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ジェームズ・ナナモと格子の迷宮  作者: まれ みまれ
15/33

(15)高速夜行バス

 あっという間のロンドン滞在だった。叔父叔母はジェームズと一緒に過ごす時間が少なかったし、何がしかの入学のお祝いの会をしたがっていたようだったが、初めてジェームズに会った時に比べると本当に生まれ変わったかのように元気なジェームズを見るだけで満足したのか、それでも叔父は最新の免疫学のテキストをプレゼントしてくれたし、叔母は今はまだ良いけれど、冬になると寒くなるからと、京都に居るマギーを心配して、どこから手に入れたのかわからないが、いかにも肌触りがよさそうなタータンチェックのマフラーをジェームズに見せてから丁寧にラッピングして渡してくれた。

 ヒースローには見送りに行かないからと二人は今回は涙を流さないとは思っていたが、家をでると、これがイギリス流だからと、今まで一度もしたことがなかったのに、ハグをして来た。

 ジェームズは、また、帰って来るからと、本当にそうできそうな気がして、あまり二人との別れに哀愁が湧かなかった。ただ、叔母と叔父のそばにルーシーが笑顔で見送っていてくれたらとそれだけが心残りだった。

 ジェームズはヒースローで最後のあがきだと、ロンドンにまだいるのだからと、凛とした出で立ちで、ルーシーが奇跡の見送りに来てくれないかと期待して待っていたが、クニツさんですねとチケットを見せた際に航空会社の職員に念を押されると、儚い夢であったと思い知らされた。

羽田までの十二時間、いつものように一睡もできなかったが、特にこれと言って何も起こらなかったし、そう期待していた自分が虚しかった。だからではないが、明日から授業が始まるというのにナナモに戻ったジェームズは東京の街に寄り道したくなった。

 羽田からモノレールとJRを使い新宿へ向かった。コインロッカーにお土産などを入れて出来るだけリュックを軽くした。そう言えば、折角神木のタブレットを持って行ったのに、ロンドンでは一度も開けなかったし、開ける必要もなかったし、開けるように言われなかったと、独り言を言いながら、それでも神木のタブレットだけはリュックに入れたまま背負うと、ナナモは久しぶりの東京の街を歩き始めた。たった数か月前まで普通の光景だったのに、唸りをあげた人流に巻き込まれると、慣れるまで船酔いしたみたいに気分がすぐれなかったし、これだけの人達がこれからどこで何をするのだろうと、ナナモもその一人にすぎないのに、立ち止まることさえできない荒波に恐怖さえ覚えた。

 それでも人間しばらくすると慣れて来る。荒波もいつまでも追ってくるわけではない。ナナモは自由に立ち止まることが出来るし、周囲からの圧迫感もない杵築にすぐに帰りたいとは思わなくなっていた。だからと言って、ナナモがどこかに行って何かをしようと明確な目的があるわけではない。いつしかナナモはつい数か月前まで住んでいたマギーの家を素通りすると、あの受験生の時に参拝を続けていた神社を訪れていた。

 そう言えば、医学部に合格したのに、お礼のための参拝をしていなかった。ナナモは鳥居の前で一礼し、手水舎で清めると、社へと向かった。ここはナナモがロンドンから東京に戻ってきてから何百回と参拝しに来た場所だ。鎮守の森に囲まれた広大な敷地ではない。立ち並ぶ数多のビル群の隙間にひっそりと鎮座する。されど、大都会のど真ん中にあるのに、全ての空間から遮断されているのか、いつ来ても静寂で包まれている。

 飛行機の中だったので、スマホに向かって二礼二拍することは出来なかった。その代わりと言ったらカミ様に怒られるかもしれないが、もはや正午を過ぎていて、カミ様が神社からいなくなっている時間かもしれなかったが、ナナモは、合格できたのはカミ様のおかげですと、二礼二拍すると深々と頭を下げた。

 ナナモは参拝を終えるとしばらく境内にいた。新宿はまだ蒸し暑い夏が居座っていたが、ここは涼し気な乾いた空間がまるで鈴虫の羽音のようにかすかに震えているくらいで、秋の気配を十分感じさせる清々しさに満ちていた。

