は苗字だと思ってナナモって呼んできます」
「クニツさんはそれでいいのかい?」
オオトシは優しく尋ねてくれた。端と端ではじめは挨拶していたのに、知らず知らずのうちに隣り同士の席に座っている。
「もう慣れました。それに、ロンドンに居る時もジェームズってずっと呼ばれていましたから、名前で呼ばれるのは苦ではないんです。オオトシさんも僕の事ナナモって呼んでくださっていいですから」
ナナモの声は先ほどより軽く弾んでいた。事実そうだったし、昨年いた大学でもイチロウにずっとナナモと呼ばれていた。
「クニツさんはやはりロンドンに居たのですね」
オオトシの瞳孔が少し開いたようにナナモは感じた。だから、つい、引き込まれるように、叔父叔母がロンドンにいたし、僕の母はイギリス人ですから英語には困らなかったのでと、ナナモは見てわかっているはずだとあえてハーフだとは言わなかったが、できるだけ手短に答えた。
ナナモは一呼吸置き、家庭の事情でロンドンに行くことになったのですと、そのいきさつを話そうと思ったが、口元がこそばゆくなったので言わなかった。でも、ハーフだったからではなく、僕自身に何か欠点があって、中学に入るといじめられたんで、ロンドンに親が留学させたんですと、少しは落ち着いて話せそうな気もした。
オオトシはそんなナナモの心の独り言さえも楽しそうに聞いてくれたし、ロンドンの生活はどうだった?ではなく、ロンドンでの生活は楽しかったかいと、肯定的に尋ねてくれたので、思わずサマースクールでの思い出をいくつか切り取って話した。
「あ、すいません。なんかつい話し過ぎましたよね。僕、そんなおしゃべりじゃないんです。でも、つい…」
つい、心地よくなってと、初対面なのにナナモはオオトシの人柄に引き込まれてしまっていた。
オオトシはいいんだよと、目じりを下げた。ナナモはその一瞬の合間に、オオトシの話が聞きたくなった。
「あの、尋ねても良いですか?オオトシさんは、失礼ですが何回生なのですか?」
一回生ではないことはナナモにはわかっている。いや、もしかしたらどこかの大学から後期編入したのかもしれないし、昨年の新入生で病気かなんかで休学していたのかもしれない。
オオトシはナナモの緊張した言い方に少し呼吸を止めていたが、吐き出した呼気には笑いが含まれていた。
「ごめん。でも、学生さんに間違えられるなんて思ってもみなかったから」
オオトシはしばらくにやけ顔が止まらなかったが、
「でも、そう言えば学生なのかもしれないな」と、急に真顔になった。
「学生?もしかしたら医科大学の学生ではないのですか?」
ナナモはイチロウのことを思い出していた。でも、もし、そうであるならば
寮には入れないはずだ。
「大学院生なんです。でも、杵築医科大学ではないんだけどね」
オオトシは少しバツの悪そうな顔をした。そしてある大学の名前を言った。
「こんな年寄りがと思っているんじゃないですか」と、相変わらず頭を掻いている様な面持ちで、「社会人大学院っていう制度があってね、僕はその制度を使って大学院生になったんだよ。だから、年を取っているんだ」と、オオトシは言葉を継いだ。
「社会人って、でも、ここは杵築医科大学の学生寮ですよ。よく、許可が出ましたよね。失礼ですが、会社から何か援助ぐらいしてもらえなかったのですか」
ナナモは栄光寮に入寮するためには厳しい審査が必要だと聞かされていたので、どうして医学部生でもない社会人が入寮出来たのか不思議だった。
しかし、ナナモ以上にオオトシは不思議な顔をしている。そして今までと違って少し頬を紅潮させているナナモに向かって、もしかして本当に僕のことを何も教えてもらっていないのですかと、オオトシは言った。
ナナモはまだ少し身体が火照っている。それでももしかして話がかみ合っていないのではないかと、オオトシの緊張した顔つきが急に崩れた時に何となくではあるがそうであると感じた。
「私は医者なんだ。それも、杵築医科大学は私の母校だよ」
オオトシは先ほどの様な穏やかな顔に戻っていた。そして、しばらく医師として一線の病院で働いていた医者が、日常の診察や治療に即した研究を行いたいが、どっぷりと大学院生として単位習得する時間は持てないような医師に対して設けられた社会人大学院制度について簡単に説明した。