 ナナモは、どこかから頬をかすむそよ風に思わず振り向いた。

 もしかしたらアヤベさんに会えるかもしれない。

 そう思ったからだ。

 しかし、誰も居なかった。ここではたまに神主さんに会うこともあったが、今日はいないのか、やはり午後から参拝したからなのか分からなかったが、もう少しと、それでも、この空間でしばらくじっと時間も忘れて佇んでいたが、やはり誰もナナモの前に姿を現さなかった。

 ナナモはこの二年間、新宿に居ながらどこかに遊びに行ったわけではなかった。だから、欲望が少ない。しかし、まだ都会の残り香に十分未練があったのか、あてもないのに三丁目界隈から歩き出していた。

 何軒もあるラーメン屋からえい、やーっと一軒を選んで腹ごしらえすると、ほとんどファッショには興味がないのに古着屋を覗いたり、昔ながらの純喫茶に恐る恐る入ってコーヒーを飲んだりした。

 僕はVRの世界に居るわけではないのにここで何をしているんだろう。それに今まで僕はロンドンからひさしぶりに東京に帰って来たのに今まで誰とも話していない。

 ナナモは新宿に戻り、自宅の鍵を開けてただいまと真黒な部屋に中で呟いたあとにそう思った。

「早く寮に戻ろう」

 あれほど田舎暮らしで枯渇していた喉を潤したいと思っていたのに、コップの水を何倍も飲めることが分かった瞬間に、砂漠暮らしも悪くない。否、場所ではない。そこには仲間がいる。そう思えて仕方がなかった。

 きっと、時々キリさんがこの家を気にかけて訪ねてくれているに違いない。

 ナナモはそんな淡い、それでも、確実に暖かみがある残香を感じながら、キリさん、ジェームズです。いつもありがとうと、英語でメッセージを残すと、しっかりと施錠してから。新宿駅に向かった。

 まだ、明るさは残っていたが、太陽は大きな筆を傾けながら確実に東京を黄色に染めようとしていた。もはや、この時間では電車や飛行機で杵築に戻ることは出来ない。だから、ナナモはあらかじめ調べておいた深夜高速バスで杵築に帰ろうと思って、コインロッカーに預けて置いた荷物を取り出すと慌てて最近新しくなったバスターミナルに向かった。

 スマホで予約しておけば良かったのに余裕で切符は買えるだろうと、時刻柄会社帰りなのか、ターミナル周辺はアスファルトの歩道が一切見ないほどの人で溢れていたが、なんとかかき分けて、切符売り場に着いた。 

「杵築まで一枚お願いします」

 ナナモはまだ汚れのほとんどないきれいなプラスチック製の敷居の奥で処理する切符売り場の職員の顔を見ずに財布を取りだした。

「これから発車する便ですか?」

 ナナモの鼓膜がかすかに振動する。しかし、ナナモは当たり前だろうと、ハイとぶっきらぼうに返事をすると、職員の方へ視線を戻さず財布から紙幣を取り出そうとした。

「満席です」

 また、職員の声が聞こえる。しかし、ナナモは聞こえたはずなのに、今度は職員の正面に立って、小さな小窓からお金を渡そうとした。

「だから満席なんですよ」

 大きな声がマイクを通して聞こえてくる。そこで初めてナナモはハッとした。と同時に切符を買おうと待っている周囲の人がナナモを一斉に見つめているのが分かった。


「満席って?杵築行きのバスですよ」

「そうです。本日は満席です。従いまして他の手段を選んでいただくか、キャンセル待ちになります」

 よく見ると中年男性だったが、黒い眼鏡をかけ、整髪料で整えた黒髪ときりっとした眉が、制服で身を包んで居ることもあり、より誠実な印象を受けた。

 明日から授業が始まる。ナナモはそれでも夜行バスなら朝に杵築には着くから講義の開始時間には何とか間に合うだろうと思っていた。だから、ぶらぶらと東京を歩いていたのだ。しかし、もし間に合わないとなれば、何も目的もなかった東京に立ち寄った事を後悔する。しかし、過去には戻れない。それにこの時間だと、飛行機は飛んでいないし、列車も間に合わない。

 一日ぐらい遅れても僕は学生だし。講義が始まるといってもまだ専門分野でもないしと、先ほどまでどうしようと戸惑いと焦りで心臓の鼓動が早くなっているのが自分でもわかったくらいだったが、ナナモは急に仕方がないとあきらめの境地で気が楽になったのか、待ち合室のベンチにどすんと座った。それでも今まで緊張していたのか大きく息を吐き、その反動で瞼が下がって行く。

どれくらいの時間がわからなかったが、まだ夏の夕陽は月の到来を何とか踏ん張って遮ってくれていた。そんな待合室で、ナナモのスマホが鳴った。

「もしもし、ナナモか、今どこに居るんや」

 タカヤマだった。いつもより声が上ずっている。

「東京。今から帰るところなんだけど…」

 でも、高速バスが一杯で、明日までに戻れそうではないんだと、何かいい方法でもあるかな、でもタカヤマは関西人だし、東京のことは分からないよなと、ナナモがこれから話そうとしたことをタカヤマは一刀両断した。

「明日の英語のリスニングの再テストを手伝ってくれるって言うてたよな」

 ナナモはタカヤマからの怒気を含んだ声を聞いて、背中には冷たい汗が流れだした。

「試験は何時から?」

「十時からや」

 ナナモは約束を守れなかったことをオオヤマに詫びると、後で必ずかけ直すからと、スマホを切って、慌ててまた切符売り場に向かった。

「あの…」

 ナナモは、すぐにプラスチック製の敷居の向こう側に視線を向けた。しかし、そこにはつい先ほどまで対応してくれたあの男性の職員はおらず、女性の職員がいた。

「キャンセルは出ましたか?」

 ナナモは構わずやや乱暴な口調で尋ねた。

「どういうことでしょう」

 女性職員は中肉中背で頭髪を少しブラウン系に染めていて、紅色の眼鏡を掛けていた。先ほどの男性と違って物腰が柔らかそうで何よりも瞳から優しさが漏れている。

 ナナモはすいませんと謝ると、先ほどまでの男性職員とのやり取りを説明した。女性は怪訝そうな顔をしながらナナモの顔を見ていたが、満席ではありませんよと、先ほどより緩めた瞳で語るように答えていた。

 ナナモは、反射的に、「これから出発する杵築行きの夜行バスですよ」と、念を押すように尋ねた。

 女性職員は、そうですよ。学生さんですか?割引も聞きますし、一枚ですよねと、もうすぐ出発ですから急ぎましょうと、ナナモの顔を見ずに発券機を操作し始めた。

 どういうことだろう。どちらが正しいのだろう。でも、杵築に戻らなければならないその最後で唯一のチャンスだ。ナナモはかけてみるしかないと思った。

 ナナモが購入したバスの乗車券は新宿~杵築間で、午前八時前にターミナル駅に到着すると、座席番号とともに記載されていた。

 発車まで三十分ほどしかない。それにバスは発車予定番号の記載されていた停留所でもはや乗客を乗せ始めている。ナナモは慌てて荷物を持ってバスに近づくと、それでも信じられなかったので、前に行き、横に行きと、黄金色に点灯する東京~杵築間という文字を何度も確かめたうえで、切符を確認している職員に本当にこのバスは明日の朝杵築に到着する夜行バスですかとゆっくり念を押すように尋ねた。

 ハイと言われてナナモに少し冷静さが戻った。自動販売機で水だけ買っておくと、出発ギリギリまでタカヤマにスマホでヒアリングのコツを教えてあげた。

 ナナモは最後にバスに乗った。バスは三列シートではなく、四列シートだった。満席どころか閑散としていて、一番奥のナナモの横の席には誰も座っていなかった。

 高速バスは新宿以外東京では寄り道しないはずだ、だから、ナナモはリックなどを隣に置いてふっと一息ついた。きっと、飛行機と同じでバスの中で眠ることなど出来ない。それでも、うとうとするぐらいならと、イヤホンを取り出して付けると、スマホで音楽を聞きながら、そうだ、ルーシーにメールしようと、文面を打ち始めた。