そう言えば医者も社会人だ。ナナモはそのことをすっかり忘れていた。
オオトシは大学を卒業後他の病院で研修を受け、そのままその大学の医局に在籍することになったと、医局という大学の医学部の人事組織についても追加で説明してくれたが、ナナモには大学に勤める医者の集まりだとしか理解できなかった。
「クニツさんは…」
ナナモはナナモでいいですよと言った。
「じゃあ。ナナモ君は一回生だから物理の教授を知っていると思うけど、あの先生は流体力学の専門家でね、私は今、声帯の研究をしているんだけど、研究に行き詰ったから、教授に少しヒントを教えてもらおうと思って頼んでみたんだよ。そうしたら快くひきうけてくれてね」
オオトシは嬉しそうにナナモに言った。
「オオトシ先生は何科の先生なんですか?」
「耳鼻科だよ」
オオトシは耳鼻咽喉科だけどね、正確にはと、付け足した。そして、声帯の解剖と、発声のメカニズムと、それらに関する病気について、先ほどのナナモと同じように一方的に説明してくれた。
新入生のナナモにとっては確かに興味深い話しであったが、熱中しすぎて専門的な用語が飛び出してきたので、ナナモは途中で理解できなくなった。きっと、ナナモの困惑した顔がナナモの想像以上だったのだろう、オオトシはハッと呼吸を止めてまたバツの悪そうな顔をした。
「何か、こう、自分が今夢中になっていることについて話すと止まらなくなるんだよ」
オオトシは笑っているが、まだまだ、話したくてうずうずしているのがナナモに伝わってくる。
「先生は医者なんだったら、こんなぼろ学生寮に住まなくてもいいんじゃないのですか?」
ナナモは話題を変えるつもりで尋ねた。
「私も栄光寮に六年間居たんだよ。だから、懐かしいし、食事つきだし。それにヌノさんから良い話しを聞いたものだから」
ナナモは何だろうと思ったが、なぜかヌノさんではなく小岩の不気味な笑い声が聞こえてきて二度ほどぶるっと身体が震えて、それ以上のことが聞けなかった。だからではないが、剣道部でしたかと尋ねると、いや、サッカー部だったよと答えられた。ナナモは寮の規則はと、尋ねたかったが、僕の時代は寮生がもっと居たからね、にぎやかだったし、楽しかったなあと、もはや、ナナモを眼中には入れなくて、自分のアルバムだけを一人でめくっていた。そしてその行為にひとしきり時間を費やすと、もう遅いから寝ようと言って、さっさと着替えてベッドに入っていた。ナナモは其の素早さに驚きながらも、なぜか気分が高揚して仕方がなかった。
ナナモの体内時計はロンドンから帰って来た当時は少し修正が必要だったが、今では正確な時を刻んでいた。だから、ナナモの瞳は自然と午前六時前に開いていた。ナナモは昨夜というか、つい二~三時間前のことは夢だったのではないかと思った。ナナモは確かめようと起きると、今まで誰も使っていなかった二段ベッドを見た。蒲団が敷かれている。しかし、掛け布団は無造作にはだけていて誰も居なかった。
ナナモは急いで着替え、洗顔をし、神棚への参拝を済ませると食堂に行った。オオトシが食堂に居るのではないかと思ったからだ。
「学生じゃなかったんですね」
ナナモはオオトシが居ないことを確認すると独り言のように、まだ朝食の準備をしているヌノさんに話しかけた。当然忙しいヌノさんから返事がないと思った。
「朝早くから出かけたわ」
ヌノさんは珍しく対応してくれた。
「元寮生だったんですね。ヌノさんは学生時代の事をご存知なのですか?」
ヌノさんはガチャガチャと両手は動かし続けている。ナナモは少し声を張り上げた。
「そうね。知っているわよ。でも、また、この寮に戻って来るとは思っていなかったわ。あの時は寮生も今よりはるかに多かったし、あの子はサッカーばっかりしていたから、あまり目立たなかったの。だから、研究のためにここに戻って来たって聞いてびっくりしたのよ」
ヌノさんはそれでも何かと嬉しそうだった。
「でも、それじゃあ、どうして僕なんかと同部屋何ですか?僕が他の部屋に映っても良かったんですよ」
「そうね。でも、彼の希望だったの」
希望?と、ナナモは思った。しかし、オオトシとは初対面だ。希望とはどういうことだろう?