 バスが急に停車した。ナナモは思わずイヤホンをはずして、閉ざされていたカーテンの隙間から外を見た。どうやらまだ東京らしい。もしかして臨時で停留したのだろうか、だから、新宿のバスターミナルから乗客が少なかったのだろうか。だから満席だとあの男性職員はナナモに告げたのだろうか。

 しかし、運転手からは何のアナウンスもない。それでも、やはりと、まもなく前方の扉が開く音がした。ナナモは慌てて隣に置いていた荷物を自分の方に引き寄せ、前方を覗きこむ。

 誰かが、一人だけバスに乗り込んできた。おかしなことに手ぶらだ。暗くてよく見えないがサラリーマン風にスーツのシルエットだけが映えている。でも一人ならナナモの横に座ることはない。座席はまだ一杯空いている。ナナモが再び荷物を横にづらそうとした時に、先ほどの乗客がいつの間にかナナモの横の通路に立っていた。そして、座席の上に書かれている座席番号と自分が持っている乗車券を何度も見比べながら、おもむろにナナモの隣の席に腰を降ろした。

「アヤベさん」

 ナナモから無意識にそれでも静かな声が漏れ出ていた。

「あの、発券所の事務員さんはアヤベさんだったのですね」

「お久しぶりです」

 アヤベは、ゆっくりとナナモの方に視線を移しながら、それでもいつものように感情を出さなかった。

「それにロンドンでも僕にイタズラしましたよね」

 アヤベはにこりとしただけで返事をしなかった。

「あの時の事を怒っておられたんですね」

 アヤベはコトシロだ。カミの託宣を伝えに来たはずだ。しかし、ナナモはアヤベが託宣以外の感情を持っていることももはや知っている。それなのに、カタスクニに案内しようとしてくれたアヤベの心遣いに逆らうようにあの時ナナモは大学の学生課に行ったのだ。

「これから前期試験を始めます。神木のタブレットを出してください」

 アヤベはナナモの言葉に耳を貸さなかった。それどころかいきなりそう言った。

「前期試験って?」

 それなら、もう大学で受けている。ナナモは習い始めたドイツ語に苦戦したが、それでも、翻訳だけだったので、フランス語の要領で何とか切り抜けられたと思っていた。だから、今更、何をと、思ったが、どうやら、アヤベはナナモの思いとは全く違うことを言っているようだ。

「カタスクニからのモニター授業を受けられていなかったのですか?」

 アヤベは初めて少し感情を添えて言った。

「受けていましたよ」

 ナナモはすぐに答えた。

「だったら、最後の授業の時にカタリベからアナウンスがあったはずです」

「アナウンス?」

 ナナモは苺院が営業を休んでいたから、しばらくリモート授業を受けていなかったと説明した。

「ナナモさんは苺院の中に入られなかったのですか?」

「門が閉まっていて電気もついていなかったので、休みだと思いました。それに、カタリベさんは、もしかしたら、僕の記憶が正しければですけど、継承者の候補者のために夏期講習の講師を担当していて忙しかったのではないかと思ったので」

 ナナモは正直に言った。アヤベはだから何も言わなかった。しかし、しばし何かを考えているのか珍しく下顎に手を添えていた。

「苺院は営業していたのですよ。ずっとナナモさんを待っていたのです」

「えっ、本当ですか?でも門には夏期休暇中だという張り紙が貼っていましたよ」

「それは御札おふだです。ただし、負の御札ですので、ナナモさんを結界へ入れないように誰かが画策したのでしょう」

 アヤベの言葉にナナモはもしかしたらアメノ弟の策略なのではないかと思った。ナナモはカタリベから聞いたことを尋ねようとしたが、コトシロであるアヤベが知らないわけはない。

「それじゃあ、どうすれば良かったのですか」

「御札をはがして中に入れば良かったのです」

 アヤベはナナモが思いもつかないことをこともなげに言った。

「勝手にそんなことは出来ませんよ」

 ナナモは思わず声が大きくなっていた。

「でも、ナナモさんはあの時、カタスクニの講義が夏休みになって内心良かったと思いませんでしたか?」

 アヤベの言う通りかもしれない。ナナモはリモートだし、カタスクニはいけないし、継承者の候補者たちに会えると思っていたのに会えないことにイライラしていたというか、少し幻滅しかけていた。

「だから、苺院に行かずに寮に居て、何もせず挙句の果てに、貴重な残りの夏休みをロンドンで暮らしていたのですね」

 神木のタブレットを通してアヤベはずっとナナモを見張っていたのかもしれない。お腹に抱えていたリュックが少し輝いたように思えた。

「だったら、どうして教えてくれなかったのですか?」

 ナナモは素直に尋ねた。

「その理由はカタリベからすでにお聞きかと思います」

 ナナモは聞いていませんよと言おうとしたが、なぜか寮のWiFiじゃと、空耳がした。

「僕はそれではどうすればよかったのですか?」

 ナナモは望んではいなかったが、戻れない過去の、もし、についてアヤベに尋ねた。

「あの時、ナナモさんは京都にもう一度行くべきだったのです。マーガレットさんは待っていたはずですよ」

 まさかマギーが、でも、そうであるのなら、マギーはナナモになにがしらのメッセージを残すはずだ。夏期講習の時もそうだったし、再受験の時もそうだった。今回は…、いや、今回もマギーから連絡はあった、でも、神社の写真が送られて来て、ロンドンで参拝するように伝えて来ただけで、ロンドンではなく、京都に来なさいとは言われなかった。

「そうでしたか、だから、私がロンドンに行けたのですね」

 アヤベはナナモの心に入って行く。だったら、カリンが…、とナナモは思わないようにすればするほどカリンの存在が大きくなる。

「カリンさんは関係ありません。むしろ、カリンさんはナナモさんの味方です」

 やはりコトシロの前では嘘はつけない。いや、嘘ではない。ただ、言いたくないことがあるだけだ。

 感情を無にすることなどできないと、アヤベを睨むように見つめたが、アヤベは相変わらずの知らぬ存ぜぬの表情を変えなかった。 

 ナナモはそのやる気のない顔を見て、あの時対戦した剣道の相手の事を思い出した。ひよっとしてあの時の対戦相手はアヤベさんだったのか?いや、そんなはずがない。それに、情けないが、そのまま意識を失ってしまった。でも、その後…、ナナモは剣道の試合の後に見た夢の話を当然知っているだろうと思いながらもアヤベに話した。

「まるで異世界にいたような感覚だったんです」

 ナナモは異世界に行ける。もはやその事を知っているし、カタスクニからの使命を果たす場所だ。当然、コトシロであるアヤベも知っている。だから、特にナナモの話を聞いても表情ひとつ変えないだろうと思っていたし、今まで感情の起伏などナナモの前で出したことがない。ところが、コトシロであるために出せないはずのアヤベが苦悩の表情で驚いている。

「国譲りがオンリョウを産みだしたのですか?」

 ナナモはそれがどのような意味を持つのかわからなかったが、自然と口にしていた。

「天上にいるカミガミは、地上の世界を創りました。しかし、あるカミを地下の世界においやり、地下から出られないように大きな石で塞いでしまいました。その事をナナモさんはご存知ですよね」

 アヤベはしばらく考え込んでいたが重い口を開けた。

「はい。だから、地下のカミは地上に行けない代わりに、天上にいるカミも地下に行けなくなったんですよね」

 ナナモは頷きながら言った。

「そうです。しかし、天上のカミは地下に追いやったカミを決して心から忌み嫌っていたわけではないので、自らへ天上のカミが地上に行けないという掟を課したのです」

「だから、カミは地上の世界に使いを出したのですね。でも、それもカミではなかったのですか?」

「そうですが、そのカミはクニツカミと呼ばれていたのです。それも、天上のカミが自ら遣わせたカミではなく、中間の世界であるカミが修行を積ませたカミだったのです」

「ツワモノ」

 ナナモは大声を出していた。アヤベはやんわりと口に指を当てて制した。

「そのクニツカミはオオクニのカミだったのです」

 ナナモはもうひとつの夏期講習を受けるためにブルートレインに乗り込んだ際にアヤベから聞いた講義のことがありありと蘇って来た。

「以前、ナナモさんにお話したとおりです。カミはヒトを作り、ヒトはタミになろうとしたのですが、中間の世界で修行したオオクニには天上のカミの力が及びにくかった。だから、天上のカミは新たにアマツカミを遣わしたのです。すなわち国譲りです」