そう言えばと、ナナモは、「ヌノさんが何か僕の事を話されたのですか?」と、昨夜オオトシから聞いたことを思い出した。
「特別なことは何も。ただ、私というよりもナナモさんが入寮出来た条件をあるがままに伝えただけよ」
ヌノさんはそれだけ言うと、忙しいからとナナモとの会話を打ち切った。
あるがまま?と、ナナモさえも知らない入寮条件を誰から聞き、誰に伝えたのだろうと首をしきりに横に傾けながら、ナナモは部屋に戻ると、朝食までの一時間をイチロウのVR英会話に費やす為に、慌ててコンタクトを装着してパソコンを起動させた。
ナナモは大学での授業が終わり、軽く道場で汗を流すと、タカヤマからの誘いを断って早々と寮に戻った。夕食をとり、風呂に入り、まだ、夜が更けるまで充分時間はあるし、今夜は雲で月は覆われている。
オオトシとはまだ数時間しか話していない。それなのに机に座って教科書を取り出したり、パソコンでサイトを次から次に渡り歩いたり、スマホで音楽を聞いたりを繰り返しながら、ナナモは結局何も手に就かずじまいでオオトシを待った。そして、もしかしたら、久しぶりに家族と会うとはこういうことなんだろうかと、ウキウキした体が宙に浮かんでいくような高揚感に満たされていた。
オオトシはその夜帰ってこなかった。そればかりか、その後何日もナナモはオオトシに会わなかった。もしかしたら、ナナモが待ちくたびれて寝てしまってから、目覚めるまでの間にオオトシは寮に戻ってきているのかもしれない。しかし、夢の中のナナモは現実のオオトシの存在を知る術がなかった。
そんな日々が続くと、オオトシに対する熱量も次第に下がって来る。ナナモはまだ始まらない苺院での特別授業にイライラしながらも、リモート授業だけは受けていた。
「今夜も遅かったのですね」
ナナモはオオトシに久しぶりに会ったので、嬉しさと言うよりも驚きの方が強かった。
「研究は大変なのですか?」
オオトシは、ナナモの問いに、まあねと、答えた後に、「一般教養の授業はどうですか?」と、尋ねて来た。
「僕は、一般教養よりも早く専門の授業を受けたいです」
ナナモは、内容は異なりますが二回目なんで、特に体育は苦痛ですと、言いたかったが、ぐっとこらえた。そして、物理や数学を勉強しても、それを役立てなければすぐ忘れてしまわないですかと、反対に尋ねた。
「そうだね。僕もすっかり忘れてしまったから今困っているんだけどね」
ナナモはオオトシを揶揄するつもりではなかった。ただ、電子工学の知識が不思議なことに一つも思い起こせなくなっていたし、将来、医学と工学を融合させた研究をナナモがすることになっても、もう一度電子工学を勉強するなんて御免こうむりたいと思っていた。
「だったら、この時期に医学以外の事を一杯吸収してください。これからしたくとも出来なくなりますし、きっと将来役に立ちますから」
オオトシはなぜかその話題から離れようとしなかった。ナナモはそれよりも医学部生の時の思い出や医者になってからのエピソードを聞きたかったが、「オオトシ先生は学生時代、サッカー以外に何かやっていたのですか?ヌノさんはあまり目立たなかったと話されていましたけど」と、話を摺り寄せた。
「私が寮で目立たなかったのは本ばかり読んでいたからなんだ。もちろん、医学の専門書じゃないよ。小さい時から国語の授業が好きでね。だから本を手にすると夢中になって、ここでもヌノさんに早く食事を済ませてくださいって何度も怒られたものだよ」
オオトシは印象深い寮生のはずだったのにヌノさんは何も話してくれなかった。
「僕は大学に入ってから剣道を始めたので、それだけで今の所精一杯です」
ナナモはそれほど夢中でもなかったが、あえてそう言った。