 ナナモは頷いた。

「国譲りを行ったオオクニは再び中間の世界に戻って行ったのですが、王家を地上に残し、皇家とともに陰ながらタミを守るように命じたのです」

「だから、その後継者の一人である僕はカタスクニで学ばなければならないのですね」

「ハイその通りです。しかし、クニツカミは国譲りを行ったオオクニだけではないのです。つまり、国譲りに従わなかったカミも居たのです。きっと、オオクニと同じように今で言う「名前」があったのでしょうが、それも残さぬように、あたかもそのようなクニツカミはいなかったかのように、天上のカミは秘密裏に地下の世界へ追いやってしまったのです。でもそのカミはクニツカミです。もともと天上に居たわけではありません。だから、地下のカミの力を借りて、地上と地下の間の中間の世界に来られるようになったのです」

「つまり、クニツカミは天上と地上の世界の間の中間の世界と、地上と地下の中間の世界に存在するのですか?」

「はい、その通りです。ただし、地上と地下の中間の世界に存在するクニツカミは、一度地下の世界に行っているために、形として存在しません。だから、オンリョウとよばれているのです」

 そう言えばあの時、二人に語りかけていたオンリョウは黒い霧のようだった。

 ナナモの独り言がアヤベに視覚として伝わっているとはなぜか思えなかった。

「オンリョウは誰かに寄生して始めて形を得るのです。だから、時には人に、時には病に、時には天地にと様々なものに宿り、彼らを追いやったアマツカミと関わりのある皇家を苦しめるために、タミに、そして、時には皇家自身にも災いが起こるように仕向けて来るのです」

 珍しくアヤベから苦悶の表情が消えなかった。

「アヤベさん、でもどうしてそのようなことを僕に話してくださるのですか?アヤベさんはカミの託宣しか話せないんじゃないのですか?」

 ナナモが尋ねたのは例え京都で見た夢が異世界の事であったとしても、そして、その事をアヤベが知らなかったとしても、いつもように知らぬ存ぜぬで見過ごせばよいのではないかと思ったからだ。

「それは皇家を支える王家は、皇家を脅かすオンリョウと同じクニツカミだとナナモさんが気付かれたからです」

「どうしてそう思われたのですか」

 ナナモは実際そう思ったわけではないが、あえて尋ねた。

「ナナモさんが、カタスクニの前期試験よりもその事が気になっていて私に話してくれたからです。きっとあのような夢はこれから何度かナナモさんを苦しめるはずです」

「苦しめる?なぜですか?僕はまだ王家の継承者であるオホナモチにはなっていませんよ」

それに僕はハーフなのにとナナモは思った。もうそういう考えはやめましょうとアヤベノ悲しい声が聞こえてくる。でも、気にしないようにとどんなに思っても避けられない。その事だけはわかってほしい。

 アヤベの何か言いたそうな顔が見え隠れする。しかし、今はその事を論じる時ではない。だからアヤベはナナモの心を封印したかのように、ナナモとの会話を続けた。

「そうですよ。でもナナモさんは王家の継承者としてオホナモチになる力がとても強いのかもしれません。王家の継承者であるオホナモチと、名も形のないオンリョウとは住む世界が違いますが、先ほどお話ししたように同じクニツカミだったのです。だから王家の継承者にならないようにクニツカミの負の力が働いてきたのかもしれません。それにナナモさんには隠し事がある。そういう裏の部分は弱みになりますから」