「本当ですか?でも、こんな夜遅くまで部活動はしていないでしょう。もし、ナナモ君が医学以外のことに熱中されておられるなら、私は特に何も言いませんし、ナナモ君が私に言う必要もないですが、もしかして学費を稼ぐために何かアルバイトでもしているのならもったいないなあと思ったんです」
オオトシは見ていないようでナナモを見ている。いや、ナナモの行動をデータとして収集している様だ。
ナナモは実は医学の勉強と同じくらい大切な授業を今受けているんですと言いたかったが言えなかった、だから、友達の家に行って、たわいもない話をしているうちについ遅くなってしまうことがあるんですと、お茶を濁すような答えをした。
「友達と話すことは確かにいいことですよね。それにナナモ君にとってとても居心地が良い時間ですよね。でも、そうじゃなくて、何か自分に課すようなちょっと苦手なことにチャレンジするということも必要なんじゃないかなと思うんです」
だから、苺院で…と、ナナモは言いそうになったが、そう言えばカタスクニのリモートを心地良いといつも思っていることはないが、毛嫌いすることはなかった。
「興味がないことでもやらなければならないのですか?」
ナナモはもう一度電子工学を勉強し直そうかとも考えたが、やはり、無理だと慌てて首を横に振った。
「そう言うわけではありませんが、嫌なこともしなければならないときがあったでしょう。例えば受験勉強とか?ナナモ君は高校生の時にどの教科が苦手だったのですか?」
「国語です。先生が好きだった国語が僕はどうしても苦手でした」
ナナモは初めての共通テストで惨敗したことを思い出した。
「でも、英語は話されるのでしょう」
「はい。」
「英語もイギリスでは国語ですよ」
「そうですが、英語で物事を考えるのと、日本語で物事を考えるのとは少し違うんです。僕には叔母が居て日本の国文学を専門にしていましたから、日本語について色々教わったし、それなりに日本の小説なんかも読んだんですが、一番多感な時期に日本に居なかったので、すんなりと吸収できなかったんで、想像で自分なりに解釈していたので、筆記問題ではずいぶん苦労したんです」
「でも、なんとか克服したから医学部に合格出来たのでしょう」
「はい。でも、それは共通テストの問題を理論的な推測で解答を得られる方法を会得したからです。だから、本当に国語がわかっているのか今でも自信がありません。それに古文や漢文自体はロンドンでは全く習わなかったので、古文は日本語なのに今でもよく理解できていないんです」
ナナモは叔母の影響からか古文に興味がなかったわけではなかった。しかし、現代日本語にアップアップの状態だったので、もはや無縁のものと諦めていたし、一生勉強などすることもないだろうと、それでもそう自分を納得させなければならないことに寂しさを感じていた。
「だったら、ナナモ君、古文を勉強してみませんか?」
オオトシの目が一瞬光った。ナナモは思わず首をあげた。
「でも、誰からか教えてもらわないと、教科書を買って自分だけで一から学ぼうなんてもう僕には出来ないような気がします」
ナナモはフランス語ですらものにならなった過去がある。
「私が教えましょう」
オオトシの申し出にナナモは驚いた。何故なら、研究で忙しいと、ほとんど寮に居ないオオトシが医学と関係のない古文を教える時間も必然性もないように思えたからだ。
「でも、先生、研究が…」
「時間は何とか作れるものですし、折角、寮に戻って、後輩と同じ部屋に住まわせてもらったのですから、少しは役にたたないとね」
オオトシが結婚していて、子供も居るのかまではナナモはまだ聞けてはいない。しかし、たとえ大学院生といってもそれまで病院で働いていた医師が全く貯蓄がないとは思えなかった。
「失礼ですが、先生は古文をどこで習われたのですか?」
ナナモは自信にみなぎるオオトシの面持ちが不思議でならなかった。もしかして、読書が好きだということが高じて古文まで愛読していたのだろか?
「実は僕は国文学科に在籍していて、在籍しながら医学部受験の準備をしていて、卒業と同時にここを受験して合格したんだよ」
ナナモは驚いた。だから、「僕もなんです。ただ、僕は卒業しなかったし、電子工学については何も人に教えられないんですけど」と、思わず言いそうになった。
「でも、どうして医学部を受験しようと思われたのですか」
「言葉だよ」
オオトシはゆっくりとナナモは見ながらはっきりとした声で静かに言った。そして、そう言われても分からないという顔をしているナナモに理由を告げた。
「言葉はとても大切だけど、聞こえない人も、言えない人もいる。だから、僕は耳鼻科医を目指したんだ」
オオトシにはもっと深い動機があるように思えた。しかし、その動機は濃い霧に遮られるのではなく、熱い炎で跳ね返さるような迫力があった。
ナナモはふと自分はどうして医学部を再受験したんだろうと、きっと、父と関係があるはずなのにと思ったが、それ以上考えようとした途端に頭痛がした。
ナナモは急に顔色が青ざめていたのかもしれない。オオトシは心配そうに大丈夫かいと、声を掛けてくれたが、ナナモは、僕はそんな強い動機があったわけではなかったのでと言うと、それ以上の話しはしてこなかった。
「実はね、言いにくいんだけどたのみがあるんだ」
ナナモの顔色が戻りかけていることを確認してからオオトシは今までとは違う伏し目がちな小声で言った。
「遠慮せずに話してください」
ナナモは頭痛が消えたから第一印象の時から変わらないオオトシの温かみに包まれていて、もはや、古文がどのようなものか分からなかったが、オオトシと過ごす時間が待ち遠してたまらなくなっていた。だから、ナナモに出来ることは何でもしてあげたいという気持ちで一杯だったし、もし、研究の手伝いをしてくれないかと言われたら、たとえ流体力学という医学というより物理に近い分野でも、なんとか医学の専門を垣間見られるように思えてワクワク感が止まらなくなっていた。
「僕に英語を教えてほしいんだ」
ナナモの喉に冷水が通る。
「先生は英語が話せないんですか?」
だから危うくむせそうになりながらもナナモは確かめざるを得なかった。
「お恥ずかしいんだけど」
ナナモはやっとオオトシの希望を知ったし、もしかしたら、取り壊されることがなくなった条件の一つがナナモ自身だったのかもしれないと思った。
ナナモはせっかく大空に飛び立てと投げ上げた紙飛行機がこんなに早くUターンして戻って来るとは思わなかった。
それでも、ナナモはオオトシの提案に全く失望しなかった。それどころかマンツーマンで医師に英語を教えるなんて出来るのだろうかと、もはや、イチロウの英会話システムに組み込まれているのにそう考えた。
「僕は英語をシステマチックに勉強したことがありません。もしかしたら文法もでたらめかもしれません。だから英会話程度しか教えられないかもしれませんが、それでもいいですか?」
ナナモは正直に言った。
「ああ、その方が都合がいいし、まず、そこをクリアにしないと学術的なディスカッションに進まないからね」
「それじゃあ、この部屋に居る時は、僕に古文を教えてくださる時以外は日本語は禁止ということにしたらどうでしょう。もし、それで良ければ」
「それで十分だよ。助かるよ」
「もしかして先生は留学を考えておられるのですか?」
「可能ならね。でも、まだ、今の研究がものになるかどうかだから」
「英語でも僕のはイギリス英語ですから、発音や言い回しは、アメリカ英語とは少し変わりますよ」
オオトシはそうなのという顔をしていたが、まあ、日本でも地方によっては違うからね。ここもそうだけどと、笑いながら頷いてくれた。
ナナモはイチロウの世界にどっぷりつかって英語の教師をしているのに、やはり対面で触れ合いながら会話するのが良いと、特に同じ部屋に居るということも相まって、その心地よさにもはや心が移ろい始めていた。