 アヤベは二人でカタスクニに行く途中ナナモが大見得を切って別れたのにあのことが解決されていないことをナナモに改めて知らしめた。

 でもどうしようもないんだと、ナナモは解決法として唯一残されている言葉を口にできなかった。

 アヤベは静かに頷いてくれたが、その目に優しさは感じられなかった。

「アヤベさんがご存知ならば、他の継承者の資格者もその事を知っているのですか?」

 ナナモは尋ねた。

「すべてではありません。ただし、王家は知っています。むろん、アマツカミも皇家も知っていますが、皇家だけは、オホナモチとオンリョウの区別が出来ません。だから、オンリョウは皇家に近づけるのです」

「だから、僕はカタスクニの使命だとしても、中間の世界でオンリョウと対峙出来たのですね。でも、もし、僕がオホナモチの継承者であるならばオンリョウが住む地上と地下の中間の世界には行けないはずではないのですか?」

 ナナモはふとそう思った。

「ナナモさん、だから前に言いましたよね、ナナモさんの異世界は現実であり、現実でないと。そして、ナナモさんの地上での世界と同時に存在していて、同時に存在していないと。つまり異世界は時間軸とともに認識と空間が異なる地上の世界なのですよ」

 ナナモは混乱した。でも、アヤベはあの時、異世界で怪我をすれば現実でも怪我は残り、命が無くなれば、その時は…と、説明してくれた。それはナナモが、二つの世界に居てもその肉体はひとつだということを意味している。

 ナナモは何とかアヤベの言葉を理解しようとしたが、この場ですぐに頷くことは出来なかった。

「だから、まだまだ、授業が必要なのです」

 ナナモはまるで初めて家庭教師を迎え入れた時のように、少し緊張しながらそれでも高揚した気分が抑えられない面持ちで、慌ててリュックから神木のタブレットを取り出した。

「もうすぐ、杵築に到着します」

 ナナモは目がらんらんとしていたし、まだまだ十分時間があるように思った。しかし、アヤベの声はものすごく疲れていた。きっと託宣のみを伝えるコトシロの使命からかなり逸脱したに違いない。

「カタスクニの前期試験は?」

 ナナモの問いに、アヤベは珍しく、「あ~」と、感情の言葉を漏らした。

「前記試験は苺院で受けてください。カタリベには伝えておきます」

 アヤベはナナモを直視したまましばらく呼吸を止めていた。そして、ナナモもそれに呼応するように息を止めていたが、もう限界だと思った時に、「ナナモさんには早急に特別授業が必要かもしれませんね」と、アヤベはゆっくりと息を吐いてからまた吸い込むとそう言い残してから姿を消した。

 ナナモは座席周囲に設けられたカーテンを閉め、その中で、今頃、一生懸命明日のテストのために英語の勉強をしているタカヤマオと同じように、アヤベが作動してくれた神木のタブレットを開いて、これまでのカタスクニで受けた授業を復習していた。もしかしたら、その間にアヤベは今夜バスの中で話したことをナナモの記憶から強引に消し去ってしまうかもしれない。それでも、デイスプレイから放たれる光の粒はこの神域内からは漏れ出て行かないだろうと、神木のタブレットと向き合うことをナナモは止めなかった。

 遮光カーテンなのにナナモの席にだけほのかに陽が射してきて明るくなってくる。ナナモは復習するのを止めてタブレットを閉じると、カーテンを開けた。

 バスを後追いするように太陽の光が、散りばめられた宝石のようにキラキラと湖の水面を輝かせていた。それでも目が慣れてくると、粘っこいさざ波が重い足取りでいつも通り走っている。

 もうすぐ杵築だ。ナナモはまるで生まれ故郷に戻って来たような気分でしばらく車窓からはみ出る湖面を眺めていた。

 ミザイナ。

湖面の反射がまるで駅の電光掲示板のようにシグナルを送って来る。どういう意味だろうと、ナナモは思わずスマホを取り出した。しかし、神木のタブッレトを用いても検索できないと、誰かからの囁きが聞こえる。きっと、オホナモチ・ジェームズ・ナナモならいつかわかる。ナナモはなぜかそう思った。

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