大学の授業、剣道の部活動、イチロウから頼まれたリモート英会話、それに何よりも重要な苺院でのリモート授業。それにまた、目の前に居る先生の英語教師と、其の上、国語それも古文の勉強をしようなんて…。ナナモは二つの心と身体を持っているとはいえ、時間だけは同時進行していくという刹那に、ナナモの人格と記憶はどれだけ働き、そして耐えうることが出来るのだろうかと、それでも、なぜ軽々しく引き受けてしまったのだろうと後悔することはなかった。ナナモは切羽詰まったら壊れてしまう。そういう恐怖心は確かにあったが、一度空っぽになったナナモの頭脳はまだまだ容量が残っていそうだったし、何にもましてその全てがナナモにとってプラスだという思いがそれらの杞憂を全て追い払ってくれそうだった。ナナモは落ち込むどころか却って頬が火照るような高揚感で満たされていた。
あのことはまだ解決されていないし、解決されないかもしれない。それでも医学部に在籍し続けるにはナナモは前に進むしかない。だから、罪に対する重荷になったとしても、絶対倒れることは出来ない。ナナモはそう思った。
「ごめんね。なかなか時間が取れなくて」
ナナモがオオトシと交わした約束だったが、オオトシは研究が忙しく、なかなか充分な時間を確保できなかった。だから、ナナモは古文を教えてもらいたかったが、出来るだけ英語を教えるようにした。短いセンテンスでどこの国でも使えそうな定番なセンテンスをゆっくりとそしてその後通常の速度で発音しながら、イチロウから届いた英会話のポイントも無断で借用して、オオトシに要点として伝えた。
ナナモは、オオトシから、これは古文の講師として塾で私が使っていたものだし、ほんの入門書だけどと、びっしり余白にメモ書きされている古いテキストを謙遜しながらも渡された。
ナナモは入門書と言われても、その難易度などわからない。ただ、その初めは、四段活用だとか、上二段活用だとか、ナナモが今まで一度も、いや、すっかり記憶から消え去っていた言葉だらけだった。
ナナモは大学にもそのテキストを持っていきパラパラとめくりながら目を通していた。タカヤマはそんなナナモを目ざとく見つけて、古文入門って、もしかして、日本を知るために剣道の奥義が書かれてある古文書でも読むつもりやないよなと、もはや、遠慮なくそれでいて全く嫌な気がしないのだが、ロンドン暮らしという、いい意味でも悪い意味でも「ハーフ」という言葉がタカヤマから見え隠れする。だから、ナナモはせっかく杵築という街に来たんだから、少しは歴史を勉強しないとねと、ハーフだからと言わないまでも、わかるような少し茶目っ気を添えて答えた。
「そうか。でも、夢中になりすぎたらあかんで、なんぼ英語が得意やって言っても他の科目がおろそかになったら留年するからな」
ナナモは珍しくまともなことを忠告してくれたタカヤマの顔をしばらく眺めながら、そう言えば本に心が奪われたことがあったような気がしたと記憶をたどろうとしたら頭痛がしてそれ以上たどれなくなった。
「ナナモ君はクニツという苗字だったよね」
苺院での授業が終わりそのままオオトシから古文の授業を受けられる時は決まってナナモが苺院での講義が終わって遅くなった時だった。
「はい」
「ナナモ君のお父さんは医者だったのかい」
ナナモは急にそう尋ねられた。
ナナモはもはや同室者としてではなく、家族の一員になったような気持になっていたので、つい本当の事を話しそうになったが、頭痛ではなく耳鳴りが、まるでアヤベの囁きの様だったので、思いとどまらずを得なかった。
「小さな時に両親とは別れたので記憶がないんです」と、明るくでも暗くでもなく答えた。
オオトシはその曖昧さを悲観的に受け取ったのだろう。つまらないことを聞きましたねと、ねぎらうような声のトーンで言った。
「先生が気にされることはありませんよ。それより何か話されたいことがあったのではないのですか?」
オオトシは開きかけた口を閉じていたが、ナナモが深夜なのに嫌な顔ひとつ見せなかったからか、またゆっくりと口を開いた。
「耳鼻科を専攻して初めて大きな学会で発表することになった時に、そのデータ処理がうまくできなくて、クニツという先生に相談したことがあったんだよ」
「コンピューターに任せなかったんですか?」
ナナモはイチロウの事を思いだした。
「もちろんはじめはそうしようとしたよ。でも、分析方法がいくつかあって、方法によっては結果が異なったんだ」
ナナモはよくわからなかった。
「クニツ先生は立派な耳鼻科医でもあったんだけど、とても優秀な数学者でもあって、医療統計学に詳しかったんだ。だから、私のデータを見て、分析方法を教えてくれたんだ」
ナナモはイチロウの事をまた思いだした。確かにコンピューターは優秀だ。しかし、その優秀ささえイチロウが操っている。
「でもね、クニツ先生の解析方法で統計処理すると差が出なかったんだよ」
「オオトシ先生はどうされたんですか?」
「私も若かったからね、もし、データに差が生じていたら良い発表になると思ったから、解析方法に差があっても、データを改ざんしたわけではないし、一応コンピューターに委ねているからと、生意気にもクニツ先生に反論したんだ」「クニツ先生はどう反応されたんですか」
「先生は私を怒鳴りつけることもなかったよ。でもとても悲しい顔でコンピューターがすべてじゃないだろうって、呟いたんだ。そしてね、それでもまだ納得いかない私に、嘘はいけないって。それも医療にかかわることで嘘をついたら、患者さんに申しわけないだろう。それにキミは一生その事を後悔し続けることになるからと、とても優しい目で諭してくれたんだ」
ナナモは一瞬、言葉に詰まったが、それでも、「それで先生はどうされたんですか?」と、弱々しい声で尋ねた。
「医局のプレゼンで私はクニツ先生の解析方法の結果をそのまま伝えたよ。他の先生にも相談していたから、統計処理方法の違いこそあれコンピューター解析で差が出たんだったら、その方法で発表すればいいって言う声もあったんだけど、その当時の教授が首を縦に振らなかったんだ」
「先生は学会発表をあきらめたんですか?」
結果が出なかったんだからナナモは発表しても仕方がないと思ってしまっていた。
「差がなかったっていうことも、きちんとデータ解析されていればそれなりの医学的な価値はあるんだよ。ただ、その当時の学会での発表ではさすがに反響はほとんどなかったんだけど、私はとても充実していたし、クニツ先生に助けてもらったと思って、それから嘘はいけないと心にとどめるようにして来たんだ」
ナナモは胸が締め付けられる思いで今度は何も言えなかった。
「でもね、この話には後日談があってね。差がないのなら全く新しい方向から考え直さないといけないねって、教授に言われたものだから、僕はその研究を始めることになって、今に繋がっているんだ」
きっとナナモの顔色は変わっているはずなのに、オオトシはとても嬉しそうに自分の回顧録に耽っていた。
ナナモは僕はどうしてあの時一人で決めてしまったのだろうと後悔した。しかし、今更そんなことを言っても仕方がない。それよりオオトシがなぜそのような話をしてくれたのか考えた。
「その先生は今どこにおられるのですか?」
ナナモに急に何かが降りて来た。もしかしてそのクニツという医師は父ではないのだろうかと、ふと思ったのだ。
「それがね、急に大学を辞められて、それから音信不通になってしまったんだよ」
ナナモは大きな溜息を身体中から発していた。オオトシはその事にまったく気付かないどころかまだ追憶の中にどっぷりつかっていた。ナナモはなぜかやるせなくて今すぐにでもこの部屋から飛び出したい気持ちで一杯だったが、開かれたままの古文のテキストをゆっくり閉じるだけで精一杯だった。




